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同性愛と社会秩序は対立するのか――SNS論争から考える「異常」「多様性」「尊厳」


はじめに

「多様性」という言葉を、私たちは何度耳にしてきただろうか。

テレビでも、学校でも、企業でも、政治でも。

いまや「多様性」は、現代社会を語る上で欠かせないキーワードとなっている。

一方で、それに対する反発もまた、かつてないほど大きくなっている。

そんな中、SNS上では、同性愛を巡る議論が大きな注目を集めた。

「同性愛は異常なのか。」

「社会秩序と両立するのか。」

「出生率への影響はどう考えるべきなのか。」

「小児性愛と何が違うのか。」

「多様性とは、理解を強制することなのか。」

議論は多岐にわたり、多くの人々が自身の考えを発信した。

しかし、そのやり取りを読んでいて私が強く感じたのは、互いに異なる論点を同時に議論しているということだった。

ある人は出生率を語り、ある人は差別や偏見の問題を語る。

ある人は法制度を語り、ある人は個人の尊厳を語る。

それぞれが重要な問題であるにもかかわらず、それらが一つの議論として混在することで、互いの言葉はすれ違い、議論は次第に感情的な対立へと発展していく。

本稿は、特定の人物や発言を断罪することを目的としたものではない。

SNS上で交わされた実際の投稿を引用しながら、それぞれの主張がどのような論点に立っているのかを整理し、一つひとつ丁寧に考えてみたい。

その過程では、少子化や社会秩序、女性や子どもの安全、多様性、そして個人の尊厳といった、避けて通ることのできない問題にも触れる。

どれか一つだけを絶対視すれば、必ず誰かの声が置き去りになる。

だからこそ必要なのは、「どちらが正しいか」を急いで決めることではなく、何について議論しているのかを正確に整理することではないだろうか。

本稿が、互いを否定するためではなく、互いを理解するための対話のきっかけとなれば幸いである。


目次

第一章 「異常」とは何を意味するのか

第二章 「子孫が残せない」という主張は何を意味するのか

第三章 出生率と個人の尊厳は同じ問題なのか

第四章 私たちは何を恐れているのか

第五章 同性愛と小児性愛・不倫は比較できるのか

第六章 私たちは誰を「同性愛者」だと思っているのか

第七章 多様性とは何か

第八章 傷つくのは誰なのか


 

第一章 「異常」とは何を意味するのか


まずは、今回の議論の発端となった投稿を見てみたい。

この投稿には多くの賛同と反発が寄せられた。

賛同した人々は、「当たり前のことを言っているだけだ」と主張し、反対した人々は、「人格を否定する差別的な発言だ」と受け止めた。

では、「異常」という言葉は、一体何を意味しているのだろうか。

実は、この一言の中には、異なる意味が混在している。

例えば、「異常」という言葉には、少なくとも次のような使われ方がある。

統計的な意味(多数派ではない、頻度が低い)

医学的な意味(疾病や障害として扱われる状態)

生物学的な意味(生殖という機能から見た評価)

道徳的な意味(善悪や倫理に関する評価)

これらは似ているようで、まったく異なる概念である。

例えば、日本人の人口割合から見れば、左利きの人は少数派である。

しかし、多くの人は左利きを「病気」とは考えない。

また、オリンピックで金メダルを獲得するような身体能力も、統計的には極めて「異常」である。

だからといって、それを否定的な意味で用いる人はほとんどいないだろう。

つまり、「統計的に珍しい」ということと、「悪いこと」「治療すべきこと」は同じではない。

一方で、生物学という視点に立てば、「生殖」という機能について議論することはできる。

同性同士では自然妊娠が成立しないことは、生物学的な事実である。

しかし、その事実から直ちに「だから人格的に劣っている」「だから尊重されるべきではない」という結論が導かれるわけではない。

そこには、「事実」から「価値判断」へ飛躍する過程が存在する。

逆に、「異常という言葉を使うこと自体が差別だ」と断定してしまうことにも注意が必要である。

なぜなら、その人が統計学的な意味で「少数派」と言っているのか、医学的な意味で使っているのか、あるいは道徳的な非難として使っているのかによって、言葉の意味は大きく異なるからだ。

もちろん、現代社会において「異常」という言葉は、否定的なニュアンスを伴って受け取られることが多い。

だからこそ、その言葉を使う側には、自分が何を意味しているのかを明確にする責任がある。

そして、それを受け取る側もまた、「異常」という二文字だけを見て相手の意図を決めつけるのではなく、その言葉がどのような文脈で使われているのかを冷静に読み解く必要がある。

今回の議論は、この一つの言葉に複数の意味が重なっていたことから始まったと言っても過言ではない。

まずは、「異常」という言葉を一つの意味として扱うのではなく、その中にどのような概念が含まれているのかを整理することが、本稿の出発点となる。


 

第二章 「子孫が残せない」という主張は何を意味するのか


今回の議論では、細川バレンタイン氏は次のように述べている。

「生物的観点で言えば、未成年に欲情するのは社会的に認められなくても人間社会は発展する。子孫が産まれるから。でもね同性愛は、子孫が残せないから人間社会が終わる。つまりね同性愛者の方が生物としては、未成年好きより異常なんだよ。」

