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弱さと限界を認めろ――努力と我慢だけでは問題は拗れる/いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻


はじめに

「努力すれば変われる」

「我慢すれば乗り越えられる」

「諦めなければ、いつかできるようになる」

私たちは、子供の頃から、こうした言葉を何度も聞かされてきた。

そして、私自身、様々な場面で、努力や我慢をしてきた。

だから、努力することや我慢することを否定するつもりはない。

できなかったことが、努力によってできるようになることはある。

苦手だったことが、経験を重ねることで得意になることもある。

嫌なことから逃げず、我慢して続けたからこそ見える景色もある。

だから、簡単に諦めればいいとは思わない。

特に子供は、自分に何ができるのか、自分の限界がどこにあるのかを、まだ十分に知らない。

「嫌だからやらない」

「苦手だからやらない」

「自分には向いていない」

そう言って、最初から楽な方ばかりを選んでいたら、本当はできたはずのことまで、できないまま大人になってしまうかもしれない。

人は、挑戦することで自分の可能性を知る。

失敗することで自分の弱さを知る。

努力することで、自分がどこまで成長できるのかを知る。

だから、挑戦も、努力も、時には我慢も必要だ。

しかし、それでもできないことはある。

何度挑戦しても、うまくできない。

努力しても、人並みには届かない。

我慢を続けても、苦しさが消えない。

工夫を重ねても、同じところで躓いてしまう。

そんなときまで、

「努力が足りない」

「もっと我慢しろ」

「諦めるな」

と言い続けることは、正しいだろうか。

人には、それぞれ違った資質がある。

得意なことも違えば、苦手なことも違う。

性格も、知能も、身体能力も違う。

出生順位や育った環境も違う。

そして、人にはそれぞれ、弱さがあり、限界がある。

それを認めることは、敗北ではない。

もちろん、

「私はこういう人間だから仕方がない」

と開き直り、他人に迷惑をかけていいという話でもない。

社会には自分以外の人間がいる。

学校にも、会社にも、家庭にもルールがあり、秩序がある。

自分の事情だけを理由に、周囲にすべてを受け入れてもらうことはできない。

だからこそ必要なのは、努力か諦めかという二択ではないのだと思う。

まず挑戦する。

努力する。

必要なら我慢もする。

工夫する。

それでも残る弱さや限界があるなら、それを認める。

そして、その弱さによって自分や他人を傷つけないために、環境を変え、距離を調整し、助けを求め、事情を説明しながら生きていく。

自分を別の人間に作り替えようとするのではなく、自分という人間の扱い方を覚えていく。

今回は、「努力すれば変われる」という言葉の陰で見落とされがちな、人間の弱さと限界について考えてみたい。

弱さと限界を認めることは、諦めることなのか。

努力と我慢は、どこまで必要なのか。

個人の事情と、社会の秩序をどう両立させればいいのか。

そして、変えられないものがあるとしたら、私たちはそれとどう付き合って生きていけばいいのか。

そんなことを考えてみたい。


目次

第一章 知識や行動は変化するが、性根は変わらない

第二章 努力は万能ではない

第三章 我慢は問題を解決しているとは限らない

第四章 「弱さを認めろ」が人を弱くすることもある

第五章 弱さを認めることは、開き直ることではない

第六章 自分の取扱説明書を作る

第七章 環境を変えることは逃げではない

第八章 「できない」と「やらない」を区別する

第九章 他人の限界を自分の物差しで測らない

第十章 他人の限界をどう見極めるか

第十一章 弱さと限界を認めることは、諦めることではない

おわりに 


 

第一章 知識や行動は変化するが、性根は変わらない


人は変われない。

「人は成長できない」という意味ではない。

知識を得ることはできる。

経験から学ぶこともできる。

訓練によって、できなかったことができるようになることもある。

人付き合いが苦手だった人が、経験を重ねて上手に振る舞えるようになることもある。

怒りやすい人が、自分の感情を理解し、以前より冷静に対処できるようになることもある。

人は学ぶことができる。

成長することもできる。

しかし、それによって人間そのものが、まったく別の性質を持った人間に生まれ変わるわけではない。

人には、生まれ持った資質がある。

性格も違う。

知能も違う。

身体能力も違う。

得意なことも、苦手なことも違う。

得たものも、失ったものも違う。

さらに、生まれる家庭を選ぶこともできない。

親も選べない。

幼少期にどのような愛情を受けるのか。

どのような教育を受けるのか。

どのような人間関係の中で育つのか。

そうした人生の土台となる部分の多くを、本人は選ぶことができない。

そして、それらが積み重なりながら、一人の人間が形づくられていく。

人間を植物に例えるなら

枝は伸びる。

剪定することもできる。

伸びる方向を変えることもできる。

しかし、どんなに成長しようと、トリカブトから伸びるのは、どこまでいってもトリカブトの枝である。

ドクゼリから伸びるのも、ドクゼリの枝である。

そこに突然、桜や薔薇の花が咲くわけではない。

私は、人間の成長もそれに近いものだと考えている。

経験によって枝の伸びる方向は変わる。

知識という新しい枝も増える。

失敗から学び、以前とは違う行動を選べるようにもなる。

しかし、そのすべては、その人自身という根や幹から伸びている。

ただし、ここで難しい問題が生まれる。

では、努力には意味がないのか。

私は、そうは思わない。

運動が苦手な人でも、練習すれば以前より速く走れるようになるかもしれない。

勉強が苦手な人でも、繰り返し学べば理解できることは増える。

人付き合いが苦手な人でも、自分なりの接し方を身につけることはできる。

しかし、努力には、すべての個人差を消し去る力まではない。

誰もが努力すればオリンピック選手になれるわけではない。

同じ時間勉強すれば、全員が同じ成績になるわけでもない。

同じ経験を積めば、全員が同じように社交的になれるわけでもない。

我慢をすれば、欲求や喪失感が消えて無くなるわけでもない。

ここを混同すると、

「できないのは努力が足りないからだ」

「苦手なのは経験が足りないからだ」

「我慢できないのは精神的に弱いからだ」

という話になってしまう。

そして本人も、自分を責め始める。

もっと努力しなければ。

もっと我慢しなければ。

普通の人と同じようにできなければ。

そうして、自分の弱さや限界を認めることすら許せなくなっていく。

私は、それも違うと思う。

また、自分の弱さや限界を認められなければ、それを別の方法で埋めようとして、努力の方向性そのものを誤ることもある。

劣等感を埋めるために、他人より上の立場を求める。

自分の価値を高めるために、他人の評価を落とす。

自分では築けなかったものを、他人から奪おうとする。

努力という言葉には、どこか善良な響きがある。

しかし、努力はそれ自体が善なのではない。

他人のものを盗むために努力することもできるし、他人の心を傷つけるために知恵を絞ることだってできる。

だから必要なのは、ただ努力することではない。

自分の弱さや限界を知り、正しい方向に努力することである。

人は変われない。

一度形づくられた根本的な気質や価値傾向は、変わらない。

だからこそ、まだ根や幹が形づくられている幼少期の環境や教育には、大きな意味がある。

健全な教育を受け、正しい方向性で地道な努力をすることができれば、つまり、自分の弱さを埋めるために他人を傷つけたり奪ったりする方向ではなく、

自分と他人が共に生きられる方向で努力を重ねることができれば、その人なりに枝を伸ばし、花を咲かせることができるかもしれない。

もちろん、そのような機会に恵まれず、そのまま大人になり、間違った方向へ枝を伸ばし続けてしまう場合もあるかも知れない。

枝を伸ばすことも、花を咲かせることもできずに終わることだってあるだろう。

それでも、

自分の持っているものを、どこまで伸ばすことができるのか。

どこまでなら努力によって乗り越えられるのか。

そして、どこから先は、自分の弱さや限界として受け入れた方がいいのか。

それを知ることはできる。

努力をすることによって。


 

第二章 努力は万能ではない


努力には意味がある。

前章で書いた通り、自分の可能性や限界がどこにあるのかは、努力をしてみなければ分からない。

最初から「自分にはできない」と決めつけてしまえば、伸ばすことのできた枝まで、そのままになってしまう。

だから私は、努力すること自体を否定したくない。

しかし、努力について考えるとき、一つ忘れてはいけないことがある。

同じ努力をしても、同じ結果になるとは限らない。

十回練習すればできるようになる人もいる。

百回練習して、ようやくできるようになる人もいる。

百回練習しても、できない人もいる。

そして、その違いをすべて「努力の量」だけで説明することはできない。

人には、それぞれ違った資質があるからだ。

努力とは、好きな人間を作り上げる魔法ではない。

自分が持っているものを伸ばし、限界を知るための行為である。

だから、同じ努力をしても伸び方は違う。

努力によって大きく伸びるものもあれば、ほとんど伸びないものもある。

そして、その違いを無視してしまうと、「努力」という言葉は残酷なものにもなる。

成功した人は言う。

「努力したから成功できた」

それ自体は、その人にとって事実なのだろう。

しかし、「私は努力して成功した」という事実から「努力すれば誰でも成功できる」という答えを導くことはできない。

そこには、生まれ持った能力もある。

育った環境もある。

出会った人もいる。

経済的な条件もある。

運もある。

そして、本人には見えていない偶然もある。

自分の成功に努力が必要だったからといって、他人の失敗を努力不足だと決めつけることはできない。

しかし、私たちは結果だけを見て、その人がどれだけ努力したのかを推測してしまうことがある。

成功している人は努力した人。

失敗した人は努力しなかった人。

仕事ができる人は頑張った人。

仕事ができない人は怠けた人。

人付き合いが上手な人は努力した人。

人付き合いが苦手な人は努力が足りない人。

そんな単純な話ではないはずだ。

むしろ問題なのは、この考え方を本人自身が受け入れてしまうことである。

頑張っているのに、できない。

それなら、もっと頑張らなければならない。

それでもできない。

まだ努力が足りない。

さらに頑張る。

それでもできない。

自分は怠けているのではないか。

自分は弱いのではないか。

自分には価値がないのではないか。

こうして、本来は「成長するための手段」であった努力が、いつの間にか「自分を否定するための物差し」に変わってしまう。

私は、それが努力万能論の危うさだと思う。

もう一つ、努力には「費用」がある。

時間を使う。

体力を使う。

精神力を使う。

ときには金も使う。

そして、人間が持っている時間も体力も精神力も無限ではない。

何かに努力するということは、その時間や力を、別の何かに使う可能性を捨てることでもある。

一つの苦手を克服するために膨大な時間を使えば、本来得意だったことに使える時間は減る。

合わない環境に適応するために精神力を使い続ければ、それだけで一日が終わってしまうこともある。

だから、「努力すれば少しはできるようになる」ということと、「そこに努力を注ぎ続けるべきだ」ということは、分けて考える必要がある。

努力すれば五十点まで取れる苦手なことに、膨大な時間を使う。

その一方で、少ない努力で九十点まで伸ばせるものを放置する。

それが本人にとって本当に良い選択なのかは分からない。

ただし、ここで気をつけなければならない。

苦手なのか。

経験が足りないだけなのか。

努力すれば伸びるのか。

努力してもほとんど伸びないのか。

そもそも、自分はどこまでできるのか。

それは、やってみなければ分からない。

だから、まず努力する。

簡単に諦めない。

工夫する。

必要なら人に教えてもらう。

やり方を変えて、もう一度試してみる。

それでも難しいのであれば、そのとき初めて「自分にはこういう限界があるのかもしれない」と考えればいい。

努力とは、必ず成功するためにするものではない。

自分の可能性と、自分の限界を知るためにするものでもある。

できるようになったのなら、それは一つの成果である。

できなかったとしても、「ここまではできる」「ここから先は難しい」と知ることができたのなら、その努力がすべて無駄だったとは思わない。

問題なのは、限界が見えているのに、それを認めることを許さず、「もっと努力しろ」「まだ足りない」と自分や他人を追い込み続けることである。

努力は大切だ。

努力によって人は成長できる。

しかし、努力は万能ではない。

だからこそ、努力した結果を正しく見る必要がある。

伸びたのであれば、さらに伸ばせばいい。

伸びなかったのであれば、方法を変えてみればいい。

それでも伸びないのであれば、別の道を考えてもいい。

努力とは、自分の限界を否定するためのものではない。

自分の可能性と限界の両方を知るためのものなのだ。


 

