目次
第二章 ひろゆきと堀江貴文──「積み重なりがあってこうなった」
第四章 岸政彦と青木秀光──「学術批判」の顔をした冷笑の構造
第一章 イジりは「言葉」ではなく「関係性」の中で経験される
「たった一言で傷つくなんて、大げさではないか。」
ハラスメントやいじめが話題になるたび、このような声が聞かれる。
確かに、問題となった発言だけを切り取れば、「その程度の冗談は誰でも言う」「少し軽口を叩いただけではないか」と感じることもあるだろう。
しかし、このような見方には一つの前提がある。
それは、人は一つ一つの発言を独立した出来事として評価している、という前提である。
果たして、本当にそうなのだろうか。
湯川やよい氏は、アカデミック・ハラスメントをめぐる質的研究の中で、学生がハラスメントを認識する過程を分析している。
その結論は興味深い。
学生が「被害」と認識した出来事は、
それ単独で存在するのではなく、多忙化した教員との距離、研究室内での扱いの変化、教員同士の対立、不文律など
日常に埋め込まれたさまざまな文脈が積み重なることで教員への信頼が失われ、その結果として初めて「ハラスメント被害」として認識される
というのである。
つまり、受け手が経験しているのは、一つの言葉ではない。
その言葉を発した相手との関係そのものなのである。
論文の事例でも、学生は当初、指導教員を尊敬し、「一緒に研究している」という実感を持っていた。
その頃には、不満を感じる出来事があっても、それを当然のこととして受け入れていた。
しかし、教員との信頼関係が少しずつ崩れていく中で、それまで気にならなかった出来事までもが、「利用されていた」という意味を持ち始める。
そして、最終的には過去数年間の経験全体を「アカデミック・ハラスメントだった」と理解するようになる。
ここで重要なのは、「以前は問題ではなかったこと」が、信頼関係の変化によって新たな意味を帯びるという点である。
この視点は、イジりや冗談、軽口について考える際にも示唆を与えてくれる。
たとえば、ある軽口を発した本人は、「いつも通りの冗談だった」と考えているかもしれない。
しかし受け手は、それを過去のやり取りや立場の違い、周囲の反応などを含めた関係性全体の中で受け止めている可能性がある。
つまり、話し手は一回の発言を見ているのに対し、受け手はその人との関係全体を見ているのである。
この認識の違いは、「そんなつもりではなかった」と「もう限界だった」という、互いに噛み合わない主張を生み出す。
湯川氏はまた、従来のハラスメント研究が個々の言動や被害の類型に注目する傾向があったのに対し、本当に重要なのは被害がどのような背景文脈の中で形成されるのかを理解することだと指摘している。
本稿も同じ立場を採りたい。
本稿の目的は、「この発言はアウトか」「この冗談はセーフか」という境界線を引くことではない。
むしろ、イジり・冗談・軽口が、どのような関係性の中で、どのように加害性を帯びていくのかという形成過程を考察することである。
以下では、この視点から三つの事例を検討する。
第一に、ひろゆき氏と堀江貴文氏。
第二に、東浩紀氏と宇野常寛氏。
第三に、岸政彦氏と青木秀光氏をめぐる議論である。


三つの事例の事実関係はそれぞれ異なる。
共通して見られるコミュニケーションの構造を比較することで、イジり・冗談・軽口が、どのような条件のもとで加害性を帯びるのかを考えてみたい。
第二章 ひろゆきと堀江貴文──「積み重なりがあってこうなった」
第一章では、人は個々の言葉を独立した出来事として経験するのではなく、相手との関係性や、それまでのやり取りの積み重ねの中で意味づけている可能性について述べた。
この視点を考える上で興味深いのが、ひろゆき氏と堀江貴文氏をめぐる事例である。
両者の関係が話題となった際、ひろゆき氏はテレビ番組で次のように語っている。
「ぼく、一言多いんですよね。積み重なりがあってこうなった。」
「餃子屋の話が最後だけど、もともと堀江さんの体型いじりとかめちゃくちゃやってた。」
「体型(イジリ)に関しては謝ればよかったと思ってます。」
この発言で注目すべきなのは、ひろゆき氏自身が、問題の原因を一つの出来事には求めていないことである。
一般には、両者の対立は「餃子店騒動」が決定的なきっかけとして語られることが多い。
しかし、ひろゆき氏は「餃子屋の話が最後」と述べ、その前から体型いじりを繰り返していたことを認めている。
つまり、餃子店騒動は、それまで続いてきたコミュニケーションの延長線上に位置付けられているのである。
実際に過去のSNS上のやり取りを見ると、この説明と一致する経過が確認できる。
2019年の投稿では、体型に関する第三者の揶揄を本人に向け、その反応を「個人的クライマックス」と表現している。
「堀江さんのことブタとかってディスる人がいるじゃないですか。」
これを、堀江さんことホリエモンに言って反応を見れたのが個人的クライマックス。(ひろゆき氏のツイート/2019年10月27日)

