はじめに
俺は、これまで色々な人に助けてもらってきた。
そのことについては、今でも感謝している。
ただ、感謝しているからといって、何でも受け入れられるわけではない。
俺には、どうしても嫌なことや、譲れないことがある。
そして、俺自身もそんなに出来た人間ではない。
間違えることもあるし、感情的になることもある。
格好をつけることも、姑息なことをすることもある。
人に対して「ダサいな」と思っていることを、自分でやってしまうことだってあると思う。
だから、この記事で「人間はこうあるべきだ」と言うつもりはない。
ただ、俺が人と関わる中で、何を大切だと思い、何を嫌だと思うのか。
その辺りを、一度ちゃんと書いておこうと思った。
人間関係では、言わなくても分かってもらえると思っていたことが、意外と伝わっていないことがある。
俺も、嫌だと思いながらその場では何も言わず、後になって距離を取ることがある。
それなら最初から、自分がどういう人間なのかをある程度伝えておいた方が、お互いに余計な誤解をしなくて済む。
もちろん、ここに書いたことを読んだからといって、俺に合わせてほしいわけではない。
合う人とは自然に付き合えばいいし、合わない人とは無理に付き合わなくていい。
俺もその方が楽だ。
目次
第五章 格好悪い部分を必死に隠し、その上に立派な自分を作り続ける人が苦手。
第一章 感謝はする。でも、ほとんど返せない。
活動を応援してくれた人もいれば、困っているときに手を差し伸べてくれた人もいる。
俺のために時間やお金を使い、実際に動いてくれた人もいる。
そのことには、今でも感謝している。
ただ、その感謝に十分な形で報いることは、たぶんできない。
感謝はする。でも、ほとんど返せない。
これが俺だ。
してもらったことを軽く考えているわけではないし、返したくないわけでもない。
単純に、俺にはそこまでの力がない。
俺が使える時間も、気力も、行動力も限られている。
そして、その限られた力を何に使うのかについては、自分の中で優先順位が決まっている。
まず、家族。
そして、目の前でいじめられている子供がいるなら、そのいじめを止めること。
俺は、そこに自分の力を使いたい。
だから、仲間からどれだけ多くのものを受け取っても、それと同じだけのものを返すことはできないと思う。
100のことをしてもらって、10しか返せないかもしれない。
1しか返せないかもしれない。
何もできないことだってある。
申し訳ないとは思う。
でも、「いつか必ず返す」とは言えない。
仮に俺に余力ができても、その力を家族や、困っている子供のために使うかもしれないからだ。
仲間が大切ではないという話ではない。
困っているときに、俺にできることがあれば助けることもある。
ただ、それを約束することはできない。
だから、俺に何かをしてくれる人には、同じだけのものが自分にも返ってくるとは期待しないでほしい。
こう書くと、薄情に見えると思う。
実際、俺には薄情なところがあるのかもしれない。
上下の関係が出来上がったと勘違いする。
人から受けた恩にきちんと報いながら、人間関係を大切にしていける人を見ると、俺よりずっと人間ができていると思うこともある。
でも、できないことをできるように見せて付き合うことはしたくない。
俺は、してもらったことには感謝する。
関係が変わっても、「あのとき助けてもらった」という事実まで忘れるつもりはない。
ただ、その恩に十分報いることができるとは約束できない。
俺には、家族と、目の前のいじめを止めるための力しかない。
それでもいいと思ってくれる人と、俺は付き合っていきたい。
第二章 俺との関係を勝手に決めないでほしい。
俺は、人から勝手に関係を決められることが苦手だ。
これまで、俺のことを「右腕」「弟子」「後継者」などと呼ぶ人がいた。
反対に、自分のことを俺の「父」「母」のような存在だと認識し、それを周囲に公言する人もいた。
多くの場合、そこに悪意はないのだと思う。