第三章 我慢は問題を解決しているとは限らない


社会には、自分以外の人間がいる。

自分の欲求を、いつでも好きなように満たせるわけではない。

学校では、嫌いな相手とも同じ教室で過ごさなければならないことがある。

会社では、気の合わない人とも仕事をしなければならない。

家庭でも、自分の都合だけを優先することはできない。

欲しいものがあっても諦めなければならないことがある。

腹が立っても、感情のまま相手を傷つけてはいけない。

社会の中で他人と共に生きる以上、一定の我慢は必要である。

だから私は、「嫌ならやめればいい」「辛ければ逃げればいい」という考えにも賛成できない。

嫌なことから逃げ続けていると、我慢する力が育たない。

構って貰えないからといって怒鳴ったり殴ったりする。

間違いを指摘されただけで不貞腐れる。

相手の事情を無視して、一方的に騒ぎ立てる。

それでは、社会の中で他人と共に生きることは難しくなる。

我慢することを覚えるのも、人が成長していく上で必要なことだと思う。

しかし、努力と同じように、我慢も万能ではない。

ここで考えたいのは、我慢することと、問題が解決することは同じではないということである。

例えば、強い孤独を感じている人がいる。

「寂しいけれど我慢しよう」

そう考えて、誰にも言わずに耐えることはできるかもしれない。

しかし、我慢したからといって、寂しさそのものが消えるとは限らない。

人から認められたいという気持ちもそうだ。

誰かに愛されたいという気持ちもそうだ。

自分だけ取り残されているような感覚もそうだ。

嫉妬も、劣等感も、怒りも、喪失感も、我慢したからといって必ず消えてなくなるわけではない。

消えてなくなったように見えるのは、我慢を繰り返したことによって、感情が表に出なくなっているからかもしれない。

ここには、大きな違いがある。

感情を抑えることと、感情そのものがなくなることは違う。

欲求を我慢することと、欲求そのものがなくなることも違う。

だから、外から見れば問題が解決したように見えることがある。

怒らなくなった。

文句を言わなくなった。

要求しなくなった。

泣かなくなった。

誰にも相談しなくなった。

周囲からすれば、「ようやく分かってくれた」と思うかもしれない。

しかし、その人の内側で起きていることは全く違うかもしれない。

諦めただけかもしれない。

言っても無駄だと思っただけかもしれない。

自分の感情を押し殺すことを覚えただけかもしれない。

つまり、我慢には限界があるということだ。

小さな不満であれば、時間とともに消えることもある。

一時的な苦しさであれば、耐えることで状況が変わることもある。

だから、我慢する価値がある場面は確かにある。

しかし、何年経っても消えない欲求や苦しさまで、

「我慢すればいい」

「考えないようにすればいい」

「大人なんだから耐えろ」

と押さえ続けたらどうなるだろう。

なくならないものを、ないことにし続けることになる。

そして、押さえ込まれたものが、必ずしも素直な形で表に出てくるとは限らない。

寂しいと言えないから、誰かに過度に依存する。

認められたいと言えないから、必要以上に地位や肩書き、立場を求める。

劣等感を認められないから、自分より評価されている人を攻撃する。

仲間を失うのが怖いから、他人の人間関係を操作する。

自分の人生への不満を認められないから、他人の幸福を壊そうとする。

もちろん、そうした行動のすべてを「我慢のせい」で説明することはできない。

人間の言動は、様々な事情が重なって生じている。

しかし、自分の中にある欲求や弱さを認めず、ただ押さえ込み続けることによって、別の場所で問題が生じることはあると思う。

ここでも、必要なのは、開き直ることではない。

「寂しいから何をしてもいい」

「嫉妬しているから相手を攻撃していい」

「自分はこういう人間だから周囲が我慢しろ」

そんな話ではない。

むしろ逆である。

自分の弱さを認めて、その弱さを他人にぶつけない方法を考える

という話だ。

私は寂しさに弱い。

私は嫉妬しやすい。

私は人から認められたい。

私は怒ると感情を制御しにくい。

私はこの環境に長くいると苦しくなる。

そうした自分の性質を認めることができれば、対策を考えることができる。

距離を置く。

環境を変える。

誰かに相談する。

欲求を別の健全な方法で満たす。

苦しくなる前に休む。

相手に事情を説明する。

自分一人で対処できないのであれば、助けを求める。

つまり、必要なのは、欲求や虚しさを消すことではない。

欲求や虚しさが存在することを前提に、それによって自分や他人を傷つけない方法を考えることである。

我慢には、そのための時間を作る役割もある。

腹が立った瞬間に殴らない。

欲しいと思った瞬間に奪わない。

人生を投げ出さない。

まず我慢する。

考える。

そして、自分が何に苦しんでいるのかを見つける。

その意味での我慢は必要だ。

しかし、我慢を問題解決そのものにしてはいけない。

我慢は、問題と向き合うための手段にはなっても、問題そのものを消してくれるとは限らない。

努力しても変えられないものがあるように、我慢しても消えないものがある。

「それでも我慢し続ければ、いつか何も感じなくなる」

そう信じて耐え続けることが、かえって問題を拗らせる場合もある。

では、どこまで我慢すべきなのか。

どこから先は「自分には無理だ」と認めるべきなのか。

その判断は簡単ではない。

なぜなら、あまりにも早く「無理だ」と判断することにも、別の危険があるからである。


 

第四章 「弱さを認めろ」が人を弱くすることもある


ここまで、努力や我慢には限界があると書いてきた。

できないことはある。

耐え続けても解決しないこともある。

だから、自分の弱さや限界を認めることは大切だ。

しかし、この考え方にも危険がある。

「無理をしなくていい」

「苦手ならやらなくていい」

「嫌なら逃げてもいい」

こうした言葉は、追い詰められている人を救うことがある。

限界を超えて頑張っている人にとっては、必要な言葉でもある。

しかし、それを最初から与え続けたらどうなるだろう。

まだ何もやっていない。

十分に練習もしていない。

工夫もしていない。

失敗を経験したわけでもない。

それなのに、

「あなたには向いていないのかもしれない」

「苦手なら無理しなくていい」

「自分らしく生きればいい」

と言われ続ければ、本当は伸びることのできた可能性まで、自分で閉ざしてしまうかもしれない。

特に、子供については慎重に考えなければならない。

子供は、自分の能力をまだ知らない。

自分が何を好きなのかさえ、十分には分かっていないことがある。

初めて自転車に乗れば転ぶ。

初めて泳げば怖い。

初めて人前で発表すれば緊張する。

勉強だって、最初から楽しいとは限らない。

スポーツも、楽器も、絵も、人付き合いも同じである。

「嫌だ」

「やりたくない」

「苦手だ」

という感情が生まれたからといって、それが直ちにその人の「限界」を意味するわけではない。

単に慣れていないだけかもしれない。

失敗するのが怖いだけかもしれない。

やり方が分からないだけかもしれない。

あるいは、できない自分を見られるのが恥ずかしいだけかもしれない。

だから、大人が子供の弱さを先回りして決めつけることにも、危険があると思う。

「この子は人付き合いが苦手だから」

「この子は勉強が苦手だから」

「この子は繊細だから」

「この子には無理だから」

それが配慮のつもりであっても、繰り返し伝えられれば、子供自身がそれを自分の限界として受け入れてしまう可能性がある。

弱さを認めることと、可能性を決めつけることは違う。

限界を尊重することと、限界を先回りして作ることも違う。

これは、この記事で最も慎重に扱いたい部分である。

私は「弱さと限界を認めろ」と書いている。

しかし、弱さや限界は、挑戦する前から決めるものではない。

ある程度はやってみなければ分からない。

努力してみなければ分からない。

失敗してみなければ分からない。

ときには、少し嫌なことにも耐えてみなければ分からない。

そして、もう一つ重要なことがある。

人生は、自分の好きなことだけを選んで生きれるわけではない。

「自分らしく生きる」という言葉は美しい。

しかし、自分らしく生きることと、自分の欲求だけを優先して生きることは違う。

社会には、他人がいるからだ。

学校に行けば、順番を守らなければならない。

集団で何かをすれば、自分の都合だけでは動けない。

仕事をすれば、気分が乗らない日でも果たさなければならない役割がある。

家庭を持てば、自分が疲れているからといって、すべての責任を放棄できるわけではない。

他人の権利と自分の権利がぶつかれば、互いに譲らなければならないこともある。

社会は、多くの人が少しずつ自分の欲求を抑えることで成り立っている。

だから、

「嫌だからやらない」

「苦手だからやらない」

「これが私だから受け入れてほしい」

だけでは、共同生活は成立しない。

弱さや限界への理解が、何をしても許される免罪符になってはいけないのである。

だからこそ難しい。

努力を求めすぎれば、人を追い詰める。

我慢を求めすぎれば、人を壊す。

しかし、努力を求めなければ、伸びる可能性を奪うことがある。

我慢を求めなければ、他人と共に生きるために必要な自制を身につける機会まで奪ってしまうかもしれない。

「頑張れ」だけでもいけない。

「頑張らなくていい」だけでもいけない。

「我慢しろ」だけでもいけない。

「嫌なら逃げろ」だけでもいけない。

必要なのは、その人が今どの段階にいるのかを見ることなのだと思う。

まだ挑戦していないのか。

挑戦したけれど、一度失敗しただけなのか。

やり方を変える余地があるのか。

助けがあればできるのか。

十分に工夫したのか。

そして、それでも苦しみ続けているのか。

そこを見ずに、すべての人に同じ言葉を与えることが問題なのだ。

「努力すればできる」と決めつけることも乱暴である。

しかし、「あなたには無理だから、やらなくていい」と決めつけることも、同じくらい乱暴である。

本人にしか分からない苦しさはある。

同時に、本人にもまだ分かっていない可能性がある。

特に子供には、その両方がある。

だから大人に必要なのは、何でも代わりに決めることではないのだと思う。

挑戦する機会を与える。

簡単には諦めさせない。

失敗しても、もう一度挑戦できるよう支える。

やり方を一緒に考える。

ときには、少しだけ我慢することも教える。

しかし、十分に努力した結果、それでも難しいのであれば、その現実も受け止める。

挑戦させることと、追い詰めることの間に線を引く。

それが必要なのだと思う。

弱さを認めることは大切だ。

しかし、人は「自分は弱い」と知るために生きているわけではない。

自分には何ができるのか。

何ができないのか。

何なら努力によって伸ばせるのか。

どこから先は、別の方法を考えた方がいいのか。

それを知るためには、やはり一度、自分の力で壁を押してみる必要がある。

限界とは、挑戦する前に決めるものではない。

挑戦した先で、初めて見えてくるものなのである。


 