少なくとも、この投稿では、相手の反応そのものがコミュニケーションの一部として語られていることがうかがえる。
2020年には、「シャトーブリアン」と書かれたパーカーを着た堀江氏に対し、「ヒレ肉って書いてある服を着てるぽっちゃりの人が来たら、おいら笑っちゃう気がする」と投稿している。
「ヒレ肉」って書いてある服を着てるぽっちゃりの人が来たら、おいら笑っちゃう気がするんですが、ジョークってことでいいんですよね。。
chateaubriand=シャトーブリアン=ヒレ肉 https://x.com/takapon_jp/sta/takapon_jp/status/1335425952340344832(ひろゆき氏のツイート/2020年12月7日)

さらに2021年にも、「堀江さんのほうが、食べられる部分多いよ!」という体型を連想させる軽口を投稿している。
堀江さんのほうが、食べられる部分多いよ!(ひろゆき氏のツイート/2021年3月10日)

これらの投稿は、それぞれ単独で見れば「冗談」や「軽口」と受け止める人もいるだろう。
しかし、第一章で述べた視点に立つならば、重要なのは個々の発言の強弱ではない。
同種のイジりが、同じ相手に対して繰り返されていたという事実である。
ここで注目したいのは、ひろゆき氏の反省の内容である。
サンスポ ひろゆき氏、絶縁宣言のホリエモンに謝罪「ぼく、一言多いんですよね」
サイゾーウーマン ひろゆき氏、『グッとラック!』でホリエモンの“体形イジリ”を謝罪! 「口のうまいデブ」と語った過去
もし問題が餃子店騒動だけだったのであれば、ひろゆき氏はその出来事についてのみ振り返ったはずである。
しかし実際には、「餃子屋さんに関しては謝ることはない」としつつも、「体型(イジリ)に関しては謝ればよかった」と述べている。
もちろん、この説明が問題の全体像をどの程度反映しているのかについては、さまざまな見方があり得る。
しかし、ここで着目したいのは、ひろゆき氏自身が、問題を「単発の出来事」ではなく「積み重なり」として説明している点だ。
少なくとも当事者の認識においては、問題は一つの発言ではなく、継続的なコミュニケーションの中で形成されたものとして理解されているのである。
一方で、堀江氏は別の番組で、両者の関係が悪化した理由について「餃子事件ですね」と述べている。
ABEMA TIMES 坂上忍、「ひろゆきさんと仲が悪いんですか?」堀江貴文に直球質問
しかし、その説明は単に一件の出来事を指摘するだけでは終わらない。
続けて堀江氏は、「僕を小馬鹿にして喜んでいるというのが彼(ひろゆき)の生き方なんで」と語り、「僕に限らずですけど、まわりの人たちを適当にいじりながら小馬鹿にすることによってみんなが喜ぶ」と述べている。
そして、自身については「俺そういうタイプじゃないんで」と説明している。
興味深いのは、両者は問題の説明の仕方こそ異なるものの、どちらも一回限りの出来事だけではなく、それ以前から続いてきたコミュニケーションに言及している点である。
ただし、発信者(ひろゆき氏)側は「個別論点(餃子屋の問題)」と「関係性の歴史(体型イジり)」を切り離して評価できると思っているのに対し、受信者(堀江氏)側は「体型イジりも含めた長年の軽視(小馬鹿にする態度)」の積み重ねとして餃子屋事件を捉えていることがうかがえる。
いずれにしても双方の発言からは、餃子店騒動という単独の出来事だけで関係悪化のすべてを説明できるわけではない、という認識が共通して読み取れる。
尚、ひろゆき氏は、その後も堀江氏の体型について言及を続けている。
2022年12月、BreakingDownで堀江氏と試合をする可能性について問われた際、「体重差があるので、堀江さんが体重を下げていただければ」と発言している。
集英社オンライン BreakingDownで「ホリエモンVSひろゆき」が実現!? 「堀江さんに体重を下げていただければ…」
この発言は格闘技における体重差という文脈で語られたものであり、直ちに体型イジりと評価できるものではない。
