はじめに
私は長い間、いじめ問題に取り組んできた。
学生、保護者、先生の相談に乗り、助言をし、学校との交渉を行ない、記事を書き、動画を配信し、多くの人と議論した。
そして、その過程で、一人では多くの人に考えを届けられないことを理解した。
だから、グループを作った。
多くの人と出会い、助けられた。
彼ら彼女らの話を聞き、自分語りをして、共に笑ったこともある。
オフ会も楽しかった。
私は、人との出会いそのものを否定したいわけではない。
しかし、挫折を繰り返す度に、私は一つの現実に直面した。
社会問題を解決するために集まったはずなのに、少しずつ人間関係の方が大きなテーマになっていく。
誰が誰と仲が良いのか。
誰がリーダーに近いのか。
誰が評価されているのか。
恋愛感情、嫉妬、承認欲求、派閥意識、立場への不安、不満、渇望。
もちろん、それらは人間として自然な感情なのだろう。
私も人間である以上、例外ではない。
しかし、私にはどうしても理解できなかった。
目的と手段の優先順位だけは、変えてほしくなかった。
私は人間関係を否定したいわけではない。
むしろ、社会活動に人間関係が生まれることは自然なことだと思っている。
ただ、それは活動の副産物であってほしかった。
今回は、私自身が社会活動を通して学んだことを書いてみたいと思う。
社会活動とは何なのか。
人はなぜ理念より人間関係を優先してしまうのか。
社会は本当に変わるのか。
そして、私はなぜ今でも記事を書き続けているのか。
目次
第一章 一人では多くの人に考えを伝えることはできない
私は、人を集めること自体に興味があったわけではない。
有名になりたかったわけでもない。
大きな組織を作りたかったわけでもない。
私が求めていたのは、ただ一つ。
いじめ問題を少しでも良い方向へ動かしたい。
そのための手段として、仲間が必要だった。
記事を書き、動画を配信し、多くの人と議論する中で、痛感したことがある。
一人の発信には限界がある。
どれほど時間をかけて記事を書いても、どれほど正しいと思うことを発信しても、一人の声は簡単に埋もれてしまう。
だから私は、同じ理念を持つ仲間が必要だと思った。
一人が十人になれば、十人が拡散してくれる。
十人が百人になれば、百人が拡散してくれる。
そうやって少しずつ社会に影響を与えられるのではないか。
そう考えた。
もちろん、人数を増やすこと自体が目的ではない。
目的は、あくまでも、個別のいじめ事案の収束といじめ問題の解決だった。
グループも、人脈も、当事者以外の人との出会いは全て、そのための手段にすぎない。
当時の私は、その目的を共有できる人たちが集まれば、自然と同じ方向へ歩いていけるものだと信じていた。
しかし、それは、あまりにも楽観的な態度だった。
人は、同じ場所に集まっていても、同じ目的で集まっているとは限らない。
そのことを、私は活動を続ける中で少しずつ知ることになる。
第二章 人は同じ目的で集まらない
活動を続ける中で、私は一つのことに気付いた。
それは、同じグループに所属していても、人それぞれ活動に参加する理由は違うということだ。
もちろん、いじめ問題に関心を持って参加してくれた人も多かった。
しかし、それだけではなかった。
誰かは仲間を求めていた。
誰かは自分の居場所を求めていた。
誰かは承認されることを求めていた。
誰かは人との出会いを求めていた。
誰かは恋愛を求めていた。
そして、中には影響力や強い立場を求める人もいた。
私は、それらの動機自体を否定したいわけではない。
人は皆、それぞれの人生を生きている。
社会活動に参加する理由が一つだけである必要もない。
実際、私自身も多くの仲間と出会い、支えられ、楽しい時間を過ごした。
活動を通じて人間関係が生まれることは、ごく自然なことなのだと思う。
しかし、活動を続けるうちに、私の中で一つの違和感が大きくなっていった。
目的と手段の優先順位が、少しずつ入れ替わっていくのである。
私にとって、グループやコミュニティは、個別の事案やいじめ問題を解決するための手段でしかなかった。
ところが、私が作ったグループやコミュニティーでは、人間関係そのものが活動の目的になっていく人が少なくなかった。
