はじめに
SNSは、誰でも簡単に情報を発信できる便利な道具である。
学校でいじめがあった。
子どもが暴力を受けた。
学校が十分に対応してくれない。
そんなとき、自分たちが置かれている状況を多くの人に知ってもらうために、SNSを利用することもあるだろう。
実際、情報を発信したことで問題が広く知られ、学校や教育委員会が動き出すこともある。
だから、この記事で情報発信そのものを否定するつもりはない。
しかし、情報を発信することにはリスクもある。
学校や相手方について投稿した結果、我が子の学校での立場が悪くなってしまうこともある。
いじめの証拠として公開した動画や画像によって、被害を受けた子どもや、そこに映っていた別の子どもまで特定されてしまうこともある。
子ども自身がクラスメイトについて投稿したことで、学校内のトラブルがインターネット上の大きな騒動に発展することもある。
そして、投稿の内容によっては、名誉毀損や侮辱、プライバシーや肖像権の侵害など、法的な問題が生じる可能性もある。
これは、自分で投稿するときだけの話ではない。
被害を訴える親の投稿や、新聞、テレビ、週刊誌、インターネットメディアなどの報道を見て、
「こいつが加害者だ」
「この教師がいじめを隠蔽した」
「絶対に許してはいけない」
などと断定的な投稿をしたり、その情報をリポストして広めたりすることにもリスクがある。
私たちは、過去に起きた出来事を直接見ることはできない。
当事者の証言も、関係者の証言も、報道も、学校の説明も、それぞれ事実を知るための重要な材料ではある。
しかし、その一つだけで出来事の全てが分かるとは限らない。
人は嘘をつくこともあれば、勘違いすることもある。
嘘をついていなくても、立場や記憶の違いによって、同じ出来事について全く違う説明をすることもある。
だからこそ、人の人生や名誉に関わる情報を発信するときには、
「自分が知っていることは、本当に事実なのか」
「事実だとしても、不特定多数に公開する必要があるのか」
「この情報を広めることで、誰が傷つく可能性があるのか」
を考える必要がある。
一度インターネットに公開された情報は、自分の手を離れていく。
誰かに保存され、転載され、切り取られ、自分が想像もしなかった意味を付けられて広がっていくこともある。
後になって「間違っていました」と訂正しても、最初に広がった情報を全て回収することはできない。
情報には、人を助ける力がある。
同時に、人を傷つける力もある。
この記事では、子どものトラブルや学校との問題について情報を発信・拡散するとき、どのような問題が起こり得るのか。
子どもの学校生活への影響から、名誉毀損や侮辱などの法的責任まで、一つずつ考えていきたい。
目次
→ 学校への怒りや不満から親がSNSで声を上げることには、問題を動かす力がある一方、その後も学校で生活を続けるのは子どもである。正しいことを発信していたとしても、クラスメイトや保護者との関係、学校との話し合いに影響が及ぶことはある。我が子を守るための発信だからこそ、「この投稿をしたあと、明日学校へ行く我が子はどうなるのか」まで考える必要がある。
→ 子どもが被害やトラブルをSNSで訴えると、数人の間で起きていた問題が、学校とは無関係な第三者まで参加する大きな騒動へ発展することがある。本人には相手を集団で攻撃させる意思がなくても、個人情報の特定や晒し、第三者による攻撃を止められなくなる可能性もある。「誰かに助けを求めること」と「誰かをインターネット上に晒すこと」は分けて考え、まず信頼できる大人へ相談できる環境をつくることが大切である。
第三章 「いじめの証拠」でも、動画や画像を公開してよいとは限らない
→ いじめや暴力を記録した動画や画像は、事実確認のための重要な証拠になり得る。しかし、証拠として保存することと、不特定多数へ公開することは全く違う。映像には被害を受けた子どもや無関係な子どもの姿が含まれることもあり、前後の出来事まで映しているとも限らない。大切な証拠だからこそ、「公開するか」ではなく、「誰に、何のために見せるのか」を考える必要がある。
→ 我が子の被害を訴える親の言葉は真剣に受け止める必要があるが、その投稿だけで出来事のすべてが確定するわけではない。親自身も、我が子や学校、ほかの保護者などから得た情報をもとに状況を理解している場合があり、相手側や目撃者から異なる説明が出ることもある。被害の訴えに寄り添うことと、その説明を確認前からすべて事実として断定・拡散することは分けて考えるべきである。
第五章 週刊誌やニュースで報じられたことが、真実とは限らない
→ 新聞やテレビ、週刊誌などの報道は、問題を知るための重要な判断材料だが、過去そのものを直接見たものではなく、取材や証言、資料をもとに構成されている。見出しや「関係者によると」という証言だけでは分からないこともあり、後の調査や裁判によって新しい事実が明らかになる場合もある。報道は「判断材料」であって「判決」ではなく、記事を読んだ第三者が、そこからさらに強い意味を加えて断定すれば、その発信については自分自身が責任を負うことになる。
→ 情報は人から人へ伝わるうちに、「こう聞いた」「そうらしい」から「実際にやった」という断定へ変化することがある。同じ情報が何百回拡散されても、その情報源が一つなら、情報の確かさが増したわけではない。正義感から被害を訴える人を支えることと、限られた情報だけで別の誰かを加害者と断定することは別であり、確認できないことについて「分からない」と判断を保留することも責任ある態度である。
→ 自分で文章を書いていなくても、他人の投稿をリポストすれば、その情報を新たな人へ届ける側になる。コメントを加えれば自分自身の評価や主張も加わり、無言のリポストであっても、常に責任を問われないとは限らない。「自分が書いたわけではない」「有名な人が投稿していた」という理由だけで安全になるわけではなく、自分で投稿するとしたら同じ内容を発信するのか、一度考えてから拡散する必要がある。
→ 名誉毀損は、嘘を書いた場合だけに問題になるものではなく、真実であっても、人の社会的評価を低下させる具体的な事実を公然と示せば問題になり得る。一方で、公共性や公益目的、真実性などによって処罰されない場合もあるため、「本当なら何を書いてもいい」「人の評価を下げれば必ず犯罪になる」という単純な話でもない。人の名誉に関わる情報を発信するときには、真実かどうかだけでなく、不特定多数へ公表する必要性や目的まで考える必要がある。
→ 具体的な事実を示していなくても、「クズ」「最低の人間」など、人の人格を貶める言葉を公然と向ければ、侮辱罪が問題になることがある。仮に相手が実際に問題行為をしていたとしても、そのことが第三者による無制限な人格攻撃を正当化するわけではない。問題を批判したいのであれば、その人の存在そのものではなく、問題となった行為や対応を具体的に批判すればよい。
→ SNSへの投稿は数秒でできるが、内容によっては名誉毀損罪や侮辱罪として刑事事件になる可能性がある。ただし、法定刑の上限がそのまま実際の刑罰になるわけではなく、投稿内容や悪質性、拡散の程度、被害、投稿後の対応などによって判断は変わる。また、投稿を削除しても最初から存在しなかったことにはならず、「逮捕されなかった」「起訴されなかった」から何の責任もないとも限らない。
→ 刑事事件にならなくても、名誉やプライバシーなどを侵害すれば、民事上の損害賠償責任を問われることがある。その金額は一律ではなく、投稿の内容や悪質性、拡散状況、被害の程度などによって異なり、慰謝料だけでなく、発信者を特定するための費用や弁護士費用の一部などが問題になる場合もある。しかし本当に考えるべきなのは金額だけではなく、一度傷つけた名誉や広がった情報を、後から完全に元へ戻せるのかということである。
→ 子どもがSNSで他人の権利を侵害した場合、「未成年だから責任がない」「子どもが勝手にしたことだから親には関係ない」と単純には言えない。子ども本人の責任能力や年齢、親が問題を把握していたか、どのような監督をしていたかなどによって責任のあり方は変わる。問題が起きてから誰が責任を負うのかを考えるだけでなく、投稿することで何が起こり得るのかを、事前に子ども自身が想像できるよう教えておくことが大切である。
→ 証言は誠実に話していても食い違うことがあり、動画や画像などの客観的な証拠にも映っていない範囲がある。調査報告書や裁判所の認定は重要な判断材料だが、それさえ過去そのものを直接見たものではない。私たちは限られた証言と証拠から事実に近づくことしかできないからこそ、「ここまでは分かるが、ここから先は分からない」と判断を保留する慎重さを持つ必要がある。
→ 情報発信には、学校や行政を動かし、問題を社会に知らせる力があるため、SNSで発信すること自体を否定する必要はない。ただし、何のために発信するのかを明確にし、公開する情報を必要最小限にし、事実と意見・推測を分け、相手を特定する必要性や我が子自身の気持ちまで考える必要がある。「発信するか、黙るか」の二択ではなく、誰に、何を、どこまで、どの方法で伝えるのかを選ぶことが大切である。
→ 情報には、誰かを助け、動かなかった問題を動かす力がある一方、間違えば、画面の向こうにいる人の生活や人生を長く傷つける力もある。一度公開すれば、誰が保存し、どのように切り取られ、どこまで広がるのかを自分では決められない。しかし、投稿する前なら、書き直すことも、公開する範囲を狭めることも、発信しないこともできる。正しさを争う前に「自分はどこまで確かなことを知っているのか」を考え、迷うのであれば立ち止まる。拡散する前なら、まだ戻れる。
第一章 親が発信しても、学校に残るのは子ども
子どもが学校でつらい思いをしているとき、親が学校の対応に怒りを感じるのは不思議なことではない。
「学校が何もしてくれない」
「相手の保護者に分かってもらえない」
「このままでは問題をうやむやにされてしまう」
そう感じれば、SNSを使って多くの人に状況を知ってもらいたいと思うこともあるだろう。
実際、情報を発信したことで問題が広く知られ、学校や教育委員会の対応が変わることもある。
しかし、ここで忘れてはいけないことがある。
その学校で生活を続けるのは、投稿した親ではなく、子ども
ということである。
1-1 親の投稿は、子どもの人間関係にも影響する
SNSに投稿すれば、その内容を見るのは、まったく関係のない第三者だけとは限らない。
同じ学校の保護者や生徒が投稿を見つけることもある。
学校名を書いていなくても、地域、学年、部活動、出来事の内容などを組み合わせれば、どこの学校で誰について書いているのか分かってしまう場合もある。
すると、
「○○の親が学校のことをSNSに書いている」
という話が、保護者や子どもたちの間で広がることがある。
問題は、その先だ。
投稿を見た人が、
「自分たちのことも書かれるかもしれない」
「子ども同士の会話まで公開されるかもしれない」
と警戒するようになる可能性がある。
その結果、これまで普通に接していたクラスメイトが距離を取ったり、保護者が自分の子どもに関わらないよう求めたりすることも考えられる。
我が子を守るために行った発信でも、その影響が子どもの人間関係に及ぶことがある。
1-2 学校との関係がさらに難しくなることもある
SNSへの投稿は、学校との関係にも影響を与える可能性がある。
学校との面談内容や教員の発言を次々と公開していれば、教員側が、
「この発言もSNSに掲載されるかもしれない」
と警戒するようになることも考えられる。
もちろん、だからといって学校が必要な説明を避けたり、不適切な対応をしたりしてよいわけではない。
しかし、人間同士の関係として考えれば、会話の内容が不特定多数に公開される可能性がある状況では、発言が慎重になるのは自然なことである。
本来であれば率直に話し合えたことまで、文書による形式的な回答しか得られなくなるかもしれない。
問題を解決するために始めた情報発信が、結果として学校との話し合いを難しくしてしまうこともある。
1-3 「正しいことを発信している」だけでは済まない
ここで重要なのは、親の主張が正しいか間違っているかという問題だけではない。
仮に親の主張がすべて正しかったとしても、発信によって生じる影響までなくなるわけではない。