しかし、堀江氏からすれば、「客観的な事実(格闘技のルール)の顔をしながら、またしても公の場で体形というコンプレックス領域に触れられた」と感じ得る言及だった。
この事例は、「イジり」の加害性が、一つの発言だけによって決まるものではなく、相手との関係性や、それまでの経験の蓄積の中で形成され得ることを示唆している。
ひろゆき・堀江事例は、一見すると単発のトラブルに見える出来事の背後に、長年の『イジりの蓄積』が存在するという構造であった。
次章で扱う東浩紀氏と宇野常寛氏の事例では、この関係性の蓄積に加えて、それを囲むコミュニティの『身内ノリ』がどのように加害性を増幅させていくのかを検討したい。
第三章 東浩紀と宇野常寛──「身内ノリ」と雑な扱いの構造
前章のひろゆき氏と堀江貴文氏の事例では、個人間で蓄積されたイジりの歴史が、あるひとつの出来事をきっかけに破綻する構造を見た。
しかし、イジりや軽口が真に深刻な加害性を帯びるのは、それが先輩・後輩や業界内の権力勾配(ポジションの違い)を背景にしつつ、「身内ノリ」として消費される場合である。
その典型的な事例として、批評家の東浩紀氏と宇野常寛氏をめぐる一連のコミュニケーションが挙げられる。
両者の関係性には、主導権を握る東氏側の振る舞いを「愛着」や「内輪のプロレス」として処理してしまう構造があった。
1 権力勾配と「存在の軽視」──呼び出し放置ツイート
東氏による宇野氏への「扱いの雑さ」を最も象徴しているのが、日常的なコミュニケーションにおける相手へのリスペクト(尊重)の欠如である。
東氏はかつて、夜遅くに宇野氏を街中に呼び出しておきながら、そのこと自体を失念して放置し、後から到着した宇野氏に対して悪態をついたというエピソードを、自らSNS上で次のように明かしていた。
そーいえばこのあいだ、宇野を午後11時くらいに飲み会に呼び出して、忘れて30分ぐらい交差点で放置してたなあ。そろそろ店移るかとかいうときになって、携帯見たら10個ぐらい連続で「宇野常寛」から着信が入ってて、「なにこれ、キモ……ああ呼び出したんだっけ」とか思ったのだった。(東浩紀氏のツイート/2011年2月13日)

このわずか数行の投稿には、両者の間に存在した圧倒的に不均衡な関係性と、東氏側の罪悪感の欠如が明確に表れている。
先輩であり業界の牽引者である東氏から夜の11時に「呼び出されれば」、当時若手であった宇野氏は断りにくく、指定された交差点へ赴かざるを得ない。
しかし、呼び出した当本人は約束を忘れて放置してしまったことを反省するどころか、着信履歴を見て「なにこれキモい」と思ったなどと回想してみせる。
発言した側(東氏)にとっては、「後輩を雑に弄ったクスッと笑える思い出話」や「愛着のあるコミュニケーション」のつもりだったのかもしれない。
しかし、呼び出されて交差点で待たされた側(宇野氏)から見れば、自らの時間も尊厳も軽視され、都合よく振り回された挙句に公衆の面前で嘲笑されたという「加害体験」に他ならない。
こうした日常的な「雑な扱い」の積み重ねこそが、受け手側に逃げ場のない屈屈感と不信感を蓄積させていくのである。
2 トラブル時の「雑な処理」と責任転嫁
東氏による宇野氏への「扱いの雑さ」が断絶を決定づけたのは、からかいの域を超え、自らの問題や失言の矛先を宇野氏側に向けた(責任転嫁した)事件であった。
2011年6月、ネット上に東氏と宇野氏の非公式な対談テキストが出回り、同時に周囲の論客の年収に関するデマなどが紛争化した際、東氏は当初、その原因やテキストの漏洩元を「宇野氏または宇野氏のシンパによる捏造・嫌がらせ」であるかのように疑う振る舞いを見せた。
ああーこれ一部会話「一字一句」現実だから関係者だね。だれかなw 宇野かもしれないなw 参ったなあ。ははは。RT
@Takuma_zumi
:
@hazuma
東 「知ってる?黒瀬が俺に言ったの。「カオスラウンジのメンバーの一人は年収7000万なんですよ」」(東浩紀氏のツイート/2011年6月9日)