親しみを持ってくれていたり、大切に思ってくれていたりするからこそ、そういう言葉が出てくることもある。
その気持ちは嬉しいし、ありがたい。
ただ、それと俺がその関係を受け入れることは別だ。
俺がその人を師匠だと思っていないのに、弟子と呼ばれる。
その人の思想や活動を受け継ぐつもりがないのに、後継者と呼ばれる。
とても違和感があるし、抵抗がある。
「右腕」についても、俺自身がそういう関係だと思っていなければ同じ。
父や母については、もっと単純だ。
俺の父親は、適当なことばっかり言っている、あの親父だけだ。
俺の母親は、論理的でもないくせに口うるさい、あのお袋だけだ。
色々と思うところはあるけれど、俺にとって父と母はあの二人しかいない。
ただ、俺の方から親しい年上の人に「兄貴」「姉さん」と呼ぶこともある。
相手との関係やその場の空気を見て、そう呼べば喜んでくれるだろうと思ったときに、親しみを込めて使っている。
だから、呼び方そのものが嫌なわけではない。
俺が嫌なのは、呼び方ではなく、その呼び方によって関係まで一方的に決められてしまうことだ。
最初は冗談や親しみの表現だったものが、いつの間にか当然の関係として扱われる。
周囲にもそう説明され、その関係を前提に俺のことを語られる。
さらに、その関係に応じた振る舞いまで求められる。
上下の関係が出来上がったと勘違いされることもある。
そうなってくると、俺は窮屈になる。
俺は、人に助けてもらうこともある。
相談することも、教えてもらうことも、頼ることもある。
第一章で書いた通り、そのことには感謝している。
でも、助けてもらったから弟子になるわけではないし、教えてもらったから後継者になるわけでもない。
親しくなったから家族になるわけでもない。
俺との関係を、自分を大きく見せるために使われることにも抵抗がある。
「自分が育てた」
「自分が面倒を見てきた」
「自分の後継者だ」
そんなふうに語られれば、俺が自分で考え、自分で選び、積み上げてきたものまで、その人から与えられたもののように見えてしまう。
それは嫌だ。
もちろん、実際に世話になったことまで否定するつもりはない。
教えてもらったことがあれば認めるし、助けてもらったことには感謝する。
尊敬しているところがあれば、普通に尊敬していると言う。
それで十分だと思っている。
たぶん俺は、人との距離感について少し面倒くさいところがある。
相手からすれば、「そんな深い意味で言っていない」と思うこともあるだろう。
俺も、そのくらいは分かっている。
だから、一度や二度そう呼ばれただけで腹を立てるわけではない。
ただ、それが繰り返され、いつの間にか既成事実になっていくのは嫌だ。
そして俺は、嫌だと思ってもその場では言わず、後になって距離を取ってしまうことがある。
だから、先に書いておきたい。
親しくしてくれるのは嬉しい。
世話になったことには感謝する。
でも、俺との関係を勝手に決めないでほしい。
俺とあなたがどういう関係なのかは、どちらか一方だけで決めるものではないと思っている。
特別な名前がなくても、俺は十分にあなたと親しくなれる。
第三章 自分を大きく見せることに夢中な人とは合わない。
俺は、自分を大きく見せることばかりに夢中な人が苦手だ。
ハッタリやブランディングそのものを悪いとは思っていない。
自分の実績を伝えたり、見せ方を工夫したりすることは、社会で何かをしようと思えば必要になる。
俺だって、自分をよく見せようとする。
ただ、そればかりになるとうんざりする。
誰と知り合いなのか。
どんな肩書きを持っているのか。
誰から評価されているのか。
どれだけ難しいことを知っているのか。
そんなものを次々と並べ、自分の価値を高く見せようとする姿を見ると、逆に頭が悪そうに見えてしまう。
自分を大きく見せることばかりに夢中な人は、知能が低そうに見える。
もっと頭を使うところがあるだろうと思うからだ。
議論でも、似たようなことを感じる。