個別のいじめ事案よりも、人間関係。
いじめ問題よりも、自分の立場。
理念よりも、自分がどう評価されているか。
もちろん、そうした変化は一夜にして起こるわけではない。
最初は皆、「力になりたい」と言う。
しかし、時間が経ち、人との関わりが増え、コミュニティの中に自分の居場所ができるにつれて、少しずつ重心が変わっていく。
その変化は、とても静かで、本人も気付いていないことが多い。
だから私は、彼ら彼女らの姿勢が変わっていく様を見ながらも、それを直ぐに咎めることはしなかった。
人間とは、そういう生き物なのかもしれないと思ったからだ。
ただ一つ、私は最後まで変えられなかった考えがある。
「人間関係は大切である。しかし、それは目的ではなく、副産物であってほしい。」
その優先順位だけは、最後まで守りたかった。
第三章 コミュニティは人を変えていく
私は、最初から今のような考えを持っていたわけではない。
グループを作った当初は、同じ理念を共有する人たちが集まれば、互いに刺激を受け合い、より良い活動ができると思っていた。
実際、最初は皆、個別事案の情報収集にも、分析にも、熱心だった。
社会問題としてのいじめ問題についても、少しずつ関心を持ち、意見を交わし、知識を共有し、それぞれが自分にできることを模索していた時もある。
いじめ防止対策推進法の本を買って、勉強してくれた人もいた。
しかし、人は環境の影響を受ける。
コミュニティの中に居場所ができる。
気の合う仲間ができる。
自分を評価してくれる人が現れる。
すると、人の関心は少しずつ広がっていく。
活動だけではなく、コミュニティそのものにも価値を見いだすようになるのである。
それ自体は、ごく自然なことなのだと思う。
人は社会的な生き物であり、人とのつながりを求める。
だから、社会活動の中で友情や信頼関係が生まれることは、むしろ健全なことなのかもしれない。
しかし、その変化には、一つの落とし穴がある。
コミュニティが大切になるほど、「活動のためにコミュニティがある」という考えから「コミュニティのために活動する」という発想へと、少しずつ重心が移ってしまうことがあるのだ。
それは、誰かが悪意を持って起こすものではない。
人が集まり、関係が深まり、一つの集団ができれば、ごく自然に起こり得る変化なのだろう。
だから私は、彼ら彼女らを責めたいとは思わない。
ただ、社会活動で最も難しいのは、解決法を見つけることではなく、理念よりも人間関係を優先したくなる、人間のか弱い心と向き合い続けることだと、思い知らされた。
第四章 理念の中にも競争は生まれる
活動を続ける中で、私はもう一つ、不思議に思うことがあった。
社会問題を解決するために集まったはずなのに、なぜ人はコミュニティの中で競争を始めるのだろうか。
私は長い間、その理由が分からなかった。
社会活動には、給料があるわけではない。
役職手当もない。
利益を分配する仕組みもない。
会社のように出世を競う理由もない。
それなのに、人は競争する。
最初は「力になりたい」と言っていた人が、いつの間にか「誰が評価されているのか」を気にし始める。
「誰がリーダーに近いのか。」
「誰が一番信頼されているのか。」
「誰の意見が採用されるのか。」
そうしたことが、少しずつ重要になっていく。
私は、それが不思議で仕方なかった。
しかし、今になって思えば、人はお金だけで動いているわけではない。
人には、承認されたいという欲求がある。
必要とされたい。
感謝されたい。
尊敬されたい。
誰かに認められたい。
その欲求は、ときに金銭以上の価値を持つ。
社会活動には、お金という報酬はない。
しかし、その代わりに「承認」という非常に強い報酬が存在している。
誰かから「ありがとうございます」と言われる。
「あなたがいて助かった」と言われる。
リーダーから信頼される。
皆の前で名前を挙げられる。
それだけで、人は満たされることがある。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
人は誰でも認められたい。
必要とされたい。