これ見ると、妙に宇野くんがいい奴キャラに描かれているので、1.2010年前半に東浩紀界隈に出入りしていたやつで、2.宇野にシンパをもっているやつが、この架空会話を書いたことは確定。さてだれだろうw ほとんど特定できるな、これは。 http://deck.ly/~836WZ(東浩紀氏のツイート/2011年6月9日)

実際には、それは過去に東氏自身がUSTREAMなどの配信で口にした発言(現実の音声)が元になっていたことが第三者から指摘されるのだが、この局面で宇野氏側の名誉や感情は著しく軽視されていた。
宇野氏は当時のTwitterで、激しい困惑と憤りを露わにしている。
これ、さすがに酷くないか? 東さんが自分のUST発言を文字おこしされ、その内容が問題になると「宇野もしくは宇野シンパの捏造」ってことにして回避しようとした模様。http://bit.ly/lq7Ceu USTの存在を覚えていた読者が突っ込んでくれたからいいようなものを……。(宇野常寛氏のツイート/2011年6月9日)

この流れって、証拠のUST録画を突きつけられなかったら、自分の発言を本気で僕(及びその友人筋)のせいにして押し通すつもりだったってことだよな……。さすがにショック……。(宇野常寛氏のツイート/2011年6月9日)

悲しくて、情けなくて涙が出てくる。べっこり凹んできた。(宇野常寛氏のツイート/2011年6月9日)

もういろいろうんざりだな。しばらくツイッターは告知だけにします。(宇野常寛氏のツイート/2011年6月9日)

とはいえ、こういう局面では宇野君は決して自分の意志を曲げないと思いますので、ぼくとしては、1.まったく宇野批判の意図なし、そもそもそういう文脈でなし、2.謝罪の必要もあるとはとても思えない、だけ言って終わりとしますー。(東浩紀氏のツイート/2011年6月9日)

この出来事は、東氏の「相手への配慮の欠如」を象徴している。
自身の立場や発言が窮地に陥った際、長年「身内ノリ」で弄ってきた後輩を第一に疑い、スケープゴートにするかのような態度をとってしまう。
宇野氏側から見れば、日頃から「プロレス」という名目のもとで過剰なイジりやホモネタなどに耐えさせられてきた挙げ句、トラブルが起きれば「犯人扱い」までされたことになる。
これは単なる言葉のすれ違いではなく、人間としての尊重を欠いた「雑な扱い」の蓄積に他ならなかった。
3 「プロレス」と「蓄積された苦痛」の非対称性
後年、両者の関係が完全に途絶えた後も、この「認識の非対称性」は解消されていない。東氏は自身のSNSで次のように困惑を語っている。
ぼくは宇野某については、1.「評論は社会と接続する必要がある」とか言って先行世代ボロクソに言ってたたくせに震災に大して反応できていないので呆れ、2.さらに「東浩紀にいじめられてる」と言っているから「おまえそもそもおれの悪口言ってデビューしたくせになに言ってんの?」と思ってるだけ。(東浩紀氏のツイート/2011年6月12日)

震災があって40歳を迎えて、若手言論人総結集だとか、AとBが喧嘩して云々だとか、そういった「論壇プロレス」の世界がほとほといやになりました。そういうのから無縁のところで、本質的なことだけを、でもアカデミズムに閉じ籠もらないでやっていきたい。今度のチェルブイリ本はその回答です。(東浩紀氏のツイート/2013年5月24日)