この投稿で中心となっているのは、「子孫を残せるかどうか」という生物学的な視点である。

まず確認しておきたいのは、この主張の前提となっている事実である。

同性同士では、自然な形で子孫を残すことはできない。

これは、生物学的な事実として広く共有されている。

では、この事実から何が言え、何までは言えないのだろうか。

ここで区別したいのは、「事実」と「評価」である。

「子孫を残せない。」

これは事実についての説明である。

一方で、

「だから生物として異常である。」

これは事実そのものではなく、事実に対する評価である。

もちろん、人類という種が存続するためには、新たな命が生まれ続けることが必要である。

その意味で、生殖という機能を重要視する考え方には一定の合理性がある。

だからこそ、「子孫を残せるかどうか」という観点から社会を考えようとする意見が存在するのも理解できる。

しかし、社会にとって生殖が重要であることと、一人ひとりの人間をどのように評価するかは、必ずしも同じ問題ではない。

教育、医療、芸術、科学、福祉、防災、介護。

社会は、様々な役割を担う人々によって支えられている。

つまり、人は、子どもを持っているかどうかだけで、その価値が決まるわけではない。

ここで考えたいのは、「子孫を残せるかどうか」という生物学的な事実を否定することではない。

そうではなく、その事実から、

「人間としての価値」

あるいは

「社会の中で尊重されるべき存在かどうか」

という結論まで導くことができるのか、という点である。

事実と評価は、同じではない。

事実を確認することは重要である。

しかし、その事実をどのように評価するのかについては、倫理や価値観、社会のあり方など、別の議論が必要になる。

今回の論争では、この二つが一つの問題として語られていたように思われる。

だからこそ、まずは「子孫を残せない」という事実と、その事実に対する評価を分けて考える必要がある。


 

第三章 出生率と個人の尊厳は同じ問題なのか


前章では、「子孫を残せない」という事実と、その事実に対する評価は分けて考える必要があると述べた。

では、出生率という社会全体の課題と、一人の人間の尊厳はどのような関係にあるのだろうか。

日本では少子高齢化が進み、人口減少が大きな社会問題となっている。

労働力不足、社会保障制度の維持、地方の過疎化。

出生率の低下は、社会に様々な影響を及ぼすことが予想されている。

そのため、出生率について議論すること自体は、決して不適切なことではない。

むしろ、社会の将来を考える上で重要なテーマの一つと言えるだろう。

しかし、ここで改めて考えたい。

出生率という「社会全体」の課題と、一人ひとりの「尊厳」は、同じ問題なのだろうか。

例えば、子どもを望みながら授かることができない夫婦がいる。

病気や体質など、本人の意思ではどうにもならない理由もある。

また、自らの意思で子どもを持たない人生を選ぶ人もいる。

さらに、高齢となり、生殖能力を失った人もいる。

もちろん、ここで述べているのは、同性愛と異性愛の間にある違いを消し去ろうという話ではない。

ここで確かめたいのはただ一点、「生殖できるかどうかで、人間としての価値を測ってよいのか」という問いに対して、私たちはすでに――子を持たない夫婦や高齢者を例に――「否」という答えを日常的に選び取っている、ということである。

つまり、ここで考えたいのは、

「社会が出生率を重視すること」と「一人の人間を尊重すること」は、両立し得るのではないか。

ということだ。

社会は、人口という視点から政策を考えることがある。

それは国家として自然な営みである。

一方で、人は出生率という数字だけで評価される存在ではない。

教育者、医療従事者、研究者、芸術家、消防士、介護士。

子どもを持つ人も、持たない人も、それぞれが社会を支えている。

そして、その尊厳は、生殖能力の有無だけで決まるものではない。

ここで重要なのは、「出生率は重要ではない」と言いたいのではない。

出生率は重要である。

だからこそ議論されるべきである。

しかし、その議論がいつの間にか、「出生率に貢献する人」と「貢献しない人」という形で、人間そのものの価値を測る議論へと変わってしまうのであれば、そこには慎重さが求められる。

出生率は、社会が向き合うべき課題である。

一方で、尊厳は、一人ひとりの人間に等しく認められるべきものである。

この二つは対立する概念ではない。

むしろ、区別して考えることによって初めて、両方を大切にすることができるのではないだろうか。


 