第五章 弱さを認めることは、開き直ることではない


「私はこういう人間だから仕方がない」

「苦手だから、必要なことでもやらない」

「我慢できない性格だから、周囲が我慢すればいい」

「傷つきやすいから、周囲がすべて自分に合わせるべきだ」

弱さを認めるという言葉を、このような意味で使うのであれば、私は賛成できない。

それは弱さを認めることではなく、弱さを理由に責任を放棄することだからだ。

人には弱さがある。

限界もある。

しかし、社会には自分以外の人間がいる。

自分に事情があるように、相手にも事情がある。

自分に権利があるように、相手にも権利がある。

だから、自分の弱さを認めるということは、周囲の人間にその弱さの処理を任せることではない。

むしろ逆である。

自分の弱さによって自分や他人を傷つけない方法を考える。

私は、そこまで含めて「弱さを認める」ということだと思っている。

例えば、自分が嫉妬しやすい人間だとする。

その事実を認めること自体は悪いことではない。

嫉妬は人間にある自然な感情でもある。

問題なのは、その嫉妬をどう扱うかである。

「私は嫉妬深い人間だから仕方がない」と言って、友人の交友関係を制限する。

自分より評価されている人の悪口を言う。

相手の評判を落とそうとする。

それでは、弱さを認めたことにはならない。

自分の弱さを、他人に処理させているだけである。

本当に自分の弱さを認めるのであれば、

「私は嫉妬すると冷静な判断ができなくなることがある」

「だから、感情が強くなっているときには結論を出さないようにしよう」

「この人と比較し続けると苦しくなるから、少し距離を取ろう」

「相手を攻撃したくなっても、それだけはしないようにしよう」

と考えることができる。

怒りも同じだ。

「自分は短気だから仕方がない」と言って人を怒鳴るのは、自己理解ではない。

自分が怒りやすいと分かっているのであれば、怒りが大きくなる前にその場を離れる。

すぐに返事をしない。

落ち着いてから話す。

自分がどのような場面で怒りやすいのかを知っておく。

自分の弱さを認めることによって、むしろ行動に責任を持つのである。

人付き合いが苦手な場合も同じだ。

無理をして誰とでも仲良くする必要はない。

大人数の集まりが苦手なら、参加する回数を減らしてもいい。

一人で過ごす時間が必要なら、それを確保してもいい。

しかし、自分の苦手なことによって他人に負担が生じるのであれば、話は少し違ってくる。

「自分はこういう人間だから仕方がない」と、それを当然のこととして相手に引き受けてもらうのではなく、自分にできる範囲で工夫したり、難しいのであれば事情を説明したり、互いに無理のない方法を探したりする必要がある。

苦手なことを無理に克服する必要はない。

しかし、自分の苦手なことによって生じる問題をすべて他人に背負わせていいわけでもない。

だから、自分の弱さや限界を認めた後には、もう一つ考えなければならない。

では、その弱さを抱えた自分は、どうすれば他人と共に生きられるのか。

ここが重要なのだと思う。

弱さを認めるという言葉は、ときに優しい。

しかし、本当の意味で自分の弱さを認めることは、決して楽なことではない。

自分は嫉妬する人間なのだと認める。

自分は承認を求めているのだと認める。

自分は人から嫌われることを必要以上に恐れているのだと認める。

自分は孤独に弱いのだと認める。

自分は怒りを制御するのが苦手なのだと認める。

自分には、どうしてもできないことがあると認める。

どれも、自尊心にとって気持ちのいい話ではない。

だから人は、ときに自分の弱さを別の言葉に置き換える。

嫉妬を「正義感」と呼ぶ。

支配欲を「心配しているだけ」と呼ぶ。

承認欲求を「社会のため」と呼ぶ。

復讐心を「責任追及」と呼ぶ。

逃げたい気持ちを「相手が全面的に悪いから」と説明する。

もちろん、本当に正義感から行動している場合も、本当に相手に問題がある場合もある。

だから、大した対話もなく適当に決めつけることはできない。

しかし、自分自身に対しては、「本当にそれだけだろうか」と問い続けることができる。

私は本当に社会のためだけに怒っているのか。

自分が評価されなかったことへの怒りは混じっていないか。

私は本当に相手を心配しているだけなのか。

相手を自分の思い通りにしたい気持ちはないか。

私は本当に限界なのか。

単に面倒なことから逃げたいだけではないか。

反対に、

本当は限界なのに、「自分が弱いだけだ」と思い込んで耐え続けてはいないか。

自分の弱さを認めるということは、自分を甘やかすことではない。

むしろ、自分について都合の悪いことまで直視することなのだと思う。

そして、その上で責任の取り方を考える。

できないなら、できないなりの方法を探す。

苦手なら、苦手なりの工夫をする。

人に助けてもらう必要があるなら、その事情を説明する。

環境を変えた方がいいなら、変える。

距離を取る必要があるなら、取る。

それでも果たさなければならない責任があるなら、自分にできる方法で果たす。

弱さを消すのではない。

弱さがあることを前提に、自分の行動を組み立て直すのである。

これは、開き直りとは正反対だ。

開き直りは、

「私はこういう人間だから仕方がない」

で思考を止める。

弱さを認めるということは、

「私はこういう弱さを持っている」

「では、どうすればいいのか」

と、その先を考えることである。

弱さを認めることは、責任から逃げるための免罪符ではない。

自分が引き受けるべき責任を、現実的な方法で引き受けるための出発点なのである。


 

第六章 自分の取扱説明書を作る


「自分には弱いところがある」

それだけでは、まだ十分ではない。

何が苦手なのか。

どんなときに感情が乱れるのか。

何をされると傷つくのか。

どのような環境では力を発揮できて、どのような環境ではうまくいかなくなるのか。

どこまでなら我慢できて、どこから先は耐えられなくなるのか。

それを知っていなければ、自分の弱さに振り回され続けることになる。

だから私は、自分自身の「取扱説明書」を作ることが必要だと思う。

機械には、それぞれ適した使い方がある。

高温に弱いものもある。

水に弱いものもある。

長時間の連続使用に向いていないものもある。

それを知らずに使い続ければ、いつか壊れる。

人間も、それほど変わらないのかもしれない。

もちろん、人間は機械ではない。

しかし、自分がどのような条件に強く、どのような条件に弱いのかを知っておくことには意味がある。

例えば、人と比較されることに弱い人がいる。

他人が評価されているのを見ると、自分が否定されたように感じてしまう。

その感情自体を、

「嫉妬してはいけない。」

「もっと心の広い人間にならなければならない」

と否定し続けても、簡単には消えないかもしれない。

それなら、

「自分は人と比較すると劣等感が強くなりやすい」

と知っておく。

そして、感情が大きくなったときには、その感情のまま行動しない。

相手の粗探しを始めない。

悪口を言わない。

相手の評価を落とすことで、自分の価値を取り戻そうとしない。

必要なら、少し距離を取る。

つまり、嫉妬しない人間になろうとするのではなく、嫉妬する自分が問題を起こさない方法を知っておくのである。

孤独に弱い人もいる。

一人になることへの不安が強く、誰かとのつながりを失いそうになると、必要以上に相手を追いかけてしまう。

それを単純に、

「依存するな」

と言っても、孤独への恐怖そのものが消えるとは限らない。

それなら、自分は孤独に弱いと知っておく。

一人の人間だけに依存しない。

複数の居場所を持つ。

一人でも過ごせる時間を少しずつ増やす。

寂しさが強くなったときに、衝動的な行動を取らない方法を考えておく。

これも、自分の取扱説明書の一つである。

怒りやすい人なら、

何を言われると怒るのか。

疲れているときに怒りやすくなるのか。

自分を否定されたと感じたときなのか。

思い通りにならないときなのか。

そこまで分かっていれば、怒りそのものを消せなくても、怒りによって起こる問題を減らすことはできる。

これは性格だけの話ではない。

能力についても同じだ。

大人数の前では考えがまとまらないけれど、一対一なら話せる人もいる。

口頭で突然説明されると理解しにくいけれど、文章なら理解できる人もいる。

長時間集中することは苦手でも、短時間なら高い集中力を発揮できる人もいる。

逆に、一つのことをじっくり考えることには向いていても、複数のことを同時に処理するのが苦手な人もいる。

そこで、

「普通の人はできるのだから、自分もできるようにならなければならない」

と考え続ければ、苦手な方法に自分を合わせるためだけに、多くの時間と精神力を使うことになる。

もちろん、必要な能力であれば練習する意味はある。

前章までに書いた通り、やってみなければ、それが本当に限界なのか、単なる経験不足なのかも分からない。

しかし、十分に試した結果、

「自分はこの方法では力を発揮しにくい」

と分かったのであれば、別の方法を探してもいい。

これは逃げではない。

自分という人間を、より適切に使うための工夫である。

そして、自分の取扱説明書を作るときには、弱いところだけを見る必要もない。

何なら苦痛なく続けられるのか。

何をしているときには集中できるのか。

どんな人とは自然に話せるのか。

どんな環境では安心できるのか。

何をしているときに、自分は比較的穏やかでいられるのか。

自分の強さについても知っておいた方がいい。

弱点だけを並べたものは、取扱説明書ではなく、欠点の一覧表になってしまう。

大切なのは、自分を採点することではない。

自分という人間が、どのような条件なら比較的うまく機能するのかを知ることだ。

そして、もう一つ重要なことがある。

自分の取扱説明書は、自分を固定するためのものではない。

「私はこういう人間だから、これ以外はできない」

と可能性を閉じるために作るものでもない。

人は経験によって、できることが増える場合もある。

苦手だったことが、それほど苦手ではなくなることもある。

だから、取扱説明書も書き換えていけばいい。

以前は十までしか耐えられなかったものが、経験によって十五まで耐えられるようになるかもしれない。

逆に、若い頃には平気だったことが、年齢や環境の変化によって苦しくなることもある。

その都度、自分を観察して修正すればいい。

重要なのは、

「自分はこうあるべきだ」という理想から自分を見るのではなく、「実際の自分はどうなのか」という現実から考えることである。

理想の自分なら我慢できる。

理想の自分なら嫉妬しない。

理想の自分なら誰とでも仲良くできる。

理想の自分ならもっと働ける。

しかし、実際の自分がそうではないのなら、理想だけを見ながら生きても問題は解決しない。

自分を知るということは、理想を捨てることではない。

理想へ向かうために、現在地を知るということだ。

地図を持っていても、自分がどこにいるのか分からなければ目的地にはたどり着けない。

弱さも、限界も、得意なことも、苦手なことも、自分の現在地を知るための情報である。

だから私は、自分の弱さを知ることを悲観的な行為だとは思わない。

むしろ、自分を必要以上に傷つけず、他人にも自分の弱さを押しつけず、それでも可能な範囲で前へ進むために必要な作業なのだと思う。

自分を別の人間に作り替えることはできない。

しかし、自分という人間について理解を深めることはできる。

何ができるのか。

何ができないのか。

何をすると壊れるのか。

何なら続けられるのか。

どこでは頑張るべきなのか。

どこでは退いた方がいいのか。

それを一番よく知っている人間は、本来、自分自身であるべきだと思う。


 