学校には多くの子どもがいる。
その子どもたちにも、それぞれ友人関係や家庭がある。
一つの出来事について情報を公開すれば、直接名前を出していない人まで巻き込まれる可能性がある。
そして、SNSで多くの人から支持されたとしても、子どもは翌日になれば、再び現実の学校生活に戻っていく。
インターネット上で何千人から、
「あなたが正しい」
「学校がおかしい」
と言ってもらえたとしても、それによって子どもの教室での居心地が良くなるとは限らない。
むしろ、問題が広く知られたことで、以前より学校に行きづらくなる場合もある。
1-4 発信しないことと、問題を放置することは違う
だからといって、学校で起きた問題を黙って受け入れる必要はない。
学校に説明を求める。
校長と話し合う。
教育委員会に相談する。
必要であれば警察や弁護士などに相談する。
証拠となる資料を保存する。
こうした方法と、SNSで不特定多数に向けて情報を公開することは別である。
問題を解決するために行動することと、その問題を世間に広く知らせることを同じものとして考える必要はない。
SNSでの発信が必要な場合もあるだろう。
しかし、それは数ある手段の一つであって、最初に選ばなければならない方法ではない。
1-5 親が守りたいものは何なのか
子どもの問題について発信するとき、怒りが強ければ強いほど、相手に目が向きやすくなる。
「学校に責任を認めさせたい」
「相手に謝らせたい」
「世間に知ってもらいたい」
そう考えることもあるだろう。
しかし、その前に一度考えてほしい。
自分が最も守りたいものは何なのか。
学校を批判することでも、相手を社会的に非難することでもなく、我が子が安心して生活できるようにすることが最も大切なのであれば、情報を公開することでその目的に近づくのかを考える必要がある。
投稿する前なら、公開する情報を減らすこともできる。
名前を伏せることもできる。
SNSではなく、必要な相手だけに伝えることもできる。
そして、発信そのものを見送ることもできる。
親が投稿ボタンを押す前に、
「この投稿をしたあと、明日学校へ行く我が子はどうなるだろうか」
と考える。
子どもの学校に関する情報を発信するときには、その視点を忘れないでほしい。
第二章 子どもがクラスメイトについて投稿するリスク
SNSで学校のトラブルについて発信するのは、親だけではない。
子ども自身が、クラスメイトとのトラブルや嫌だった出来事について投稿することもある。
「○○にこんなことをされた」
「○○は嘘つきだ」
「こいつにいじめられている」
腹が立った直後や、悲しい思いをした直後であれば、誰かに知ってほしい、味方になってほしいという気持ちから投稿してしまうこともあるだろう。
しかし、友人に相談することと、SNSで不特定多数に向けて発信することは大きく異なる。
一度投稿すれば、子ども同士の小さなトラブルだったものが、本人たちの手に負えない問題へ発展することがある。
2-1 クラスの中の問題が、学校の外まで広がっていく
学校で起きるトラブルには、様々なものがある。
悪口を言われた。
仲間外れにされた。
約束を破られた。
SNSに嫌なことを書かれた。
物を隠された。
暴力を受けた。
中には、学校や保護者がすぐに対応しなければならない深刻な問題もある。
しかし、その出来事についてSNSに投稿すると、事情を知らない人たちまで簡単に参加できるようになる。
投稿を見た友人がリポストする。
その友人がさらに拡散する。
学校とは何の関係もない人が相手のアカウントを探す。
名前、顔写真、学校名などが特定される。
そして、
「こいつが加害者らしい」
という情報だけが独り歩きしていくこともある。
最初は数人の間で起きていた問題が、いつの間にか何百人、何千人もの人が参加する騒動になってしまう可能性がある。
2-2 子どもの説明だけが、出来事のすべてとは限らない
子どもが「自分はいじめられた」と感じているのであれば、その訴えを軽く扱ってはいけない。
しかし、そのことと、子どもが説明した内容のすべてを直ちに確定した事実として扱うことは別である。
人は、自分が見たもの、聞いたもの、経験したものを、自分の立場から理解している。
相手には相手の説明があるかもしれない。
その場を見ていたクラスメイトから、別の証言が出てくることもある。
前後に別の出来事があったことが、後から分かる場合もある。
これは、
「子どもの話を信用するな」
という意味ではない。
子どもの訴えには真剣に耳を傾けるべきである。
ただし、
「子どもの訴えを真剣に受け止めること」と、「その内容を確認する前に第三者へ拡散すること」は別である。
ここを混同しないことが大切である。
2-3 SNSでは「被害を訴えること」が「相手への攻撃」に変わることがある
投稿した本人には、相手を大勢で攻撃させるつもりなどなかったかもしれない。
「こんなことがあった」
と知ってほしかっただけかもしれない。
しかし、SNSでは投稿した本人が、その後の反応までコントロールすることはできない。
誰かが相手の個人情報を調べる。
別の誰かが顔写真を掲載する。
相手のSNSに大量の批判を書き込む。
家族についてまで調べ始める。
さらに、その情報を動画配信者やまとめサイトなどが取り上げる。
こうなれば、投稿した本人が、
「そこまでしてほしいわけではなかった」
と思って削除しても、すでに止められないことがある。
被害を訴えるための投稿が、別の誰かに対する集団的な攻撃のきっかけになってしまうこともある。
2-4 投稿した側も学校に居づらくなることがある
相手を批判する投稿をしたことで、投稿した子ども自身の学校生活が難しくなる場合もある。
同じクラスの子どもたちから、
「喧嘩したらSNSに書かれるかもしれない」
「自分とのLINEも晒されるかもしれない」
と思われれば、周囲が距離を取るようになる可能性がある。
また、投稿に対して相手側の友人が反論し、SNS上で双方の友人が言い争うようになることもある。
そうなれば、もともとは二人の間にあった問題が、クラス全体の対立に発展するかもしれない。
そして、SNS上の対立を学校だけで完全に収めることは難しい。
投稿は学校の外でも続き、夜になっても通知が届く。
休日にも書き込みが続く。
学校にいない時間までトラブルから離れられなくなってしまうこともある。
2-5 子どもが投稿する前に、大人に相談できる環境をつくる
子どもが嫌なことをされたときに、黙って耐えさせる必要はない。
いじめられているのであれば、周囲の大人に助けを求められるようにすることが大切である。
暴力や脅迫などの深刻な被害であれば、なおさらである。
ただ、その方法として、すぐに相手の名前や顔、学校名などをSNSに公開する必要があるとは限らない。
子どもには、まず保護者や信頼できる大人に相談するよう伝えておきたい。
そして相談を受けた大人が、必要に応じて学校や教育委員会、警察などに相談する。
メッセージや画像、動画などの証拠があるのであれば、削除せずに保存し、その上でどのように対応するのかを考えることが大切である。
SNSへの投稿は、数秒でできる。
しかし、その数秒で公開した情報が、何年もインターネット上に残ることもある。
子どもは、腹が立っているときや深く傷ついているときほど、衝動的に投稿してしまうことがある。
だからこそ、普段から子どもに伝えておきたい。
「誰かに助けを求めること」と、「誰かをインターネット上に晒すこと」は違う。
困ったときにはSNSで相手を攻撃するのではなく、まず周囲の大人に相談できるようにしておくことが、子ども自身を守ることにもつながる。
第三章 「いじめの証拠」でも、動画や画像を公開してよいとは限らない
いじめや暴力の様子を撮影した動画や画像は、何が起きていたのかを確認するための重要な証拠になることがある。
学校に相談しても事実関係を認めてもらえないときや、当事者の説明が食い違っているときには、映像が問題を解決するための大きな手掛かりになることもあるだろう。
そのため、いじめや暴力に関係する動画や画像を入手した場合、安易に削除せず、元のデータを保存しておくことには意味がある。
しかし、
「証拠として保存すること」と「インターネット上に公開すること」は全く違う。
証拠として価値があるからといって、それをSNSや動画共有サイトで不特定多数に公開してよいとは限らない。
3-1 映像には多くの個人情報が含まれている
動画や画像には、投稿者が意識していない情報まで映り込んでいることがある。
子どもの顔や声。
制服や名札。
教室や校舎の様子。
学校名が分かる掲示物。
周囲にいるクラスメイト。
こうした情報を組み合わせることで、学校や当事者が特定されることもある。
特に学校という限られた集団では、顔をぼかしたり名前を伏せたりしても、同じ学校の生徒や保護者には誰なのか分かってしまう場合がある。
そして、一人が特定されれば、その友人関係やSNSのアカウントなどを手掛かりに、別の子どもまで特定されることもある。
3-2 被害を受けた子どもまで晒してしまうことがある
いじめの動画を公開するときには、加害行為をしたとされる子どもだけでなく、被害を受けた子どもについても考えなければならない。
例えば、殴られている姿や泣いている姿、服を脱がされている姿などが撮影されていた場合、それは被害を示す証拠であると同時に、本人にとって他人に見られたくない映像でもある。
保護者が、
「これがいじめの証拠です」
と善意で公開したとしても、子ども自身は公開してほしくないと思っているかもしれない。
問題が解決したあとも、その映像がインターネット上に残り続ければ、本人が成長してから再び目にする可能性もある。
我が子を守るための発信によって、我が子の被害を多くの人に見せ続ける結果になってしまうこともある。
3-3 映っている全員が当事者とは限らない
さらに注意したいのは、映像に映っている子ども全員が、いじめに関与しているとは限らないことである。
その場を通りかかっただけの子ども。
何が起きているのか分からず見ていた子ども。
止めようとしていた子ども。
たまたま近くにいただけの子ども。
短い映像だけでは、それぞれがどのような立場だったのか分からないこともある。
それにもかかわらず、
「周りで見ているこいつらも全員加害者だ」
などという説明を付けて公開すれば、本来責任のない子どもまで批判の対象になる可能性がある。
映像に写っているという事実と、その人物が何らかの問題行為に関与したという評価は分けて考える必要がある。
3-4 動画は前後の出来事まで映しているとは限らない
映像は客観的な証拠のように見える。
確かに、撮影された範囲については、証言だけでは分からない重要な情報を与えてくれる。
しかし、映像にも限界がある。
例えば、30秒の動画に一人の子どもが別の子どもを殴る場面が映っていたとしても、その30秒だけで、それ以前に何があったのかまで分かるとは限らない。
撮影が始まる前に別のトラブルがあったかもしれない。
映像の外側で何かが起きていたかもしれない。
動画が途中から始まっていたり、一部分だけ切り取られていたりすることもある。
もちろん、前後に何があったとしても許されない行為はある。
しかし、
「映像に映っていること」と「その出来事の全体像が分かること」は同じではない。
映像があるからこそ、かえって「これが全てだ」と思い込まない慎重さも必要である。
3-5 一度公開すると、自分では回収できなくなる
SNSや動画共有サイトに公開した動画は、投稿者が削除すれば完全に消えるとは限らない。
誰かが保存しているかもしれない。
画面を録画しているかもしれない。
別のSNSに転載されるかもしれない。
動画配信者やまとめサイトなどに取り上げられることもある。
さらに、元の投稿とは異なる説明を付けて再投稿される可能性もある。
最初に投稿した保護者が、
「これ以上広めないでください」
と呼びかけても、すでに第三者の手に渡ったデータをすべて回収することは難しい。
投稿するときには、
「あとで削除できる」ではなく、「一度公開したら回収できないかもしれない」
と考えておいた方がよい。
3-6 証拠は「見せる相手」を考える
いじめや暴力を記録した動画や画像があるのであれば、証拠として大切に保存しておく。
その上で、問題を解決するために必要な相手へ提示することを考えたい。
