(関連書籍紹介)いじめと向きあう 単行本(ソフトカバー) 2013/7/31

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いじめと向きあう

教育科学研究会 編

単行本(ソフトカバー) 2013/7/31

旬報社



内容


大津いじめ自殺事件が提起したもの

昨年(二〇一二年)は、大津、品川、札幌などで相次いだ「いじめ自殺」事件が教育問題の中心にあった年でした。

これまでも同様の事件が起きるたびに大きくとり上げられ、多くの人びとが子どもたちの死を前にして胸を痛めてきました。

しかし、今回はその様相がこれまでとはかなり異なりました。

たとえば、一九九〇年代半ばに大河内清輝君が亡くなった事件をはじめとして、やはりいじめによる自殺が問題になったときには、「どうしていじめを防げなかったのか」「なぜ死を防げなかったのか」という関係者たちの痛切な反省とともに、子どもたちはどんな状況におかれているのかという関心が強くはたらいていました。

当時、メディアの切り取り方も手伝って「子どもたちの心の闇」とか「普通のよい子がなぜ」という問いや驚きが発せられました。

もちろん、それ自体、おとなが「自分たちはまともである」という前提のもとでのものであり、本当に子どもの立場に立ちきって具体的に問題を考えるという点では不十分なものではありましたが、それでも子どもの現状を理解したいという雰囲気を全体としては共有してはいたと思います。

しかし、今回はいじめを受けた子どもが亡くなってしまったという事実の重さよりも、事件への対応をめぐって学校の隠蔽体質の問題や教育委員会は機能していないというような疑念と批判がメディアを通じて広範に流布され、学級・学校解体論や教育委員会不要論といった、教育システム問題に焦点化されたというのが特徴のひとつです。

もうひとつの特徴は、なぜこのような事件が起きてしまったのかを問う前に、子どもたちの関係を「加害者-被害者」の立場に分けたうえで「加害者」に厳罰を加えよという論調が強調されたことです。

厳罰化では問題は解決しない
もっとも、このような論調は二〇〇五年から〇六年にかけて北海道や埼玉で起きたいじめ自殺事件をきっかけにして、当時の安倍首相が肝いりでつくった教育再生会議による「いじめ加害者」への「毅然とした対応」をすべきであるといった提言・通達が出されて以降、繰り返し強調されてきたものではあります。

具体的には、子どもの「問題行動」をいささかなりとも曖昧にしないという「ゼロ・トレランス」をベースにして、「強い指導」を行い、場合によっては出席停止、停学・退学、さらには警察への通報を躊躇しないことなどが挙げられます。同時に、道徳教育の「充実」によって規範意識を養うことも強調されてきたことです。

そして今回の事件を、おそらくはきっかけにして、政府・自民党は以上のことがらを法律として明示し、強制力を持たせようとしているのが現状です。

しかし、このような対応を事実上制度化した二〇〇六年以降、「加害者」として認定され、なんらかの処分を受けた子どもは増えましたが、暴力やいじめの件数が劇的に減ったと言える証拠はありません。

むしろ厳罰の制度化が、「いじめがなぜ起きるのか」「なぜ見えづらいのか」「なぜ解決が難しいのか」という本質的な問題から人々の目をそらし、子どもの人権を守るべきはずの教師の教育実践感覚を鈍らせてはいないのかという危惧さえ覚えます。

「なぜいじめが起きるのか」―そのメカニズムの解明こそ
あらためて確認しておきたいことは、学校が集団で学ぶ場であるかぎりいじめはなくならないという現実を直視することです。

子どもが集い相互にかかわる以上、そこになんらかの関係が生まれます。

その関係のとりかたをめぐって、子どもたちのあいだでさまざまな「調整」や「試行錯誤」が繰り返され、その過程では軋礫やトラブルも起こりますし、それを避けるためのつもりでの「ふざけ」や「いじり」、「はずし―はずされ」が、結果的に「いじめ」へと転化してしまうというメカニズムをリアルに認識しておかなければなりません。