第四章 私たちは何を恐れているのか


今回のSNSでの論争を見ていると、多くの人は「同性愛」そのものについて語っているようでいて、実際には、その先にある社会の変化を恐れているようにも見える。

例えば、同性婚の法制化による家族制度への影響を懸念する人がいる。

学校での性教育や、多様性教育の進め方に不安を抱く人もいる。

女性専用スペースや女子スポーツの公平性について議論する人もいる。

また、「多様性」という言葉が、異なる意見を許さない空気を生み出しているのではないか、と感じている人も少なくない。

これらは、現実に存在する社会的な論点である。

だからこそ、それらについて議論すること自体は否定されるべきではない。

社会制度には様々な立場の人が関わる以上、意見の違いが生まれることは当然である。

しかし、その議論の中で、一つ気になることがある。

制度についての不安と、同性愛者という個人に対する評価が、しばしば一つのものとして語られてしまうことである。

例えば、

「同性婚には反対だ。」

という意見と、

「同性愛者は異常だ。」

という意見は、同じ意味ではない。

前者は制度についての意見であり、後者は人そのものに対する評価である。

また、

「女子スポーツのルールを見直すべきだ。」

という意見と、

「同性愛者は社会に害を与える存在だ。」

という意見も同じではない。

前者は競技の公平性という制度設計の問題であり、後者は人間の尊厳に関わる評価である。

もちろん、人によってはこの二つを結び付けて考える理由があるのかもしれない。

しかし、その理由を丁寧に説明しないまま議論が進めば、「制度への懸念」が「人への否定」と受け取られたり、「人への理解」が「あらゆる制度変更への賛成」と受け取られたりしてしまう。

その結果、本来であれば議論できたはずの問題まで、感情的な対立へと変わってしまうのである。

私たちは本当に何を恐れているのだろうか。

社会制度が変わることだろうか。

価値観が変わることだろうか。

あるいは、自分の考えを自由に話せなくなることだろうか。

恐怖には、必ず対象がある。

その対象を曖昧にしたままでは、議論の相手まで見失ってしまう。

だからこそ、まず必要なのは、「何を恐れているのか」を言葉にすることである。

恐怖を否定する必要はない。

恐怖の対象を正確に見極めることができれば、人への攻撃ではなく、社会制度について冷静に議論することができるはずだ。


 

第五章 同性愛と小児性愛・不倫は比較できるのか


今回の論争では、同性愛を小児性愛や不倫と比較する投稿が大きな議論を呼んだ。

これに対し、「そんなものを比較すること自体がおかしい」という批判も数多く見られた。

しかし、ここで一度考えてみたい。

「比較すること」と「同じものだと主張すること」は、本当に同じなのだろうか。

私たちは日常の中で、様々なものを比較している。

飛行機と新幹線を比較する。

犬と猫を比較する。

民主主義と社会主義を比較する。

比較とは、共通点と相違点を整理するための作業であり、比較したからといって「同じものだ」と言っているわけではない。

したがって、同性愛と小児性愛を比較すること自体を直ちに否定するのは、少し慎重であるべきだろう。

ただし、比較という行為そのものを認めることと、そこから導かれた結論――優劣や異常性の序列化――を認めることは、まったく別の問題である。

問題は、「何を基準に比較しているのか」だ。

例えば、生物学という観点から見れば、「子孫を残せるかどうか」という基準で比較することはできるかもしれない。

一方で、法律という観点ではどうだろうか。

成人同士の同性愛は、本人同士の自由な意思に基づく関係である。

それに対し、小児性愛が現実の性的行為として表れた場合には、同意能力を持たない子どもが被害者となる可能性が極めて高い。

つまり、法律が問題としているのは性的指向そのものではなく、他者の権利や安全が侵害されるかどうかである。

倫理の観点から見ても、「相手の自由意思」「他者への危害」「権利の侵害」といった基準が重視される。

ここで、第二章で取り上げた投稿に立ち返ってみたい。

あの投稿は、「同性愛は子孫を残せない」という生物学的な事実から出発しながら、最終的には「同性愛者の方が異常だ」という優劣の評価にまで到達していた。

しかし、生物学の基準で比較すること自体ができたとしても、そこから「どちらが劣っているか」「どちらが異常か」という序列を導き出す作業は、比較とは別の、価値判断のステップである。

第一章・第二章で確認した「事実」と「評価」の区別は、この比較という営みの中でも変わらない。

生物学的な違いを比較することはできても、その違いから人間としての優劣を結論づけることは、比較の範囲を超えた飛躍なのである。

このように、どの観点から比較するのかによって、見えてくる結論は大きく変わる。

ところがSNSでは、その基準が共有されないまま、

「比較できる。」

「比較できない。」

という言葉だけがぶつかり合っていた。

その結果、お互いが別の話をしているにもかかわらず、相手の主張そのものを否定しているような状況が生まれてしまった。

重要なのは、比較を禁止することではない。

比較をするのであれば、「何を比較しているのか」を明確にすることである。

生物学の話なのか。

法律の話なのか。

倫理の話なのか。

社会制度の話なのか。

その土台を共有しなければ、議論はすれ違い続ける。

そしてもう一つ、忘れてはならないことがある。

比較の対象となっているのは「概念」であって、「人間」ではない

ということである。

ある概念同士を比較・検討することは、学問や社会において必要な営みである。

しかし、その比較がいつの間にか、それぞれの当事者への人格評価や人格否定へと変わってしまえば、議論の目的は失われてしまう。

私たちが比較によって整理すべきなのは、概念や制度、倫理の違いであり、人の尊厳や価値そのものではないはずである。


 