「専門家が言っている」
「普通はこう考える」
「それが社会の常識だ」
専門家の知見には価値があるし、広く共有されている常識にも、それなりの理由はある。
それらを無視すればいいとは思っていない。
それでも、「専門家が言っているから正しい」で話を終わらせることには納得できない。
なぜ、その説明が妥当なのか。
なぜ、それを正しいと考えるのか。
俺が知りたいのは、その中身だ。
肩書きや多数派であることは、考えることの代わりにはならない。
専門用語や知識を使ってマウントを取ろうとする人にも、同じようなものを感じる。
簡単に説明できる話を、わざと難しくする。
必要以上に専門用語を使う。
本筋とは関係の薄い知識まで持ち出す。
そうやって相手の知らないことを並べ、自分の方が物を知っていると示そうとする。
俺には、あれが賢く見えない。
本当に難しい話なら、難しくなるのは仕方がない。
正確に説明するため、専門用語を使わなければならない場面もある。
単純に俺の知識が足りず、理解できない場合もある。
俺が嫌なのは、難しい話そのものではない。
難しさや知識を、自分を大きく見せるための道具にすることだ。
俺には、大した学歴がない。
しかし、そのことを卑下したことは、ほとんどない。
むしろ、そういうものを何も持っていないのに、色々な人と話し、色々な場所に首を突っ込み、ここまで渡り合ってきた自分を面白いと思っている。
だからなのか、俺には権威というものがよく分からない。
立派な大学を出ているから正しい。
肩書きがあるから正しい。
有名な人の発言だから正しい。
みんなが信じているから正しい。
そう言われても、それだけでは納得できない。
偉い人でも間違える。
常識だって変わる。
何の肩書きもない人が、筋の通ったことを言っている場合もある。
だったら、その人が何者なのかより、何を言っているのかを見ればいい。
俺はそう思っている。
他人の失敗や過ちを、自分を大きく見せる材料にする人も苦手だ。
誰かの間違いを見つけて、それを批判すること自体は何とも思わない。
俺もやる。
しかし、その失敗を必要以上に強調し、「あいつと違って自分は正しい」「自分の方が優れている」と見せようとする姿には、どうしても嫌悪感を覚える。
他人の失敗を使って自分を大きく見せようとする人は、見苦しい。
自分の価値を示したいなら、自分の持っているもので示せばいい。
他人を小さく見せなければ自分を大きく見せられないのなら、その大きさに何の意味があるのだろうと思う。
俺との関係を箔付けに使われることが嫌なのも、同じ理由だ。
俺と親しい。
昔から俺を知っている。
俺を助けたことがある。
そうした関係を、自分の価値を高める材料として利用されることには抵抗がある。
俺は、肩書きのある人が嫌いなわけではない。
知識のある人も好きだし、頭のいい人と話すのも好きだ。
自分を上手に見せることも否定しない。
ただ、中身よりも「どう見られるか」にばかり力を使っている人とは、たぶん合わない。
俺が話したいのは、権威を借りなくても、自分の頭で考え、自分の言葉で話せる人だ。
肩書きがあってもなくても、それなら話せる。
俺にとって大事なのは、そこだ。
第四章 喧嘩は好きだが、いじめは嫌い。
俺は、喧嘩が好きだ。
もちろん、殴り合いをしたいという意味ではない。
勝負が好きなのだ。
論戦も好きだし、お互いに自分の持っているものを出して競うことも好きだ。
相手が強ければ、それだけ面白い。
勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。
負けた後に「あのとき、こう言えばよかった」と考えることもある。
それも含めて、俺は勝負を楽しんでいる。
だから、争うこと自体を悪いとは思っていない。
意見が違うなら、ぶつかればいい。
勝ちたいなら、勝とうとすればいい。
俺だって勝ちたい。
できれば、自分の得意なところで戦いたい。
