旭川女子中学生いじめ事案

ふつざわの頭の中002

傷付いた人たちは、心が不安定だ。

人間不信になっている。

それ故、心を開いて貰い、健全な状態を取り戻すよう促すためには、まずは、思いに共感し、同調する必要がある。

しかしながら、健全な社会を求める「社会の構成員」である以上、その思いの全てに共感し、同調する訳にはいかないことが多々生じる。

彼ら彼女たちには、復讐心があるからだ。

 

重大な被害を受けて「やりかえしてやりたい」という気持ちが沸き上がらない人間はいない。

自分のことならまだしも、愛する我が子が被害を受けて、黙っていられる親はいない。

怒りが湧かない親などいない。

怒りは「復讐してやりたい」という感情を生み出す。

それ故、当事者ではない第三者の私たちは、「当事者ではない第三者」として、彼女たちの復讐心とも向き合わなければならず、また、その気持ちを何とか収めて貰おうと努力することになる。

復讐が果たされてしまうと、復讐の連鎖が生じ得るからだ。

また、そのような状況を肯定すれば、各々が各々の言い分によって相手を攻撃する社会をも肯定されてしまう。

そして、その結果、争いが絶えず生じ、その内のいくつかは、次第に大きな争いに発展するだろう。

そうなれば、社会は混乱する。

 

だからといって、彼らの復讐心の全てを抑え込むことは健全ではない。

被害を受けた者の心を無視する社会も不健全だ。

大事なのは、常にバランスである。

つまり、小さく復讐を果たして貰い、満足して貰うことで、事態を収める必要があるという意味だ。

私は、その為に、いくらか手を貸す。

しかし、やり過ぎてしまうと、事態は悪い方に進展し、最終的には、被害者も加害者も憎しみの中で、地獄の苦しみを味わうことになる。

だから、やり過ぎてはいけない。

いつまでも攻撃してはいけない。

ある程度やり返したら、切り上げる。

そのバランス感覚が喧嘩の結果を左右するのだ。

 

煽る者は、馬鹿であり、愉快犯でしかない。

煽る奴らの心には、思い遣りなど一つもない。

不幸な者をより更に不幸にする気持ちしかないのだ。

彼らは、自分よりも不幸な者を見て「自分はまだ大丈夫だ」と思いたかったり、失敗を蔑むことで自分は優れていると考えたいだけだ。

 

「いや、相手がいつまでもやってくるんです」という者も多々いるだろう。

しかし、争いを終わらせようと考える健全な考えを持っているのは、その状況では、あなただけだ。

馬鹿を教育してやることでしか、事態は収束しない。

抹殺することは出来ないからだ。

無論、攻撃し続けて、自死に追い込むことは出来るかもしれない。

だが、それは、相手がどんな者であってもするべきではない。

相手にも、あなたと同じように家族がいて、わずかばかりでも心がある。

その想像力を働かせることが出来るのも、あなただけなのだ。

失うものがない人間などいない。

失うものがないと自称する人は、そう思い込もうとしているだけだ。

失ったものに対する喪失感に支配され、残されたものに気付けないだけだ。

人間には「生きたい」という本能がある。

冷静な状態にあって、積極的に死を選ぶものはいない。

 

やられて黙っているだけではいけない。

右に左に揺らしながら、落ち着けそうなところを見つけさせ、丁度良さそうなところに着地させる。

そして、相手が新たな希望を抱くまで見守るのだ。

仲裁は、第三者、もしくは第三者的な視点をもった当事者にしかできない。

憎しみに支配された当事者同士で解決出来るなら、そもそも、そんなことにはなっていないのだ。

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