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いじめ防止対策推進法改正案「認知は更に広く、評価はもっと厳格に、重大事態調査は深刻な事案に重点を」/いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻


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はじめに

2013年、「いじめ防止対策推進法」が成立した。

この法律が作られる大きな契機となったのは、2011年に滋賀県大津市で起きた中学生の自死事案である。

当時、いじめをめぐる学校や教育委員会の対応が大きな社会問題となり、「子どもが苦しんでいるにもかかわらず、その声や兆候が十分に拾い上げられない」という問題が改めて浮き彫りになった。

その反省から、いじめを早期に発見し、学校や教育委員会が組織的に対応するための仕組みが法律として整備された。

私は、その理念を否定するつもりはない。

子どもが「つらい」「怖い」「学校に行きたくない」と感じているのであれば、その声を大人が軽視してはならない。

また、自分から被害を訴えることのできない子どももいる。

周囲から見れば明らかに苦しい状況に置かれているにもかかわらず、本人が「大丈夫」と答えることもある。

だからこそ、いじめを見逃さないための網は広くなければならない。

むしろ私は、この「拾い上げるための網」については、現在よりも更に広げるべきだと考えている。

一方で、子どもの苦痛やいじめの疑いを拾い上げることと、実際に何が起きていたのかを確認し、その行為を「いじめ」と評価することは、本来、同じではない。

現在のいじめ防止対策推進法では、「一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」であり、その対象となった児童等が「心身の苦痛を感じているもの」が「いじめ」と定義されている。

この定義は、いじめを見逃さないためには大きな意味を持つ。

しかし、被害を拾い上げるための基準と、事実を確認した後に「いじめ」であると評価するための基準まで、同じでよいのだろうか。

私は、ここを分ける必要があると考えている。

本人が苦痛を訴えた場合はもちろん、本人が何も訴えていなくても、周囲から見ていじめが疑われる事情があれば、まずは広く拾い上げる。

そして、「いじめの疑いがある事案」として必要な確認や支援を始める。

その後、実際にどのような行為があったのか、どのような関係性の中で起きたのか、どの程度継続していたのか、一方的な行為だったのか、行為の態様や悪質性はどの程度だったのかなどを丁寧に確認した上で、「いじめ」に該当するのかを評価する。

つまり、

認知は、更に広く。

評価は、もっと厳格に。

という仕組みである。

これは、被害を訴える子どもや保護者の権利を狭めるための提案ではない。

ましてや、いじめによって子どもを亡くした遺族を批判したり、「最近は何でもいじめやハラスメントと言い過ぎだ」と被害を訴える人々を攻撃したりするためのものでもない。

被害を訴えやすくすることと、誰かを安易に加害者として扱わないことは、両立できるはずである。

そして、学校や教師がその間に立たされ、誰かを「被害者」、誰かを「加害者」と早急に位置付けることを求められる状況についても、見直す必要がある。

いじめ防止対策推進法の成立から、既に10年以上が経過した。

法律が必要とされた理由を忘れてはならない。

しかし、法律が一度作られたからといって、その仕組みを永久に変えてはならないわけでもない。

実際の運用を通じて見えてきた問題があるのであれば、被害者を守るという理念を維持しながら、より公正で、より実効性のある制度へと改善していくべきである。

この記事では、いじめ防止対策推進法が作られた経緯と現在の制度を確認した上で、これまでの運用によって生じている問題を整理し、被害を見逃さず、それと同時に誰かを安易に加害者としないためには、どのような制度が必要なのかを考えていきたい。


目次

第一章 いじめ防止対策推進法はなぜ作られたのか

第二章 現在の「いじめ」の定義には問題がある

第三章 認知は、今より更に広くする

第四章 「いじめ」の評価は、もっと厳格にする

第五章 「一回でも重大ないじめ」は存在する

第六章 認知・事実認定・評価・責任を分ける

第七章 被害者や遺族を攻撃するための法改正にしてはならない

第八章 関係する児童生徒も守らなければならない

第九章 「認知件数」と「いじめ件数」を分ける

第十章 「いじめ」の評価基準を明文化する

第十一章 「いじめではない」という結論も認める

第十二章 重大事態調査は、深刻な事案に重点を置く

第十三章 学校だけに「評価」を背負わせない

第十四章 改正によって、いじめ対応はどう変わるのか

第十五章 具体的な法改正案

第十六章 この改正で守りたいもの


 