宇野常寛さんとその一派は、もうこの10年ほど、東浩紀という名前を出すことすらしない。ぼくはいなかったことになっている。(東浩紀氏のツイート/2025年6月4日)

東氏の視点においては、かつてのやり取りは「若手とともに言論界を盛り上げた過激なエンターテインメント(内輪のノリ)」であり、なぜ相手がこれほどまでに自分を頑なに拒絶し続け、過去の扱いを「ハラスメント」や「いじめ」のように受け止めているのかが理解できない。
しかし、第一章で確認したハラスメントの形成構造に照らし合わせれば、このギャップの理由は明快である。
東氏: 自身の権威や影響力を自覚せず、「好意やノリの一環」として相手を雑に扱い、都合が悪くなると「内輪の冗談」や「プロレス」として片付けようとする。
宇野氏: 立場上拒絶しにくい空間で雑に扱われ続けた経験が積層し、最終的に「自己の尊厳を害された」として関係そのものを遮断せざるを得なくなった。
ひろゆき・堀江事例が「時間軸におけるイジりの蓄積」を示したとすれば、東・宇野事例が突きつけるのは、「立場上の優位性に胡坐をかいた雑な扱いが、身内ノリという名の暴力へと変質する構造」である。
相手を対等なパートナーではなく「都合のいいイジられ役」として雑に扱い続ける限り、発信者がどれほどそこに「愛着」を主張しようとも、それは受け手にとってただの積層する抑圧でしかないのだ。







第四章 岸政彦と青木秀光──「学術批判」の顔をした冷笑の構造
前章の東浩紀氏と宇野常寛氏の事例では、先輩と後輩という権力勾配のもとで「雑な扱い」が重ねられ、それが身内ノリとして消費されることで破綻に至る構造を見た。
第四章で取り上げるのは、社会学者岸政彦氏の「ライフストーリー研究を採用する研究者」に対する発言である。
この事例を考察する際、まず明確にしておかなければならない前提がある。
それは、『岸政彦はライフストーリー研究を否定していたのか―ライフストーリー研究・対話的構築主義・アカハラ告発を公開資料から検証する―』で指摘した通り、岸氏は、ライフストーリー研究という手法そのものを全面的に否定しているわけではないという点である。
では、ここで何が問題となるのか。
それは、学術的な議論という領域を超えて、特定の研究手法を採用する研究者に対し、SNSや身内の空間で「ジョーク」や「軽口」の体をとった小馬鹿にする発言(イジり)を重ねるコミュニケーションである。
1 「ジョーク」の体をとった冷笑とレッテル貼り
岸氏は自身のFacebook等において、ライフストーリー、対話的構築主義、エスノグラフィーなどの研究手法を採用する研究者を冷笑する投稿を行っていた。
「『シエリア神戸元町』が叶えるライフストーリー」貴様も「ライフストーリー派」か………!?関係ないけど場所めっっっちゃいいな。買おうかな…… でもライフストーリー派だしな…(岸政彦氏の投稿)

しかしいつも思うけどライフストーリーとか構築主義とか会話分析とかやってるやつより普通に計量やってるひとのほうが話通じるよな。ほんま「方法論ドリブン」要らんなあ。現象学とか何なん。Analytical Ethnographyって分析社会学と関係ないねんな。関係あるのもあるな。「現象学的再帰的エスノグラフィー」とかほんま要らんな。いつの時代の話やねんな(岸政彦氏の投稿)

マンションの広告コピーを引いて、ライフストーリー研究を採用する研究者を揶揄したり、ライフストーリー研究を含む「特定の研究」を採用する研究者を暗に「話が通じない人達」として分類し小馬鹿にするスタイルは、一見すると、「同業者に向けたフランクな独り言」や「軽妙なジョーク」のように見えなくもない。
しかし、ここで行われているのは、論文や著書を通じた具体的な内容への学術的批判ではない。
「~派」というレッテル貼りや、「話が通じない」「要らん」といった「対話の拒絶を伴う嘲笑(イジり)」である。
これに対し、青木秀光氏は次のように憤りを露わにしている。
「ジョーク」のように見せつつ分断を煽る。レッテルを貼る。学者の仲間うちでこんな投稿を繰り返す。ライフストーリーを採用する院生を辞めさせて楽しいですか?(青木秀光氏のツイート/2026年5月19日)