社会的な生き物である以上、それはごく自然な感情なのだと思う。
問題は、その承認が活動の目的になってしまうことである。
最初は、「いじめ問題を何とかしたい」という思いで集まったはずだった。
しかし、コミュニティが大きくなり、人間関係が深まり、居場所ができるにつれて、少しずつ重心が変わっていく。
「社会問題を解決したい。」
という思いよりも、
「この場所を失いたくない。」
「この人たちから認められたい。」
「ここで必要とされたい。」
という気持ちの方が大きくなっていく。
その変化は、とても静かで、本人も気付いていないことが多い。
私は、それを何度も見てきた。
さらに、人が集団を作ると、もう一つの変化が起きる。
集団には、必ず序列が生まれる。
これは、社会活動に限った話ではない。
学校でも、会社でも、部活動でも、趣味のサークルでも同じである。
影響力のある人。
相談される人。
情報が集まる人。
場の空気を作る人。
いつの間にか、目には見えない序列ができあがっていく。
そして、その序列は、人間関係を通して維持される。
人は、自分より上の立場の人に近付きたい。
評価されたい。
仲間になりたい。
逆に、自分の立場を脅かす存在には警戒心を抱く。
共通の敵を作れば、仲間との結束は強くなる。
同じ人物の悪口を言えば、一体感は生まれる。
噂話は、人間関係を強化する最も簡単な道具になる。
だから、陰口や派閥は、どこの集団でも自然と生まれてしまう。
私は、こうした現象を目の当たりにするたびに思った。
理念とは、こんなにも簡単に人間関係へ飲み込まれてしまうものなのか、と。
もちろん、それは悪意だけでは説明できない。
人は孤独を恐れる。
人は居場所を失うことを恐れる。
人は仲間から外されることを恐れる。
だから、人間関係を守ろうとする。
その気持ちは、とても自然なものなのだろう。
しかし、その自然さこそが、社会活動を最も難しくしている。
理念は、人を集める。
しかし、人が集まると、人間関係が生まれる。
人間関係が生まれると、承認欲求が生まれる。
承認欲求は、やがて競争を生む。
そして、その競争は、少しずつ理念そのものを飲み込んでいく。
私が社会活動の中で最も恐ろしいと感じたのは、悪意ではない。
誰もが持っている、ごく自然な感情が、少しずつ理念を侵食していく、その過程だった。
競争の現れ方には、ある傾向があった。
もちろん、全ての人に当てはまる話ではない。
性別だけで説明できるものでもない。
育った環境や性格、年齢、文化など、様々な要因が重なった結果なのだと思う。
しかし、それでも何度も同じような光景を目にした。
男性は、最初はとても謙虚だった。
「力になりたい。」
「この活動を自分にやらせてほしい。」
「普津澤さんのために何かしたい。」
そう言ってくれた。
ところが、時間が経つにつれ、少しずつ立場を意識し始める。
リーダーの隣に立ちたい。
心理的な距離を縮めたい。
影響力を持ちたい。
他のメンバーより評価されたい。
そして、トップの責任を負わずに周囲から重要人物として扱って貰える「ナンバー2」のような立場を演じ始める。
最初はリーダーを支える。
やがてリーダーを代弁する。
それに飽きると、今度は、リーダーの近くにいる人の失敗をあげつらい、大袈裟に騒ぎ立て、追い出し、自分の影響力を高めようとする。
そして最後は、自分こそが組織を動かしているかのように振る舞う。
私は、その姿を何度も見てきた。
長い間、不思議だった。
そこまで影響力を持ちたいのであれば、「自分ならもっとうまくできる」「自分ならもっと人を集められる」と思うのであれば、なぜ自分で新しいグループを作らないのだろう。
なぜ他人が作ったグループやその権限を盗もうとするのだろう。
対象が会社なら理解できる。
金が絡むからだ。
しかし、この種のグループはそうではない。
扱っているのは、無料の調査、無料の発信、無料の助言といったサービス(奉仕)であり、そこに宿っているのも、信念や志といった精神的なものに過ぎない。
だから、腑に落ちなかった。
精神的なものに価値を見出す社会活動の領域で、なぜ、他人の褌で相撲を取るような真似をするのか?