学校。
教育委員会。
警察。
弁護士。
その他、問題の解決に必要な機関や専門家。
こうした相手に証拠として提示することと、不特定多数が閲覧できる場所に公開することでは、意味が大きく異なる。
学校が適切に対応しないなどの事情から、社会に問題を訴える必要が生じる場合もあるだろう。
しかし、その場合でも、動画そのものを無加工で公開しなければ問題を伝えられないとは限らない。
個人を特定できる情報を隠す。
必要な部分だけを説明する。
映像を公開せず、起きた問題を文章で伝える。
方法はいくつもある。
証拠を持っていることと、それを世界中に公開することは別である。
大切な証拠だからこそ、「公開するか」だけではなく、「誰に、何のために見せるのか」を考える必要がある。
第四章 被害を訴える親の投稿が、すべて事実とは限らない
SNSでは、子どもが受けた被害について、保護者が詳しい経緯を投稿していることがある。
「子どもがいじめられた」
「学校は何もしてくれなかった」
「相手の子どもはこんなことをした」
「学校はいじめを隠蔽している」
我が子が苦しんでいるのであれば、親がその状況を何とかしたいと思うのは当然である。
そして、その投稿を読んだ人も、
「子どもがかわいそうだ」
「学校は何をしているんだ」
「相手を許してはいけない」
と感じることがあるだろう。
しかし、ここで気をつけなければならないことがある。
被害を訴える親の投稿によって、出来事のすべてが確定するわけではない。
これは、被害を訴える親が嘘をついているという意味ではない。
4-1 親自身が、その場を見ていないことも多い
学校で起きた出来事について、保護者が最初に得る情報の多くは、我が子から聞いた話である。
子どもが帰宅して、
「今日、○○にこんなことをされた」
と話す。
親はその話を聞き、学校に連絡する。
学校から説明を受ける。
場合によっては、ほかの保護者や子どもからも話を聞く。
こうして少しずつ情報を集めていくことになる。
つまり、保護者がSNSに詳しい経緯を書いていたとしても、その内容のすべてを保護者自身が直接見聞きしているとは限らない。
我が子から聞いた話。
学校から聞いた話。
別の保護者から聞いた話。
クラスメイトから聞いた話。
保護者自身が確認した資料。
これらが一つの文章の中に混在していることもある。
そのため、投稿を読む側も、
「この親が実際に確認した事実」と「誰かから聞いた話」を分けて考える必要がある。
4-2 子どもの話を信じることと、事実を確定することは違う
子どもが被害を訴えたとき、親がまず我が子の話を聞くことは大切である。
「そんなことはないだろう」
「あなたにも原因があるんじゃないの」
と最初から否定すれば、子どもが助けを求められなくなることもある。
だから、まずは話を聞き、子どもの気持ちを受け止める必要がある。
しかし、
「我が子の話を信じること」と、「我が子の説明だけで事実関係を確定すること」は同じではない。
子どもも人間である。
記憶を間違えることもある。
相手の意図を誤解することもある。
自分にとって不都合な出来事を話さないこともある。
強い恐怖や怒りによって、出来事の受け止め方が変わっていることもある。
もちろん、実際に深刻ないじめを受けていて、正確に説明している場合もある。
だからこそ、最初から「本当だ」「嘘だ」と決めつけるのではなく、必要な確認を重ねることが重要になる。
4-3 同じ出来事でも、説明が食い違うことがある
一つの出来事について、複数の子どもから話を聞くと、説明が一致しないことがある。
被害を訴える子どもは、
「突然殴られた」
と話している。
相手の子どもは、
「先に押されたから押し返した」
と説明している。
近くにいた子どもは、
「ふざけ合っていたように見えた」
と話す。
別の子どもは、
「その前から二人は喧嘩していた」
と証言する。
このような場合、誰か一人が必ず嘘をついているとは限らない。
見ていた場所が違えば、見えるものも違う。
出来事のどの部分を見たのかによっても説明は変わる。
同じ言葉や行動でも、受け取る側によって意味が違って感じられることもある。
人間の証言には、もともとこうした限界がある。
4-4 「被害者側の説明だから正しい」とは限らない
SNSでは、被害を訴えた側の説明が先に広がることがある。
すると、まだ相手側の説明が出ていない段階で、
「加害者はこいつだ」
「学校は隠蔽している」
「こんな教師は辞めさせろ」
などと、多くの人が断定し始めることがある。
しかし、その時点では、単に一方の説明しか公表されていないだけかもしれない。
後から別の証言や資料が出てくることもある。
当初の説明の一部が間違っていたと分かる場合もある。
だからといって、被害を訴えた人を疑ってかかる必要はない。
必要なのは、
「訴えを真剣に受け止めること」と「事実として断定すること」を分ける姿勢である。
被害の訴えには耳を傾ける。
必要な支援も行う。
その一方で、まだ確認できていないことについては、確認できていないこととして扱う。
この二つは両立する。
4-5 親の投稿を見た第三者は、さらに情報が少ない
そして、最も慎重にならなければならないのは、その投稿を読んでいる第三者である。
当事者の親でさえ、学校で起きた出来事のすべてを直接見ているとは限らない。
その親が書いた文章を読んでいるだけの第三者は、さらに限られた情報しか持っていない。
それにもかかわらず、
「絶対にこいつが悪い」
「これは犯罪だ」
「学校が隠蔽したに決まっている」
などと断定してしまえば、自分が確認していない情報を、確定した事実であるかのように広めることになる。
被害を訴える人に寄り添うことと、その人の主張をすべて事実として拡散することは違う。
応援したいのであれば、
「つらい状況が改善してほしい」
「きちんと調査されてほしい」
と願うこともできる。
誰かを犯人や加害者と決めつけなければ、被害を訴える人を支えることができないわけではない。
当事者ですら出来事の全体を把握しているとは限らないのであれば、SNSの投稿を読んだだけの第三者は、なおさら慎重であるべきである。
第五章 週刊誌やニュースで報じられたことが、真実とは限らない
学校で起きたトラブルやいじめの問題が、新聞、テレビ、週刊誌、インターネットメディアなどで報じられることがある。
報道という形になると、それまでSNS上で語られていた情報よりも信頼できるように感じる人もいるだろう。
「ニュースになったのだから事実だろう」
「週刊誌が取材して書いているのだから間違いない」
そう考えてしまうこともある。
しかし、報道された内容であっても、それだけで出来事のすべてが確定するわけではない。
報道されたことと、真実であることは同じではない。
5-1 報道も、誰かから得た情報をもとに作られている
記者は、過去に起きた出来事を直接見ることはできない。
そのため、当事者や関係者への取材、学校や行政への確認、文書や画像、動画などの資料をもとに記事を作ることになる。
つまり、報道も最終的には、
誰が何を話したのか。
どの資料を確認したのか。
どの情報を重視したのか。
という積み重ねによって作られている。
取材に応じた人の記憶が間違っていることもある。
一方の当事者しか取材できないこともある。
関係者によって説明が食い違う場合もある。
十分な資料がそろわないまま記事になることもある。
だからといって、報道には価値がないという話ではない。
報道によって、それまで知られていなかった問題が明らかになることもある。
学校や行政が説明を求められ、問題の検証が進むこともある。
ただし、
「報道された」という事実と、「報道された内容がすべて正しい」という評価は分けて考える必要がある。
5-2 見出しだけでは、出来事の全体像は分からない
SNSでは、記事の本文を読まず、見出しだけを見て反応する人も少なくない。
「学校がいじめを隠蔽」
「被害生徒を追い詰めた教師」
「同級生による卑劣な行為」
強い言葉が見出しに使われていれば、それだけで出来事の印象が決まってしまうこともある。
しかし、見出しは記事の内容を短い言葉で伝えるためのものであり、細かな事情や留保まで表すことはできない。
本文を読めば、
「保護者はこう主張している」
「学校側は否定している」
「現在も調査中である」
と書かれているかもしれない。
それにもかかわらず、見出しだけを見て、
「学校が隠蔽した」
「この子が加害者だ」
と断定してしまえば、記事そのものよりも強い意味を付けて情報を広めることになる。
5-3 「関係者によると」という情報にも限界がある
報道では、
「関係者によると」
「取材に応じた生徒によると」
「遺族によると」
「学校関係者によると」
といった表現が使われることがある。
これらは、情報の出所を示すための重要な表現である。
しかし、同時に、
「その人物がそう説明している」
ということを示しているにすぎない場合もある。
証言者が誠実に話していたとしても、その内容が客観的な事実と完全に一致するとは限らない。
第四章で触れたように、人の記憶や認識には限界がある。
特に、学校で起きた複雑な人間関係については、立場によって見え方が大きく異なることもある。
だから、報道記事の中に証言が書かれていたとしても、
「その証言が存在すること」と、
「その証言の内容が事実として確定していること」は、
分けて考える必要がある。
5-4 後から内容が変わることもある
事件やトラブルが報道された直後は、分かっていることが限られている。
その後、学校の調査結果が公表されることもある。
第三者委員会の報告書が出ることもある。
裁判になり、新しい証拠や証言が明らかになることもある。
最初の報道では分からなかった事実が、数か月後、数年後に判明することもある。
つまり、最初に世の中へ出た説明が、そのまま最終的な事実認定になるとは限らない。
ところが、インターネットでは最初の情報ほど強く拡散されることがある。
後から訂正や補足が出ても、それを同じ人数が見るとは限らない。
そのため、
最初の記事だけを読んだ人。
途中までしか情報を追っていない人。
古い記事を後から見つけた人。
それぞれが異なる情報をもとに、同じ出来事について語っていることもある。
報道を根拠に断定しても、自分の発信の責任はなくならない
ここは特に注意してほしい。
「週刊誌に書いてあったから」
「ニュースで報じられていたから」
という理由だけで、自分が何を投稿してもよいわけではない。
報道を見た第三者が、
「こいつは犯罪者だ」
「この教師はいじめを隠蔽した」
「この生徒が人を死に追いやった」
などと、記事の内容をさらに強い表現に変えて投稿することもある。
しかし、その投稿をしたのは報道機関ではなく、自分自身である。
元の記事がどのような表現をしていたのか。
どこまで事実として確認されていたのか。
どこからが当事者の主張だったのか。
そうした違いを無視して断定すれば、元の記事には書かれていない評価まで自分で付け加えることになる。
そして、その発信については、自分自身が責任を問われる可能性がある。
5-5 報道は「判断材料」であって「判決」ではない
報道は、社会で起きている問題を知るための重要な材料である。
だから、報道を疑って何も信じるなという話ではない。
大切なのは、情報との距離の取り方である。
「このように報じられている」
「この人物はこのように主張している」
「現在分かっている範囲では、こういう状況らしい」
そこまでなら言えることでも、
「だから、こいつが絶対に悪い」
「これが真相だ」
とまで言えるとは限らない。
報道は、出来事を知るための一つの材料である。
裁判所の判決でもなければ、神の視点から見た真実でもない。
誰かの記事を読んだだけで、その人の人生を断定できるほど、私たちは多くのことを知っているわけではない。
その慎重さを忘れないことが、情報を受け取る側にも求められている。
第六章 情報に乗っかって断定・拡散することのリスク
SNSで大きな話題になる学校トラブルやいじめ問題では、当事者ではない多くの人が意見を発信する。
被害を訴える親の投稿を読む。
報道記事を見る。
動画や画像を見る。
そして、
「これは許せない」
「学校が悪い」
「こいつが加害者だ」
と投稿する。
問題に関心を持ち、自分の意見を述べること自体が悪いわけではない。
