はじめに
本稿は、係争中の事件について論じるものである。
現時点では裁判は始まったばかりであり、判決は出ていない。
私は、この事件について誰が正しいのかを断定するつもりはない。
岸政彦氏にも、青木秀光氏にも、それぞれの主張がある。そして、その心情や経験には、本人にしか分からない部分がある。
私は、この事件に関する当事者双方の発信、関係者や研究者の発言、公開されている資料を可能な限り読み、時系列を整理し、それぞれの主張を比較してきた。
しかし、調べれば調べるほど、一つの結論にたどり着いた。
人は、他人の心を証明することはできない。
たとえ裁判所であっても、それは同じである。
裁判所が判断するのは、人の内心そのものではない。
提出された証拠に基づいて、法的責任を判断する。
それは司法制度として当然の役割であり、否定されるものではない。
しかし同時に
その判決は、人間の経験や感情、記憶、あるいは「本当に何が起きたのか」という歴史的・心理的な真実のすべてを語り尽くすものでもない。
そして、それはこの記事も同じである。
この記事は真実を宣言するものではない。
私が現時点で確認できた情報を基に、できる限り誠実に調べ、考え、整理した一つの理解を示すものである。
読者に結論を押し付けたいわけではない。
「私はここまで調べ、このように考えた。」
その過程を提示し、共に考えるための材料として残したいと思う。
だから本稿は、誰かを断罪するための文章でも、誰かを擁護するための文章でもない。
この事件を通して、人間とは何か、権力とは何か、そして司法とは何かを考えるための、一つの試みである。
目次
第一章 事件の概要
本稿で扱うのは、社会学者・岸政彦氏と、元大学院生である青木秀光氏との間で生じた一連の問題である。
発端は、青木氏がSNS上で、大学院在籍中に岸氏からアカデミック・ハラスメント(アカハラ)を受けたと公表したことだった。
青木氏は、博士課程での研究指導の中で精神的な圧迫を受け、研究や人生に重大な影響を受けたと主張している。
また、その後も自身の経験について継続的に発信し、当時の出来事についても言及している。
一方、岸氏はこれらの主張を全面的に否定している。
2026年6月1日、岸氏は自身のX(旧Twitter)で、青木氏の投稿は事実に反し、自身の名誉を毀損するものであるとして、投稿の削除と損害賠償を求める民事訴訟を大阪地方裁判所に提起したことを公表した。

岸氏は、「かえって騒ぎを広げてしまうことになるでしょう。スラップ訴訟だと言われるかもしれない。」としながらも、社会学者を含む第三者による拡散が進み、自身の仕事や生活にも実害が生じたことから、提訴を決断したと説明している。
また、当時のメッセージのやり取りなどを証拠として裁判所へ提出したことも明らかにしている。
この出来事は、当事者同士の問題にとどまらなかった。
社会学者や研究者、出版社関係者、ライターなど、多くの第三者がそれぞれの立場から意見を表明し、議論はSNS上で急速に広がっていった。
その中には、青木氏を支持する意見もあれば、岸氏を支持する意見もある。
そして、その過程で「大学院における指導教員と学生の権力関係」「告発と名誉毀損」「SLAPP訴訟の可能性」「研究方法論と個別ハラスメントを結び付けて論じることの是非」など、多くの論点が生まれた。
しかし、こうした議論の多くは、SNSという短い文章の応酬の中で行われた。
当事者の心情を断定する言葉。
裁判が始まる前から相手を「加害者」「虚言」と決めつける発言。
相手の人格を評価する言葉。
そうした投稿も少なくなかった。
だからこそ、本稿では、それらをできるだけ切り離して考えたい。
誰が正しいのかを急いで決めるのではなく、まず何が起き、何が争われているのかを整理することから始めたいと思う。
まずは、公開されている資料をもとに、事件の経緯を時系列に沿って確認していく。
第二章 事件の経緯
本章では、公開されている資料や当事者双方の発信をもとに、本件に至るまでの経緯を時系列に沿って整理する。現時点では裁判係属中であり、事実認定は確定していないため、当事者の主張である部分についてはその旨を明記する。
(1)立命館大学大学院への進学
青木秀光氏は立命館大学を卒業後、立命館大学大学院先端総合学術研究科へ進学した。青木氏によれば、当初は天田城介氏を頼って同研究科へ進学したという。