それで何かを成し遂げた気になれるのか?
その闘争には一体どんな意味や価値があるのか?
自分の理念で人を集めればいい。
自分の責任で活動すればいい。
しかし、多くの人はそうしなかった。
今になって思えば、それも一つの合理的な選択だったのかもしれない。
何年もかけて築かれた信頼。
積み重ねられた実績。
人脈。
ブランド。
支持者。
それらは、一から作るには膨大な時間と労力がかかる。
しかし、既に人が集まっている場所で王座を獲得することができれば、その多くを、はるかに少ない労力で、手に入れることができる。
自分で畑を耕すより、実った畑に入る方が早い。
「王座を狙う心理」だ。
それは「打算」という人間の自然な心理といえる。
社会活動だからといって、人間の本質が変わるわけではない。
会社、学校、地域、趣味のサークルで起きることは、社会活動のグループでも起きる。
一方で、女性には別の競争が見られた。
王座を目指すというより、宮廷での立場を強くしようとするのである。
誰がリーダーに近いのか。
誰が一番信頼されているのか。
誰と誰が親しいのか。
誰が特別なのか。
誰の評価で空気が変わるのか。
肩書きではなく、人間関係そのものが力になる。
「この人に嫌われると居づらくなる」
「この人を通さないと情報が入らない」
「みんなこの人に相談する」
「この人が誰かを評価すると空気が変わる」
そういう危機感を持って立ち回っていた。
だから、攻撃も正面からではない。
評判を落とす。
仲間から遠ざける。
情報を止める。
空気を変える。
直接戦うのではなく、関係性を動かすことで、自分の立場を守ろうとする。
私には、その姿が、まるで王宮で自らの立場を強化しようとする宮廷政治のように見えた。
もちろん、これは私が経験したコミュニティで繰り返し見られた傾向であり、全ての男性や女性に当てはまるものではない。
しかし、男性にも女性にも共通していたことが一つある。
それは、どちらも、個別事案の解決よりも、いじめ問題よりも、あるいは理念よりも、
コミュニティの中での自分の立ち位置を強く意識して、「種の存続」をかけた独自の競争をしていた
ということである。
私は、そこで初めて気付いた。
社会活動は、個別事案や社会問題だけを扱っているわけではない。
そこには、人間が持つ承認欲求も、恋愛感情も、嫉妬も、孤独も、劣等感も、支配欲も、そのまま持ち込まれる。
理念だけを持って集まる人間など、ほとんど存在しない。
人は、社会問題を解決したいと思うと同時に、自分も満たされたいと思っている。
その二つは、本来なら両立できる。
しかし、ときに後者が前者を飲み込む。
理念は、承認を得るための道具になる。
理念は、恋愛のきっかけになる。
理念は、地位を得るための手段になる。
そして最後には、理念を守るためではなく、自分の立場を守るために理念が利用されるようになる。
私は、この構造こそが、社会活動が繰り返し失敗する最大の理由なのではないかと思うようになった。
社会問題は、人間関係の外側にあるものではない。
社会問題を解決しようとする集団そのものが、人間という生き物の欲求によって、少しずつ形を変えてしまうのである。
私は、この現実を受け入れるまでに、とても長い時間がかかった。
第五章 優先順位を問い続けること
私は、何もしなかったわけではない。
陰口を禁止した。
派閥を作らないよう呼び掛けた。
何か問題があれば、本人のいないところで話すのではなく、直接話し合うようお願いした。
活動の目的も、何度も確認した。
「私たちは、いじめ問題を考えるために集まったのであって、人間関係を楽しむために集まったわけではない。」
そう繰り返し伝え続けた。
理屈を無視して感情をごり押しする者には、活動を守るため、厳しい対応を取ることもあった。
しかし、それでも同じような問題は繰り返された。
ルールや圧力は一定の効果があったかも知れない。
しかし、人の心まで変えることはできなかった。
立場を求める気持ち。
認められたいという気持ち。