第七章 環境を変えることは逃げではない


私たちは、うまくいかないことがあると、まず自分を変えようとする。

仕事についていけないなら、もっと努力する。

学校が苦しいなら、もっと我慢する。

人間関係がうまくいかないなら、自分の性格を直そうとする。

集団に馴染めないなら、馴染める人間になろうとする。

もちろん、それで解決することもある。

経験不足なら、経験を積めばいい。

能力が足りないなら、訓練すれば伸びるかもしれない。

自分に問題があるなら、それを直す努力も必要だ。

だから、何かうまくいかないことがあるたびに環境を変えればいい、という話ではない。

しかし、人と環境には「相性」がある。

同じ人間でも、環境が変わるだけで驚くほど振る舞いが変わることがある。

ある職場では仕事ができないと言われていた人が、別の職場では評価される。

ある学校では孤立していた子供が、転校した先では友達ができる。

大人数の集団ではほとんど話せない人が、少人数になると自然に話せる。

細かく管理されると力を発揮できない人が、ある程度自由を与えられると高い能力を発揮する。

反対に、自由すぎる環境では何をすればいいのか分からない人が、役割や手順が明確な環境では安定して力を発揮することもある。

人間そのものが突然別人になったわけではない。

その人と環境との組み合わせが変わったのである。

ここは、とても重要だと思う。

問題が起きたとき、私たちはつい、「誰が悪いのか」と考える。

本人が悪い。

親が悪い。

先生が悪い。

上司が悪い。

同僚が悪い。

もちろん、本当に誰かの行動に問題がある場合もある。

しかし、誰か一人を悪者にしなくても、

「この人と、この環境の組み合わせでは、うまくいかない」

ということはある。

そこに善悪を持ち込まなくてもいい場合があるのだ。

例えば、非常に競争の激しい環境がある。

競争によって力を発揮する人もいるだろう。

他人と競うことで燃える人もいる。

しかし、比較され続けることで自信を失い、本来持っていた能力まで発揮できなくなる人もいる。

どちらが正しいという話ではない。

その環境が合う人と、合わない人がいる。

ところが、

「どんな環境でも適応できる人間こそ強い」

という考え方を絶対視すると、環境との相性という視点が消えてしまう。

合わない環境にいる人は、ひたすら自分を改造することを求められる。

もっと我慢しろ。

もっと強くなれ。

もっと社交的になれ。

もっと空気を読め。

もっと競争に慣れろ。

もっと傷つかない人間になれ。

それでも適応できなければ、「本人の努力不足」という結論になる。

しかし、本当にそれだけなのだろうか。

植物で考えれば分かりやすい。

日当たりを好む植物もあれば、強い直射日光に弱い植物もある。

乾燥に強い植物もあれば、多くの水を必要とする植物もある。

同じ土、同じ水、同じ日照条件を与えることが、すべての植物にとって平等で良い環境とは限らない。

うまく育たない植物に向かって、「もっと頑張ってこの土に適応しろ」と言っても仕方がない。

土を変える。

置く場所を変える。

水の量を変える。

そうすることで育つ場合もある。

人間も、それに近いところがあると思う。

だから、環境を変えることは、必ずしも逃げではない。

転校する。

転職する。

所属するグループを変える。

役割を変える。

働き方を変える。

住む場所を変える。

付き合う人を変える。

これらは、ときに自分を守るための合理的な選択になり得る。

ただし、ここにも注意しなければならないことがある。

環境を変えれば、すべて解決するわけではない。

自分自身の問題は、環境を変えてもついてくる。

自分の失敗をすべて他人のせいにする癖があるなら、どこへ行っても「悪い人」が現れ続けるかもしれない。

承認欲求や支配欲を満たすために、他人の失敗や過失を厳しく指摘して攻撃するのであれば、所属する集団を変えても同じことを繰り返すかもしれない。

だから、

「自分を変えるべきか」

「環境を変えるべきか」

という二択でもない。

自分に変えられるところがあるなら、変える。

努力によって伸ばせるところがあるなら、伸ばす。

自分の行動によって他人を傷つけているなら、その責任とも向き合う。

その上で、それでも環境との相性が悪いのであれば、環境を変える。

私は、この順番が大切なのだと思う。

そして、環境を変えるかどうかを考えるとき、もう一つ重要なのは「費用」である。

第二章で、努力には費用があると書いた。

環境への適応も、同じように費用がある。

周囲に合わせるために、毎日大量の精神力を使う。

嫌われないために、自分の言葉を常に監視する。

苦手な作業を人並みにこなすために、他人の何倍もの時間を使う。

人間関係を壊さないために、本来やるべきことに使う力まで消耗する。

適応できているように見えても、そのために生活のほとんどを犠牲にしているのであれば、本当にその環境に居続けることが合理的なのかは考えた方がいい。

我慢することと、我慢し続けることは違う。

努力すれば適応できることと、適応するために努力し続ける価値があることも違う。

ここでも必要なのは、自分の限界を知ることである。

ただ、子供については少し慎重に考える必要がある。

子供が、「嫌だからやりたくない」と言うたびに環境を変えてしまえば、困難に耐える力や、工夫して乗り越える経験を得られなくなる可能性がある。

苦手な相手とも最低限付き合う。

自分の思い通りにならないことを受け入れる。

集団のルールに合わせる。

失敗しても、もう一度挑戦する。

そうした経験も、成長する上では必要だと思う。

だから、大人がすぐに障害物を取り除けばいいわけでもない。

まず挑戦させる。

少し待つ。

一緒に方法を考える。

必要なら手伝う。

それでも苦しさが続くのであれば、環境を変えることも考える。

大切なのは、

「逃げるな」

でも、

「嫌ならやめればいい」

でもない。

この困難は、乗り越える経験をさせた方がいいものなのか。

それとも、この子を壊してまで耐えさせる意味のないものなのか。

そこを見極めることなのだと思う。

大人についても、本質は同じである。

逃げることが悪いのではない。

残ることが偉いわけでもない。

重要なのは、なぜそこに残るのか、なぜそこから離れるのかを、自分なりに考えることである。

努力して乗り越える価値があるなら、踏ん張ればいい。

経験不足なら、もう少し続けてみればいい。

自分に改善すべきところがあるなら、向き合えばいい。

しかし、十分に努力し、工夫し、それでも自分を壊し続ける環境なのであれば、そこから離れるという選択肢を持っていい。

いや、持たなければならない。

自分を変え続けることだけが、問題解決ではない。

自分と環境の組み合わせを変えることでも、問題は解決できる。

それは、自分の弱さに負けたということではない。

自分の弱さと限界を理解した上で、自分が生きられる場所を選び直すという、一つの問題解決なのである。


 

第八章 「できない」と「やらない」を区別する


「できない」と「やらない」は、同じではない。

そして、その二つを自分自身で区別することは、意外と難しい。

本当にできないのか。

苦手だからやりたくないだけなのか。

失敗するのが怖いのか。

面倒なのか。

傷つきたくないのか。

まだ十分に経験していないだけなのか。

それとも、努力や工夫を重ねても、本当に難しいのか。

自分の弱さや限界を認めるためには、まず、この違いと向き合わなければならない。

例えば、子供が、「勉強が苦手だからやりたくない」と言ったとする。

そこで、「苦手ならやらなくていいよ」と直ちに認めてしまうことが、本当にその子のためになるとは限らない。

まだ勉強の仕方を知らないだけかもしれない。

分からないところで躓いているだけかもしれない。

一度失敗して、自信を失っているだけかもしれない。

少し手伝えばできるかもしれない。

何度か繰り返せば、できるようになるかもしれない。

それを試す前から「この子は勉強が苦手なのだ」と決めてしまえば、本来伸びるはずだった可能性まで閉じてしまう。

これは第一章から繰り返し書いてきたことでもある。

自分の限界は、限界まで近づいてみなければ分からない。

だから、挑戦には意味がある。

努力にも意味がある。

我慢にも意味がある。

しかし、反対側にも危険がある。

何度やってもうまくいかない。

方法を変えても難しい。

人に教えてもらっても難しい。

努力するために、人よりはるかに大きな負担を払っている。

それでも、

「やればできる」

「まだ努力が足りない」

「できないと言うのは逃げだ」

と言い続けるのであれば、今度は限界そのものを否定することになる。

つまり、

「できない」と「やらない」を区別するためには、ある程度やってみるしかない。

しかし、やってみた結果として見えてきた限界まで否定してはいけない。

この両方が必要なのだと思う。

そして、さらに難しいのは、人間の能力や限界が、

「できる」

「できない」

という二択では表せないことである。

例えば、「できるけれど、とても疲れる」という状態がある。

人前で話すことはできる。

しかし、その後、一人で何時間も休まなければならないほど消耗する。

人付き合いもできる。

仕事もできる。

集団にも合わせられる。

しかし、それを毎日続けると、生活の他の部分まで維持できなくなる。

これは「できない」ではない。

しかし、「できるのだから問題ない」とも言えない。

反対に、「苦手だけれど、それほど大きな負担ではない」ということもある。

面倒だ。

好きではない。

できれば避けたい。

しかし、やろうと思えばできるし、それによって生活が壊れるほど消耗するわけでもない。

この場合には、「苦手だからやらない」という言葉が、本当の意味での限界を表しているとは限らない。

だから私は、人の弱さや限界を考えるとき、「できるか、できないか」だけで判断しない方がいいと思っている。

少なくとも、

どれくらい能力があるのか。

どれくらい負担があるのか。

それをする必要性はどれくらいあるのか。

自分には、どの程度の責任があるのか。

この四つくらいは分けて考えた方がいい。

例えば、非常に苦手で、強い負担を伴い、しかも特にやる必要のないことであれば、無理に続ける理由は少ない。

反対に、苦手ではあっても、自分が引き受けた役割で、必要なことであり、それほど大きな負担ではないのであれば、ある程度は努力する必要があるかもしれない。

また、どうしても必要なことなのに、自分には大きな負担がかかるのであれば、

「我慢して全部やる」か、「全部やらない」かの二択にする必要もない。

人に助けてもらう。

役割を分担する。

方法を変える。

頻度を減らす。

時間をかける。

道具を使う。

事情を説明する。

自分一人で百を背負えないのであれば、別の方法で百を成立させることを考えてもいい。

ここで大切なのは、「できない」という言葉を、自分自身に対する最終判決にしないことだ。

「私はこれができない」

ではなく、

「今の自分には、この方法では難しい」

「この量を続けるのは難しい」

「一人では難しい」

「この環境では難しい」

と考えてみる。

そうすると、問題を細かく分けることができる。

能力の問題なのか。

方法の問題なのか。

量の問題なのか。

環境の問題なのか。

経験不足なのか。

助けがあればできることなのか。

本当に限界なのか。

「できない」を細かく分解することで、工夫できることもある。

一方で、「やりたくない」という気持ちも悪者にする必要はない。

人間なのだから、面倒なことはある。

嫌なこともある。

楽な方へ行きたいこともある。

私にも当然ある。

問題なのは、「やりたくない」という気持ちそのものではない。

「やりたくない」を「できない」に置き換えて、自分自身まで騙してしまうことだ。

本当は怖い。

本当は面倒だ。

本当は失敗したくない。

本当は傷つきたくない。

本当は楽な方へ行きたい。

それなら、一度はそう認めた方がいい。

その上で、「それでもやる必要があるのか」を考えればいい。

やる必要があるなら、やる。

やる価値があるなら、挑戦する。

失敗しても経験になるのであれば、やってみる。

反対に、ほとんど意味がなく、自分を消耗させるだけなのであれば、やらないという選択もある。

「やらない」という選択そのものが悪いのではない。

理由を見誤らないことが大切なのだ。

これは、子供を育てるときにも重要だと思う。

子供が「できない」と言ったとき、大人がすぐに、「じゃあやらなくていい」と結論を出してしまえば、挑戦する機会を奪うかもしれない。

しかし、

「できないわけがない」

「甘えるな」

「みんなできている」

と押し続ければ、本当にある限界を無視してしまうかもしれない。

だから、まず少しやってみる。

一緒に方法を考える。

必要なら助ける。

やり方を変えてみる。

それでも難しいなら、その理由を考える。

子供自身にも、

「できないの?」

「それとも、やりたくないの?」

と問いかけてみてもいい。

そして「やりたくない」と答えたとしても、直ちに叱る必要はない。

なぜやりたくないのかを聞けばいい。

怖いのかもしれない。

恥ずかしいのかもしれない。

失敗したくないのかもしれない。

ただ面倒なだけかもしれない。

理由が分かれば、必要な働きかけも変わる。

怖いなら安心させる。

分からないなら教える。

経験不足なら練習する。

面倒なだけなら、時には「それでもやろう」と背中を押す。

そして、本当にその子にとって負担が大きすぎるのであれば、別の方法を考える。

弱さを認める教育と、何でもやらなくていい教育は違う。

ここは、明確に分けておきたい。

子供には挑戦する機会が必要だ。

努力する経験も必要だ。

嫌なことでも、必要ならやるという経験も必要だ。

社会には、自分の好きなことだけを選んで生きることができない場面もある。

しかし同時に、

自分には何ができるのか。

何が苦手なのか。

どこまでなら頑張れるのか。

どこから先は助けが必要なのか。

それを知る経験も必要である。

私は、こちらも同じくらい大切だと思う。

大人になってからも同じだ。

「できない」と決めつけて可能性を閉じる必要はない。

しかし、「できるはずだ」と言い続けて自分を壊す必要もない。

「やりたくない」と思う自分を、必要以上に責める必要もない。

それを「できない」にすり替えて、責任から目を逸らす必要もない。

できるのか。

できないのか。

できるけれど苦しいのか。

やりたくないだけなのか。

やる必要があるのか。

助けがあればできるのか。

そこまで細かく自分を見る。

その積み重ねによって、自分の本当の弱さや限界が少しずつ見えてくる。

弱さを認めるためには、弱さを正確に知らなければならない。

そして、そのためには、

「できない」と言う勇気だけではなく、「本当にできないのか」と自分に問い続ける厳しさも必要なのである。


 