第六章 私たちは誰を「同性愛者」だと思っているのか


「同性愛者」と聞いたとき、私たちはどのような人物を思い浮かべるだろうか。

派手な格好をした人。

テレビで活躍するタレント。

レインボーフラッグを掲げて活動する人。

あるいは、SNSで積極的に発信する人。

人によって思い浮かべる姿は様々だろう。

しかし、そのイメージは本当に「同性愛者全体」を表しているのだろうか。

実際には、自らの性的指向を周囲に話さず生活している人もいる。

結婚していないこと以外、特に周囲と変わらない生活を送る人もいる。

家族や友人にも打ち明けず、一生を過ごす人もいる。

職場や地域で、ごく普通に暮らしている人も少なくない。

つまり、私たちが日常で出会っている人の中にも、同性愛者はいるかもしれない。

しかし、そのことに気付いていないだけなのかもしれない。

一方で、社会の中で目立つ存在は、どうしても記憶に残りやすい。

人は印象の強い出来事ほど全体像だと思い込みやすい。

そのため、ごく一部の著名人や活動家の言動が、「同性愛者全体」のイメージとして受け取られてしまうことがある。

もちろん、積極的に発信すること自体が悪いわけではない。

社会を変えようと声を上げる人もいれば、静かに暮らしたいと願う人もいる。

そのどちらも、一人ひとり異なる生き方である。

それにもかかわらず、一部の人の言動だけを見て「同性愛者はこういう人たちだ」と考えてしまえば、私たちは現実の人間ではなく、自分の頭の中で作り上げたイメージを対象に議論していることになる。

これは同性愛に限った話ではない。

外国人、高齢者、教師、政治家、宗教者。

私たちは誰かを一つの集団として語るとき、知らず知らずのうちに一部の印象を全体へ広げてしまうことがある。

だからこそ、集団について議論するときほど、「自分が思い浮かべている人物像は、本当にその集団全体を表しているのだろうか」と問い直すことが重要なのではないだろうか。

議論の対象は、私たちが頭の中で作り上げたイメージではなく、現実に生きている一人ひとりの人間である。

そのことを忘れない限り、意見が異なっていても、互いの尊厳を守りながら対話を続けることはできるはずである。


 

第七章 多様性とは何か


「多様性」という言葉は、今や学校、企業、行政、メディアなど、様々な場面で使われている。

しかし、この言葉ほど、人によって受け取り方が異なるものも少ない。

ある人は、多様性とは「違いを認め合うこと」だと言う。

またある人は、「少数者を積極的に支援すること」だと考える。

さらに、「価値観そのものを変えていくこと」だと理解している人もいる。

このように、「多様性」という一つの言葉の中には、複数の意味が混在している。

だからこそ、「私は多様性に反対だ」「私は多様性を支持する」と言っても、互いに全く違うものを思い浮かべていることがある。

例えば、「同性婚という制度には慎重である」という意見を述べた人が、「多様性を否定している」と受け取られることがある。

一方で、「同性婚を認めるべきだ」という意見を述べた人が、「伝統を破壊しようとしている」と受け取られることもある。

しかし、それぞれの人が本当に否定しているものは何なのだろうか。

制度だろうか。

価値観だろうか。

それとも、人そのものだろうか。

この区別が曖昧なままでは、「多様性」という言葉だけが一人歩きし、議論はますます噛み合わなくなる。

本来、多様性とは「違いが存在する」という事実を表す言葉である。

そこから先、「その違いをどこまで制度として認めるのか」「どのような配慮が必要なのか」「他の権利とどう調整するのか」は、社会の中で議論し、合意を形成していくべき課題である。

つまり、「多様性がある」という事実と、「どのような社会制度を採用するか」という判断は、同じ問題ではない。

この二つを混同すれば、「違いの存在を認めること」と、「あらゆる制度変更に賛成すること」が同じ意味として語られてしまう。

しかし、その二つは本来、分けて考えることができる。

違いが存在することを認めながら、制度については慎重に議論することもできる。

反対に、制度改革に賛成しながらも、異なる意見を持つ人を尊重することもできる。

多様性とは、誰か一人の考え方を社会全体に広げる思想ではない。

互いの違いを認め、尊厳を守りながら共に生きるための考え方である。


 

第八章 傷つくのは誰なのか


同性愛をめぐる議論では、しばしば「言論の自由」と「差別」が対立する。

ある人は、「制度について議論しているだけだ」と言う。

またある人は、「その言葉によって傷ついた」と訴える。

どちらも、それぞれの立場から見れば真実なのだろう。

制度や法律について議論することは、民主社会において必要な営みである。

同性婚をどう考えるか。

教育はどうあるべきか。

公共施設のルールをどう設計するのか。

こうした問題について、多様な意見が交わされること自体は、社会にとって決して悪いことではない。

しかし、その議論の中で、いつの間にか制度ではなく、人そのものが否定されることがある。

逆に、人への配慮を重視するあまり、制度について議論すること自体が許されないような空気が生まれることもある。

そのどちらも、建設的な対話から私たちを遠ざけてしまう。

この記事では、「異常」という言葉を整理し、「子孫」という事実と価値判断を分け、「制度」と「尊厳」を区別し、「比較」の意味を確認し、「同性愛者」というイメージを問い直し、「多様性」という言葉の意味を整理してきた。