しかし、限られた情報しか持っていない第三者が、当事者以上の確信を持って事実関係を断定してしまうことには、大きな危険がある。
6-1 情報は伝わるたびに意味が変わることがある
最初の発信では、
「子どもから○○されたと聞いています」
と書かれていたとする。
それを見た人が、
「○○したらしい」
と投稿する。
さらに別の人が、
「○○した」
と書く。
そして最後には、
「○○した最低の加害者」
として広まっていく。
最初は「子どもからそう聞いた」という話だったものが、人から人へ伝わるうちに、いつの間にか確定した事実として扱われるようになる。
これは、情報を拡散するときに起こり得る大きな問題である。
伝える人が意図的に嘘をついていなくても、言葉を少し変えるだけで情報の意味は変わる。
「疑われている」
「そう証言している人がいる」
「そのように報じられている」
「実際に行った」
これらは、すべて意味が違う。
情報を発信するときには、その違いを意識する必要がある。
6-2 「みんなが言っている」は根拠にはならない
同じ内容の投稿を何度も目にすると、その情報が正しいように感じることがある。
検索すれば、同じ人物について同じような話が大量に出てくる。
すると、
「これだけ多くの人が言っているのだから、本当なのだろう」
と思ってしまう。
しかし、その何百件もの投稿が、一つの情報源をもとにしていることもある。
一人の投稿を百人が拡散すれば、画面上では百人が同じことを言っているように見える。
しかし、情報源が百個あるわけではない。
情報の量と、情報の確かさは別の問題である。
多くの人が信じていることも、その情報が正しいことの証明にはならない。
6-3 推測を重ねれば、事実から遠ざかっていく
断片的な情報から、別の事情を推測することにも注意が必要である。
例えば、
「学校がすぐに説明しなかった」
という事実があったとしても、
「だから学校は隠蔽している」
と直ちに結論付けられるとは限らない。
「相手の子どもが取材に応じなかった」
というだけで、
「後ろめたいことがあるから逃げている」
と判断することもできない。
「投稿を削除した」
という事実から、
「嘘がばれたから消した」
と断定することもできない。
事実と推測をつなげていけば、もっともらしい物語を作ることはできる。
しかし、
筋が通っているように見えることと、それが事実であることは同じではない。
「おそらくこうだろう」という推測に、さらに別の推測を重ねれば、最初に確認できていた事実から大きく離れてしまうこともある。
6-4 正義感が強いほど、断定しやすくなることがある
いじめや子どもの被害について知れば、怒りを感じることもある。
「被害を受けた子どもを助けたい」
「こんなことを許してはいけない」
そう思うこと自体に問題はない。
しかし、強い正義感を持ったときほど、
「被害者を疑ってはいけない」
「加害者を擁護するな」
という空気が生まれやすくなる。
まだ確認されていない事実について疑問を示しただけで、
「加害者の味方をしている」
と批判されることもある。
その結果、冷静に事実を確認すること自体が難しくなる。
被害を訴えている人を支援することと、相手を断罪することは同じではない。
被害者に寄り添いながら、
「この部分については、まだ分からない」
と判断を保留することもできる。
6-5 間違いが分かっても、同じようには広がらない
最初の情報が間違っていたと後から分かることもある。
新しい証言が出てくる。
映像の前後が明らかになる。
調査結果が公表される。
裁判で、それまでとは異なる事実が認定される。
しかし、その頃には多くの人が別の話題に移っていることもある。
最初の刺激的な情報は何万回も拡散されたのに、その後に出た訂正や新しい情報はほとんど知られない。
そうなれば、間違った情報だけを記憶している人が残る。
さらに、過去の投稿が検索結果に表示され続ければ、事情を知らない人が数年後にそれを見て、再び拡散することもある。
最初の断定は広く届いても、その訂正が同じ人たちに届くとは限らない。
だからこそ、最初に発信するときの慎重さが重要になる。
6-6 「断定しない」という選択肢を持つ
何かについて意見を述べるために、すべてを断定する必要はない。
「このような訴えがある」
「このように報じられている」
「事実であれば重大な問題だと思う」
「十分に調査してほしい」
こうした表現でも、自分の考えを伝えることはできる。
もちろん、言葉を少し変えれば必ず法的責任を免れるという意味ではない。
表現だけを取り繕っても、投稿全体から特定の事実を断定していると受け取られる場合もある。
大切なのは、言葉の逃げ道を作ることではなく、自分が確認できている範囲を超えて断定しないことである。
SNSでは、断定的な言葉ほど注目を集めやすい。
しかし、注目を集めることと、正しい情報を伝えることは別である。
誰かの人生や名誉に関わる情報であれば、なおさら慎重でなければならない。
分からないことについて、
「分からない」
と言う。
それは逃げでも、無責任でもない。
限られた情報しか持っていない第三者だからこそできる、責任ある判断の一つである。
第七章 リポストしただけでも責任を問われることがある
SNSでは、自分で文章を書かなくても、他人の投稿を簡単に拡散することができる。
Xのリポストをはじめ、SNSには他人の投稿を自分のフォロワーへ共有する機能が用意されている。
そのため、
「自分が書いたわけではない」
「紹介しただけだ」
「元の投稿を広めただけだ」
と考え、自分には責任がないと思ってしまうことがある。
しかし、他人が作った情報であっても、それを自ら拡散した以上、常に責任を免れるとは限らない。
「自分が最初に書いた情報ではない」ということと、「自分の発信にはならない」ということは別の問題である。
7-1 リポストも情報を広める行為である
ある人が、特定の生徒について、
「この生徒がいじめの加害者です」
と投稿したとする。
その投稿を見た人がリポストすれば、それまで元の投稿者を知らなかった人の画面にも、その情報が表示されるようになる。
さらに別の人がリポストすれば、情報は次々と新しい人へ届いていく。
最初の投稿が数十人にしか見られていなかったとしても、多くの人が拡散することで、何万人もの目に触れることもある。
つまり、情報が大きく広がるためには、最初に投稿した人だけでなく、それを拡散する人の存在も大きく関わっている。
一人一人は、
「一回リポストしただけ」
と思っていても、その一回が情報の拡散を支えている。
7-2 コメントを付ければ、自分自身の主張が加わる
他人の投稿にコメントを付けて共有する場合には、さらに注意が必要である。
例えば、
「この教師がいじめを隠蔽した」
という投稿に、
「最低の教師だ。絶対に許すな」
と付け加えて拡散したとする。
この場合、元の情報を広めているだけではなく、自分自身の評価や主張も加えている。
また、
「やっぱりこいつだったのか」
「こんな奴を教師にしておいていいのか」
といった言葉を添えれば、元の投稿内容を事実として受け入れた上で発信していると受け取られることもある。
自分で一から文章を書いていなくても、どの投稿を選び、どのような言葉を添えて拡散したのかによって、自分自身の発信として評価される可能性がある。
7-3 コメントを付けなければ安全とは限らない
では、何も書かずにリポストした場合はどうだろうか。
この場合も、
「無言でリポストしただけだから、絶対に責任を問われない」
とは言い切れない。
リポストがどのような意味を持つのかについては、投稿の内容や前後の文脈など、個別の事情によって判断される。
単なる情報共有として行われることもあれば、その内容に賛同する意味で行われることもあるからである。
したがって、リポストしたという事実だけを取り上げて、一律に違法か適法かを判断することはできない。
しかし少なくとも、
「文章を書いたのは別の人だから、自分には何の責任もない」
と考えるのは危険である。
7-4 「有名な人が投稿していた」ことも安全の保証にはならない
拡散するときには、情報を発信した人物の知名度を信用してしまうこともある。
著名人が投稿している。
フォロワーの多いインフルエンサーが取り上げている。
専門家を名乗る人物が断定している。
そのような投稿を見ると、
「この人が言っているのだから大丈夫だろう」
と思うこともある。
しかし、発信者の知名度と情報の正確性は別の問題である。
元の投稿者が誤った情報を信じている可能性もある。
一部の資料しか確認していないかもしれない。
当事者の一方からしか話を聞いていない場合もある。
多くのフォロワーがいることは、その人物の発信内容が事実であることを保証するものではない。
そして、その情報を自分で拡散するのであれば、
「有名な人が言っていたから」
という理由だけで、自分の発信についての責任がなくなるわけではない。
7-5 削除しても、拡散した事実まで消えるとは限らない
後から情報が間違っていると分かり、リポストを取り消すこともある。
もちろん、誤った情報だと分かったのであれば、拡散を止めることには意味がある。
しかし、取り消すまでの間に、その投稿を見た人がいるかもしれない。
スクリーンショットを撮られているかもしれない。
さらに別の人が拡散している可能性もある。
そのため、
「後で消せばいい」
と考えて安易に拡散するのは危険である。
自分の画面から消すことと、すでに他人へ伝わった情報をなかったことにすることは同じではない。
7-6 拡散する前に、自分が発信する場合と同じように考える
リポストのボタンを押すだけなら、数秒もかからない。
自分で文章を書く必要もない。
だからこそ、自分が情報を発信しているという感覚を持ちにくい。
しかし、その情報を自分のフォロワーへ届けるという点では、自分自身も情報の流通に参加している。
特に、
誰かを犯罪者とする情報。
いじめの加害者とする情報。
学校や教師が不正を行ったとする情報。
個人の私生活や家庭についての情報。
こうした人の社会的評価やプライバシーに関わる情報を拡散するときには、慎重に判断する必要がある。
「自分で書いたわけではないから」と考えるのではなく、
「もし自分がこの内容を投稿するとしたら、それでも発信するだろうか」
と考えてみてほしい。
自分では確かめられない。
本当かどうか分からない。
それでも拡散する必要があるのか迷う。
そういうときには、リポストしないという選択肢がある。
情報を広める自由があるからといって、すべての情報を広めなければならないわけではない。
拡散しないという判断も、情報を扱う者に求められる責任の一つである。
第八章 名誉毀損は「嘘を書いた場合」だけではない
SNSで誰かについて投稿するとき、
「本当のことなら名誉毀損にはならない」
と思っている人もいるかもしれない。
しかし、日本の刑法における名誉毀損罪は、そのような単純な仕組みにはなっていない。
刑法第230条第1項では、公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者について、その事実の有無にかかわらず処罰することが定められている。
つまり、
「書いた内容が真実であれば、絶対に名誉毀損罪にはならない」というわけではない。
ここは、情報を発信する上で特に知っておきたい点である。
8-1 名誉毀損で問題になる「名誉」とは何か
ここでいう名誉とは、単に本人の気持ちが傷ついたかどうかという意味ではない。
一般に、名誉毀損で問題になるのは、その人に対する社会的な評価である。
例えば、特定の人物について、
「同級生から金を脅し取った」
「いじめを繰り返している」
「学校で暴力を振るっている」
「教師がいじめを隠蔽した」
などと、不特定または多数の人が知り得る状態で具体的な事実を示せば、その人に対する社会的な評価を低下させる可能性がある。
SNSへの公開投稿は、多くの人が閲覧できるため、このような問題が生じやすい。
また、実名を書いていなくても、周囲の人が読めば誰について書いているのか分かる場合には、名誉毀損が問題になる可能性がある。
「名前を書かなければ大丈夫」と単純に考えることもできない。
8-2 「事実を摘示する」とはどういうことか
名誉毀損罪を理解する上では、「事実を摘示する」という言葉も重要である。