第九章 他人の限界を自分の物差しで測らない


自分の弱さや限界について考えていくと、もう一つ大切なことが見えてくる。

それは、他人にも、自分とは違う弱さや限界があるということだ。

当たり前の話に聞こえるかもしれない。

しかし、私たちは意外と簡単に、このことを忘れてしまう。

「私はできた」

「私は耐えられた」

「私は努力して乗り越えた」

その経験があるからこそ、「だから、あなたにもできるはずだ」と考えてしまう。

しかし、本当にそうだろうか。

第二章で書いたように、同じ努力をしても、同じ結果になるとは限らない。

十回練習すればできる人もいる。

百回練習してできる人もいる。

百回練習しても難しい人もいる。

それは、努力の量だけで決まるものではない。

生まれ持った資質も違う。

得意なことも苦手なことも違う。

育った環境も違う。

経験も違う。

抱えている不安も違う。

失ってきたものも違う。

同じ出来事に直面しても、それによって受ける負担まで同じとは限らない。

例えば、自分が厳しい指導によって成長できた経験を持っている人がいる。

叱られた。

悔しかった。

それでも歯を食いしばって努力した。

そして結果を出した。

その人にとって、その経験は本当に大切なものなのだと思う。

だから、「厳しくされたから今の自分がある」と考えること自体は何もおかしくない。

しかし、「自分は厳しくされて成長した」という解釈から、「だから、この子も厳しくすれば成長する」という答えは導けない。

同じ強さで叱られても、「絶対に見返してやる」と思う子供もいる。

「次はもっと頑張ろう」と思う子供もいる。

一方で、「自分には価値がない」と受け取る子供もいるかもしれない。

失敗することが怖くなり、挑戦そのものを避けるようになる子供もいるかもしれない。

同じ言葉を投げかけても、同じ人間が出来上がるわけではない。

だから、自分に有効だった方法が、そのまま他人にも有効だとは限らない。

これは子育てだけの話ではない。

学校でも同じだ。

会社でも同じだ。

夫婦でも、友人関係でも同じである。

自分は残業に耐えられた。

だから、これくらい普通だと思う。

自分は人前で怒られても平気だった。

だから、そんなことで傷つく方が弱いと思う。

自分は失恋しても仕事を休まなかった。

だから、それくらいで動けなくなる人の気持ちが分からない。

自分は一人でも平気だ。

だから、孤独を苦しむ人を甘えていると思う。

自分は人付き合いが得意だ。

だから、人の輪に入れない人を「努力不足」だと思う。

こうした判断の中には、いつも一つの物差しがある。

「自分ならどうか」

もちろん、自分の経験を基準に考えること自体は悪くない。

人は、自分が経験したことを通してしか理解できないことも多い。

問題なのは、その物差しをそのまま他人に当ててしまうことである。

自分にとって五キロの荷物が軽いからといって、すべての人にとって軽いとは限らない。

筋力も違う。

体格も違う。

既に別の荷物を背負っているかもしれない。

足を怪我しているかもしれない。

昨日から何も食べていないかもしれない。

外から見える荷物の重さが同じでも、その人が実際に負っている負担まで同じとは限らない。

これは、人の苦しさを考える上で、とても重要なことだと思う。

そして厄介なのは、成功体験を持っている人ほど、自分の物差しに説得力を感じやすいことである。

「私だって苦労した」

「私だって逃げなかった」

「私だって努力した」

それは事実なのだろう。

その努力を否定する必要もない。

しかし、自分が乗り越えられたという事実は、他人も乗り越えられるという証明にはならない。

むしろ、「私はこれで成功した」という経験が強ければ強いほど、「この方法が正しい」という確信に変わりやすい。

そして、その確信が、

「できない人間は努力していない」

「耐えられない人間は弱い」

「自分と同じことをすればいい」

という考えにつながることがある。

善意であるからこそ、難しい。

本人は相手を苦しめようとしているわけではない。

「自分もこれで成長できたのだから、この人にもできるはずだ」と思っている。

だから励ます。

だから叱る。

だから我慢させる。

だから逃げ道を塞ぐ。

しかし、善意から始まった行動であっても、相手の限界を超えてしまえば、その人を追い詰めることがある。

だから私は、他人を助けたり、育てたり、指導したりするときには、「自分ならできるか」だけではなく、「この人にとってはどうなのか」という視点が必要だと思う。

ただし、ここでも反対側に振り切れてはいけない。

他人の限界は分からない。

だから何も求めない。

本人が「できない」と言ったら、すべてそのまま受け入れる。

それも違うと思う。

第八章で書いた通り、「できない」と「やらない」を区別することは必要である。

本人自身にも、本当の限界がどこにあるのか分からないことがある。

まして、子供であればなおさらだ。

だから、時には背中を押す。

挑戦させる。

努力を求める。

我慢してもらう。

責任を果たしてもらう。

社会の中で生きる以上、そうした働きかけが必要になる場面はある。

大切なのは、「自分はできたのだから、お前もできる」ではなく、「あなたは、どこまでならできるのだろう」と考えることなのだと思う。

やらせてみる。

様子を見る。

話を聞く。

方法を変える。

少し手伝う。

それでも難しいなら、負担を減らす。

反対に、まだできそうなら、もう少し挑戦してもらう。

つまり、相手の限界を最初から決めつけるのでもなければ、自分の限界を相手に押しつけるのでもない。

その人自身の限界を、その人と一緒に探していく。

私は、それが必要だと思う。

そして、この考え方は「平等」について考えるときにも重要になる。

全員に同じことを求めることは、一見すると公平に見える。

しかし、人間は同じではない。

能力も違う。

性格も違う。

環境も違う。

抱えている事情も違う。

だからといって、すべての人に違うルールを適用すればいいという単純な話でもない。

社会には秩序が必要だからだ。

守らなければならない最低限のルールもある。

他人の権利を侵害してはいけない。

引き受けた責任があるなら、可能な範囲で果たす必要がある。

自分の事情だけですべてが許されるわけではない。

だから必要なのは、

「同じルールの中で、違う人間がどうすれば共に生きられるのか」

を考えることなのだと思う。

できないことがあるなら、方法を変える。

助けが必要なら、助ける。

本人にもできる努力は求める。

周囲にも、可能な範囲で理解を求める。

そして、どうしても両立できないのであれば、環境や役割を変えることも考える。

「全員同じようにやれ」でもない。

「事情があるなら何をしてもいい」でもない。

その間にある答えを探し続ける。

人間が一人ひとり違う以上、おそらく、すべての人に当てはまる完璧な答えはない。

だからこそ、他人の弱さについて簡単に判断しないことが大切なのだと思う。

「これくらい普通だ」

「みんなやっている」

「私にもできた」

「努力すればできる」

そう言いたくなったときに、一度だけ考えてみる。

その「普通」は、誰の普通なのか。

自分の強さを、他人の最低基準にしてはいないか。

自分が耐えられた苦しさを、他人にも耐えるよう求めてはいないか。

自分の成功体験を、他人の義務にしてはいないか。

自分の弱さと限界を知ることができれば、他人にもまた、自分とは違う弱さと限界があることが見えてくる。

自分の物差しを捨てる必要はない。

ただ、それが自分を測るための物差しにすぎないことは、忘れない方がいい。

他人には、他人の物差しがある。

そして、人と共に生きるということは、その違いを無くすことではなく、違う物差しを持った人間同士が、どこで折り合えるのかを探していくことなのだと思う。


 

第十章 他人の限界をどう見極めるか


前章では、自分の物差しで他人の限界を測ってはいけないと書いた。

自分には簡単にできることでも、他人には難しいことがある。

自分が耐えられたからといって、他人も同じように耐えられるとは限らない。

では、他人の限界を、私たちは何によって判断すればいいのだろう。

苦しそうな顔をしていたら限界なのか。

泣いていたら限界なのか。

「もう無理」と言ったら限界なのか。

反対に、「大丈夫」と言っているうちは大丈夫なのか。

私は、そんなに単純なものではないと思う。

人によって、苦しさの表し方は違う。

少し嫌なだけでも大きな声で「無理」と言える人もいる。

本当に限界を迎えるまで、何も言わない人もいる。

苦しいときほど笑って誤魔化す人もいる。

そして、本人自身が、自分の限界を正確に理解しているとも限らない。

特に子供の場合は難しい。

「子供の気持ちを尊重しましょう」

「嫌がっていることを無理にさせるのはやめましょう」

言葉にするのは簡単である。

しかし、実際に子供を育てている親からすれば、

「そもそも最初から『ヤダ!』と言って、何もやってくれないんだけど」

ということもあるだろう。

宿題は嫌だ。

歯磨きも嫌だ。

お風呂も嫌だ。

片付けも嫌だ。

学校へ行く準備も嫌だ。

そのすべてを「この子の限界なのだ」と受け入れていたら、日常生活そのものが成り立たなくなる。

ここで区別しなければならないのは、「嫌だ」という感情と「できない」という限界である。

嫌なものは嫌でいい。

その感情まで否定する必要はない。

しかし、「嫌だと思っている」からといって、直ちに「だから、やらなくてもいい」ということにはならない。

人は生きていれば、嫌でもやらなければならないことがある。

大人にもあるのだから、当然、子供にもある。

そして、もう一つ考えなければならないことがある。

人は経験から学習する。

以前、「ヤダ!」と言ったら、親が諦めてくれた。

もう一度「ヤダ!」と言ったら、またやらなくて済んだ。

それが何度も繰り返されれば、「強く拒否すれば、嫌なことから逃れられる」ということを学ぶ場合もある。

これは、子供が悪知恵を働かせて親を騙している、という単純な話ではない。

人は、自分にとって有効だった行動を繰り返す。

大人だって同じである。

だから、「嫌だ」「無理」という言葉だけを見て、それを本人の限界だと判断することはできない。

反対の学習もある。

「つらい」「もう無理」と訴えても、「甘えるな」「みんなやっている」「もっと頑張れ」と押し返され続けた人は、限界を迎えていても「大丈夫」と言うようになるかもしれない。