学部では給付奨学金や卒業論文優秀賞を受け、大学院入試でも成績優秀者として学費免除となったことを自身で公表している。また、大学院在学中には査読付き論文の執筆、共編著、翻訳、国際学会での発表など研究活動を行っていたとしている。
(2)指導体制の変更
青木氏によれば、大学院在学中に当初の指導教員が転出したという。
その後も教員の異動が続き、博士論文を執筆する段階で岸政彦氏が後任の主査となったとしている。
また、主査交代に際して十分な引き継ぎはなかったとの認識も示している。
(3)研究指導をめぐる対立(青木氏の主張)
青木氏は、岸氏が主査となった後、研究方法論をめぐって対立が生じたと主張している。
青木氏によれば、博士論文の骨子となる査読付き論文を提出した際、
「こんなくだらない方法論使って。博論の時は全部消せよ」
あるいは
「そのまま書くなら公聴会の時に徹底的にやってやる」
などと言われたという。
一方、岸氏は、これらの内容を否定している。
(4)退学後と第二のハラスメント(青木氏の主張)
青木氏によれば、博士課程在学中に子どもが生まれたこともあり、生活のため専門学校の専任教員として勤務した。
その後、任期付きで大学教員となったが、博士号を取得していなかったため就職には大きな制約があったという。
さらに、就職先で信頼していた社会学者に大学院での出来事を相談したところ、その人物からもハラスメントを受け、自殺未遂にまで追い込まれたと主張している。
青木氏は、大学院と就職先の双方でハラスメントを受けたと説明し、この出来事についても弁護士へ資料を提出しているとしている。
(5)SNSでの公表
2026年5月、青木氏はSNS上で、自身の経験を発信し始めた。
その中で、岸氏が後任主査であったことや、研究指導の中で受けたとする発言、博士課程退学に至る経緯などを公表した。
これに対し、岸氏は青木氏の主張を否定した。
(6)議論の拡大と提訴
その後、この問題は当事者間の問題にとどまらず、社会学者、研究者、出版社関係者、ライターなど多くの第三者を巻き込む議論へと発展した。
大学院における権力関係、ハラスメント、名誉毀損、SLAPP訴訟の可能性、研究方法論と個別事案を結び付けて論じることの是非など、多様な論点がSNS上で議論されるようになった。
2026年6月1日、岸氏は、青木氏の投稿は事実に反し、自身の名誉を毀損するものであるとして、大阪地方裁判所へ投稿削除と損害賠償を求める民事訴訟を提起したことを公表した。
現在、本件は司法の場で係争中であり、裁判所による事実認定はまだ示されていない。
第三章 なぜここまで意見が割れるのか
岸政彦氏と青木秀光氏をめぐる問題では、SNS上で意見が大きく二極化した。
一方では、「勇気ある告発であり、大学院における権力構造を明らかにした」という評価がある。
他方では、「証拠が十分ではなく、一方的な告発によって個人の名誉が傷つけられている」という見方もある。
なぜ、ここまで評価が分かれるのだろうか。
その理由は、単に価値観の違いだけではない。
本件には、人が事実を判断することを難しくする要素がいくつも重なっているからである。
(1)当事者しか知らない出来事であること
本件で問題となっている発言の多くは、研究指導という閉じられた場で行われたとされている。
そのため、録音や録画などの客観的資料が存在しない限り、第三者がその場で何が起きたのかを直接確認することは難しい。
結果として、外部の人間は当事者双方の説明を比較しながら判断せざるを得ない。
(2)同じ事実でも解釈が異なること
仮に同じ出来事を経験したとしても、その意味づけは人によって異なる。
厳しい研究指導だと受け止める人もいれば、人格を傷つけるハラスメントだったと感じる人もいる。
逆に、教育的指導として発した言葉が、受け手には深刻な精神的苦痛として受け止められる場合もある。
つまり、本件では「何が言われたか」だけでなく、「それをどう受け止めたか」という問題も含まれている。
(3)SNSという場の特性
今回の議論は、主としてSNS上で行われた。
SNSでは、一つひとつの投稿が短く、文脈を十分に説明することは難しい。
さらに、投稿は拡散や引用によって切り取られやすく、一部だけが独り歩きすることも少なくない。
その結果、支持する側も批判する側も、それぞれに都合の良い情報だけを集めやすい環境が生まれる。
(4)裁判と真実は必ずしも一致しない
現在、本件は司法の場で争われている。