仲間を失いたくないという気持ち。
嫉妬や不安。
復讐心。
そうした感情は、ルールで禁止できるものではない。
圧力をかけることによって消えて無くなるものでもない。
私は、そのことを痛感した。
考えてみれば、それは当然なのかもしれない。
法律や強制力は、人の行動を規制または制止することはできる。
しかし、人の感情や価値観まで変えることはできない。
学校の校則も、会社の就業規則も、法律も同じである。
人は、ルールに従って行動を変えることはあっても、心の中まで同じように変わるわけではない。
だからこそ、社会活動において最も難しいのは、ルールを作ることではない。
理念を共有し続けることでもない。
一人ひとりが、自分自身の目的や動機と向き合い、その優先順位を問い続けることなのだと思う。
そのことに気付いたとき、私は初めて、社会活動とは個別事案の当事者だけではなく、その当事者を取り巻く群衆とも向き合わなければならない活動なのだと理解した。
彼ら(群衆)は、その当事者を見守り、評価し、時に利用しようとする存在でもあるからだ。
第六章 しかし、人は変われない
こうした経験を重ねるうちに、私は一つの結論にたどり着いた。
人は変われない。
もちろん、制度は変わる。
法律も変わる。
学校の対応も変わるだろう。
つまり、システムという意味での「社会」は変えることができる。
しかし、多様な人間の集まりという意味での「社会」は、簡単には変わらない。
人は、法律や校則が変われば行動を変える。
罰則が強くなれば、それを避けるために行動を変える。
周囲の目が厳しくなれば、表面上の振る舞いも変わる。
しかし、それは感情や価値観、人間の根本的な欲求まで変わったことを意味するわけではない。
承認されたい。
仲間を求めたい。
地位を得たい。
自分を正当化したい。
友達や恋人が欲しい。
他人の幸せが許せない。
そうした欲求や嫉妬は、社会活動のグループだけでなく、会社でも、学校でも、地域でも、どこへ行っても現れる。
私は、それを何度も見てきた。
だから、「人は変われる」という言葉を、以前のように素直に信じることはできなくなった。
人には、それぞれ生まれ持った資質がある。
さらに、出生順位、家庭環境、教育、生い立ちなど、自分では選べない条件もある。
容姿や身体能力にも残酷な格差がある。
知能指数も同様だ。
その現実は知能分布にも表れている。
人生は、そうした本人の努力だけでは左右できない条件の影響を強く受ける。
そして、こうした資質や環境の違いは、その人の物事の捉え方や道徳観にも影響を与えることがある。
だから、いじめはいけないと言いながら加害者として名指しされた子供たちを吊るし上げてネットリンチをしてしまう人たちがいる。
だから、ぶっ飛んだ陰謀論を考えてしまう人達がいる。
成りあがったふりをしても根っこは変わらない。
幼少期に健全な人間関係や規範を身につける機会に恵まれなかった人は、立場を得ても、年齢を重ねても、過去に身につけた対人パターンを繰り返しやすい。
その結果、卑劣な手法を使うことへの心理的な抵抗も弱くなりやすい。
そして、それを「権利行使」だと思い込んでいる節がある。
詐欺的な手法で情報弱者を騙している時も、その相手を私刑まがいの手法で追及している時も、それを「権利」だと思い込んでいる傾向が見られる。
また、「自分は変わった」「人は変われる」という必死のアピールをしている時は、単なる願望や詐欺の土壌を作る思惑が滲み出ていることが多いように思う。
ネットリンチに加担しながら社会活動をする市議やインフルエンサー達も、その種の人間の気質や思惑を示唆している。
人の性根は変わらない。
その背後には、一度踏み外した者を救い直せない社会の構造や、幼少期の環境という過酷な現実がある。
努力によって変えられるものはあるかも知れない。
しかし、その努力の仕方や、何を求め、何を大切にするのかという傾向まで含めて、人は簡単には変わらないように思う。