わざわざ不利な条件を選びたいとも思わない。
でも、いじめは嫌いだ。
俺の中では、喧嘩といじめは全く違う。
特に嫌いなのは、自分より明らかに弱い相手を選び、その優位性を利用して勝ち誇る人間だ。
例えば、体重100キロで格闘技を何年も続けている人間が、格闘技経験のない体重50キロの人間に自分から喧嘩を売る。
勝った後、「俺の方が強い」と得意げになっていたら、俺は格好悪いと思う。
そりゃ勝つだろ、という話でしかない。
体格でも経験でも圧倒的に有利なのだから、勝ったところで強さの証明にはならない。
強さを示したいなら、せめて自分と同じくらいの相手と戦えばいい。
もっと強い相手に挑むなら、なお格好いい。
これは、殴り合いに限った話ではない。
長い経験を持つ人間が、何も知らない初心者を知識で叩きのめす。
大勢で、一人の相手を囲む。
大きな発言力を持つ人間が、ほとんど反論する手段を持たない相手を吊し上げる。
俺には、どれも同じように見える。
そして、そんな圧倒的に有利な条件で勝った後にドヤ顔をする人間を見ると、ガキだなと思う。
自分に都合のいいルールで勝ってドヤ顔する奴はガキだ。
ただし、俺は「どんな勝負でも完全に公平でなければならない」と言いたいわけではない。
勝負なのだから、自分の強みを使えばいい。
知識があるなら知識を使えばいいし、経験があるなら経験を使えばいい。
自分の得意な土俵に相手を誘うことも、戦い方の一つだと思っている。
一対一で、
「俺はこれが得意だ。これで勝負しよう」
と来るなら、むしろ嫌いではない。
無論、受けるかどうかは俺が決める。
俺が嫌なのは、圧倒的に有利な条件を利用して弱い相手に絡み、勝ったことを自分の強さの証明として見せびらかすことだ。
俺には、それが強さではなく、弱い相手しか選べない臆病さに見える。
勝負がついた後の追い討ちも嫌いだ。
相手が負けを認めた。
謝った。
撤退した。
もう戦う意思を見せていない。
それでも攻撃を続ける。
過去を掘り返し、周囲にも攻撃を呼びかけ、相手が立ち上がれなくなるまで叩こうとする。
そこまでいけば、俺にはもう勝負には見えない。
もちろん、謝れば何をしても許されるという話ではない。
被害が続いているなら止めなければならない。
俺が嫌なのは、問題を解決するために必要な範囲を越えて、相手を苦しめること自体が目的になっていくことだ。
勝負なら、勝敗がついたら終わりでいい。
昨日まで激しく争っていた相手でも、終わったならそれでいい。
倒れた相手をさらに蹴って、自分の強さを確認する必要はない。
俺には、あれが醜く見える。
俺だって、腹が立てば相手を徹底的に言い負かしたくなることはある。
負けた相手に余計な一言を言いたくなることもある。
だから、自分がいつも綺麗に勝負を終えられる人間だとは思っていない。
それでも、そういう自分にはなりたくないと思っている。
俺は喧嘩が好きだ。
勝負も論戦も好きだ。
勝つために頭を使うのも好きだ。
でも、弱い相手を選んで痛めつけることには興味がない。
立っている相手とは戦いたい。
倒れた相手を蹴る人間にはなりたくない。
俺にとって、喧嘩といじめの違いは、そこにある。
第五章 格好悪い部分を必死に隠し、その上に立派な自分を作り続ける人が苦手。
俺は、自分をよく見せようとすること自体は悪いと思っていない。
格好をつけることもあるし、人からよく思われたい気持ちもある。
下心だってある。
誰だって、多少は自分をよく見せながら生きていると思う。
ただ、それが行き過ぎて、本音まで見えなくなっている人は苦手だ。
特に、何かしらの欲を満たすために、本音を隠し続けている人には気味の悪さを感じる。
例えば、女性に好かれたいのに、その欲を徹底的に隠しながら、紳士や常識人を演じ続ける人がいる。
善良なことを言う。
女性に理解があることを示す。
冗談を言うときも、常識人の範囲から決してはみ出さない。
もちろん、本当にそういう人なら何とも思わない。