裁判所は提出された証拠に基づいて判断を下すが、それは「提出された証拠によって認定できる事実」を判断するということであり、人間の内面や本心そのものを完全に明らかにするものではない。
そのため、判決が出たとしても、すべての人が納得するとは限らない。
以上のように、本件は単純な「どちらが正しいか」という問題ではない。
当事者しか知り得ない出来事、異なる受け止め方、SNSという情報環境、そして司法の限界が重なり合うことで、多くの人がそれぞれ異なる結論に至っているのである。
第四章 人は「本心」を証明できない
ここまで見てきたように、本件では当事者双方の主張が大きく異なっている。
しかし、このような問題を考えるうえで、一つ忘れてはならないことがある。
人は、他人の本心を直接知ることはできないということである。
私たちは、相手の言葉や行動から、その人の考えや意図を推測することはできる。しかし、その推測が本人の内面と完全に一致しているかを証明することはできない。
これは本件に限らず、人間社会に共通する根本的な問題である。
(1)私たちは行動から推測している
他人の心を直接見ることはできない。
だから私たちは、表情や態度、言葉、行動などを手掛かりに、「相手はこう考えているのではないか」と推測している。
日常生活は、その推測の積み重ねによって成り立っている。
しかし、それはあくまでも推測であり、本人の内面そのものではない。
(2)同じ出来事でも受け止め方は異なる
人は同じ出来事を経験しても、必ずしも同じように受け止めるとは限らない。
ある人は厳しい指導だと感じ、別の人は人格を否定されたと感じることもある。
逆に、教育的な意図で発した言葉が、受け手には深い精神的苦痛として受け止められる場合もある。
この違いは、どちらか一方が必ず誤っているということではなく、人間の経験や価値観が一人ひとり異なることから生じる。
(3)だからこそ、対話と証拠が重要になる
他人の本心を証明できないからこそ、私たちは言葉を交わし、事実を確認し、証拠を積み重ねながら物事を判断している。
社会が推測だけで人を断罪すれば、冤罪や誤解は避けられない。
一方で、「本心は分からない」という理由だけで、あらゆる訴えを退けてしまえば、実際に被害を受けた人が救済されないおそれもある。
だからこそ、社会は対話や証拠、そして法的手続を通じて、できる限り公平な判断を目指しているのである。
(4)完全な理解は難しい
人は他人を理解しようと努力することはできる。
しかし、他人の人生や経験、感情のすべてを完全に理解することはできない。
その限界を認めることは、相手を諦めることではない。
むしろ、自分の判断が絶対ではないことを自覚し、異なる見方が存在する可能性を受け入れる姿勢につながる。
本件についても同様である。
私たちは、それぞれの立場や資料を踏まえて考えることはできる。しかし、当事者の内面そのものを断定的に語ることはできない。
その前提に立つことが、この問題を冷静に考えるための第一歩ではないだろうか。
第五章 司法の限界
本件は現在、司法の場で争われている。
そのため、「裁判で白黒がつけば真実も明らかになる」と考える人も少なくない。
しかし、司法の役割は、真実を解明することではない。
司法は、人間の内面や歴史のすべてを明らかにする機関ではなく、法律と証拠に基づいて紛争に法的な結論を与える制度である。
(1)司法が扱うのは「法的な判断」である
裁判所は、提出された証拠や証言、法律に基づいて判断を下す。
その判断は、「何が法的に認められるか」を決めるものであり、「真実」や「人間の本心」を明らかにすることとは異なる。
したがって、裁判で認定されなかった出来事が、必ずしも現実に存在しなかったことを意味するわけではない。
逆に、裁判所が一定の事実を認定したとしても、それによって当事者双方のすべての思いや経験が説明されるわけでもない。
(2)司法は紛争を終わらせるための制度でもある
社会では、人と人との間でさまざまな紛争が生じる。
もし、その解決を当事者同士の報復や実力行使に委ねれば、対立は際限なく続いてしまう。
司法は、そのような事態を防ぐために、一定の手続とルールに従って紛争に法的な区切りをつける役割を担っている。
もちろん、裁判には権利救済という重要な役割もある。
しかし同時に、社会全体の秩序を維持するという機能も持っている。
(3)判決が「すべての答え」になるわけではない
判決は、法的な紛争に対する一つの結論である。