刑法犯検挙人員に占める再犯者の割合が47%に上り、刑務所を出所した者の34%が5年以内に再び入所しているという法務省の統計(法務省『犯罪白書(令和6年版)』)も、この残酷な現実を表している。
それは彼らだけのせいではない。
彼らは、社会の事情によって切り捨てられた被害者という側面もある。
しかし、それでも、人は変われない。
それが、私が社会活動を通してたどり着いた結論である。
年を重ねた者ほど変わらない。変われない。
ただ、一つだけ例外がある。
私は、子供には可能性があると信じている。
人の対人パターンの多くが幼少期に形づくられるのだとすれば、それは同時に、幼少期こそが人生の中で最も可塑性の高い時期だということでもある。
ここでいう「可塑性」とは、性格や能力、人との関わり方が、環境や経験によって変化し得る柔軟性のことである。
だからこそ、私は子供には可能性があると信じている。
大人は簡単には変わらない。
しかし、子供は違う。
子供は、子供だけは、愛情を受けることで、変わる可能性がある。
安心できる居場所があり、否定されず、自分らしく生きられる環境があれば、未来は大きく変わるかもしれない。
第七章 それでも目の前の人を救う価値はある
人は変わらない。
社会も、劇的には変わらない。
そう考えるようになったからといって、目の前の困っている人を放っておいていいとは思わない。
一人の子供が苦しんでいる。
一人の保護者が学校とのやり取りに疲弊している。
一人の教師が、誰にも相談できずに抱え込んでいる。
そういう人が目の前にいるのであれば、助けられる範囲で助ける価値はある。
私は今でも、そう思っている。
社会全体を変えられなくても、一つの事案を収束させることはできるかもしれない。
全てのいじめをなくせなくても、一人の子供が明日学校へ行けるようになるかもしれない。
制度そのものを変えられなくても、一人の保護者が孤立せずに済むかもしれない。
その一つ一つには、十分な意味がある。
しかし、ここにも現実がある。
この種の活動は、続ければ続けるほど、活動する側が消耗する。
時間を使う。
金を使う。
精神力を使う。
批判を受ける。
誤解される。
恨まれる。
巻き込まれる。
そして、一定の解決をしても、必ずしも感謝されるわけではない。
むしろ、関わったことで新たな問題を背負うことすらある。
社会活動は、善意だけでは続かない。
私は、そのことも痛感した。
目の前の一人を救うことには価値がある。
しかし、その価値ある行為を続けるための仕組みがなければ、活動する側が先に壊れる。
それでは持続可能とは言えない。
だから、多くの人は長く関わらない。
ニュースを見て怒る。
SNSで「ひどい」と書く。
漫画や映画を観て、涙を流し、正義感や悲しみを清算する。
そして、日常へ戻っていく。
私は、それを責めるつもりはない。
人には生活がある。
家族がいる。
仕事がある。
自分の人生を守らなければならない。
むしろ、それが普通なのだと思う。
社会問題に長く関わり続ける方が、ある意味では不自然なのかもしれない。
それでも、目の前で困っている人を見たとき、私は完全に無視することができなかった。
大きな社会を救えるとは思わない。
人間そのものを変えられるとも思わない。
しかし、目の前の一人なら、何かできるかもしれない。
だから私は、社会活動に夢を見なくなった今でも、目の前の人を救うことには価値があると思っている。
ただし、その価値と、活動を続けることができるかどうかは、別の問題なのである。
第八章 私が社会活動から学んだこと
私は、この活動を通して、多くのものを失った。
時間も使った。
お金も使った。
人間関係も失った。
期待も失った。
そして、「人は変われる」という希望も持てなくなった。
しかし、それ以上に、多くのことを学んだ。
人は、同じ目的では集まらないこと。
コミュニティは、人を変えていくこと。
理念の中にも競争は生まれること。
ルールでは、人の感情や動機までは変えられないこと。
そして、人は簡単には変われないということ。