また、自身の目撃証言を交えながら、こうも訴えている。
わざわざ「ライフストーリーを採用している論文を読んでいると不快」、「エスノ(メソッドロジー)がつまらない」、「構築主義はダメ」、「桜井薄し(笑)」とか色々な人が見える場所で言う必要ありますか? 他にもスクショ撮ってありますが。何がしたいんでしょうか。これに、いいねをつけている人も。(青木秀光氏のツイート/2025年4月24日)

2 「ジョークを発する側」と「生存がかかる側」の非対称性
この構図においても、発信者側と受け手側の「認識の非対称性」が顕著に表れている。
発信者側(岸氏): 権力や知名度を持つ立場からすれば、SNSでの発言は「仲間のうちでの軽い投稿」や「ジョーク」の域を出ない。ライフストーリー研究そのものを全否定しているわけではなく、単なるノリや呟きとして処理される。
受け手側(青木氏や若手研究者): その手法を信じて研究に励む大学院生や若手研究者にとっては、学界の有力者が「~やってるやつは話が通じない」「要らん」と公然と冷笑し、それに周囲が「いいね!」をつけて盛り上がっている構図そのものが、自らの研究者生命や存在意義を脅かす「構造的なハラスメント」として体験される。
第一章で見た湯川氏のアカデミック・ハラスメント研究が示すように、受け手が受ける被害体験は単発の言動だけで決まるものではない。「誰が」「どのような立場で」「周囲の文脈の中で」発言しているかという背景を含めて形成される。
教授層や有名著者が「ジョーク」として消費する言葉が、立場の弱い院生や若手研究者にとっては「踏み絵」や「抑圧」として機能してしまうのである。
3 コミュニケーションの構造を見る
この事例から私たちが学ぶべきなのは、「ライフストーリー研究のどちらの立場が正しいか」という学説の正誤に捉われない思考法である。
世間の関心は往々にして、「岸氏の主張に理があるのか」「青木氏の抗議が妥当か」といった個人の道徳や主張の真偽へ向けられやすい。
しかし、本稿が可視化したいのは、その前段階にある「『ジョーク』や『身内のノリ』として発せられる冷笑が、特定の人物を排斥するイジりへと変質する構造」である。
知識人や影響力を持つ者が、「〇〇派は話が通じない」と小馬鹿にし、閲覧者がそれに「いいね」で同調する。
その瞬間、健全な論争や対話は途絶し、権力を持つ側による「ノリを装った排斥」へと変質してしまう。
ひろゆき・堀江事例が「時間軸の積層」、東・宇野事例が「身内ノリと雑な扱い」を示したとすれば、岸・青木事例が突きつけるのは、「『ジョーク』の顔をした冷笑が、立場の弱い者に逃げ場のない圧迫感を与える構造」である。
発信者がどれほど「冗談だ」「そんなつもりではない」と主張しようとも、立場や影響力の非対称性が存在する空間での冷笑的なイジりは、権力を持たない者にとっては、逃れられない圧力として作用し得るのである。
第五章 イジりの構造
ここまで本稿では、三つの具体的事例を通じて、イジりや軽口、冗談がどのようにして人間関係を侵食し、決定的な断絶や被害体験へと変質していくのかを見てきた。
ひろゆき氏と堀江貴文氏の事例(第二章)では、発信者側が「個別の問題(餃子事件)と体型イジり」を切り離して評価しようとするのに対し、受け手側は「長年にわたる小馬鹿にする態度の積層」として一体的に捉えるという視点の不一致を見た。
東浩紀氏と宇野常寛氏の事例(第三章)では、先輩と後輩、主催者と参加者という立場上の優位性に胡坐をかいた「雑な扱い」が、「身内ノリ」という空気の中で肯定・固定化されていく構造を見た。
そして岸政彦氏と青木秀光氏の事例(第四章)では、発信者側の「ジョークや独り言」という認識と、受け手側(若手・院生)の「研究者生命や生存がかかる切実さ」との間に存在する、非対称性を見た。
これらの事例に共通しているのは、個人の「悪性」や「道徳観の欠如」だけで問題が起きているのではない、という点である。
では、なぜ「イジり」はこれほどまでに容易に加害性を帯び、当事者同士の会話を平行線にさせてしまうのだろうか。