しかし、それによって当事者の感情が整理されるとは限らず、社会全体の評価が一致するとも限らない。
現実には、判決後もさまざまな意見や議論が続く事件は少なくない。
それは司法が失敗しているからではなく、司法がそもそも担っている役割が、「真実を解明すること」ではないからである。
本件についても同様である。
今後、裁判所による判断が示されれば、それは法的には重要な意味を持つ。
しかし、その判断だけで人間の内面や当時の空気、すべての事実関係が完全に明らかになるわけではない。
司法は万能ではない。
それは、人間が作った制度である以上、避けることのできない限界でもある。
第六章 本件の背景について、私なりに考えたこと
ここまで、本件について公開されている資料や当事者双方の発信を整理し、人間と司法の限界について考えてきた。
ここからは、少し違う視点で、この事件の背景について考えてみたい。
私は大学にも大学院にも通ったことがない。
もちろん、博士論文を書いた経験もなければ、研究指導を受けた経験もない。
だから、大学院という世界の「当たり前」を知っているわけではない。
むしろ、この事件をきっかけに、大学院とはどのような場所なのか、博士課程とは何をするところなのかを、一つひとつ調べながら考えてきた。
その過程で感じたことがある。
それは、この事件は単に二人の対立だけではなく、大学院という制度や研究者社会、SNS、司法など、いくつもの問題が重なり合っているということである。
もちろん、以下に書くことは、岸氏や青木氏について事実を認定するものではない。
公開されている資料を読み、一人の部外者として考えたことである。
その意味では、私の考えにも限界がある。
しかし、大学院の外にいる人間だからこそ見えることもあるのではないかと思っている。
(1)大学院における指導教員と学生の関係について
この事件を調べ始めた頃、私は「大学院の指導教員」と聞いても、学校の先生を少し専門的にしたような存在だと思っていた。
しかし調べてみると、そのイメージは大きく変わった。
博士課程では、指導教員は論文について助言するだけではない。
論文審査や学位取得、研究者としての将来にも大きく関わる立場にあることを知った。
そう考えると、同じ言葉でも、友人や同僚から言われる場合と、学位取得に影響する立場の人から言われる場合では、受け止め方が大きく違っても不思議ではないと思った。
一方で、博士論文というものは、多くの人が何年もかけて取り組む研究である。
それだけに、研究方法や論文の内容について厳しい指導や批判が行われること自体は、珍しいことではないという意見も見つけた。
私は大学院を経験していないので、「これくらいなら普通の指導だ」「これは明らかなハラスメントだ」と線を引くことはできない。
ただ、一つ思うのは、指導教員と学生との間に大きな力関係があるのであれば、その関係そのものについて社会が考える意味はあるのではないかということである。
もちろん、それは本件でハラスメントがあったことを意味するものではない。
構造として権力差があることと、個別の出来事がどうだったのかは、別の問題だからである。
(2)告発と名誉毀損について
この事件を見ていて、私が最も難しいと感じたのはここだった。
青木氏がもし本当に深刻な経験をしたのであれば、それを社会へ伝えたいと思う気持ちは理解できる。
閉じられた組織の中では、声を上げなければ問題が表に出ないこともあるだろう。
実際、世の中には告発によって改善された問題も少なくない。
しかし一方で、実名で誰かを告発するということは、その人の仕事や生活、社会的評価に大きな影響を与える。
後から裁判で違う判断が示されたとしても、一度広まった印象を元に戻すことは簡単ではない。
だから私は、「告発する自由」と「名誉を守る権利」は、どちらか一方だけを守ればよい問題ではないと思った。
この二つは衝突する。
だからこそ、社会は慎重でなければならない。
告発した人をすぐに嘘つきと決めつけるべきではない。
同じように、告発された人を裁判の前から加害者と決めつけるべきでもない。
この事件は、その難しさを強く感じさせる出来事だった。
(3)SLAPP訴訟について
本件では、岸氏による提訴について、「SLAPP訴訟ではないか」という意見も見られる。
SLAPP(Strategic Lawsuit Against Public Participation)とは、一般に、市民による批判や告発、公益的な発言などを萎縮させることを目的として提起される訴訟を指すとされる。