当事者にさえ「いじめ」がそれとして認識されにくいことの理由もここにあるのです。

一方、ここから短絡的に、内藤朝雄などが主張するように、子どもを一つのクラスに固定して「仲良く」することを強制するような学級・学校を解体するべきだという議論も登場しています。

たしかに、本人の意思にかかわりなく、同じ年齢だからという理由だけで一つの教室に「収容」することを当然だとしてきたことに関しては検討の余地があるのかもしれません。

しかし、これは近代学校の基本的な特徴であり、これを多少変形させて異年齢クラスや単位制を導入している北米・ヨーロッパ諸国においても、いじめはやはり重要な克服するべき課題となっていることから見ても、ことがらはそう単純ではありません。

しかも、内藤氏らの主張を延長していけば、子どもたちの関係性を完全に断ち切って孤立させることにつながりかねませんし、そうなれば、市民社会の主体者として育ちゆくための経験と方法を子どもたちから奪うことになります。

むしろ重要なことは、現在の日本の学校で子どもを死に至らしめるような深刻ないじめがなぜ起きてしまうのかを事実に即して明らかにすることです。

そして、いま少なくとも指摘できることは、学校のなかだけでなく社会の緊張状態が異常に高まっているということです。

九〇年代半ば以降の新自由主義的政策の競争・成果主義によって人々は疲弊し、子どもたちも同様に絶えず競争と評価にさらされ、安心して学ぶことさえ困難な状況に追い込まれているという事態が、深刻ないじめの土壌となっていることを軽視するべきではないでしょう。

あらかじめ子どもたちを競争・敵対関係に配置しておいて、上から「いじめはいけないことだ」と繰り返し言ってみたところでそこにどんな効果が期待できるというのでしょうか。

私たちの視線をこのような構図をつくりだしているものへと正しく向ける必要があります。

そもそも、学校でおきているいじめがいま問題とされてはいますが、世の中には職場でのさまざまなハラスメントやマイノリティに対する侮辱的な行為や言動が蔓延しています。

それをつくりだしている張本人たちの言葉を子どもが信用できるとでも思うほうが幻想でしかありません。

いじめ解決は子どもの権利

重要なことは、いじめはなくならないがなくすために、仮に起きたとしても深刻化させないように、全力を尽くすのが教育実践の本質的な役割であることを確認していくことです。

現在のように、いじめが起きると学校や教師の責任が追及され、いじめた側の子どもの、子どもとしての権利が簡単に剥奪されて当然というような雰囲気のなかでは、「事件」化する前に予防し、厳罰で対処するという方法にすぐに飛びつきたくなる心理がはたらくのもわかります。

しかし、それは教育実践意思の放棄であり、教育の敗北であるということを意味します。

すでに述べたように、人が集まれば、そこになんらかの関係が生まれるのは当然のことです。

それは学校だけではなく社会生活を送る上で避けて通ることはできません。

そのような関係づくりを通じて人は人として成長していきます。

いじめもそうした関係づくりのなかで生まれるトラブルのひとつです。

そして、これを暴力によらずに、互いの多様性を認め合う、いわば民主的なコミュニケーションを通じて解決する体験を通して、子どもは人と人とのかかわり方を学ぶことができるはずです。

仮に、「早期発見」「早期解決」の目的で監視・管理を優先させたり、「いじめ加害(候補)者」を有無を言わせずに排除してしまうならば、子どもたちの学ぶ権利を奪うことになってしまうでしょう。

いじめを教育実践の課題にすえること

本書は、これまで述べてきたことを基本的な合意として編まれました。

改めて本書所収論文それぞれの役割を整理するとおおよそ次のように言えます。

いじめは、近代学校がもつ抑圧性を起源とはしていますが、今日の深刻ないじめは、それ以上に、現在の日本社会にある暴力性・攻撃性を背景にしていることを正確に捉える必要があります(久冨論文)。