一貫して伝えたかったことは、一つである。

論点を分けることである。

事実と評価を分ける。

制度と人を分ける。

意見と人格を分ける。

この区別が失われたとき、私たちは相手の主張ではなく、相手自身を攻撃するようになる。

そして、その傷は、議論に勝ったか負けたかとは関係なく、人の心に残り続ける。

社会には、様々な価値観が存在する。

同性婚に賛成する人もいる。

慎重な立場の人もいる。

宗教的信念を持つ人もいれば、持たない人もいる。

その違いがなくなることは、おそらくないだろう。

だからこそ必要なのは、全員が同じ考えになることではない。

互いに異なる考えを持ちながらも、相手の尊厳だけは否定しないという姿勢ではないだろうか。

私たちは、制度を議論することができる。

価値観を議論することもできる。

しかし、人の尊厳そのものを議論の対象にしてはならない。

その一線を守ることができる社会であれば、意見が対立しても、対話は続けることができる。

そして、その対話こそが、多様な人々が共に生きる社会を支える土台になるのではないだろうか。

自戒を込めて いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻


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匿名さんのレビュー

元中学教員です。
書かれている内容から、どのような状況だったか、手に取るようにイメージできます。

「学校は何もしなかった」と安易にマスコミや世間は叩くけれど、じゃあ何ができたというのか。
自分たちが中学生の時、スマホやネットがなかった時代でさえ、「大人」が「中学生」を安易に理解できたか。「中学生」が「大人」に今日どこで何をしてどんなことがあったかを逐一報告したか。
自分たちの中学時代に置き換えて状況をもう少しでいいから想像して欲しい。
そこにスマホが加わることで、子供たちの世界はどれだけ大人から見えない物になってしまったか。
もう少し「中学生の今」を考えてみてほしい。

さらには、入学してきてたった数ヶ月の出来事。
生徒への理解、生徒同士の人間関係が少しずつ見えてきた矢先の事件であり、「いじめ」に相当する出来事のほとんどは学校外で起きていた。
教室内・学校内で起こっていたのであれば、学校・教師の責任を追及する声が上がっても仕方ない。
家庭に帰してからの出来事、さらには他校の生徒が絡んだ案件を、保護者すら把握できないのに、担任が、教員がどこまで即座に把握し、指導できるというのか。糾弾している人々にそのすべを教えてもらいたい。

もちろん、他校とも連携を取り、事実確認をしたり、それぞれ話をしたりはする。
一同に集めて話をするのは難しいし、さらにスマホの中での付き合いも加わると、人間関係が複雑で対応は困難を極める。
そこは本当に「学校の」責任の範疇なのか。
起きた事実が「いじめ」や「犯罪」かはさておき、放課後や夜間、休日に起きている出来事すら「学校・教師の責任」なのだろうか。

こんなにも多くの児童生徒が居場所を求めて公園に頻繁に長時間集まっていた。
その時点で保護者や地域にもできることはあったし、動くべきであった。
が、その責任は誰にも追及されない。

学校現場は、外部の方々が思っている何倍も、「トラブルの連続」である。
毎日のように何かしらのトラブルが起き、悩みを抱えた子がごまんといる。
そして、多感な成長過程にある子供たちは、常にそれぞれに課題を抱えている。

現場にいたとき、いつも子供たちに言ってきた。
「人と人とのトラブルは、0対100というケースはほとんどないんだよ。
向こうが全部悪い、私は悪くないと思ってるかもしれないけれど、自分にも何か問題がなかったか考えてみよう」
私は個人的に「限りなく0対100に近いケース」がいじめであると考えている。

本当に本当に悲しい事件だと思う。
しかし、残念ながら、似たような案件は、全国のあちこちに転がっている。
今回の被害者がそうであるかは私には分からないが、心に闇を抱える女の子の多くが、自らの性を、寂しさを解決する手段に使うケースを山ほど見てきた。
自分への興味関心を引き、誰かに求められる・必要とされる実感を得られる、最も分かりやすい「ツール」だからだ。
性の入口に立った中学生達は安易にそれに飛びつくし、特に勉強や部活への興味ややる気をなくし、目的や目標を持てずにいる子供たちにとっては、格好の娯楽となる。

「いじめだ!!」「学校の怠慢だ!!」と声高に叫び、介在した生徒・教員達を叩きまくることで何が生まれ、何が変わるというのか。
この件は、スマホ依存社会、同時に核家族化・共働き化が推し進んだ中で、そのすき間で危ういバランスの人間関係を保っている中学生なら、全国どこででも起こりえる事件だ。
表面化していないだけできっともう同じような事件はたくさん起きていると思う。
失われた尊い命を「無駄にしない」というのは、ただ誰かを叩き、吊るし、結果論で物を言うのではなく、その背景をしっかり理解し、原因や対応策を考え、さあやさんのように、寂しさや孤独を抱えた子供たちを救うこと。ただその一点にあると思う。