つまり、

「無理」と言う人が、本当に限界とは限らない。

「大丈夫」と言う人が、大丈夫とも限らない。

だからこそ、限界を見極めることは難しい。

私は、特に子供に対しては、最初から何でも「無理をさせない」という姿勢を取ることにも慎重でありたい。

なぜなら、ある程度やってみなければ、その子に何ができるのかも、何ができないのかも分からないからだ。

挑戦してみる。

少し我慢してみる。

やり方を変えてみる。

人に教えてもらう。

何度か繰り返してみる。

その過程があって初めて、

「これは慣れればできることなのか」

「努力すれば伸びることなのか」

「方法が合っていないだけなのか」

「それとも、本当にこの子には大きな負担なのか」

ということが少しずつ見えてくる。

だから、ときには大人が背中を押すことも必要だと思う。

そして、本当にやらなければならないこと、絶対にやってはいけないことについては、毅然とした態度を取ることも必要だ。

ただし、私は、その「絶対」をできる限り少なくするべきだと思っている。

何でも禁止する。

何でも命令する。

親の好みに合わなければ叱る。

子供が親の期待した通りに動かなければ許さない。

それでは、何が本当に大切な境界線なのか分からなくなる。

何より、それは教育ではなく、支配に近づいていく。

だから、子供自身に任せられることは、できるだけ任せればいい。

好きなもの。

嫌いなもの。

趣味。

服装。

得意なこと。

苦手なこと。

誰と仲良くしたいのか。

何に興味を持つのか。

何を目指すのか。

失敗することさえ、本人に任せられることはある。

しかし、命や身体に重大な危険が及ぶこと。

他人を傷つけること。

共同生活を成立させるためにどうしても必要なこと。

子供自身の将来を守るため、大人が責任を持って教えなければならないこと。

そうした少数の境界線については、

「これはダメだ」

「それは許さない」

「これはやらなければならない」

と、明確に示す必要がある。

私は、そこで毎回キャンキャン怒鳴る必要はないと思っている。

むしろ、本当に譲れない場面だからこそ、感情的に怒鳴り続けるのではなく、静かに、短く、迷いなく伝える。

普段とは違う鋭い視線で、「ダメだ」「今すぐやりなさい」と伝える。

子供が、

「これは、いつものお願いとは違う」

「ここは抵抗しても覆らない」

と理解できるだけの毅然とした態度が必要な場面もあると思う。

なぜなら、曖昧な状態で押し問答を長引かせることが、必ずしも子供のためになるとは限らないからだ。

最初は単に、「面倒だからやりたくない」だったのかもしれない。

しかし、

「やりなさい」

「ヤダ」

「お願いだから」

「絶対ヤダ」

「じゃあ、あと五分したら?」

「ヤダ」

と延々と続けているうちに、問題そのものよりも、親子の意地の張り合いになることがある。

子供も、「ここまで抵抗したのだから、今さらやりたくない」となる。

親も、「ここまで言ったのだから、絶対にやらせる」となる。

そうなれば、もはや何のためにやらせているのか分からない。

だから、本当に必要なことなのであれば、最初の段階で境界線を示し、その代わり、必要のないことではできるだけ自由にさせる。

私は、その方が子供にとっても分かりやすいと思う。

怖い親になる必要はない。

「何をしたら怒られるか分からない親」と、「普段は自由にさせてくれるけれど、この線だけは絶対に許さない親」は違う。

前者には恐怖がある。

後者には予測可能性がある。

ただし、大人が「絶対」という強い力を使うのであれば、大人自身にも責任がある。

なぜ、それをやらなければならないのか。

なぜ、それをしてはいけないのか。

誰の何を守るためのルールなのか。

本当に強制する必要があるのか。

そこに中身がなければならない。

「親の言うことだから」

「先生の言うことだから」

「みんなやっているから」

「気に入らないから」

というだけでは、

単なる強制や強要になりかねない。

それを「教育」などと呼んではいけない。

そして、ここからが本当に難しい。

必要性があるからやらせてみた。

最初は嫌がっていたけれど、少し背中を押して挑戦させた。

それでも、どうしてもできない。

何度やっても強い苦痛が生じる。

以前できていたことまでできなくなっている。

明らかに表情や行動が変わっている。

眠れない。

食べられない。

休んでも回復しない。

方法を変えても難しい。

特定の場所や人間関係の中でだけ、極端に状態が悪くなる。

そうした変化が続いているのであれば、そこで初めて、「これは単なる『嫌だ』ではないのではないか」と考える必要がある。

もちろん、これらの反応があれば必ず限界だという意味ではない。

人間に、誰にでも当てはまる「限界判定表」があるわけではないからだ。

大切なのは、一つの言葉や一瞬の表情だけで決めないことだと思う。

本人の話を聞く。

普段との違いを見る。

どのくらい続いているのかを見る。

休ませてみる。

負担を少し下げてみる。

やり方を変えてみる。

一人ならできるのか。

誰かと一緒ならできるのか。

時間を変えればできるのか。

そして、これまで似たような場面で、どのような反応をしてきたのかを見る。

そうした試行錯誤の中で、その人の限界は少しずつ見えてくる。

だから、他者の限界を見極めるということは、相手の「無理」を何でも信じることではない。

反対に、「甘えるな」と疑い続けることでもない。

最初から限界を決めつけない。

必要なことなら挑戦してもらう。

ときには我慢してもらう。

必要なら大人が毅然と境界線を示す。

しかし、その後の反応をよく見る。

そして、本当に難しいことが見えてきたら、そこで方法を変える。

負担を減らす。

環境を変える。

場合によっては、やめるという選択もする。

他人の限界とは、外から眺めただけで発見できる一本の線ではない。

本人の言葉だけで決まるものでもない。

挑戦と観察、対話と試行錯誤を繰り返しながら、本人と周囲が一緒に探していく境界なのだと思う。

「嫌だ」と言ったから、何もさせない。

「必要なことだから」と、どこまでもやらせ続ける。

私は、そのどちらも違うと思う。

必要なことには毅然と向き合う。

しかし、本当に限界があるのなら、その限界にも毅然と向き合う。

必要なのは、何でも許す優しさでも、何でも従わせる強さでもない。

押すべきときには押し、引くべきときには引くために、その人を見続けることなのだと思う。


 