第一章 いじめ防止対策推進法はなぜ作られたのか


いじめ防止対策推進法について考えるためには、まず、この法律がなぜ作られたのかを確認しておく必要がある。

この法律が成立する大きな契機となったのは、2011年10月に滋賀県大津市で起きた中学生の自死事案である。

この事案では、生徒が亡くなった後、学校が実施したアンケートや教育委員会の対応などをめぐって大きな社会的議論が起きた。

そして、いじめによって深刻な被害を受けている可能性のある子どもを、学校や教育委員会が十分に把握し、適切に対応するための仕組みが必要ではないかという問題意識が全国的に高まっていった。

しかし、いじめ防止対策推進法は、大津市の事案だけを対象として突然作られた法律ではない。

大津市の事案を大きな契機として、それ以前から繰り返されてきたいじめ問題への対応を、学校ごとの判断だけに委ねるのではなく、国や地方公共団体を含めた制度として整備しようとする動きが急速に進んだのである。

2012年12月に行われた衆議院議員総選挙では、各党がいじめ問題への対応を政策として掲げた。

その後、第2次安倍内閣の下で設置された教育再生実行会議は、2013年2月26日に「いじめの問題等への対応について」と題する第一次提言をまとめた。

その中では、いじめを教育再生に向けて避けて通ることのできない緊急の課題と位置付け、いじめの定義を明らかにすることや、被害を受けている子どもを守る大人の責務、相談体制や関係機関との連携、迅速な対応などを盛り込んだ法律を制定する必要性が示された。

こうした流れを受けて、国会でも法制化に向けた動きが進んでいく。

各党による協議を経て、2013年6月18日、馳浩氏ら14人の議員によって「いじめ防止対策推進法案」が議員立法として提出された。

国立国会図書館の日本法令索引によれば、提出者は馳浩氏のほか、遠藤利明氏、萩生田光一氏、土屋正忠氏、笠浩史氏、郡和子氏、松本剛明氏、鈴木望氏、重徳和彦氏、遠藤敬氏、浮島智子氏、富田茂之氏、井出庸生氏、青木愛氏の計14人だった。(法令データベース)

翌6月19日、衆議院文部科学委員会で法案の審議が始まった。

提出者を代表して趣旨説明を行った笠浩史氏は、いじめ問題への対応について、いじめはどの学校でも、どの子どもにも起こり得るという認識の下、一人でも多くの子どもをいじめから救うため、それぞれが自らの役割と責任を自覚して行動する必要があるという趣旨を説明している。(国会会議録検索システム)

一方、この法案に反対する意見も存在した。

同日の衆議院文部科学委員会では、法案について討論が行われた後、採決が行われている。国立国会図書館の日本法令索引には、この日の趣旨説明、質疑、討論、採決、附帯決議まで一連の審議記録が保存されている。(法令データベース)

その後、法案は6月20日に衆議院を通過し、翌21日に参議院でも可決された。

つまり、6月18日の法案提出から、わずか3日後の成立だったことになる。

そして6月28日、「平成25年法律第71号」として公布され、いじめ防止対策推進法が誕生した。提出日、成立日、公布日などの経過は、現在も国立国会図書館の日本法令索引と参議院の議案情報で確認することができる。(法令データベース)

法律の目的は、いじめが子どもの教育を受ける権利を著しく侵害し、心身の健全な成長や人格形成に重大な影響を与え、場合によっては生命や身体に重大な危険を生じさせることを踏まえ、国、地方公共団体、学校などの責務を明らかにし、いじめ防止等の対策を総合的かつ効果的に推進することにあった。現在の法律全文は、e-Gov法令検索で確認できる。(e-Gov 法令検索)