本章では、これまで抽出してきた要素を整理し、「イジり」が対立と断絶を生み出す四つの構造的メカニズムとして理論化したい。
1 時間軸の非対称性──「点」で見る発信者と「線」で見る受け手
第一の構造は、イジりを評価する「時間軸」のズレである。
発言した側(イジる側)は、自分が発した個々の言葉を「単発の出来事(点)」として捉える傾向が強い。
「さっきの冗談」「あの一言」「その場のノリ」として消費し、事態が問題化した際も、「あの一言のどこがアウトだったのか」という局所的な事実判定に終始しようとする。
しかし、受け手(イジられる側)が経験しているのは、過去のやり取りや立場の違い、日頃の相手の態度が含まれた「積層された歴史(線)」である。
湯川やよい氏の研究が示す通り、受け手が感じる苦痛や不信感は、単一の発言によって生じるのではなく、日常に埋め込まれた小さな無軽視やイジりが積み重なることで形成される。
そのため、発信者が「あの件については謝る」「あれは冗談だった」と単発処理(切り離し)を試みても、受け手にとっては「これまでの不当な扱い全体」に対する回答になっていないため、納得に至らない。
この「点」と「線」の不一致こそが、「そんなつもりではなかった」と「もう限界だった」という噛み合わない対立の根本にある。
2 空間と観客の非対称性──「身内ノリ」という抑圧
第二の構造は、「観客(ギャラリー)」の存在が与える非対称性である。
イジりがパブリックな空間(SNS、ネット配信、職場、イベント会場など)で行われるとき、そこには必ず「観客」が発生する。
そして、イジる側が影響力や権力を持っている場合、その場には「身内ノリ」と呼ばれる強力な同調圧力が形成される。
観客がイジりに対して笑い、「いいね!」を押し、あるいは沈黙して受け入れるとき、その空間では「このノリは合意されている」という擬似的な承認が作り出される。
この状況下において、イジられる側は二重の抑圧に晒される。
イジりそのものによる尊厳の毀損に加え、「拒絶すれば場の空気を壊す」「ノリの悪い奴だと批判される」という恐怖から、嫌であっても笑ってやり過ごす(迎合する)ことを強要されるのである。
発信者はその「笑い」や「反論がないこと」を「合意(受け入れられた)」と勝手に解釈するが、実際には権力と観客の存在によって「拒絶の選択肢を奪われている」に過ぎない。
3 立場とリスクの非対称性──「ジョーク」と「生存」
第三の構造は、発言によって生じる「リスク」の決定的な格差である。
業界や組織において権力、知名度、地位を持つ側にとって、後輩や立場の下の者を弄る行為は、コストの低い「エンターテインメント」や「軽い独り言」に過ぎない。
しかし、立場が弱く、権力者との関係性に依存せざるを得ない受け手(若手、院生、部下など)にとって、そのイジりや冷笑は、自らの立場や研究者生命、キャリアそのものを脅かす「生存の問題」へと直結する。
発信者が「たかがジョーク」として発した言葉が、受け手にとっては「踏み絵」や「存在否定」として機能する。
このリスクの非対称性を自覚しないまま発せられる軽口は、どれほどそこに「好意」や「親愛」を主張しようとも、構造的な暴力として作用してしまう。
第六章 「被害者化」の逆転と戦略的被害者化の問題
ここまで見てきたように、イジりや身内ノリ、権力勾配を背景とした軽口は、日常のコミュニケーションの中に静かに潜み、時間軸の積層や観客の存在によって決定的な断絶を引き起こす。
しかし、この問題の複雑さは、単に「影響力のある側(加害者)が、立場の弱い側(被害者)を一方的に抑圧して終わる」という一面的な構造だけには留まらない。
関係性が破綻した局面、あるいは対立が公の場に顕在化した局面において生じる、もう一つの重要な問題が存在する。
それが、「被害者化」の逆転と戦略的被害者化の問題である。
1 「被害者化」の逆転
長年積層したイジりや雑な扱いによって関係が破綻したとき、あるいは受け手側が耐えかねて拒絶や告発に踏み切ったとき、発信者(イジっていた側)が突如として「被害者」のポーズをとることがある。