ここでいう「事実」は、必ずしも真実という意味ではない。
例えば、
「○○が同級生を殴った」
「○○先生が被害の申告を握り潰した」
といったように、その有無を証拠などによって確かめることのできる具体的な事柄を示すことをいう。
そのため、
「私はこの人が嫌いだ」
という個人的な感情を述べることと、
「この人は○○という不正をした」
と具体的な出来事を示すことでは、法的な評価が異なることがある。
後者のような投稿によって相手の社会的評価を低下させれば、名誉毀損が問題になり得る。
8-3 本当のことでも問題になる理由
「事実なら公表してもいいのではないか」
と思う人もいるだろう。
しかし、真実であっても、他人に無制限に公開されてよい情報ばかりではない。
例えば、ある人の過去の出来事や私生活上の問題を、社会的な必要性もなく大勢に知らせる行為まで、すべて自由に認められるとすれば、その人の名誉や私生活は守れなくなる。
そのため、刑法では、摘示した事実が真実であるかどうかだけで名誉毀損罪の成否が決まる仕組みにはなっていない。
ただし、社会的に必要な情報発信まで一律に処罰されるわけでもない。
刑法第230条の2には、公共の利害に関する事実について、公益を図る目的で行われ、真実であることが証明された場合などに、処罰しないための規定が設けられている。
したがって、
「真実だから大丈夫」でもなければ、「相手の評価を下げる内容を書いたら必ず犯罪になる」でもない。
実際には、投稿の内容や目的、対象となった事実などを踏まえて判断されることになる。
8-4 「みんなに知らせる必要がある」と思っていても注意が必要
学校で重大な問題が起きた場合、
「これは公益のための発信だ」
「ほかの子どもを守るために知らせる必要がある」
と考えることもある。
実際に、社会へ知らせることに公益性が認められる事案もあるだろう。
しかし、本人が公益目的だと思っているだけで、当然に刑事上の責任を免れるわけではない。
例えば、問題を知らせることよりも、特定の人物を攻撃したり、社会的な制裁を加えたりすることが主な目的になっていれば、評価が変わる可能性がある。
また、公益性のある問題だからといって、確認できていない事実まで自由に断定してよいわけでもない。
「公益のため」という言葉を、何を書いても許される免罪符として考えないことが大切である。
8-5 刑事上問題にならなくても、民事上の責任が生じることがある
もう一つ重要なのは、刑法上の名誉毀損罪と、民事上の名誉毀損は別の問題だということである。
刑事事件として処罰されなかったからといって、民事上も責任を負わないとは限らない。
投稿によって名誉を侵害されたとして、損害賠償や投稿の削除などを求められることもある。
民事上の責任については、後の章で詳しく取り上げる。
ここで覚えておきたいのは、
「警察に逮捕されなかったから問題ない」
「刑事事件にならなかったから好きに書いてよい」
ということではない、という点である。
8-6 「自分は正しい」と思っているときほど慎重に
名誉毀損というと、悪意を持って嘘を流す行為を想像するかもしれない。
しかし、SNSで問題になる発信のすべてが、最初から相手を陥れようとして行われるわけではない。
「これは事実だ」
「被害者を守りたい」
「みんなに知らせるべきだ」
と信じて発信することもある。
それでも、情報が間違っていることはある。
事実の一部しか分かっていないこともある。
そして、仮に内容が真実であったとしても、その公表の仕方が法的な問題を生じさせる場合もある。
だからこそ、人の社会的評価を大きく低下させる情報を発信するときには、
「本当かどうか」だけではなく、「自分がこの情報を不特定多数に公表することに、どのような意味があるのか」
まで考える必要がある。
真実であることは重要である。
しかし、真実であるという理由だけで、どのような情報でも自由に拡散できるわけではない。
そのことを知っておくだけでも、投稿ボタンを押す前の判断は大きく変わるはずである。
第九章 悪口や人格攻撃は侮辱罪になることがある
前章では、具体的な事実を示して人の社会的評価を低下させる名誉毀損について説明した。
では、
「具体的な事実を書かなければ、何を言っても問題ないのか」
というと、そうではない。
SNS上で特定の人物に対して悪口を言ったり、人格を貶めるような言葉を投げかけたりした場合には、侮辱罪が問題になることがある。
名誉毀損罪との大きな違いの一つは、具体的な事実を示していなくても成立する可能性があるという点である。
9-1 「事実を書いていないから大丈夫」とは限らない
例えば、
「○○が同級生から金を脅し取った」
という表現は、具体的な出来事を示している。
一方で、
「こいつはクズだ」
「最低の人間だ」
「人間の恥だ」
といった表現は、それだけでは具体的に何をしたのかを示しているわけではない。
だからといって、後者であれば何を書いても許されるわけではない。
刑法第231条は、事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した場合について侮辱罪を定めている。
したがって、
「具体的な事実を示せば名誉毀損が問題になり、事実を示さない人格攻撃であれば侮辱罪が問題になることがある」
という違いを、まず知っておきたい。
ただし、実際の法的評価は、表現の内容や文脈などによって異なる。
9-2 悪口を書けば、何でも侮辱罪になるわけではない
ここも誤解しないようにしたい。
誰かに対して否定的な言葉を使ったからといって、そのすべてが直ちに侮辱罪になるわけではない。
どのような言葉を使ったのか。
誰について述べたのか。
どのような文脈で発言したのか。
どの程度の人が認識できる状態だったのか。
こうした事情を踏まえて判断される。
例えば、政策や学校の対応について、
「この対応はひどいと思う」
「この判断には賛成できない」
と批判することと、特定の人物に対して人格そのものを貶める言葉を浴びせることは同じではない。
批判と侮辱は分けて考える必要がある。
9-3 「加害者には何を言ってもいい」わけではない
いじめや学校トラブルがSNSで話題になると、加害者とされた人物に対して激しい言葉が向けられることがある。
「クズ」
「ゴミ」
「生きている価値がない」
といった言葉を、大勢の人が一斉に書き込むこともある。
発信する側には、
「悪いことをした人間なのだから、このくらい言われて当然だ」
という感覚があるのかもしれない。
しかし、仮にその人物が実際に問題行為をしていたとしても、それによって第三者が無制限に人格攻撃をしてよいことにはならない。
まして、事実関係が十分に確認されていない段階であれば、なおさら慎重であるべきである。
問題となる行為を批判することと、その人の人格や存在そのものを攻撃することは違う。
「この行為は許されない」と言うことと、「こんな人間は存在する価値がない」と言うことは、同じ批判ではない。
9-4 子どもに対する侮辱には、特に慎重でなければならない
学校のトラブルでは、批判の対象になる人物が未成年であることも少なくない。
SNS上では、相手が子どもであることを忘れたかのように、大人が集団で激しい言葉を浴びせることがある。
一つの問題行為について批判していたはずが、
容姿を馬鹿にする。
家庭環境を嘲笑する。
親まで侮辱する。
過去の写真を探し出して笑いものにする。
といった方向へ発展することもある。
これでは、問題となった行為について意見を述べているのではなく、単なる人格攻撃になってしまう。
いじめを批判している人たちが、今度はインターネット上で一人の子どもを集団で攻撃する。
そのような状況を生み出してしまえば、本来守ろうとしていたはずの考え方とも矛盾するのではないだろうか。
9-5 匿名や伏字なら安全とは限らない
実名を書かず、
「○中学校のA」
「例の動画に映っていた男子生徒」
「○年○組の担任」
などと表現した場合でも、周囲の情報から誰を指しているのか分かることがある。
特に学校という狭い集団では、全国の人には分からなくても、生徒や保護者には容易に特定できる場合がある。
そのため、
「実名を書いていない」
「イニシャルにした」
というだけで、必ず問題を避けられるとは限らない。
この点については、後の章でも詳しく取り上げる。
9-6 批判するなら「人」ではなく「行為」を見る
学校や教育委員会の対応に問題があれば、批判することはできる。
教師の発言がおかしいと思えば、その問題点を指摘することもできる。
生徒の行為について、
「この行為は許されない」
と意見を述べることもあるだろう。
しかし、その人の行為を批判することと、その人自身を侮辱することは分けて考えたい。
「この説明には矛盾がある」
「この対応は適切ではないと思う」
「この行為については責任を問う必要がある」
こうした形でも、問題点を十分に指摘することはできる。
わざわざ人格を貶める言葉を付け加えなければ、問題を批判できないわけではない。
むしろ、侮辱的な表現を加えることで、本来伝えたかった問題点よりも、発信者の攻撃的な言葉の方が注目されてしまうこともある。
9-7 怒っているときほど、言葉を選ぶ
SNSでは、怒りを感じた直後に投稿することができる。
だからこそ、普段なら使わないような強い言葉を書いてしまうこともある。
しかし、投稿した言葉は記録として残る。
後から削除しても、スクリーンショットが残っていることもある。
そして、相手を侮辱する言葉を書いた理由が、
「腹が立っていたから」
「みんなも言っていたから」
「相手が悪いから」
というだけで、当然に責任を免れられるわけではない。
誰かの行為を批判したいのであれば、その行為について述べればいい。
相手の説明に疑問があるのであれば、その矛盾を指摘すればいい。
問題を批判するために、その人の人格まで傷つける必要はない。
怒りが強いときほど、投稿する前に、自分が批判しているのは「行為」なのか、それとも「人間そのもの」なのかを考えてみてほしい。
第十章 刑事責任――どのような処罰を受ける可能性があるのか
ここまで、名誉毀損罪と侮辱罪について説明してきた。
では、実際にこれらの犯罪が成立した場合、どの程度の処罰を受ける可能性があるのだろうか。
SNSへの投稿は、スマートフォンがあれば数秒でできる。
しかし、投稿内容によっては、単なる「ネット上の悪口」では済まず、刑事事件として扱われる可能性がある。
まずは、法律でどのような刑罰が定められているのかを知っておきたい。
10-1 名誉毀損罪の法定刑
刑法第230条第1項では、公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した場合について、名誉毀損罪を定めている。
現在の法定刑は、
3年以下の拘禁刑または50万円以下の罰金
である。
例えば、SNS上で特定の人物について、
「この生徒が○○という犯罪をした」
「この教師はいじめを隠蔽した」
などと具体的な事実を示し、その人の社会的評価を低下させた場合には、名誉毀損罪が問題になる可能性がある。
もちろん、このような投稿をすれば必ず処罰されるという意味ではない。
前章までに説明したとおり、実際の成否については、投稿の内容や公開された状況などを踏まえて判断される。
また、公共の利害に関する事実について、公益を図る目的で行われ、真実性が証明された場合などには、刑法第230条の2によって処罰されないこともある。
10-2 侮辱罪の法定刑
具体的な事実を示さなくても、公然と人を侮辱した場合には、刑法第231条の侮辱罪が問題になることがある。
現在の法定刑は、
1年以下の拘禁刑もしくは30万円以下の罰金、または拘留もしくは科料
である。
侮辱罪については、インターネット上の誹謗中傷が深刻な社会問題となったことなどを背景として、2022年に法定刑が引き上げられた。
それ以前と比べても、誹謗中傷を「ネット上の軽い悪口」として扱うだけでは済まない制度になっている。
10-3 「最高刑」と「実際に受ける刑罰」は違う
ここで注意したいのは、法律に書かれている法定刑と、実際の事件で科される刑罰は同じではないということである。
名誉毀損罪について「3年以下の拘禁刑」と定められているからといって、名誉毀損罪が成立した人が全員3年間拘禁されるわけではない。