この制定過程を見ると、現在の法律が目指したものは理解できる。

それまで、いじめへの対応は学校や教育委員会によって差があり、深刻な被害が疑われる場合であっても、十分な調査や対応が行われないことがあった。

そこで、いじめへの対応を学校側の判断だけに委ねるのではなく、国、地方公共団体、学校、保護者などの責務を明らかにし、組織的に対応する仕組みを法律によって作ろうとしたのである。

特に重要だったのは、いじめを大人の側が過小評価することによって、子どものSOSを見落としてはならないという考え方だったのではないかと思う。

実際、法案成立時の衆議院文部科学委員会による附帯決議では、法律上の「心身の苦痛を感じているもの」という要件について、限定的に解釈されることのないよう努めることが求められている。(文部科学省)

私は、この問題意識そのものは現在でも正しいと考えている。

「本人も大したことではないと言っている」

「子ども同士ではよくあることだ」

「ふざけていただけだろう」

そのような大人の判断によって、実際には深刻な状況に置かれている子どもが救われないことは防がなければならない。

だからこそ、今回私が提案する法改正も、2013年以前の状態へ戻すことを目的とするものではない。

むしろ、見逃さないという理念については、現行法より更に徹底したいと考えている。

問題は、そのために広く拾い上げた事案を、その後どのように調査し、どのように「いじめ」と評価するのかという点にある。

いじめの疑いを広く拾い上げることと、確認された事実について「いじめ」という評価を下すことは、本当に同じ基準でよいのだろうか。

その問題を考えるために、次章では、現在のいじめ防止対策推進法が「いじめ」をどのように定義しているのかを詳しく見ていきたい。


 

第二章 現在の「いじめ」の定義には問題がある


いじめ防止対策推進法を改正する必要性について考える上で、最も重要なのが「いじめ」の定義である。

現在、同法第2条第1項では、いじめを次のように定義している。

「児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」

つまり、法律上のいじめに該当するかを考える際には、一般的にイメージされる「何度も繰り返されているか」「相手を傷つける意図があったか」「力関係に差があったか」といった要素が、条文上の要件として明記されているわけではない。

中心に置かれているのは、一定の人的関係にある他の児童等から心理的または物理的な影響を与える行為を受け、その対象となった児童等が心身の苦痛を感じているかどうかである。(文部科学省)

この定義には、大きな意味がある。

例えば、行為をした側が「遊びのつもりだった」「冗談だった」と説明したとしても、それだけを理由に、いじめではないと判断することはできない。

また、大人から見れば些細な行為に思えたとしても、実際にその行為を受けた子どもが深く傷ついている可能性がある。

行為者の意図や大人の感覚だけで判断するのではなく、行為を受けた子どもの側に立って考えるという考え方は、いじめを見逃さないために重要である。

一方で、この定義を別の角度から見ると、非常に広い範囲の行為が法律上の「いじめ」に含まれ得ることが分かる。

例えば、友人同士の一度だけの口論で、一方が相手の言葉に傷ついた場合。

遊んでいる最中に、一方の子どもが嫌だと感じる行為があった場合。

互いに悪口を言い合った結果、そのうちの一人が強い苦痛を感じた場合。

相手を傷つける意図のない発言によって、結果として別の子どもが傷ついた場合。

具体的な事実関係によるものの、現在の第2条の文言に照らせば、こうした行為も法律上のいじめに該当し得る。

ここで注意しなければならないのは、「そんなものはいじめではない」と最初から切り捨てるべきだ、という話ではないことである。

子どもが苦痛を感じている以上、その事実は軽視されるべきではない。

何が起きているのかを確認し、必要であれば子どもを守り、関係を調整する必要がある。

問題は、「拾い上げる必要があるか」という問題と、「最終的にいじめと評価すべきか」という問題が、十分に分けられていないことにある。

現行法の構造を見ると、この問題がより分かりやすい。

第23条では、学校に在籍する児童等が「いじめを受けていると思われるとき」、学校は速やかに、いじめの事実の有無を確認するための措置を講じなければならない。

そして、その確認によって「いじめがあったことが確認された場合」には、いじめをやめさせ、再発を防止し、被害を受けた児童等への支援や、いじめを行った児童等への指導などを継続的に行うこととされている。(文部科学省)