しかし、批判や告発を受けた側が裁判を起こしたからといって、直ちにSLAPP訴訟と評価できるわけではない。
名誉を傷つけられたと考える人には、裁判を通じて救済を求める権利がある。
その権利まで否定してしまえば、本当に虚偽の情報によって社会的評価を損なわれた人が救われなくなる。
一方で、訴えられた側には、時間的・経済的・精神的な負担が生じる。
その負担の大きさから、「同じような問題を感じても発言するのはやめよう」と考える人が現れる可能性もある。
その意味では、一つの訴訟が、原告にとっては正当な権利行使でありながら、被告や第三者にとっては言論への圧力として受け止められることもあり得る。
本件がSLAPP訴訟に当たるかどうかは、提訴されたという事実だけで判断できるものではない。
提訴の目的や請求内容、当事者双方の主張、訴訟が社会に与える影響などを総合的に考える必要があるだろう。
私自身は、現時点で本件を「SLAPPだ」と断定することも、「SLAPPではない」と断定することもできない。
ただ、この事件を通して改めて感じたのは、訴える権利と言論の自由は、どちらか一方だけを守ればよいものではないということである。
両方とも民主主義を支える重要な権利だからこそ、その境界線については慎重に考え続ける必要があるのだと思う。
(4)研究方法論とハラスメントについて
ここは、私が一番時間をかけて調べたところだった。
私は社会学者ではない。
だから、「研究方法論」という言葉が出てきたときも、最初は何を意味しているのかよく分からなかった。
そこで、岸氏のインタビューや青木氏の論文を読んでみた。
読んでいて感じたのは、これは単に論文の書き方の違いではなく、「社会をどう見るのか」という価値観にも関わる話だ、ということだった。
もし二人の研究に対する考え方が大きく違っていたのであれば、その違いが研究指導の中で衝突した可能性はあるのかもしれない。
だからといって、そのことだけで青木氏が公表した出来事が実際にあったことを証明できるわけではない。
逆に、方法論上の対立だったからハラスメントではない、と言うこともできない。
私は、ここを混同してはいけないと思う。
岸氏の過去の発言は、岸氏がどのような研究観を持っているかを知る材料にはなる。
青木氏の論文も、青木氏がどのような問題意識を持って研究していたのかを知る材料にはなる。
しかし、それらは背景を考えるための資料であって、当時何があったのかを直接証明する証拠ではない。
この二つは分けて考えなければならないと思った。
(5)背景を知ることと、結論を決めることは違う
この事件を調べていて、私は何度も「背景」と「証拠」を混同しそうになった。
大学院には権力関係がある。
SNSには告発を広める力がある。
訴訟には権利救済という側面も、言論を萎縮させる側面もある。
研究方法論が違えば、指導の受け止め方も変わるかもしれない。
どれも、本件を考える上で重要な背景だと思う。
しかし、その背景から、「だから岸氏はハラスメントをした」と結論づけることはできない。
同じように、「直接証拠がまだ十分に公開されていないから、青木氏の経験もなかった」と言うこともできない。
私は、この事件を調べながら何度も、「分からないことを、分かったことにしてしまう怖さ」を感じた。
背景は、考えるための材料である。
結論を先に決めるための道具ではない。
だから私は、この章でも結論を出したかったわけではない。
むしろ、この事件を考えるときには、一つの資料だけではなく、制度や社会、研究者文化、司法など、さまざまな角度から見ていく必要があるのではないか。
そのことを書き残しておきたかったのである。
第七章 この記事の限界
本稿では、公開されている資料や当事者双方の発信をもとに、本件の経緯や論点を整理し、人間と司法の限界という観点から考察を試みた。
しかし、本稿もまた、一つの視点から整理した試みに過ぎない。
私自身が当事者ではなく、研究指導の場に立ち会ったわけでもない以上、そこで実際に何が起き、当事者が何を感じていたのかを断定することはできない。
また、本件は現在も係争中であり、今後、新たな資料や証言、あるいは裁判所の判断によって、事実関係の理解が変わる可能性もある。
その意味で、本稿は「最終的な結論」を示すものではない。