実際の処分や刑罰は、個々の事案によって異なる。
投稿の内容。
悪質性。
投稿した回数。
拡散の程度。
被害の大きさ。
投稿後の対応。
前科の有無。
こうした様々な事情が考慮される。
また、捜査が行われたからといって必ず起訴されるわけではなく、起訴されたからといって必ず拘禁刑になるわけでもない。
そのため、
「名誉毀損をしたら懲役○年になる」
と一律に説明することはできない。
10-4 被害者からの告訴が重要になる
名誉毀損罪と侮辱罪は、いずれも親告罪である。
親告罪とは、原則として、被害者などからの告訴がなければ公訴を提起することができない犯罪をいう。
つまり、問題となる投稿があったからといって、すべてのケースで直ちに刑事裁判が始まるわけではない。
一方で、
「相手が何も言ってこないから大丈夫だろう」
と考えるのも危険である。
投稿された本人が証拠を保存し、警察や弁護士に相談した後に、告訴などの手続きを進めることもある。
SNS上では投稿がすぐに流れていくため、発信した側は忘れてしまうこともあるが、相手がスクリーンショットやURLなどを保存している場合もある。
10-5 削除すれば、最初からなかったことになるわけではない
問題のある投稿を後から削除することには意味がある。
それ以上の拡散を防げる可能性があるからである。
しかし、削除したからといって、投稿したという事実そのものが当然になくなるわけではない。
すでに多くの人が閲覧しているかもしれない。
スクリーンショットが保存されているかもしれない。
別のアカウントに転載されていることもある。
そのため、
「問題になったら消せばいい」
という考え方で投稿するのは危険である。
削除後の対応が事情の一つとして考慮されることはあり得ても、削除しただけで過去の投稿が存在しなかったことになるわけではない。
10-6 子どもの投稿では、年齢によって刑事責任の扱いが異なる
この記事で扱っている学校トラブルでは、投稿した側も未成年であることが考えられる。
ここでは、大人と同じように考えないよう注意が必要である。
刑法第41条では、14歳に満たない者の行為は罰しないと定められている。
そのため、13歳以下の子どもについて、大人と同じ刑事責任を負わせることはできない。
一方、14歳以上の少年については、犯罪に当たる行為をすれば少年法の対象となり、年齢や事案の内容などに応じた手続が行われる可能性がある。
また、14歳未満だからといって、問題そのものがなくなるわけでもない。
学校での対応や少年法上の手続、民事上の責任など、刑事責任とは別の問題が生じることがある。
子どもが投稿した場合の親の責任については、後の章で改めて取り上げる。
10-7 刑事事件にならなくても安心とは限らない
ここで最も注意したいのは、
「逮捕されなかった」「起訴されなかった」ということと、「何の責任も生じない」ということは同じではない
という点である。
刑事責任と民事責任は別に判断される。
刑事事件として処罰されなかった場合でも、投稿された側から損害賠償を請求されることがある。
投稿の削除を求められることもある。
発信者を特定するための手続が取られることもある。
そして、法的責任とは別に、学校や職場、家族などの人間関係に影響が及ぶ可能性もある。
SNSへの投稿は簡単である。
しかし、その投稿によって生じる責任まで軽いとは限らない。
投稿ボタンを押す数秒の判断が、警察による捜査や裁判など、その後の長い手続につながる可能性がある。
人の名誉に関わる情報を発信するときには、そのことも頭に入れておきたい。
第十一章 民事責任――損害賠償はいくらになるのか
前章では、名誉毀損罪や侮辱罪による刑事責任について説明した。
しかし、SNSへの投稿によって生じる法的責任は、刑事責任だけではない。
投稿によって名誉や名誉感情、プライバシーなどを侵害された人から、民事上の損害賠償を請求されることもある。
ここで注意したいのは、
刑事事件として処罰されるかどうかと、民事上の損害賠償責任を負うかどうかは別の問題である
ということである。
警察に逮捕されなかった。
不起訴になった。
刑事告訴されなかった。
だからといって、民事上も何の責任も負わないとは限らない。
11-1 民事では、不法行為として責任を問われることがある
民法第709条では、故意または過失によって他人の権利や法律上保護される利益を侵害し、損害を与えた場合について、損害を賠償する責任を定めている。
SNS上の投稿によって他人の名誉を違法に侵害した場合も、この不法行為に基づいて損害賠償を請求されることがある。
また、問題になるのは名誉だけではない。
他人に知られたくない私生活上の情報を公開すれば、プライバシー侵害が問題になることもある。
写真や動画の公開方法によっては、肖像に関する権利や利益が問題となる場合もある。
一つの投稿によって、複数の権利や利益の侵害が争われることもある。
11-2 損害賠償額は一律には決まっていない
では、名誉を傷つける投稿をすると、いくら支払うことになるのだろうか。
これについて、
「SNSの名誉毀損なら○万円」
「侮辱なら○万円」
と一律に決まっているわけではない。
裁判では、個々の事案に応じて損害額が判断される。
例えば、
投稿された内容。
表現の悪質性。
投稿された回数。
どの程度拡散されたのか。
どれほど多くの人が閲覧したのか。
対象となった人物の社会的評価に、どのような影響が生じたのか。
投稿がどのくらいの期間公開されていたのか。
投稿後に削除や謝罪をしたのか。
こうした様々な事情が考慮される。
そのため、同じSNS上の名誉毀損であっても、認められる金額には大きな違いが生じる。
11-3 数万円で済むとは限らない
インターネット上では、
「ネットの悪口なんて、訴えられても大した金額にはならない」
と考えている人もいる。
しかし、実際の裁判では、投稿の内容や悪質性などによって、慰謝料として数十万円から100万円程度、あるいはそれ以上が問題となる事例もある。
例えば、裁判例の中には、SNS上の投稿による名誉感情の侵害について、慰謝料100万円を認めたものもある。
また、別の裁判例では、慰謝料100万円に加えて、発信者情報の開示に関連する費用20万円と、弁護士費用相当額10万円を損害として認め、合計130万円の支払いを命じている。
もちろん、これらは個別の事案についての判断であり、
「一回悪口を書けば100万円」
という意味ではない。
反対に、これより低い金額になることもあれば、事案によっては、より大きな金額が争われることもある。
大切なのは、投稿内容だけを見て、あらかじめ賠償額を簡単に予測することはできないということである。
11-4 投稿者を特定するための費用が問題になることもある
匿名アカウントで投稿すれば、自分が誰なのか分からないと思う人もいるかもしれない。
しかし、権利を侵害された人が、投稿者を特定するための手続を取ることがある。
匿名の投稿者を特定するために、発信者情報の開示を求める手続が行われ、その後に投稿者本人への損害賠償請求へ進む場合もある。
そして、裁判例では、発信者を特定するために必要となった費用の一部が、投稿によって生じた損害として認められることもある。
つまり、最終的に問題になる金額は、慰謝料だけとは限らない。
「匿名だから大丈夫」
「名前を出していないアカウントだから特定されない」
と安易に考えない方がよい。
11-5 弁護士費用の一部が損害として認められることもある
裁判を起こされた場合、自分が依頼する弁護士の費用だけを考えてしまうかもしれない。
しかし、不法行為による損害賠償請求では、被害者側が訴訟を行うために必要となった弁護士費用の一部についても、損害として認められることがある。
そのため、
慰謝料。
発信者を特定するための費用。
弁護士費用相当額。
場合によっては、その他の損害。
これらが積み重なる可能性がある。
さらに、自分自身も弁護士へ依頼すれば、その費用が必要になる。
単純に、
「慰謝料がいくらになるか」
だけを見て、実際に負担する可能性のある金額を考えることはできない。
11-6 一人の投稿だけが問題になるとは限らない
SNS上での誹謗中傷では、大勢が同じ人物について投稿していることがある。
すると、
「自分よりひどいことを書いている人がいる」
「何千人も投稿しているのだから、自分だけが責任を問われることはないだろう」
と思うかもしれない。
しかし、他にも投稿した人がいるというだけで、自分の投稿についての責任がなくなるわけではない。
実際に誰を相手として請求するのかは被害を受けた側の判断にもよるため、大勢の中の一人だから安全だとは言えない。
リポストについても同様である。
自分が最初の情報を作ったわけではなくても、自分の行為が違法な権利侵害と評価されれば、民事上の責任が問題になる可能性がある。
11-7 請求された金額と、裁判所が認める金額は違う
もう一つ知っておきたいのは、
相手から請求された金額が、そのまま支払わなければならない金額になるわけではない
ということである。
例えば、相手から300万円を請求されたとしても、裁判所が300万円すべてを損害として認めるとは限らない。
裁判になれば、権利侵害があったのか、損害がどの程度生じたのかなどが審理され、その結果として裁判所が認める金額が決まる。
反対に、
「どうせ裁判では大した金額にならない」
と考えることも危険である。
裁判例によって認められる金額には幅があり、事案の悪質性や被害の程度によって結果は変わる。
11-8 お金を払えば元に戻るわけではない
民事裁判では、損害を金銭に換算して賠償を命じることがある。
しかし、ここで忘れてはいけないことがある。
仮に100万円を支払ったとしても、傷つけた人の名誉が完全に元へ戻るわけではない。
間違った情報を見た人全員に、
「あの情報は間違っていました」
と伝えられるとも限らない。
学校で噂が広がっていれば、その記憶まで消すことはできない。
そして、発信した側にとっても、裁判への対応には時間や労力がかかる。
家族や仕事に影響が及ぶこともあるだろう。
情報を発信するときには、
「訴えられたら、いくら払うことになるのか」
だけを考えるのではなく、
「この投稿によって生じた問題を、後から本当に元に戻せるのか」
まで考えてほしい。
SNSへの投稿は無料でできる。
しかし、その投稿によって生じる責任まで無料とは限らないのである。
第十二章 子どもが投稿した場合、親は責任を負うのか
ここまで、大人がSNSで情報を発信した場合を中心に説明してきた。
しかし、学校でのトラブルでは、投稿する側も子どもであることが珍しくない。
クラスメイトの悪口を書く。
相手の顔写真を載せる。
「こいつがいじめの加害者だ」と投稿する。
喧嘩やいじめの動画を公開する。
友人の投稿を面白半分で拡散する。
こうした行為によって他人の権利を侵害した場合、
「子どもが勝手にやったことだから、親には関係ない」
と考えてよいのだろうか。
実際には、子どもの年齢や理解力、親がどのような監督をしていたのかなどによって、法的な責任のあり方は変わる。
12-1 子どもだから、民事上の責任を負わないとは限らない
前章で説明した民法上の不法行為責任は、大人だけを対象としたものではない。
子どもが他人の権利を侵害した場合でも、一定の条件を満たせば、子ども本人が損害賠償責任を負う可能性がある。
ここで重要になるのが、民法第712条に定められている「責任能力」である。
未成年者が他人に損害を与えた場合、その行為の責任を理解するために必要な知能を備えていなかったときは、本人は損害賠償責任を負わないとされている。
ただし、
「未成年だから責任能力がない」という意味ではない。
何歳になれば必ず責任能力が認められるという一律の年齢が、民法に書かれているわけでもない。
本人の年齢や発達の程度、問題となった行為の内容などを踏まえて判断されることになる。
そのため、中学生や高校生がSNSで他人を中傷した場合にも、子ども本人の民事責任が問題になる可能性がある。
12-2 子どもに責任能力がない場合、監督する人の責任が問題になる
では、子どもに責任能力が認められない場合、被害を受けた側は誰にも損害賠償を求められないのだろうか。
そうとは限らない。