それらは、決して悲しい発見ばかりではなかった。
私は、人間を少しだけ理解できるようになった気がしている。
人は弱い。
人は感情に流される。
人は承認されたい。
人は孤独を恐れる。
だから、人間関係を優先してしまう。
それは、誰か一人が悪いのではない。
人間という生き物が持っている、ごく自然な性質なのだと思う。
だから私は、もう社会活動に過度な期待はしない。
一つのグループが社会を変えるとも思わない。
一人のカリスマが世界を変えるとも思わない。
それでも、記事を書く意味はあると思っている。
なぜなら、記事には派閥がない。
嫉妬もない。
恋愛もない。
立場を巡る争いもない。
私は、目の前にいる誰かを支配したいわけではない。
誰かの上に立ちたいわけでもない。
ただ、自分が見てきた現実と、そこから考えたことを残したいだけである。
この文章を読んで、一人でも立ち止まって考えてくれる人がいるのであれば、それで十分だ。
私は今、社会を変えたいから記事を書いているのではない。
人は簡単には変わらないという現実を知った上で、それでも考えることをやめたくないから書いている。
見て見ぬふりをしたくないから書いている。
そして何より、自分自身が、その現実を追認する側の人間になりたくないから書いている。
それが、私が社会活動から学んだことであり、これからも記事を書き続ける理由である。
おわりに
この記事を書きながら、私は何度も過去を思い返した。
もっと違うやり方があったのではないか。
もっと人を見る目があれば、違う結果になっていたのではないか。
そんなことも考えた。
しかし、今になって思う。
あの経験があったからこそ、人間という存在について深く考えることができたのだと。
私は、社会活動に失敗したのかもしれない。
少なくとも、自分が思い描いていた理想の形にはならなかった。
だからといって、私は悲観しているわけではない。
人間が変わりにくいのであれば、その現実を前提に社会を考えればよい。
人間関係が理念を揺るがすのであれば、そのことを忘れずに活動すればよい。
そして、子供には未来を変える可能性があるのであれば、その可能性を守ればよい。
社会活動とは、社会を劇的に変えることではないのかもしれない。
人間という生き物を理解し、その限界を受け入れながら、それでも目の前で困っている人に手を差し伸べること。
私は今、そのように考えている。
これからも、社会はすぐには変わらないだろう。
人も簡単には変わらないだろう。
それでも私は、見て見ぬふりはしたくない。
一人でも考えてくれる人が増えることを願いながら、これからも記事を書き続けていこうと思う。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻























































普津澤さんの記事を読むのが日課です(◍•ᴗ•◍)
ありがとうございます!
日課にして頂けてとっても嬉しいです笑
これからも「読んでよかった」と思ってもらえる記事を書けるよう頑張ります( ´꒳` )
人は変わらないという部分についての私なりの考えを書かせていただきます
人の根っこや幹の部分は変わらないでしょう。そこが変わったら別人になってしまうので
ただし根っこは変わらなくても新しい枝を伸ばすことはできる
だけど根っこや幹に比べれば細く頼りないものだから、意識しないとすぐに枯れてしまって元の形に戻ってしまう
その枝を成長させることができれば変わったと言えると思います
ところが細い枝を育てるよりも幹や根を大きく太くする方が簡単で楽なので、なかなか上手くはいかず多くの人が変われないという結果になってしまうのではないかと
余談ですがふつざわさんはそれをしつづけている人なのだと感じました
分かりづらかったらごめんなさい笑
これからも記事を読んで思うことがあればコメントしたいと思います
コメントありがとうございます!