(1)この記事もまた解釈の一つである
どのような文章にも、書き手の視点や価値観が反映される。
資料をどのような順番で紹介するか、どの論点を重視するかによって、読者が受ける印象は変わる。
本稿も例外ではない。
できる限り事実と考察を区別し、中立的な記述を心掛けたが、完全に価値観から自由な文章を書くことはできない。
(2)だからこそ資料にあたってほしい
本稿を読んで結論を出してほしいとは考えていない。
むしろ、本稿を入口として、当事者双方の発信や公開されている資料にも目を通し、それぞれが自分自身の判断を形成してほしい。
異なる結論に至る人がいること自体は、不思議なことではない。
大切なのは、自分とは異なる意見を持つ人を直ちに否定するのではなく、なぜそのような考えに至ったのかを理解しようとする姿勢ではないだろうか。
おわりに
本稿では、岸政彦氏と青木秀光氏をめぐる問題について、公開されている資料をもとに、その経緯や論点を整理し、人間と司法の限界という観点から考察してきた。
しかし、本稿を通じて私が本当に伝えたかったことは、「どちらが正しいのか」という結論ではない。
人は、他人の本心を知ることはできない。
司法もまた、人間が作った制度である以上、万能ではない。
だからこそ私たちは、「なぜこのような出来事が起きたのか」を考える必要がある。
私たちは、何か問題が起きるたびに、一人の悪役を探そうとする。
そうすれば世界は分かりやすくなる。
しかし、人と人との問題は、それほど単純ではない。
立場が違えば見える景色も違う。
経験が違えば受け止め方も違う。
制度にも限界があり、人にも限界がある。
だから私は、この事件についても、「誰のせいでもない」という視点を忘れたくない。
私が言いたいのは、「責任を問うな」ということではない。
むしろ、責任を一人に押し付けるだけでは、同じ問題は繰り返されるということである。
人、制度、社会、それぞれが影響し合う中で、一つの出来事は生まれる。
だからこそ、「誰が悪いのか」という問いではなく、「なぜそうなったのか」という問いを持ち続けなければならない。
断罪は、ときに問題を終わらせたような安心感を与えてくれる。
しかし、その安心感は、私たちから考える機会を奪ってしまう。
本当に社会を変えるのは、一人の悪役を見つけることではない。
自分たちが何を見落としていたのか、どのような制度や環境がその出来事を生み出したのか、そして自分自身もその社会の一員として何を変えられるのかを問い続けることではないだろうか。
本稿もまた、その問いを考えるための一つの材料に過ぎない。
もし、この文章を読み終えたあと、「誰が悪いのか」という問いではなく、「自分たちは何を見落としてきたのか」「同じことを繰り返さないために何ができるのか」という問いを持ち帰っていただけたなら、本稿を書いた意味はあったのだと思う。
私が願うこと
ここまで私は、できる限り感情を抑え、事実と推測、証拠と背景を分けて書いてきた。
しかし、最後に一つだけ、私自身の気持ちを書かせてほしい。
岸氏は長年研究者として実績を積み、社会的な地位や評価を得てきた人物である。

一方で、青木氏は、うつ病となり、障害年金の申請をするほど厳しい状況に置かれている。
そして、小学生の娘がいる。
その子が、苦しむ父親の姿を目の当たりにしているのかもしれないと思うと、私はやりきれない気持ちになる。
もちろん、岸氏にも名誉を守る権利はある。
それは、繰り返し述べてきた。
それでも私は、社会的に大きな影響力や地位を持つ立場にある人には、最後は少しだけ寛容であってほしいと思う。
岸氏はこれまで、多くの人々の人生や苦しみに寄り添い、それを言葉にしてきた研究者である。
だからこそ私は、その経験を持つ岸氏なら、法律上の権利だけではなく、その先にいる一人の父親や、一人の小学生の娘にも思いを寄せることができるのではないかと願ってしまう。

これは、ただの私の価値観であり、願いである。
この考えに賛成しない人がいても構わない。
ただ私は、強い立場にいる人がほんの少しだけ譲ることで、一人の父親と、一人の小学生の娘が救われる未来もあるのではないかと、思わずにはいられない。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻




















































この記事へのコメントはありません。