「誰のせいでもない。」
私はこの言葉を、責任を曖昧にするために使っているのではない。
起きたことをなかったことにしたいわけでも、傷ついた人に我慢を求めたいわけでもない。
私は、人がいつまでも戦い続ける構造を終わらせたいから、この言葉を使う。
SNSでは、争いが起きると、すぐに加害者と被害者が決められる。
一方が正しく、もう一方が間違っている。
一方が善で、もう一方が悪である。
そのような単純な物語が作られ、多くの人がどちらかの側に加わっていく。
しかし、本当に外側からそこまで断定できるのだろうか。
当事者の間で何が起きたのか、そのすべてを第三者が知ることはできない。
当事者同士ですら、同じ出来事をまったく異なるものとして記憶していることがある。
一方は攻撃されたと感じ、もう一方は正当な反応だったと考える。
互いに「相手の認識が歪んでいる」と思いながら、自分の見ている世界こそが事実だと信じる。
だから、第三者が表面に現れた結果だけを見て、
「こちらが悪い」
「いや、あちらが悪い」
と断定しても、当事者の納得にはつながらない。
当事者からすれば、
「そこに至るまでの経緯を知らない」
という話になるからだ。
経緯がなければ結果はない。
結果の性質は、それに至る経緯の中にある。
行動の外形だけを見ても、その行動がどのような意味を持っていたのかまでは分からない。
しかし、だからといって、
「本当のことは分からない」
と言うだけでは、人の苦しみは終わらない。
傷ついたという感覚は残る。
怒りも、屈辱も、失った時間も残る。
人は、自分の苦しみを意味のないものとして抱え続けることが難しい。
だから、苦しみの原因を求める。
そして多くの場合、その原因は一人の人間に集約される。
「あの人が悪かったから、自分は傷ついた。」
その説明は分かりやすい。
敵を明確にすることで、自分の苦しみに意味を与えることもできる。
だが、現実の争いは、一人の悪意だけで生まれるとは限らない。
個人の性格だけでなく、置かれた立場、過去の経験、人間関係、組織の制度、周囲の反応、時代の価値観など、さまざまな要因が重なって生じる。
私は、その重なりを「社会の構造」と呼んでいる。
ここでいう社会とは、政府や企業や大学といった、自分の外側に存在する何かだけを指すのではない。
私自身も含めた、人間の関係全体である。
私たちが当然だと思っている価値観。
誰かを評価し、比較し、分類する文化。
失敗を許さず、勝敗を求める空気。
対立を拡散し、観客を集めるSNSの仕組み。
それらは、誰か一人が作ったものではない。
多くの人の選択や沈黙、欲望、恐れ、無関心が積み重なって形作られてきたものだ。
だから、構造に問題があると言っても、それは個々の責任がすべて消えるという意味ではない。
人は、自分の行動について責任を問われることがある。
傷つけたなら謝る必要もある。
損害を与えたなら償う必要もある。
しかし、責任を問うことと、一人の人間をすべての原因にすることは同じではない。
個人の行為について責任を考えながらも、争いを生んだ原因を一人の人格に還元しない。
それが、私の言う「誰のせいでもない」である。
より正確に言えば、
「誰か一人だけのせいではない」
ということだ。
この言葉には、もう一つの目的がある。
戦いを終わらせることだ。
人は怒りだけで戦っているわけではない。
傷つけられたという感覚、失ったものを取り戻したいという願い、自分の尊厳を守りたいという思い。
そうした感情に、
「自分は正しい」
「相手は間違っている」
「この戦いには意味がある」
という大義が結びついたとき、戦いは長く続く。
大義は、怒りに意味を与える。
苦痛を使命に変える。
本当は疲れていても、
「ここでやめれば悪に屈したことになる」
「自分が戦わなければ、同じ被害が繰り返される」
と考えれば、戦場を降りることができなくなる。
だから私は、人そのものを折ろうとは思わない。
人を否定し、屈服させようとすれば、その人は自分の尊厳を守るために、かえって大義にしがみつくことがある。
批判されたこと自体が、新たな被害の証拠として受け取られ、戦いを続ける理由になることもある。
折るべきなのは、人間ではない。
人を戦わせ続けている大義の方である。
「本当に相手だけが悪いのか。」
「相手を倒せば、失ったものは戻るのか。」
「この戦いを続けることは、本当に守りたいものを守っているのか。」
そう問いかけることで、戦いを支えている物語を揺らす。
ただし、片方の大義だけを一方的に否定すれば、その側には敗北感や屈辱が残りやすい。
自分だけが悪者にされたと感じれば、表面上は沈黙しても、対立そのものは終わらない。
だから私は、どちらか一方だけを裁こうとはしない。
双方の大義に問いを向ける。
どちらにも、事情がある。
どちらにも、自分なりの正しさがある。
どちらにも、傷ついたという感覚があるかもしれない。
だからこそ、
「相手を倒せば問題は解決する」
という物語から、双方を遠ざけなければならない。
これは、双方の行為が同じだという意味ではない。
責任の重さが常に等しいという意味でもない。
行為の内容や被害の程度には違いがある。
その違いを検討することは必要である。
それでも、戦いを終わらせるためには、どちらかを絶対的な善、もう一方を絶対的な悪として固定しない方がよい。
人を悪そのものとして扱えば、その人は戦場から降りる場所を失う。
私は勝者を作りたいのではない。
敗者を作りたいのでもない。
双方を戦場から追い出したいのである。
それは、力ずくで黙らせることではない。
この戦いを続ける大義を失わせ、もう戦わなくてもよい状態に戻すということだ。
戦いの外には、日常がある。
家族と過ごす時間がある。
仕事や研究がある。
友人との食事がある。
眠り、目覚め、くだらない話をして笑う時間がある。
劇的な勝利も、完全な正義もない。
泥臭く、退屈で、終わりのない日常である。
しかし私は、その日常こそが、人間の帰る場所だと思っている。
だから私は言う。
誰のせいでもない。
それは、誰にも責任がないという意味ではない。
何をしても許されるという意味でもない。
争いの原因を、誰か一人の悪意や人格だけに押しつけないということである。
誰か一人を悪者にすれば、話は分かりやすくなる。
しかし、その悪者を倒したあとにも、人を対立させた構造は残る。
そして構造が残る限り、次の悪者が選ばれ、次の戦いが始まる。
私たちが本当に向き合うべきなのは、誰が絶対的に悪いのかという問いだけではない。
なぜ人は、自分の正義を証明するために戦い続けなければならなくなるのか。
なぜ私たちの社会は、誰かを悪者にしなければ苦しみを処理できないのか。
そこまで考えなければ、戦いは終わらない。
私は、人を負かしたいのではない。
人を戦わせ続ける大義を終わらせたい。
「誰のせいでもない。」
それは責任放棄の言葉ではない。
人を戦場から日常へ帰すための言葉なのである。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻




















































私も、普津澤さんの気持ちと同じですよ(◍•ᴗ•◍)