第十一章 弱さと限界を認めることは、諦めることではない


「自分には、こういう弱さがある」

そう認めたからといって、

「だから、努力しても意味がない」

ということにはならない。

「この子には、こういう苦手なことがある」

そう分かったからといって、

「では、この子には何も期待しない方がいい。」

ということにもならない。

弱さを認めることと、可能性を否定することは違う。

限界を認めることと、その人を見捨てることも違う。

むしろ、本当の意味でその人の可能性を考えるためには、その人の弱さや限界を正しく見る必要があるのだと思う。

できないことを「できるはずだ」と思い続けていれば、本当に伸ばせるものが見えなくなることがある。

苦手なことを克服するためだけに、膨大な時間と精神力を使ってしまう。

何度失敗しても、「まだ努力が足りない。」と自分を責め続ける。

あるいは、他人に対して、

「この人なら、いつか分かってくれる」

「もっと言えば変わってくれる」

「もっと厳しくすればできるようになる」

と期待し続ける。

しかし、それが本当に本人のためになっているとは限らない。

人を諦めないということは、その人を自分の理想の姿に変えるまで働きかけ続けることではない。

その人が持っているものを見つめることなのだと思う。

何ができるのか。

何が苦手なのか。

どこまでなら努力できるのか。

どこから先は大きな負担になるのか。

どのような環境なら力を発揮できるのか。

どのような場面では問題が起きやすいのか。

そして、その人が持っているものの中で、何を伸ばしていけるのか。

そこを考える。

子供についても同じである。

子供には大きな可能性がある。

だから、最初の「嫌だ」だけで可能性を閉ざす必要はない。

やってみる。

挑戦してみる。

少し我慢してみる。

失敗してみる。

もう一度やってみる。

必要なことであれば、大人が背中を押すこともある。

ときには、「これはやらなければならない」と毅然とした態度を取る必要もある。

その経験を通して、できるようになることもあるだろう。

しかし、何度挑戦しても難しいこともある。

方法を変えても難しい。

本人なりに努力しても、強い苦痛が続く。

そうであれば、「まだ努力が足りない」と考えるのではなく、「この子には、こういう弱さや限界があるのかもしれない」と考える必要がある。

それは、その子を諦めることではない。

むしろ、その子を、自分の理想ではなく、その子自身として見始めることなのだと思う。

大人についても同じだ。

人付き合いが苦手な人に、社交的な人間になることだけを求めなくてもいい。

怒りやすい人に、二度と怒らない人間になることだけを求めなくてもいい。

孤独に弱い人に、一人でも平気な人間になることだけを求めなくてもいい。

嫉妬しやすい人に、嫉妬という感情そのものを消すことだけを求めなくてもいい。

重要なのは、その弱さがあることを認めた上で、自分や他人を傷つけない方法を考えることである。

怒りやすいのであれば、怒っているときには重要な判断をしない。

嫉妬によって人を傷つけてしまうのであれば、比較し続ける環境から距離を取る。

孤独に弱いのであれば、人とのつながりを大切にする。

一人では難しいことがあるなら、人に助けてもらう。

できないことがあるなら、できる方法を探す。

それでもできないなら、その事実を認める。

そして、その扱い方を覚える。

第一章で、人間を植物に例えた。

トリカブトから伸びるのは、トリカブトの枝である。

ドクゼリから伸びるのも、ドクゼリの枝である。

そこに突然、桜や薔薇の花が咲くわけではない。

だからといって、育てる意味がないわけではない。

どのような土で育つのか。

どれくらいの水や光が必要なのか。

どの方向へ枝を伸ばせばいいのか。

どこを支えれば倒れにくいのか。

周囲を傷つけるような伸び方をしているのであれば、どうすればそれを防げるのか。

その植物を別の植物に変えることはできなくても、その植物なりの育ち方を考えることはできる。

そして、まだ根や幹が形づくられている途中の子供であれば、なおさら、その環境には大きな意味がある。

だから私は、「人は変われない」という考えと、「人を諦めない」という考えは、矛盾しないと思っている。

人は変われると信じることは、希望ではない。

妄想である。

何度でも言おう。

知識や行動は変化するが、性根は変わらない。

だからこそ、変われないことを認めながら、それでも、その人が少しでも良い方向へ枝を伸ばせるように考えることこそが、希望だと思う。

もちろん、努力は必要だ。

我慢が必要なこともある。

挑戦しなければ、自分の可能性も限界も分からない。

だから、簡単に諦める必要はない。

しかし、努力しても変えられないものまで、努力不足のせいにする必要もない。

我慢しても消えない苦しさを、我慢不足のせいにする必要もない。

大切なのは、努力することと、限界を認めること。

挑戦することと、諦めること。

自分を受け入れることと、自分を律すること。

他人を尊重することと、必要なことを求めること。

そのどちらか一方だけを正しいものにしないことなのだと思う。

人には弱さがある。

人には限界がある。

それは、自分にもある。

自分が大切にしている人にもある。

自分が理解できない人にもある。

だからこそ、自分にも他人にも、「できるはずだ」を押し付けない。

かといって、「できないから仕方がない」だけで終わらせない。

できることはする。

伸ばせるものは伸ばす。

果たすべき責任は果たす。

必要なら助けを求める。

他人にも助けを求められたら、できる範囲で手を差し伸べる。

そして、それでも変えられないものが残ったときには、その現実を認める。

弱さを認めることは、諦めることではない。

それは、自分や他人を理想の姿に無理やり押し込めることをやめ、その人が実際に持っている可能性と限界の両方を見つめることなのだと思う。

そして、その現実から、もう一度、

「では、ここから何ができるのか」

と考え始めることなのだ。


おわりに

私はこの記事で、弱さや限界を認めることの大切さについて書いてきた。

人は変われない。

しかし、努力には意味がある。

我慢しなければならないこともある。

簡単に諦めず、挑戦することも必要だ。

特に子供には、自分でもまだ知らない可能性がある。

だから、ときには大人が背中を押すことも必要だし、本当に必要なことであれば、毅然とした態度で「やりなさい」と伝えなければならない場面もある。

しかし、それでも人には限界がある。

努力しても、できないことがある。

我慢しても、消えない痛みや虚しさがある。

何度挑戦しても、同じところで躓くこともある。

その現実まで、

「努力が足りない」

「我慢が足りない」

「もっと頑張れば変われる」

という言葉で押し潰してしまう必要はない。

自分には、こういう弱さがある。

自分には、こういう限界がある。

まずは、それを認める。

そこから、

「では、どうすればいいのか」

と考えればいい。

それがこの記事で最も伝えたかったことなのだと思う。

ただ、本音を言えば、私はいつもそんな眼差しで人を見られるわけではない。

自分の弱さを認めようとしない人もいる。

嫉妬しているのに、それを認めない。

承認されたくて仕方がないのに、それを「社会のため」「誰かのため」と言い換える。

自分にも原因があるのに、起きている問題のすべてを他人の責任にする。

自分の限界を認めることができず、それを埋めるために他人を傷つける。

そして、また問題が起きれば、誰かのせいにする。

そういう姿を見ていると、私は残念な気持ちになる。

ときには、冷ややかな目で見てしまうこともある。

弱さがあるからではない。

私にだって弱さはある。

限界もある。

嫉妬することもあれば、承認されたいと思うこともある。

腹が立つこともある。

逃げたくなることもある。

間違えることだってある。

だから、弱いこと自体を責めたいわけではない。

私が残念に思うのは、「弱さを認めることから逃げ続けていること」である。

自分は嫉妬しているのかもしれない。

自分は認められたいのかもしれない。

自分は孤独に弱いのかもしれない。

自分は怒りを制御することが苦手なのかもしれない。

自分には、どうしてもできないことがあるのかもしれない。

自分にも、間違っているところがあるのかもしれない。

それを認めて初めて、

「では、どうすればいいのか」

という次の問いに進むことができる。

弱さを認めることは、ゴールではない。

スタート地点なのだ。

だから、自分の弱さを認めないまま問題を繰り返している人を見ると、

「この人は、まだここから一歩も前に進めていないのだな」

と思ってしまう。

そして、ここにはもう一つ、認めなければならない限界がある。

本人が認めようとしない弱さを、他人が代わりに認めることはできても、本人に無理やり認めさせることはできない。

どれだけ説明しても、どれだけ話し合っても、どれだけ待っても、本人が自分自身を見ることを拒んでいる限り、その人に代わって前へ進むことはできない。

それでも、

「いつか分かってくれる」

「もっと説明すれば変わってくれる」

「自分が支え続ければ、いつか気付いてくれる」

と考えて関わり続ければ、今度は自分が疲弊していく

だから私は、そういう人とは距離を取る。

相手を罰するためではない。

その人の人生には価値がないと思っているわけでもない。

いつか、自分自身と向き合う日が来るかもしれない。

その可能性まで否定する必要はない。

しかし、それを私が待ち続ける必要もない。

私が説得し続ける必要もない。

私自身にも、時間がある。

感情がある。

人生がある。

そして、限界がある。

そう考えると、距離を取るときの私の心は、確かに少し「諦め」に近いのかもしれない。

しかし、それは、その人の人生そのものを諦めたということではない。

変えることのできないものを、自分の責任から手放したということなのだと思う。

考えてみれば、それもまた、この記事で書いてきた「限界を認める」ということなのかもしれない。

自分の弱さを認める。

自分の限界を認める。

他人にも弱さがあることを認める。

他人にも限界があることを認める。

そして最後には、

他人を自分の力で変えることはできないという、自分自身の限界も認める。

努力することは大切だ。

我慢することも、ときには必要だ。

簡単に諦めず、挑戦することにも意味がある。

しかし、努力と我慢だけで、すべてを解決できるわけではない。

変えられないものまで変えようとして、自分や他人を壊す必要はない。

弱さを認めることは、敗北ではない。

限界を認めることも、人生を諦めることではない。

むしろ、

「ここまではできる」

「ここから先は難しい」

「これは自分には変えられない」

そうやって現実を正しく見つめることができて初めて、自分の力を、本当に変えられるものへ向けることができる。

弱さを認めないと、始まらない。

限界を認めないと、前に進めない。

だから私は、自分の弱さも、他人の弱さも、そして自分にはどうすることもできない現実も、できるだけ正確に見つめていたい。

その上で、

「では、自分にできることをしよう」

そう考えながら、生きていきたいと思う。

いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻


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のむらパターソン和孝 旭川市議

ネバギバランド 木村浩一郎×工藤年泰

市の隠蔽を暴いた時の報道(テレ朝)

匿名さんのレビュー

元中学教員です。
書かれている内容から、どのような状況だったか、手に取るようにイメージできます。

「学校は何もしなかった」と安易にマスコミや世間は叩くけれど、じゃあ何ができたというのか。
自分たちが中学生の時、スマホやネットがなかった時代でさえ、「大人」が「中学生」を安易に理解できたか。「中学生」が「大人」に今日どこで何をしてどんなことがあったかを逐一報告したか。
自分たちの中学時代に置き換えて状況をもう少しでいいから想像して欲しい。
そこにスマホが加わることで、子供たちの世界はどれだけ大人から見えない物になってしまったか。
もう少し「中学生の今」を考えてみてほしい。

さらには、入学してきてたった数ヶ月の出来事。
生徒への理解、生徒同士の人間関係が少しずつ見えてきた矢先の事件であり、「いじめ」に相当する出来事のほとんどは学校外で起きていた。
教室内・学校内で起こっていたのであれば、学校・教師の責任を追及する声が上がっても仕方ない。
家庭に帰してからの出来事、さらには他校の生徒が絡んだ案件を、保護者すら把握できないのに、担任が、教員がどこまで即座に把握し、指導できるというのか。糾弾している人々にそのすべを教えてもらいたい。

もちろん、他校とも連携を取り、事実確認をしたり、それぞれ話をしたりはする。
一同に集めて話をするのは難しいし、さらにスマホの中での付き合いも加わると、人間関係が複雑で対応は困難を極める。
そこは本当に「学校の」責任の範疇なのか。
起きた事実が「いじめ」や「犯罪」かはさておき、放課後や夜間、休日に起きている出来事すら「学校・教師の責任」なのだろうか。

こんなにも多くの児童生徒が居場所を求めて公園に頻繁に長時間集まっていた。
その時点で保護者や地域にもできることはあったし、動くべきであった。
が、その責任は誰にも追及されない。

学校現場は、外部の方々が思っている何倍も、「トラブルの連続」である。
毎日のように何かしらのトラブルが起き、悩みを抱えた子がごまんといる。
そして、多感な成長過程にある子供たちは、常にそれぞれに課題を抱えている。

現場にいたとき、いつも子供たちに言ってきた。
「人と人とのトラブルは、0対100というケースはほとんどないんだよ。
向こうが全部悪い、私は悪くないと思ってるかもしれないけれど、自分にも何か問題がなかったか考えてみよう」
私は個人的に「限りなく0対100に近いケース」がいじめであると考えている。

本当に本当に悲しい事件だと思う。
しかし、残念ながら、似たような案件は、全国のあちこちに転がっている。
今回の被害者がそうであるかは私には分からないが、心に闇を抱える女の子の多くが、自らの性を、寂しさを解決する手段に使うケースを山ほど見てきた。
自分への興味関心を引き、誰かに求められる・必要とされる実感を得られる、最も分かりやすい「ツール」だからだ。
性の入口に立った中学生達は安易にそれに飛びつくし、特に勉強や部活への興味ややる気をなくし、目的や目標を持てずにいる子供たちにとっては、格好の娯楽となる。

「いじめだ!!」「学校の怠慢だ!!」と声高に叫び、介在した生徒・教員達を叩きまくることで何が生まれ、何が変わるというのか。
この件は、スマホ依存社会、同時に核家族化・共働き化が推し進んだ中で、そのすき間で危ういバランスの人間関係を保っている中学生なら、全国どこででも起こりえる事件だ。
表面化していないだけできっともう同じような事件はたくさん起きていると思う。
失われた尊い命を「無駄にしない」というのは、ただ誰かを叩き、吊るし、結果論で物を言うのではなく、その背景をしっかり理解し、原因や対応策を考え、さあやさんのように、寂しさや孤独を抱えた子供たちを救うこと。ただその一点にあると思う。

2024年6月30日 1:26 PM

匿名さんのレビュー

私も、入水後に入院した病院で治療を継続できなかったのか、ここがターニングポイントだったのかも?と思います。
児童デイや放課後デイは、家庭⇔学校⇔病院⇔福祉を繋ぎます
彼女特有の寂しさや人間関係の困難さ等のサポートが受けられる架け橋になれたはず。
この病院は、この点を指摘してました。
また、引っ越しや転校も彼女の気持ちからするともう少し慎重になれていたら、とも思います。
学校に弁護士を同伴して謝罪を受けられていたら、また入院費や引っ越し等の補償が出来ていたら、遺族はここまで執拗に先生や先輩を追い詰めなかったのか?遺族の本当の目的は何なのでしょう?私なら、売春させられていたとかレイプを受けた、と言われる方が娘の名誉の為に許せない行為ですが。そんな事を配信し続けるインフルエンサーには弁護士からの指摘はないですよね?
A子の「死ぬ気もないのに〜」って言う言葉も、受け取り方でこんなに変わってしまうなんて。A子にとっては、思い留めさせる為だった発言が彼女にとっては言って欲しくなかった一言。大人でも難しいなと思う出来事がまだ10代の子にダメ出しをする、そして死の責任まで言及する、ネットで名前も顔も出される、こんな世の中間違っている。
彼女の死で関係者の将来を潰す事、これが延長線で行われみんなが正義と信じ一致団結したように行われている事に吐き気がします。

2024年6月30日 7:53 PM

匿名さんのレビュー

子供に起こるさまざまな出来事。
起こった良いことを一緒に喜び、辛かったことを聞いて慰める役目を一番に担うべきなのは、子どもの変化に目を向け、小さな変化にも気付き、その原因を突き止めて解消するのは親の役目。

子どもの困りごとに寄り添い、その解消に繋がる道を模索するのも親の役目。
学校も行政も、親からのSOSを受け手助けをする1ピースでしか無い。

学校や行政のせいにし叩き続けている限り、いじめによる自死は無くならないだろう。

2024年6月30日 10:26 PM

学校とはさんのレビュー

再調査委員会の会見見ました。転校先の学校は前中学校でおきたいじめのフラッシュバックの対応までしなければならないのでしょうか。警察も学校もかなり高いレベルでの対応を要求されていますが、ひとりの生徒に対し無理だと感じました。学校の授業以外で校外やSNSを含めた対応を求められ、足りなかった場合は袋叩きに合うのであれば、誰も教員になれないと感じました。

2024年6月30日 11:44 PM

匿名さんのレビュー

発達障害の診断自体、専門医が少なく、予約して半年待ちはザラ。半年という時間は成長期の子供にとって貴重。思春期の二次障害については、受診できる病院が少ない。他県のものですが、これは全国的な課題だと思います。
15歳で思春期外来から精神科が受診先になることをみこした治療をすすめる。医師だけでなくコメディカルによるチーム医療ができる病院がよい。とスクールソーシャルワーカーをしている知人から聞いたことがあります。
遺族の手記が2つあり、文春本裏の30ページと、2021年8月18日公表3ページを読みましたが、いじめが起こる前後と学校側の対応のずさんさを強調した内容。
被害者にとっては小学校高学年から出現した特性ゆえの行動からの進級の選択、疲労につながる塾通い等の考慮、ネット依存状況の把握と離脱、なにより強く訴えている「さびしい」を受けとめてネット以外の心の安定につながる依存先を作っておくことだったと思います。この判断ができなかったという事では、母親にもこの時点で支援が必要だったと思います。
(実際のところはわかりませんが)
入院先での治療を継続すべきだったとのコメントが、ここまでに三人寄せられています。ここが転機だったでしょう。同感です。
再調査委員会最終報告は、自死といじめの因果関係を認めることで、被害者とさして年のかわらぬ子供達に、大人も背負うべきである責任を子供達に背負わす内容。代理人が誇らしげに全国モデルにと言ってたようですが、とんでもないことだと思います。なぜ死を選ぶほどつらい思いをしたのか。黒塗りなどせず公表し真実とむきあうことが、被害者の追悼です。