「急に態度を変えられた」
「自分ばかりが悪者にされている」
イジっていた側は、自らが長年にわたって構築してきた「雑な扱い」や「権力の不均衡」という背景構造を無意識に切り捨て、目の前で起きた「相手からの拒絶や抗議」という単発の事実だけを捉えて、「自分が不当に攻撃された」と認識してしまう。
このように、抑圧の背景を隠蔽したまま、拒絶されたという事実だけを切り取って「被害者」を装う構造を、本稿では「被害者化の逆転」と呼ぶ。
これにより、長年抑圧に耐えて抗議の声を上げた側が、最後には「頑なで不誠実な存在」「突然過敏に攻撃してきた存在」として排斥されるという、二重の不利益を被ることになる。
2 戦略的被害者化
一方で、この現象をより複雑にしているのは、反対に受け手側、あるいは対立する当事者が「被害者」という立場を戦略的に利用・最大化するケースが存在するという点である。
現代の言論空間やSNS上のコミュニケーションにおいて、「被害者」というポジションは、倫理的に批判しにくい強大な「免罪符」や「攻撃の正当性」を獲得しやすい。
この構造を自覚的・非自覚的に悪用するのが「戦略的被害者化」である。
対立が生じた際、自らの側に不都合や過失があったり、あるいは対等な議論の場において論理的に劣勢に立たされた際、過去の些細な「イジり」や「行き違い」を過剰に拡大・再定義し、「自分こそが絶対的な被害者である」という物語を後付けで構築する行為が発生する。
このとき、「被害者ポジション」は以下の二つの強力な武器として機能する。
自らの過失や問責の回避(非難回避):「私は傷つけられた被害者なのだから、私の過去のミスや不誠実さを責めることは二次加害である」という論法により、本来向き合うべき責任や議論から逃走する。
相手への過剰な攻撃と排除の正当化(過剰処罰):「被害者」という倫理的優位性に立つことで、相手を社会的に抹殺したり、一方的に対話を打ち切ったりする過剰な攻撃行為に「正当な報復」という名目を与える。
当時は互いに了解・容認していた(あるいは自ら進んで乗っていた)「ノリ」であっても、後に関係が悪化した瞬間、過去の全履歴が「最初から不当な抑圧・加害であった」と都合よく書き換えられ、相手を叩くための矛として振るわれるのである。
3 「被害者性」の可視化と悪用の挟間で
もちろん、ここで強調しておかなければならないのは、「本物のハラスメント被害」と「でっち上げられた戦略的被害」を同列に扱って被害訴えそのものを冷笑してはならないということである。
実体として不当なイジりやハラスメントに苦しんできた者が、救済や尊厳の回復を求めて被害を訴えることは当然の権利であり、保障されなければならない。
しかし同時に、「被害者」という立場そのものが強力な権力・武器として機能する現代において、その立場を後付けで獲得し、自己の保身や相手の攻撃・排除のために利用する「戦略的被害者化」という罠もまた、確かに存在する。
「被害者化の逆転」によって真の被害者が二重に傷つけられる構造と、「戦略的被害者化」によって「被害者」という言葉そのものが武器化される構造。
この双方が同時に存在しているからこそ、私たちは単に「どちらが被害者を名乗っているか」「どちらが可哀想か」という感情的な被害者レース(どちらがより傷ついたかの競い合い)に引きずられてはならない。
対人トラブルやハラスメントを分析する際には、「加害者/被害者」という安易な二元論のレッテル貼りを一度保留し、「どのような言動(事実)があり」「どのようなコンテキスト(歴史・関係性)でそれが生じ」「双方どのような不均衡や要求を抱えているのか」を冷徹に切り分けて検証する態度が求められるのである。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻




















































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