民法第714条では、責任能力のない者を監督する法定の義務を負う者について、一定の場合に損害賠償責任を定めている。
親権者である親などが問題になることがある。
ただし、
「子どもが何かしたら、必ず親が賠償責任を負う」
という仕組みではない。
法律上の要件に従って、監督義務者の責任が判断される。
したがって、子どもに責任能力がない場合には、子ども本人の責任だけを見るのではなく、監督義務者の責任についても検討されることになる。
12-3 子どもに責任能力があれば、親は絶対に責任を負わないのか
ここも単純ではない。
子ども本人に責任能力が認められれば、民法第714条の監督義務者責任がそのまま適用されるわけではない。
しかし、それだけで親の責任が完全になくなるとは限らない。
親自身の監督について具体的な過失があり、その過失と被害との間に因果関係が認められる場合には、民法第709条による親自身の不法行為責任が問題になることがある。
例えば、子どもが以前から特定の相手に対する中傷を繰り返しており、親がその事実を把握していたにもかかわらず、状況に応じた対応をしなかった場合などには、親自身の監督のあり方が争われる可能性がある。
もっとも、どこまで監督すれば十分なのかは、子どもの年齢や過去の行動、親が把握していた事情などによって異なる。
子どもの問題行動があったという結果だけから、直ちに親の法的責任が認められるわけではない。
12-4 「スマートフォンを持たせた親の責任」と単純には言えない
子どものSNSトラブルが起きると、
「スマートフォンを持たせた親が悪い」
と言われることがある。
しかし、スマートフォンを持たせたという事実だけで、子どもが行ったすべての投稿について親が法的責任を負うわけではない。
現在では、スマートフォンやSNSは、子ども同士の連絡や学校生活とも深く関わっている。
重要なのは、持たせたこと自体よりも、
子どもの年齢に応じたルールを決めていたか。
SNSの危険性について伝えていたか。
問題が起きていることを把握していたか。
把握した後にどのような対応をしたか。
といった具体的な事情である。
法的責任の有無とは別に、家庭で情報発信について話し合っておくことには大きな意味がある。
12-5 刑事責任と民事責任を混同しない
前章でも触れたように、刑法第41条では、14歳に満たない者の行為は罰しないと定められている。
しかし、
「14歳未満だから何を投稿しても責任を問われない」
という意味ではない。
これは刑事責任についての規定である。
刑事上処罰されないことと、民事上の問題が生じないことは別である。
また、学校による指導や、投稿の削除、被害を受けた側への対応などが必要になることもある。
反対に、14歳以上であれば大人と全く同じように扱われるという意味でもない。
少年については、少年法に基づく手続が関係する場合がある。
「14歳」という数字だけを見て、すべての法的責任を判断しないことが大切である。
12-6 親が代わりにSNSで攻撃してしまわないようにする
子どもの投稿によってトラブルが起きたとき、親が我が子を守ろうとして、相手に強い怒りを感じることもある。
しかし、そこで親自身がSNSに参加し、
「うちの子を攻撃しているのはこいつです」
「相手の親はこんな人間です」
などと投稿すれば、今度は親自身の発信について、新たな問題が生じる可能性がある。
子ども同士のSNSトラブルに、双方の親や友人まで参加する。
さらに、その投稿を第三者が拡散する。
そうなれば、最初は数人の子どもの間で起きた問題が、多くの人を巻き込む争いへと広がってしまう。
親がすべきことは、必ずしも我が子と一緒になって相手を攻撃することではない。
何が起きたのかを確認し、必要であれば学校や関係機関と連携しながら、問題を収める方法を考えることも大切である。
12-7 責任を追及する前に、子どもに教えておきたい
法律上、誰がどの程度の責任を負うのかは、問題が起きた後に重要になる。
しかし、保護者にとってそれ以上に大切なのは、問題が起きる前に子どもと話しておくことだろう。
腹が立っても、すぐに相手の悪口を投稿しない。
友人の顔写真や動画を勝手に公開しない。
個人情報を晒さない。
本当かどうか分からない情報を拡散しない。
誰かが攻撃されているからといって、一緒になって攻撃しない。
困ったときには、SNSで相手と争う前に大人へ相談する。
こうしたことを、単に、
「ネットは危ないからやめなさい」
と禁止するだけではなく、
「なぜ危険なのか」
まで伝えておくことが大切である。
子どもがSNSを利用する以上、すべての投稿を親が確認することは現実的ではない。
だからこそ、自分で判断できるようになるための知識を伝える必要がある。
子どもの投稿によって問題が起きたとき、
「誰がいくら払うのか」
を考えることも必要になるかもしれない。
しかし、それより前に、
「投稿する前に、どのような結果が起こり得るのかを想像できるようにする」
ことが、子どもを守り、周囲の人を傷つけないための大切な教育の一つではないだろうか。
第十三章 「真実は神のみぞ知る」という慎重さを持つ
ここまで、当事者や保護者の投稿、報道、動画や画像、第三者による拡散など、様々な情報について考えてきた。
これらに共通しているのは、私たちが得られる情報には限界があるということである。
学校でトラブルが起きたとき、
被害を訴える子どもがいる。
相手とされる子どもがいる。
その場にいたクラスメイトがいる。
双方の保護者がいる。
教師がいる。
それぞれが同じ出来事について話していても、説明が一致するとは限らない。
だからこそ、人の人生や名誉に関わる問題については、
「真実は神のみぞ知る」
くらいの慎重さを持っておいた方がよいと、私は思っている。
13-1 嘘をついていなくても、証言は食い違う
証言が食い違うと、
「どちらかが嘘をついている」
と考えてしまうことがある。
しかし、必ずしもそうとは限らない。
同じ出来事を経験していても、人によって見えているものは違う。
一人は正面から見ていた。
一人は離れた場所から見ていた。
一人は途中からその場に来た。
一人は声だけを聞いていた。
それぞれが誠実に説明していても、話が一致しないことはある。
さらに、人の記憶は映像のように出来事をそのまま保存しているわけではない。
時間が経つことで曖昧になることもあれば、後から知った情報によって記憶の捉え方が変わることもある。
強い恐怖や怒り、悲しみの中で経験した出来事であれば、その受け止め方にも違いが生じるだろう。
だから、
「証言がある」ということと、「その証言の内容が客観的な事実である」ということは同じではない。
これは、被害を訴える人だけではなく、相手側の証言や第三者の証言についても同じである。
13-2 客観的な証拠にも限界はある
では、証言ではなく、動画や画像などの客観的な証拠があれば真実が分かるのだろうか。
もちろん、映像や音声、メッセージの履歴などは、事実を確認するための非常に重要な資料になる。
しかし、それらにも限界がある。
動画には撮影される前後がある。
画像には写っていない範囲がある。
メッセージには、それ以前に交わされた会話があるかもしれない。
一つの証拠が強い意味を持っていても、その証拠だけで出来事の全体像まで分かるとは限らない。
だからこそ、事実を確認するときには、複数の証言や資料を照らし合わせる必要がある。
証拠を疑って何も信じるなという話ではない。
証拠が示している範囲と、自分がそこから推測したことを混同しないことが大切なのである。
13-3 裁判所でさえ、過去そのものを見ることはできない
裁判では、証言や文書、映像、通信記録など、様々な証拠を調べた上で事実が認定される。
裁判官は、提出された証拠や当事者の主張を検討し、何があったのかを判断する。
しかし、裁判官であっても、過去に戻って出来事そのものを見ることはできない。
残された証拠をもとに、法的な手続の中で事実を認定しているのである。
だからといって、裁判所の判断に意味がないということではない。
むしろ、双方に主張や立証の機会を与え、証拠を検討した上で判断するからこそ、SNS上の断片的な情報だけを見た第三者の判断とは大きく異なる。
それでも、人間が過去について判断する以上、神のようにすべてを見通しているわけではない。
まして、SNSの投稿や数本の記事を読んだだけの第三者が、
「事件の真相はこれだ」
と言い切ることには、より慎重であるべきだろう。
13-4 「認定された事実」と「真実」も完全に同じとは限らない
学校の調査報告書や第三者委員会の報告書、裁判所の判決などには、調査や審理を経て認定された事実が記載されることがある。
これらは、SNS上の噂や一方当事者の主張とは異なり、事実関係を考える上で非常に重要な資料である。
一方で、「認定された事実」と「この世で実際に起きたことのすべて」は、厳密には同じものではない。
証拠が残っていなければ、認定できないこともある。
証言が信用できるかどうかによって、結論が変わることもある。
調査や裁判の対象になっていない出来事もある。
私たちが知ることのできる事実には、どうしても限界がある。
だからこそ、
「認定されなかったから絶対になかった」
「認定されたから、自分が想像していることまで全部事実だ」
と範囲を広げて考えないことも大切である。
13-5 分からないことを、無理に埋める必要はない
人は、分からない状態を不快に感じることがある。
誰が悪かったのか。
なぜこんなことが起きたのか。
誰の説明が正しいのか。
できるだけ早く答えを出したくなる。
しかし、現実の出来事には、最後まで分からないこともある。
そこで情報の空白を推測で埋め、
「きっとこうだったに違いない」
と考え始めると、推測がいつの間にか自分の中で事実へ変わってしまうことがある。
さらに、それをSNSに投稿すれば、今度は別の人がその推測を事実だと思って拡散するかもしれない。
分からない部分があるのであれば、
「ここまでは分かっている。しかし、ここから先は分からない」
と考えればいい。
すべての出来事に、自分なりの結論を出さなければならないわけではない。
13-6 判断を保留することは、誰かを見捨てることではない
被害を訴える人がいるとき、
「まだ事実関係は分からない」
と言うことに抵抗を感じる人もいる。
被害者を疑っているように思われるかもしれない。
しかし、判断を保留することと、被害を訴える人を見捨てることは別である。
「つらい思いをしているのであれば支援が必要だ」
「訴えについて、きちんと調査してほしい」
「安全を確保する必要がある」
と考えながら、誰が何をしたのかについては判断を保留することができる。
支援するために、誰かを悪人と決めつける必要はない。
誰かの苦しみに寄り添うために、別の誰かを断罪しなければならないわけでもない。
13-7 「分からない」と言える強さを持つ
SNSでは、はっきりと言い切る人の方が注目を集めやすい。
「絶対にこいつが悪い」
「これが真相だ」
「間違いなく隠蔽だ」
そうした言葉は分かりやすく、多くの人の感情を動かす。
一方で、
「今ある情報だけでは分からない」
という言葉は地味である。
しかし、人の人生や名誉に関わる問題では、その地味な慎重さが誰かを守ることもある。
新しい証拠が出れば、考えを変えればいい。
自分の認識が間違っていたと分かれば、訂正すればいい。
最初からすべてを知っている必要はない。
大切なのは、知らないことまで知っているふりをしないことである。
13-8 真実は神のみぞ知る。
私たちは、手に入れられる証言や証拠から、できる限り事実に近づこうとすることしかできない。
だからこそ、自分が知っている範囲と、知らない範囲を意識する。
そして、分からないことについては、
「分からない」
と言える慎重さを持つ。
情報を発信する側にも、受け取る側にも、その姿勢が必要なのではないだろうか。
第十四章 それでも情報を発信するときに考えてほしいこと
ここまで、情報を発信・拡散することで起こり得る様々な問題について説明してきた。
しかし、この記事で伝えたいのは、
「学校で起きた問題をSNSで発信してはいけない」
ということではない。
学校が十分に対応してくれないこともある。
教育委員会へ相談しても、問題が解決しないこともある。