つまり法律自体にも、

「いじめを受けていると思われる段階」

と、

「いじめがあったことが確認された段階」

という区別は存在している。

これは非常に重要な点である。

しかし、その最終的な「いじめ」の該当性を判断する際に使われる第2条の定義は、見逃しを防ぐことを強く意識した、非常に広いものとなっている。

そのため、いじめの疑いを広く拾い上げるための考え方と、調査によって明らかになった事実を最終的に「いじめ」と評価するための考え方との境界が、曖昧になりやすい。

私は、ここに現在の制度が抱える大きな問題の一つがあると考えている。

例えば、ある子どもが「嫌なことをされた」と教師に相談したとする。

その相談を受けた段階で、

「相手に悪気はなかったようだから、いじめではない」

「一度しか起きていないから、いじめではない」

などと判断し、何も確認しないことは適切ではない。

まず拾い上げ、何が起きたのかを確認する必要がある。

しかし、確認した結果、双方が同程度に言い争っていたことが分かった場合や、偶発的な出来事だったことが分かった場合、あるいは当初の説明とは異なる事実関係が明らかになった場合まで、拾い上げた時点と同じ基準によって「いじめ」と評価する必要があるのだろうか。

私は、そこを分けるべきだと考えている。

さらに、現行法では、学校や教職員に対し、いじめの防止と早期発見に取り組み、児童等がいじめを受けていると思われるときには、適切かつ迅速に対処する責務を課している。また、定期的な調査や相談体制の整備など、早期発見のための仕組みも定められている。(文部科学省)

こうした仕組みは、子どものSOSを見逃さないために必要である。

だからこそ私は、早期発見の仕組みを弱めるのではなく、むしろ強化すべきだと考えている。

その一方で、早期発見のために広く拾い上げる基準と、「いじめ」という評価を確定する基準を分離する必要がある。

そうすることで初めて、

「疑いがあるから調べる」

ことと、

「調べた結果、いじめだったと評価する」

ことを明確に区別できる。

そして、この区別を明確にすれば、被害を訴える子どもの声をこれまで以上に拾いながら、調査前の段階で別の子どもが事実上の「加害者」として扱われることも防ぎやすくなる。

では、拾い上げるための基準は、具体的にどこまで広げるべきなのか。

私は、現在の制度よりもさらに広げるべきだと考えている。

次章では、その理由と具体的な仕組みについて考えていきたい。


 

第三章 認知は、今より更に広くする


前章では、現在のいじめ防止対策推進法が、いじめを見逃さないために非常に広い定義を採用していることを確認した。

私は、この「見逃さない」という考え方そのものを後退させるべきではないと考えている。

むしろ、いじめの可能性がある事案を拾い上げる段階については、現在よりも更に広げるべきである。

現行法第2条では、一定の人的関係にある他の児童等から心理的または物理的な影響を与える行為を受け、その対象となった児童等が「心身の苦痛を感じているもの」をいじめと定義している。(文部科学省)

しかし、子どもはいつでも自分の苦痛を正確に認識し、それを言葉にして大人へ伝えられるとは限らない。

怖くて言えないこともある。

周囲に知られることを恥ずかしいと感じることもある。

「先生に言ったら、もっとひどいことをされるかもしれない」と考えることもある。

自分がいじめられていることを認めたくない場合もあれば、つらい状況が長く続いたことで、それが普通の状態になってしまっている場合もあるだろう。

また、友人関係を失いたくないために、本人が「遊んでいただけ」「別に嫌じゃない」と説明することも考えられる。

このような場合に、本人が明確に苦痛を訴えていないことだけを理由として、いじめの可能性を検討しないのであれば、本当に守らなければならない子どもを見落とすことになりかねない。