そして、そのような環境のなかで「親しい」関係を築こうとする子ども・若者の必死の努力がかえっていじめを生んでしまうという、悲しいメカニズムとその実態を明らかにしました(長谷川論文、片岡論文)。

ですから、「加害―被害」といった単純な二分法ではこの問題を捉えることができず、ましてや「加害者」に厳罰を加えるという対処法では、いじめはさらに「密室化」し、「見えにくくなる」ことを、「コラム」、「文献紹介」を含んだすべての論文が共通に指摘しています。

さらに厳罰を受ける子どもは、どもとしての権利を奪われ、いじめの事実から学ぶことさえ許されないという二重の因難に直面します(三坂論文)。

そうではなくて、子どもがいじめとは何かを学び、自分たちの力で克服していく経験を保障する必要があります。

それは単なる道徳として教え込まれるような性質のものではなく、問題の奥行きと広さのなかで、平和や民主主義そして人間の尊厳とは何かを、実感をともなった科学的認識として獲得する学習が十分に保障されなければなりません(伊藤論文、宮下論文)。

本書の立場は、ある意味での「正義」を楯にして「加害者」への厳罰を求める空気が充満する今日の状況のなかでは、「甘い」「それでいじめはなくなるのか」という批判を受けることもあるかもしれません。

しかし、私たちは、いじめを予防・取り締まりの対象ではなく、教育実践の課題にすえることを通して、今日の教育のありようを深くとらえ直し、教室・学校を子どもが自由と安心を感じられる教育・文化空間として再構築していくことができると信じています。

これこそが、迂遠に見えても、子どもをいじめ自殺に追いやらないためのもっともラディカルな闘いであると思うからです。

佐藤 隆

出典;旬報社ホームページ『いじめと向きあう』


目次


はじめに  (佐藤 隆 都留文科大学)
●いじめの中の子どもたち  (片岡洋子 千葉大学)
[小学校の現場から]子どもの表現がつくる「人間的な思いとつながり」  (伊藤 和 公立小学校教諭)
コラム1中学校保健室から見える“いじめ”  (桐井尚江 公立中学校養護教諭)
[中学校の現場から]いじめ解決体験を子どもの遊びにする  (宮下 聡 元公立中学校教諭)
コラム2授業が学校・学級の雰囲気をつくる  (井上正允 元筑波大学付属駒場中高等学校教諭)
●子どもの権利と「厳罰化」傾向の問題点  (三坂彰彦 弁護士)
●いじめの理論 社会学的視点からの原理的考察  (長谷川裕 琉球大学)
●学校・学級に〈いじめ風土〉を超える新しい風を  (久冨善之 一橋大学名誉教授)
【ブックガイド】知ることの痛みとその希望―いじめ問題を考えるための17冊  (山本宏樹 東京理科大学)
おわりに  (佐貫 浩 法政大学)

出典;旬報社ホームページ『いじめと向きあう』


著者プロフィール


教育科学研究会(きょういくかがくけんきゅうかい)(教科研)は、日本の民間教育研究団体の一つ。

1937年5月に結成されたが、翼賛政治体制のもと、1941年4月に解散した。

戦後、1951年に機関誌『教育』を復刊し、1952年3月27・28日の大会によって再建された。

同年6月10日運動綱領決定。現在も多数の分科会を持ち、毎年夏に全国規模の教育研究集会を開催している。

出典;「教育科学研究会」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2018年8月23日 (木) 05:59UTC


【執筆者】

佐藤 隆 都留文科大学


片岡洋子 千葉大学


伊藤 和 公立小学校教諭


桐井尚江 公立中学校養護教諭


宮下 聡 元公立中学校教諭


井上正允 元筑波大学付属駒場中高等学校教諭


三坂彰彦 弁護士


長谷川裕 琉球大学


久冨善之 一橋大学名誉教授


山本宏樹 東京理科大学


佐貫 浩 法政大学



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