2024年7月2日 3:05 PM

匿名さんのレビュー

いじめ問題に関して被害者の発達障害について言及すると、
「発達障害を抱えているからっていじめられて良いというのか!」と批判する人が多い。
けれどそういう人達って、
発達障害を抱えている人達の生きづらさを理解しようとすらしていないし、発達障害に対して差別的な認識をしている。
そんな人達が被害者の事を理解せずに、自分の都合や当事者を蔑ろにした認識を押し付けるばかりで、
被害者だけでなく教師なども苦しめている事に目を向けない。

ふつざわさんは発達障害について言及しているけれど、
亡くなられた子が抱えていた特性に対して真摯に向き合っているからであって、そこには理解しようとする姿勢がある。
逆に、
彼を誹謗中傷している人達が、
理解されない事で苦しみ続けていた子に関して、
不都合な事実から目を逸らし続けるのは、
亡くなられた子が抱えていた苦しみを全く理解していないからとしか思えない。

私の場合、
私自身にそういう傾向があるからこそ、
当事者であるからこそ、
死にたくなるほど辛い思いをしてきた人の気持ちがわかる。
だからこそ、
亡くなられた子の等身大の人物像を隠蔽し、
自分達の都合の為に創り上げた虚像を掲げて、
更なる被害を生み出している連中に対して強い憤りを感じている。

イジメの有無ではなく、
「孤独(理解されない苦しみも含む)」こそが死に至らしめるほど心を苦しめる病であり、
衝動性がそれをより深刻な事態に発展させる要素。

2024年7月6日 7:10 AM

あるくむさんの応援メッセージ

世間の論調、それを形成したマスメディアの報じ方と実情がこれほどかけ離れていたことに、驚愕と強い反省を覚えます。昨日もマスメディアは詳細を伏せ、ヤフコメでは加害者晒しなどと全くの誤解憶測が飛び交ってます。とは言え昨日までの私の認識も大差ないものでした。恥ずかしいです。

真実はなぜ伏せられ続けたのか。遺族と協議して黒塗りしたという報道がなされていますが、その協議とは如何なる根拠で、いかなるプロセスで行われたのか。被害者と遺族の抱えた問題をプライバシー配慮という名の下に伏せたことは本当に正しいのか。それによって曲げられた真実は独り歩きして別の誰かを傷つける。社会課題を解決するふりをして、私たちは別の誰かに皺を寄せただけではないか。あなたの行為は多くの根本的な疑問を浮き彫りにしました。

自分も家族に精神障害者を抱えた当事者家族の立場から述べますが、全ての少年少女が障害や多様性を理解し対応できる日は来ないと思います。もちろん、そのための努力は尊いものですが、社会設計は理想や建前だけでは成立しない。そういう楽観論だけでいじめは無くならない。だからこそ本件は徹底した検証がなされるべきだと思いました。あなたが公開した行為の是非はともかく、行動を起こしたからには全ての経緯を公正な手段でつまびらかにしていただきたいと願います。メディアには、手記や告発レポートの形で切り取りしない全文を世に出す責任を果たしていただきたい。

2024年6月25日 6:11 AM

匿名さんからの応援メッセージ

公開してくれたんで、黒塗り版を作った人たちが何を隠したかったのか浮き彫りになると思う
後でゆっくり見させてもらいます、ありがとうございました

2024年6月25日 6:03 PM

匿名さんからの応援メッセージ

あなたは正義の味方です
これからも応援します

2024年6月25日 7:58 AM

匿名さんからの応援メッセージ

公開された正義感と勇気に敬服しました。
文春の記事のいい加減さに、あきれました。公開されなかったら、決して表に出てこなかった事実と感じます。
いじめと自死との関係性について、考えさせられました。
いじめを解決することで、自死を防ぐことができたか、疑問に感じるとともに、
結局、自死を防ぐ有効な手段が見当たらない(現在も)と感じました。

2024年6月25日 7:59 PM

匿名さんからの応援メッセージ

あれだけ大きく報じられ、全国からの問い合わせによって第三者委員会の調査が決まったのに、出来上がった報告書は黒塗りだらけで、なんだこれ?って思ったことを覚えています。
今回全てが読めて、リスク承知で公開してくれたことに、個人的にはありがとうございますと言いたいです

被害者の子が抱える、寂しさや、思春期と発達障害による特性の混ざりあった、お母さんとの衝突やクラスメートとの関わり方の悩み、自分を制御できないもどかしさ等、黒く塗られて知り得なかったことが知れ、どれほど辛かっただろう…と公表版の報告書を読んだ時よりも、より胸が痛みました
同時に、これらのことが何故隠されなければならなかったのか理解に苦しみます

また、ネットニュース等で悪の化身のような書かれかたをしていた校長先生はじめ教師の皆様が、なにも対応していなかったわけでは無かったと知ることができ、学校もすてたもんじゃないなとも思えました

AとBいう選択肢があって、Aを選択したのは間違いでBを選択すれば良かった(Bもするべきだった)
というような文言をよく目にしますが、AもBも選択していれば結果が違ったものになっていたかは誰にも解りません
現場の教師の方々は日々そういった選択を余儀なくされているのですから、むやみやたらに責めるのは辞めて欲しいです

調査報告書が誰かを責めるためのものではなく、起こってしまったことを次に生かすためのものでありますように
また、なるべく黒塗りのない状態で公表され、一人でも多くの人がいじめについて考えるものになりますように

2024年6月25日 10:45 PM

匿名さんからの応援メッセージ

テレビのニュースで見たので探してきました。
よくやった!感動した!!

2024年6月25日 11:35 PM

匿名さんからの応援メッセージ

これは大変勇気のいることだったでしょう。
それでもいじめとそれに関わる人間に立ち向かう姿に感動しました。

2024年6月26日 2:52 AM

匿名さんからの応援メッセージ

私は文春の記事を鵜呑みにして、学校の先生方を悪者と決めつけていました。
その事が恥ずかしいですし申し訳ない気持ちです。

学校の先生方はきちんと被害者に寄り添っていたと読み取れますし、
事実と異なる事を記事にされている加害少年達も一方で被害者と言えると思います。

一体誰のための何のための黒塗りだったのか。。

勇気を出して真実を公開して下さってありがとうございました。

2024年6月26日 8:35 AM

匿名さんからの応援メッセージ

あなたのYouTube Liveなどをよく拝見していました。
あの時、表立って言えないことがこんなにもあったのですね。
あなたの忍耐力に頭が下がります。

2024年6月28日 4:56 PM

匿名さんからの応援メッセージ

随分初期の頃から加害生徒とされる子・ご遺族の両方と繋がっておられたのですね
あなたがXで発信していたことの裏に様々な理由があったことを知りました
言葉が強かったり、一体何がしたいんだ…と思ったこともありましたが、理解できた気がします

2024年6月29日 8:04 PM

匿名さんからの応援メッセージ

2021年当時からふつざわさんの言葉を目にしており、自分なりに理解できたと思っていましたが
まだまだ知らなかった事ばかりで驚いています

いつの日だったか、あちらを立てるとこちらが立たなくなり悩むとどこかで言われていたように記憶しています

今回黒塗りなしの報告書を手にされて、相当悩まれたのではないかと想像しています

3年間見てきた中でこれだけは言えます

ふつざわさんは一貫して不当に叩かれている弱者の味方でした

これからも応援しております

2024年6月29日 8:35 PM

匿名希望さんからの応援メッセージ

黒塗り無しの報告書と内部告発を見て、事件の印象は全く変わりました。
いじめはあったものの、障害による特性と相まって起きた、事故に近い自死であったと認識しました。

加害児童と呼ばれる子達にも優しい面があり、何処にでも居る子供達なのだなと。

他にも知ってる嘘があれば告発してほしいです。
世論が変わるきっかけになると思います。

2024年6月30日 2:20 PM

匿名さんからの応援メッセージ

このサイトで今までの報道とは違う情報を知れてとても良かったです。
何があったのか、自殺だったのか家出だったのか、爽彩さんにしか分からない事ですが、苦悩を知り改善していく事が爽彩さんへの旭川市民として出来る誠意だと思っていました。
だから、某YouTuberに情報を提供した事もありました。
でも、彼は爽彩さんが売春させられていたとか加害児童と言われる子が暴力団と繋がっているとか、噂話をネットに流すだけ。
私にとっては、そんな証拠もない事をネットに流す事は爽彩さんの名誉を傷つける事、また爽彩さんへの誠意ではないと感じていました。
ただ、ネットでこのような意見を書けば加害児童の保護者か?と言われてしまうので。
一言言わせてください!
加害児童が何か今出ている情報よりもっと悪い事をしていても、あなた方の将来を潰していいとは思っていないし、爽彩さんもそんな事望んでいないと思っています。
あなた方が爽彩さんの事で反省や後悔をしていたら、他者に優しくしてあげてください。爽彩さんはきっと、それを望んでいますよ。
あなた方の将来を心配したり、少しでも健やかな毎日が送れる事を望んでいる旭川市民がいる事、お伝えしたかったです。

2024年7月1日 1:07 PM

いいじまさんからの応援メッセージ

自閉症スペクトラム障害の男児(8歳)父親です。
ウチの子もたまに「死にたい」とか衝動で飛び出したりします。

支援級や放課後等デイサービスに通って、今のところは協力いただきながらすくすくと育ってくれています。
成長すれば、色々と人間関係で出てくるかも知れません。

旭川事件は通りいっぺんの記事しか知りません。

ですが、
他人事とは思えず、大変勉強になりました。

ありがとうございます。

2024年7月1日 4:36 PM

匿名さんからの応援メッセージ

ふつざわさんの主張は、
発達障害を抱えている子が抱えていた本当の問題を理解しているからこそだと思うよ。

死にたくなるほど苦しんでいる子達に真剣に向き合ったことがない人達には分からないみたいだけれど、
孤独や理解されない苦しみこそが子供を死に至らしめる問題の本質だよ。

そもそも虐められても支えてくれる存在がいれば人は死を選ばない。

本件は、
支えるどころか自分達の都合を子供にも学校にも押し付けるばかりで、
子の認知を歪めに歪めて更に精神状態を悪化させた上に、
子供の孤立を更に深刻化させた人達が何故か被害者面し、
問題の解決に向き合っていた人達が不当に誹謗中傷されていることが問題。

2024年7月6日 9:33 AM

匿名さんからの応援メッセージ

「顔や名前が出てしまっているけど、遺族側から出てる情報だけでこんな状況おかしくないか?」と思っていても見て見ぬふりのいじめを続けていた私がいます
でも、ふつざわさんの話を見て考えが改まりました
ふつざわさんの話を一方的に信じているわけではなくて、爽彩さんが失踪したとの情報が出て以降、疑問に感じていた事がふつざわさんの話だと納得できる、一番辻褄が合うと感じたからです
だからって、今更私が声をあげても遅いのかも、見て見ぬふりをした時間は戻ってこない
爽彩さんの為にも、今 名前や顔を出てる人達の為にも、やっぱり私も動きます、ふつざわさんだけでなく私も。

2024年7月11日 3:04 PM

匿名さんからの応援メッセージ

陰ながら私も何か出来る事をしていきたいと思います。
優しい子ばかりが傷つくのは、もう嫌です…。

2024年7月14日 8:29 AM

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