俺が苦手なのは、言動の端々から別の欲が透けて見えているのに、それだけは絶対に認めようとしない人だ。
そういう人と話していると、ときどき、
「この会話も、女が聞いていることを踏まえてやっているんだろうな」
と思うことがある。
俺だって姑息なことはする。
女性の前で格好をつけることもあるし、相手からどう見られるかを考えて話すこともある。
だから、そういう計算をするなと言いたいわけではない。
ただ、姑息なのはお互い様でも、あまりに姑息だとダサく見える。
善人だと思われたい。
常識人だと思われたい。
男からも信用されたい。
女性からも好かれたい。
モテたい。
でも、下心のある男だとは思われたくない。
何も失わずに、全部取ろうとする。
俺には、そんなふうに見える。
そして、全部を取ろうとしているうちは、結局何も取れないんじゃないかと思っている。
少なくとも、その人自身が見えないままでは、俺は深く付き合いたいとは思わない。
欲を満たす目的で本音を隠し続けている人は、気味が悪い。
人に媚びる態度についても、似たような違和感がある。
俺は、自分に必要以上に媚びてくる人が好きではない。
何でも同意する。
やたらと持ち上げる。
機嫌を窺う。
そんなことをされると疲れるので、「俺に媚びなくていい」と言うことがある。
すると、なぜか急に態度がデカくなる人がいる。
馴れ馴れしくなったり、言葉遣いが雑になったり、必要以上に強く当たってきたりする。
いや、そういうことじゃない。
媚びるなと言っている。偉そうにしろとは言っていない。
普通にしてほしいだけだ。
俺が間違っていると思えば、違うと言えばいい。
反対意見があるなら、普通に言えばいい。
俺を持ち上げる必要もなければ、対等であることを示すために態度を大きくする必要もない。
媚びるか、偉そうにするか。
その二択しかない人を見ると、どう接していいのか分からなくなる。
悪口についても、似たところがある。
俺は、人の悪口を聞くこと自体は嫌いではない。
俺だって言う。
嫌いな人間もいるし、腹が立てば誰かに愚痴を言いたくなる。
だから、「人の悪口を言う人は信用できない」なんてことは思っていない。
ただ、その悪口を聞いているうちに、
「これ、本人には絶対に言えないんだろうな」
と感じると、一気に冷める。
もちろん、何でも本人に言えばいいわけではない。
余計な争いを避けるために黙っていることも必要だし、言わない方がいい場面はいくらでもある。
俺だって、本人には言わない悪口を言うことはある。
でも、本当は怖くて言えないだけなのに、それを「大人の対応」「相手にする価値がない」などと説明しながら、安全な場所では威勢よく相手を罵っている姿はダサいと思う。
怖いなら、怖いでいい。
「本人には言えない。怖いから(笑)」
とでも言ってくれた方が、俺はよほど信用できる。
臆病であることが嫌なのではない。
俺だって臆病になる。
自分の弱さを隠すために、強い人間を演じることが苦手なのだ。
戦えない人間の武勇伝みたいな悪口は、聞きたくない。
下心がある。
臆病になる。
人に媚びる。
格好をつける。
姑息なことをする。
俺にも全部ある。
だから、それだけで人を嫌いにはならない。
ただ、そういう格好悪い部分も含めて、「俺はこんなもんだ」と認めている人の方が付き合いやすい。
俺が苦手なのは、自分の格好悪い部分を必死に隠し、その上に立派な自分を作り続ける人だ。
完璧な善人でなくていい。
立派な常識人でなくてもいい。
強い人間でなくてもいい。
少しくらい格好悪くても、その人自身が見える方がいい。
俺は、そういう人と話したい。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻























































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