多くの人に知ってもらうことで、初めて問題が動き出す場合もあるだろう。
また、社会に広く知らせることに意味のある問題もある。
情報発信は、状況を変えるための一つの手段になり得る。
だからこそ、発信するのであれば、その目的と方法をよく考えてほしい。
14-1 まず「何のために発信するのか」を考える
情報を公開する前に、最初に考えたいのは目的である。
学校に適切な対応を求めたいのか。
同じような被害が起きないよう、問題を社会に知らせたいのか。
情報を求めているのか。
自分たちが置かれている状況を知ってほしいのか。
それとも、怒りを感じた相手を非難したいのか。
目的が違えば、必要な発信の内容も変わる。
例えば、学校の制度や対応の問題を訴えることが目的なのであれば、必ずしも特定の生徒の実名や顔写真まで公開する必要はない。
問題の存在を社会に知らせることと、関係者の個人情報を広めることは別である。
怒っているときほど、
「この投稿によって、何を実現したいのか」
を一度考えてみてほしい。
14-2 公開する範囲は必要最小限にする
発信することを決めたとしても、持っている情報をすべて公開する必要はない。
実名。
顔写真。
学校名。
学年やクラス。
住所や家族に関する情報。
SNSのアカウント。
LINEなどのやり取り。
動画や音声。
こうした情報の中には、問題を説明するために必要のないものも含まれていることがある。
特に子どもに関する情報は、一度公開すれば、本人が成長した後まで残る可能性がある。
「持っている情報」と「公開する必要がある情報」を分けて考えることが大切である。
必要のない個人情報まで公開しない。
関係のない人を巻き込まない。
問題を説明するために必要な範囲にとどめる。
それだけでも、発信によって生じる危険を減らすことができる。
14-3 事実と意見を分けて書く
発信するときには、自分が確認した事実と、自分の考えや推測を分けることも重要である。
例えば、
「○月○日に学校と面談をした」
ということと、
「学校は問題を隠そうとしている」
ということは同じではない。
前者は出来事についての説明であり、後者には学校の意図についての評価や推測が含まれている。
また、
「子どもは○○されたと話している」
ということと、
「○○が実際にその行為をした」
ということにも違いがある。
自分が直接確認したことなのか。
子どもから聞いたことなのか。
学校から説明されたことなのか。
報道で知ったことなのか。
自分がそこから推測したことなのか。
これらを意識して書くだけでも、読み手に与える印象は大きく変わる。
14-4 相手を特定する必要が本当にあるのかを考える
学校の問題を発信するとき、必ずしも相手の名前を明らかにする必要があるとは限らない。
例えば、
「学校がいじめの訴えにどのように対応したのか」
という問題を社会に問いかけるのであれば、関係する子どもの実名を公開しなくても説明できる場合がある。
特に、相手が未成年である場合には慎重に考えたい。
子どもは成長する。
考え方も変わる。
過ちを犯すこともあれば、その後に反省することもある。
しかし、インターネット上に名前や顔とともに「加害者」という情報が残れば、問題が解決した後も、その評価だけが残り続ける可能性がある。
社会に問題を訴えることと、特定の子どもを社会的に制裁することは分けて考える必要がある。
14-5 投稿する前に、時間を置く
怒っているときには、強い言葉を使いたくなる。
学校から納得できない説明を受けた直後。
子どもからつらい話を聞いた直後。
相手から腹の立つ連絡が来た直後。
その瞬間に文章を書けば、自分でも普段は使わないような表現になることがある。
SNSは、感情が最も強くなっている瞬間に、そのまま世界へ発信できてしまう。
だからこそ、急いで公開する必要がないのであれば、一度文章を保存して時間を置くという方法がある。
数時間後でもいい。
翌日でもいい。
読み返したときに、
「この表現は必要ない」
「ここは事実ではなく推測だった」
「この情報まで公開する必要はない」
と気づくこともある。
公開する前なら、いくらでも書き直すことができる。
14-6 発信する前に、第三者に読んでもらう
重要な問題について発信するのであれば、公開する前に信頼できる第三者へ文章を見せることも一つの方法である。
自分では冷静に書いているつもりでも、強い怒りが文章に表れていることがある。
また、自分にとっては当然の前提でも、初めて読む人には事実と推測の区別が分からない場合もある。
法的な問題が心配なのであれば、内容によっては弁護士などの専門家に相談することも考えられる。
特に、実名を出して重大な不正や犯罪行為を指摘するような発信では、
「おそらく大丈夫だろう」
という感覚だけで判断しない方がよい。
14-7 我が子がどう感じるのかを確認する
親が子どもの被害について発信するときには、もう一つ忘れてほしくないことがある。
その情報は、親だけの情報ではないかもしれない。
子どもが誰に何をされたのか。
どんな言葉を言われたのか。
どのような被害を受けたのか。
学校へ行けなくなったこと。
泣いていたこと。
心身の状態。
こうした情報は、子ども自身のプライバシーにも関わる。
親としては、
「我が子を守るため」
と思っていても、本人は友人に知られたくないかもしれない。
将来までインターネット上に残してほしくないと思うかもしれない。
子どもの年齢や状況にもよるが、可能であれば、
「このことを発信してもいい?」
「どこまでなら書いていい?」
と本人の気持ちを確認することも大切である。
14-8 発信することと、相手を攻撃することを分ける
問題を社会に訴えるために、相手を侮辱する必要はない。
学校の対応を批判するために、教師の人格を否定する必要もない。
我が子の被害を伝えるために、相手の子どもの容姿や家庭について攻撃する必要もない。
問題になっている行為や対応について、具体的に説明すればいい。
情報発信の目的が問題の解決なのであれば、相手を傷つけること自体が目的になっていないか、ときどき確認した方がよい。
怒りを持つことと、その怒りをすべて公開することは別である。
14-9 発信しないことも、一つの選択である
情報を持っているからといって、必ず公開しなければならないわけではない。
証拠として保存する。
学校へ提出する。
教育委員会へ相談する。
警察や弁護士など、必要な相手だけに見せる。
こうした方法で目的を達成できるのであれば、不特定多数へ公開しないという判断もできる。
反対に、様々な方法を試しても問題が解決せず、社会へ知らせる必要があると判断することもあるだろう。
重要なのは、
「発信するか、黙るか」
という二択で考えないことである。
誰に伝えるのか。
何を伝えるのか。
どこまで公開するのか。
どの方法を使うのか。
選択肢はいくつもある。
情報には、人を動かす力がある。
問題を明らかにし、誰かを助ける力もある。
その一方で、関係のない人を巻き込み、誰かの人生を大きく変えてしまう力もある。
だからこそ、情報を発信するときには、
「発信できるか」ではなく、「何のために、どこまで発信する必要があるのか」
を考えてほしい。
その判断をしてから発信しても、決して遅くはない。
おわりに 拡散する前なら、まだ戻れる
子どもが傷つけられたとき、親が怒るのは当然のことだと思う。
学校の対応に納得できないこともある。
相手の説明を聞いて、さらに腹が立つこともある。
「こんなことがあったと、みんなに知ってほしい」
「世間に訴えなければ、何も変わらない」
そう思うこともあるだろう。
実際に、情報を発信したことで、それまで動かなかった問題が動き出すこともある。
だから、私は情報を発信すること自体が悪いとは思っていない。
ただ、発信する前に少しだけ考えてほしい。
その情報は、一度広がってしまえば、自分だけのものではなくなる。
誰が見るのか。
誰が保存するのか。
どの部分が切り取られるのか。
どんな言葉を付け加えて転載されるのか。
どこまで広がるのか。
投稿した人が、そのすべてを決めることはできない。
投稿する前なら、何度でも考え直せる
文章を書いて、腹が立ったまま投稿ボタンを押したくなることもある。
しかし、まだ投稿していないのであれば、何も広がっていない。
書き直すことができる。
名前を消すことができる。
余計な一文を削ることもできる。
動画を公開しないという判断もできる。
SNSではなく、必要な相手だけに伝える方法へ変えることもできる。
そして、
「今日は投稿しない」
と決めることもできる。
投稿する前なら、何度でも戻ることができる。
しかし、一度公開した情報については、同じようにはいかない。
だからこそ、投稿する前の数分、数時間が大切なのだと思う。
誰かの投稿を見た人にも、同じことが言える
これは、自分が最初に情報を発信するときだけの話ではない。
被害を訴える親の投稿を見たとき。
いじめの動画が流れてきたとき。
週刊誌の記事を読んだとき。
誰かについての告発を見つけたとき。
怒りを感じることもあるだろう。
しかし、その瞬間にリポストする必要はない。
コメントを付けて誰かを断罪する必要もない。
自分が知らないことまで、無理に判断する必要もない。
誰かが苦しんでいるのであれば、その人の無事を願うことはできる。
きちんと調査してほしいと求めることもできる。
問題となった制度や対応を批判することもできる。
誰かを支えることと、別の誰かを攻撃することは同じではない。
間違えたときに傷つくのは、画面の向こうにいる人間
SNSを見ていると、そこに書かれている名前が、単なる文字のように感じることがある。
しかし、その名前の向こうには生活している人がいる。
学校に通っている子どもがいる。
家族がいる。
友人がいる。
教師にも生活がある。
被害を訴えている側にも、加害者とされている側にも、それぞれの日常がある。
もし自分の判断が間違っていたとしても、投稿した側は、
「勘違いでした」
と一言書けば、その場から離れられるかもしれない。
しかし、間違った情報によって名前や顔を広められた人は、その後もその影響を受け続けることがある。
だから、人の人生に関わる情報ほど慎重に扱ってほしい。
正しさより先に、確かさを考える
SNSでは、
「どちらが正しいのか」
「誰が悪いのか」
という議論になりやすい。
しかし、その前に考えなければならないことがある。
「そもそも、自分はどこまで確かなことを知っているのか」
ということである。
当事者が話しているから。
親が訴えているから。
動画があるから。
報道されたから。
多くの人が言っているから。
それだけで、出来事のすべてが分かるとは限らない。
もちろん、確認できる事実はある。
証拠によって強く裏付けられることもある。
その一方で、最後まで分からないこともある。
分からないのであれば、分からないままでいい。
知らないことについてまで、無理に結論を出す必要はない。
情報には力があるからこそ、慎重に扱いたい
情報発信によって救われる人もいる。
誰にも知られていなかった問題が明らかになることもある。
声を上げたことで、学校や行政が動くこともある。
情報には、それだけの力がある。
だからこそ、その力を軽く扱ってはいけないのだと思う。
自分が発信しようとしている情報は、誰を助けるのか。
誰を傷つける可能性があるのか。
本当に公開する必要があるのか。
どこまでなら公開する必要があるのか。
そして、自分はその内容について、どこまで確かなことを知っているのか。
投稿する前に、それを考えてほしい。
一度広がった情報を、完全に回収することは難しい。
しかし、
拡散する前なら、まだ戻れる。
発信することもできる。
発信しないこともできる。
必要な相手だけに伝えることもできる。
分からないことを「分からない」として残すこともできる。
情報を発信する自由があるからこそ、発信しない自由もある。
その選択肢を忘れずに、情報と向き合ってほしい。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻




















































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