2024年6月30日 1:26 PM

匿名さんのレビュー

私も、入水後に入院した病院で治療を継続できなかったのか、ここがターニングポイントだったのかも?と思います。
児童デイや放課後デイは、家庭⇔学校⇔病院⇔福祉を繋ぎます
彼女特有の寂しさや人間関係の困難さ等のサポートが受けられる架け橋になれたはず。
この病院は、この点を指摘してました。
また、引っ越しや転校も彼女の気持ちからするともう少し慎重になれていたら、とも思います。
学校に弁護士を同伴して謝罪を受けられていたら、また入院費や引っ越し等の補償が出来ていたら、遺族はここまで執拗に先生や先輩を追い詰めなかったのか?遺族の本当の目的は何なのでしょう?私なら、売春させられていたとかレイプを受けた、と言われる方が娘の名誉の為に許せない行為ですが。そんな事を配信し続けるインフルエンサーには弁護士からの指摘はないですよね?
A子の「死ぬ気もないのに〜」って言う言葉も、受け取り方でこんなに変わってしまうなんて。A子にとっては、思い留めさせる為だった発言が彼女にとっては言って欲しくなかった一言。大人でも難しいなと思う出来事がまだ10代の子にダメ出しをする、そして死の責任まで言及する、ネットで名前も顔も出される、こんな世の中間違っている。
彼女の死で関係者の将来を潰す事、これが延長線で行われみんなが正義と信じ一致団結したように行われている事に吐き気がします。

2024年6月30日 7:53 PM

匿名さんのレビュー

子供に起こるさまざまな出来事。
起こった良いことを一緒に喜び、辛かったことを聞いて慰める役目を一番に担うべきなのは、子どもの変化に目を向け、小さな変化にも気付き、その原因を突き止めて解消するのは親の役目。

子どもの困りごとに寄り添い、その解消に繋がる道を模索するのも親の役目。
学校も行政も、親からのSOSを受け手助けをする1ピースでしか無い。

学校や行政のせいにし叩き続けている限り、いじめによる自死は無くならないだろう。

2024年6月30日 10:26 PM

学校とはさんのレビュー

再調査委員会の会見見ました。転校先の学校は前中学校でおきたいじめのフラッシュバックの対応までしなければならないのでしょうか。警察も学校もかなり高いレベルでの対応を要求されていますが、ひとりの生徒に対し無理だと感じました。学校の授業以外で校外やSNSを含めた対応を求められ、足りなかった場合は袋叩きに合うのであれば、誰も教員になれないと感じました。

2024年6月30日 11:44 PM

匿名さんのレビュー

発達障害の診断自体、専門医が少なく、予約して半年待ちはザラ。半年という時間は成長期の子供にとって貴重。思春期の二次障害については、受診できる病院が少ない。他県のものですが、これは全国的な課題だと思います。
15歳で思春期外来から精神科が受診先になることをみこした治療をすすめる。医師だけでなくコメディカルによるチーム医療ができる病院がよい。とスクールソーシャルワーカーをしている知人から聞いたことがあります。
遺族の手記が2つあり、文春本裏の30ページと、2021年8月18日公表3ページを読みましたが、いじめが起こる前後と学校側の対応のずさんさを強調した内容。
被害者にとっては小学校高学年から出現した特性ゆえの行動からの進級の選択、疲労につながる塾通い等の考慮、ネット依存状況の把握と離脱、なにより強く訴えている「さびしい」を受けとめてネット以外の心の安定につながる依存先を作っておくことだったと思います。この判断ができなかったという事では、母親にもこの時点で支援が必要だったと思います。
(実際のところはわかりませんが)
入院先での治療を継続すべきだったとのコメントが、ここまでに三人寄せられています。ここが転機だったでしょう。同感です。
再調査委員会最終報告は、自死といじめの因果関係を認めることで、被害者とさして年のかわらぬ子供達に、大人も背負うべきである責任を子供達に背負わす内容。代理人が誇らしげに全国モデルにと言ってたようですが、とんでもないことだと思います。なぜ死を選ぶほどつらい思いをしたのか。黒塗りなどせず公表し真実とむきあうことが、被害者の追悼です。

2024年7月2日 3:05 PM

匿名さんのレビュー

いじめ問題に関して被害者の発達障害について言及すると、
「発達障害を抱えているからっていじめられて良いというのか!」と批判する人が多い。
けれどそういう人達って、
発達障害を抱えている人達の生きづらさを理解しようとすらしていないし、発達障害に対して差別的な認識をしている。
そんな人達が被害者の事を理解せずに、自分の都合や当事者を蔑ろにした認識を押し付けるばかりで、
被害者だけでなく教師なども苦しめている事に目を向けない。

ふつざわさんは発達障害について言及しているけれど、
亡くなられた子が抱えていた特性に対して真摯に向き合っているからであって、そこには理解しようとする姿勢がある。
逆に、
彼を誹謗中傷している人達が、
理解されない事で苦しみ続けていた子に関して、
不都合な事実から目を逸らし続けるのは、
亡くなられた子が抱えていた苦しみを全く理解していないからとしか思えない。

私の場合、
私自身にそういう傾向があるからこそ、
当事者であるからこそ、
死にたくなるほど辛い思いをしてきた人の気持ちがわかる。
だからこそ、
亡くなられた子の等身大の人物像を隠蔽し、
自分達の都合の為に創り上げた虚像を掲げて、
更なる被害を生み出している連中に対して強い憤りを感じている。