言いたいことは何となく分かるのですが、まだ分からないところがあります。
匿名さんの仰る「新しい枝」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。
私は、根や幹が変わらないのであれば、そこから生えてくる枝は、本質的には同じ性質を持った枝だと考えています。
知識を得たり、経験を積んだり、社会的な立場が変わったりすることで、枝の伸びる方向や見た目は変わるかもしれません。
しかし、私は、それを「新しいもの」とは考えません。
例えば、同じ承認欲求でも、その満たし方が問題行動から社会活動に変わることはあります。
支配の方法が暴力から言葉や権力に変わることもあります。
洗脳する方法が精神攻撃から寄り添いに変わることもあります。
それらは行動としては大きな変化ですが、その人の本質(目的、価値観、人格など)が変わったとは言えない。
私が記事で「人は変われない」と書いたのは、まさにその部分についてです。
なので、匿名さんが何をもって「新しい枝」と考えているのか、聞いてみたいです。
基本的には私も根っこや幹の部分(本質や価値観)については変わらないと思っています
枝というのは知識を得たり経験を積んだりして元々の自分の考え方などにプラスアルファされ変化した考え方やものごとの捉え方のことです
この記事でいえば
理由はあれど一人で行っていた活動をグループでやってみたことは経験から得た新しい試みです
そして問題が起こる度に解決しようとしていたように読み取れます
それが私の書いた新しい枝であり枝を成長させようとする努力です
目的を共有できる人たちが集まれば自然と同じ方向へ歩いていけるものだと信じていたけれど、人間という生き物の欲求によって少しずつ形を変えてしまうことに気づき受け入れた
これは新たな価値観です
そういったものを無駄だったと切り捨てずその学びから向き合い方を変えればいいという結論に達していることを成長した新しい枝だと思いました
大きな意味では変わってみえないかもしれないけれど
自分の中で新しい価値観を生み出しているという面においては変われたいえるのではないかと思ったので
ふつざわさんはそれをしつづけている人なのだと感じましたと書きました
そして皆がそれをできるようになれば社会は少し変わるのかも知れないと思いました
1時間以上考えて書いた文章ですが読み返すと酷い文章ですね笑
自分の言いたいことが伝わるビジョンが見えませんが置いておきます笑
文章化するのって難しいです
丁寧に説明してくださってありがとうございます。
「新しい枝」の意味は分かりました。
おそらく私との違いは、「変わる」という言葉をどこまでの変化に使うか、なのだと思います。
確かに私は、経験によって知識を得たり、それまでとは違う物事の捉え方や対処法を身につけたりしました。
ただ、それは「新しい価値観を生み出した」ということではありません。
例えば、私は以前から「成人している仲間達との関係より目的(いじめられている子供や成人した当事者を助ける)を優先する」という価値観を持っていて、その価値観自体は今も変わっていません。
変わったのは、「なぜ他の人はそうならないのか」という人間に対する認識です。
人間関係を優先してしまう人を見て、以前は「なぜ目的と手段を間違えるのだろう」と理解できなかった。
それが経験を重ねることで、「人間とはそういう欲求を持った生き物なのだ」と理解するようになった。
私にとってこれは、自分の根や幹から「異なる性質の枝(新たな価値観)」が生えたということではなく、経験によって世界をより正確に認識できるようになった、というものに過ぎません。
どんなに知識を増やし、経験を積んでも、トリカブトの根や幹から生えてくるのはトリカブトの枝です。
ドクゼリの根や幹から生えてくるのはドクゼリの枝です。
その枝は以前とは違う方向へ伸びるかもしれない。
剪定され、形を変えることもあるかもしれない。
しかし、そこに桜や薔薇の花が咲くわけではありません。
枝が増え、伸びていくことは「成長」と呼べるでしょう。
しかし、その成長は「別の性質のものに変わった」ことを意味する訳ではありません。
どんなに成長しようとトリカブトはトリカブト。
ドクゼリはドクゼリのままです。
ただし、私は幼い苗の段階は少し違うと考えています。
まだ根が十分に張らず、幹も枝も固まっていない時期であれば、どんな土で育てるのか、どれだけ水や光を与えるのか、どの方向へ枝を伸ばすのかによって、その後の育ち方は大きく変わります。
成長しきった木の太い幹を曲げることは不可能です。
しかし、まだ柔らかい苗木なら、その成長する方向に働きかけることができる。
だから私は、大人は変われないけれど、子供には大きな可能性があると考えています。
私が記事で「人は変われない」と書きながら、同時に「子供には可能性がある」と書いたのは、そういう意味です。