イジメの有無ではなく、
「孤独(理解されない苦しみも含む)」こそが死に至らしめるほど心を苦しめる病であり、
衝動性がそれをより深刻な事態に発展させる要素。

2024年7月6日 7:10 AM

あるくむさんの応援メッセージ

世間の論調、それを形成したマスメディアの報じ方と実情がこれほどかけ離れていたことに、驚愕と強い反省を覚えます。昨日もマスメディアは詳細を伏せ、ヤフコメでは加害者晒しなどと全くの誤解憶測が飛び交ってます。とは言え昨日までの私の認識も大差ないものでした。恥ずかしいです。

真実はなぜ伏せられ続けたのか。遺族と協議して黒塗りしたという報道がなされていますが、その協議とは如何なる根拠で、いかなるプロセスで行われたのか。被害者と遺族の抱えた問題をプライバシー配慮という名の下に伏せたことは本当に正しいのか。それによって曲げられた真実は独り歩きして別の誰かを傷つける。社会課題を解決するふりをして、私たちは別の誰かに皺を寄せただけではないか。あなたの行為は多くの根本的な疑問を浮き彫りにしました。

自分も家族に精神障害者を抱えた当事者家族の立場から述べますが、全ての少年少女が障害や多様性を理解し対応できる日は来ないと思います。もちろん、そのための努力は尊いものですが、社会設計は理想や建前だけでは成立しない。そういう楽観論だけでいじめは無くならない。だからこそ本件は徹底した検証がなされるべきだと思いました。あなたが公開した行為の是非はともかく、行動を起こしたからには全ての経緯を公正な手段でつまびらかにしていただきたいと願います。メディアには、手記や告発レポートの形で切り取りしない全文を世に出す責任を果たしていただきたい。

2024年6月25日 6:11 AM

匿名さんからの応援メッセージ

公開してくれたんで、黒塗り版を作った人たちが何を隠したかったのか浮き彫りになると思う
後でゆっくり見させてもらいます、ありがとうございました

2024年6月25日 6:03 PM

匿名さんからの応援メッセージ

あなたは正義の味方です
これからも応援します

2024年6月25日 7:58 AM

匿名さんからの応援メッセージ

公開された正義感と勇気に敬服しました。
文春の記事のいい加減さに、あきれました。公開されなかったら、決して表に出てこなかった事実と感じます。
いじめと自死との関係性について、考えさせられました。
いじめを解決することで、自死を防ぐことができたか、疑問に感じるとともに、
結局、自死を防ぐ有効な手段が見当たらない(現在も)と感じました。

2024年6月25日 7:59 PM

匿名さんからの応援メッセージ

あれだけ大きく報じられ、全国からの問い合わせによって第三者委員会の調査が決まったのに、出来上がった報告書は黒塗りだらけで、なんだこれ?って思ったことを覚えています。
今回全てが読めて、リスク承知で公開してくれたことに、個人的にはありがとうございますと言いたいです

被害者の子が抱える、寂しさや、思春期と発達障害による特性の混ざりあった、お母さんとの衝突やクラスメートとの関わり方の悩み、自分を制御できないもどかしさ等、黒く塗られて知り得なかったことが知れ、どれほど辛かっただろう…と公表版の報告書を読んだ時よりも、より胸が痛みました
同時に、これらのことが何故隠されなければならなかったのか理解に苦しみます

また、ネットニュース等で悪の化身のような書かれかたをしていた校長先生はじめ教師の皆様が、なにも対応していなかったわけでは無かったと知ることができ、学校もすてたもんじゃないなとも思えました

AとBいう選択肢があって、Aを選択したのは間違いでBを選択すれば良かった(Bもするべきだった)
というような文言をよく目にしますが、AもBも選択していれば結果が違ったものになっていたかは誰にも解りません
現場の教師の方々は日々そういった選択を余儀なくされているのですから、むやみやたらに責めるのは辞めて欲しいです

調査報告書が誰かを責めるためのものではなく、起こってしまったことを次に生かすためのものでありますように
また、なるべく黒塗りのない状態で公表され、一人でも多くの人がいじめについて考えるものになりますように

2024年6月25日 10:45 PM

匿名さんからの応援メッセージ

テレビのニュースで見たので探してきました。
よくやった!感動した!!

2024年6月25日 11:35 PM

匿名さんからの応援メッセージ

これは大変勇気のいることだったでしょう。
それでもいじめとそれに関わる人間に立ち向かう姿に感動しました。

2024年6月26日 2:52 AM

匿名さんからの応援メッセージ

私は文春の記事を鵜呑みにして、学校の先生方を悪者と決めつけていました。
その事が恥ずかしいですし申し訳ない気持ちです。

学校の先生方はきちんと被害者に寄り添っていたと読み取れますし、
事実と異なる事を記事にされている加害少年達も一方で被害者と言えると思います。

一体誰のための何のための黒塗りだったのか。。

勇気を出して真実を公開して下さってありがとうございました。

2024年6月26日 8:35 AM

匿名さんからの応援メッセージ

あなたのYouTube Liveなどをよく拝見していました。
あの時、表立って言えないことがこんなにもあったのですね。
あなたの忍耐力に頭が下がります。

2024年6月28日 4:56 PM

匿名さんからの応援メッセージ

随分初期の頃から加害生徒とされる子・ご遺族の両方と繋がっておられたのですね
あなたがXで発信していたことの裏に様々な理由があったことを知りました
言葉が強かったり、一体何がしたいんだ…と思ったこともありましたが、理解できた気がします

2024年6月29日 8:04 PM

匿名さんからの応援メッセージ

2021年当時からふつざわさんの言葉を目にしており、自分なりに理解できたと思っていましたが
まだまだ知らなかった事ばかりで驚いています

いつの日だったか、あちらを立てるとこちらが立たなくなり悩むとどこかで言われていたように記憶しています

今回黒塗りなしの報告書を手にされて、相当悩まれたのではないかと想像しています

3年間見てきた中でこれだけは言えます

ふつざわさんは一貫して不当に叩かれている弱者の味方でした

これからも応援しております

2024年6月29日 8:35 PM

匿名希望さんからの応援メッセージ

黒塗り無しの報告書と内部告発を見て、事件の印象は全く変わりました。
いじめはあったものの、障害による特性と相まって起きた、事故に近い自死であったと認識しました。

加害児童と呼ばれる子達にも優しい面があり、何処にでも居る子供達なのだなと。

他にも知ってる嘘があれば告発してほしいです。
世論が変わるきっかけになると思います。

2024年6月30日 2:20 PM

匿名さんからの応援メッセージ

このサイトで今までの報道とは違う情報を知れてとても良かったです。
何があったのか、自殺だったのか家出だったのか、爽彩さんにしか分からない事ですが、苦悩を知り改善していく事が爽彩さんへの旭川市民として出来る誠意だと思っていました。
だから、某YouTuberに情報を提供した事もありました。
でも、彼は爽彩さんが売春させられていたとか加害児童と言われる子が暴力団と繋がっているとか、噂話をネットに流すだけ。
私にとっては、そんな証拠もない事をネットに流す事は爽彩さんの名誉を傷つける事、また爽彩さんへの誠意ではないと感じていました。
ただ、ネットでこのような意見を書けば加害児童の保護者か?と言われてしまうので。
一言言わせてください!
加害児童が何か今出ている情報よりもっと悪い事をしていても、あなた方の将来を潰していいとは思っていないし、爽彩さんもそんな事望んでいないと思っています。
あなた方が爽彩さんの事で反省や後悔をしていたら、他者に優しくしてあげてください。爽彩さんはきっと、それを望んでいますよ。
あなた方の将来を心配したり、少しでも健やかな毎日が送れる事を望んでいる旭川市民がいる事、お伝えしたかったです。

2024年7月1日 1:07 PM

いいじまさんからの応援メッセージ

自閉症スペクトラム障害の男児(8歳)父親です。
ウチの子もたまに「死にたい」とか衝動で飛び出したりします。

支援級や放課後等デイサービスに通って、今のところは協力いただきながらすくすくと育ってくれています。
成長すれば、色々と人間関係で出てくるかも知れません。

旭川事件は通りいっぺんの記事しか知りません。

ですが、
他人事とは思えず、大変勉強になりました。

ありがとうございます。

2024年7月1日 4:36 PM

匿名さんからの応援メッセージ

ふつざわさんの主張は、
発達障害を抱えている子が抱えていた本当の問題を理解しているからこそだと思うよ。

死にたくなるほど苦しんでいる子達に真剣に向き合ったことがない人達には分からないみたいだけれど、
孤独や理解されない苦しみこそが子供を死に至らしめる問題の本質だよ。

そもそも虐められても支えてくれる存在がいれば人は死を選ばない。

本件は、
支えるどころか自分達の都合を子供にも学校にも押し付けるばかりで、
子の認知を歪めに歪めて更に精神状態を悪化させた上に、
子供の孤立を更に深刻化させた人達が何故か被害者面し、
問題の解決に向き合っていた人達が不当に誹謗中傷されていることが問題。

2024年7月6日 9:33 AM

匿名さんからの応援メッセージ

「顔や名前が出てしまっているけど、遺族側から出てる情報だけでこんな状況おかしくないか?」と思っていても見て見ぬふりのいじめを続けていた私がいます
でも、ふつざわさんの話を見て考えが改まりました
ふつざわさんの話を一方的に信じているわけではなくて、爽彩さんが失踪したとの情報が出て以降、疑問に感じていた事がふつざわさんの話だと納得できる、一番辻褄が合うと感じたからです
だからって、今更私が声をあげても遅いのかも、見て見ぬふりをした時間は戻ってこない
爽彩さんの為にも、今 名前や顔を出てる人達の為にも、やっぱり私も動きます、ふつざわさんだけでなく私も。

2024年7月11日 3:04 PM

匿名さんからの応援メッセージ

陰ながら私も何か出来る事をしていきたいと思います。
優しい子ばかりが傷つくのは、もう嫌です…。

2024年7月14日 8:29 AM

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