だから私は、法律上、新たに「いじめ疑い」という段階を設けることを提案したい。

例えば、本人が苦痛を訴えている場合は、当然「いじめ疑い」として認知する。

しかし、それだけではない。

本人が何も訴えていなくても、教師、保護者、他の児童生徒などから見て、いじめが行われている可能性を合理的に疑う事情がある場合には、同じように「いじめ疑い」として拾い上げる。

例えば、一人の子どもだけが繰り返し集団から外されている。

特定の子どもが、別の子どもから繰り返し金品を要求されている。

本人は笑っているものの、いつも同じ子どもだけがからかわれている。

SNS上で、本人を対象とした侮辱的な投稿が繰り返されている。

持ち物が何度も隠されている。

こうした状況が確認されたにもかかわらず、

「本人がいじめだと言っていない」

「本人が嫌だと言っていない」

という理由だけで、学校が何もしないことは適切ではない。

実際、現行法も学校に対して、本人から申告があった場合だけに対応を求めているわけではない。

第8条では、学校及び教職員に対し、いじめの防止と早期発見に取り組むとともに、児童等が「いじめを受けていると思われるとき」には、適切かつ迅速に対処する責務を課している。

また、第16条では、いじめの早期発見のため、児童生徒に対する定期的な調査などを行うことも求めている。(文部科学省)

さらに第23条では、学校が児童等について「いじめを受けていると思われるとき」には、速やかに、いじめの事実の有無を確認するための措置を講じることとされている。(文部科学省)

つまり、現行法にも「疑いの段階で動く」という考え方は既に存在しているのである。

私が提案したいのは、この考え方をより明確に制度化することである。

「いじめ疑いとして認知すること」と「いじめがあったと評価すること」を、法律上はっきり分ける。

そうすれば、学校は「いじめと認定できるだけの証拠がまだない」という理由で対応をためらう必要がなくなる。

疑いがあるのであれば、まず拾えばよい。

その段階では、誰かを「加害者」と認定する必要もない。

何が起きているのかを確認し、必要であれば対象となっている子どもの安全を確保する。

そして、事実を確認した後に初めて、その行為をどのように評価するのかを考える。

この仕組みに変えることで、学校にとっても「認知すること」の意味が変わるのではないかと思う。

現在は、「いじめを認知する」という言葉が、社会的にはしばしば「誰かがいじめを行ったと学校が認定した」という意味で受け取られる。

そのため、学校が慎重になり過ぎたり、反対に、認知された側の児童や保護者が「加害者扱いされた」と感じたりすることがある。

しかし、

認知=調査と支援を始めるための入口

と明確に位置付ければよい。

「いじめがあるかもしれないので調べます」という段階と、

「調べた結果、この行為はいじめに該当すると判断しました」という段階を分けるのである。

そして、入口を広げるのであれば、私はもう一つ重要な原則が必要だと考えている。

それは、いじめ疑いとして認知された時点では、関係する児童生徒について責任を推定しないことである。

被害を訴えた子どもの話は丁寧に聞く。

必要な安全確保も行う。

しかし、そのことと、相手とされた子どもが実際に何をしたのかを判断することは別である。

双方や周囲から話を聞き、可能な限り客観的な資料を確認し、事実関係を整理する。

入口を広げるからこそ、その後の手続は慎重でなければならない。

私は、この二つをセットにすることが重要だと考えている。

疑わしいものは、広く拾う。

しかし、拾っただけでは、誰も加害者にしない。

この仕組みであれば、被害を訴えることのできない子どもまで含め、現在より多くのSOSを拾い上げることができる。

同時に、いじめの疑いが生じただけで、別の子どもが直ちに「いじめ加害者」として扱われることも防ぐことができる。

では、その後、確認された事実について、どのような基準で「いじめ」と評価すべきなのか。

入口を広げるのであれば、出口となる評価は、今まで以上に丁寧でなければならない。

次章では、今回の改正案のもう一つの柱である、「いじめの評価をもっと厳格にする」という考え方について具体的に述べたい。


 

第四章 「いじめ」の評価は、もっと厳格にする


前章では、いじめの可能性がある事案を拾い上げるため、新たに「いじめ疑い」という段階を設け、その認知については現在よりも更に広くすることを提案した。

では、そこで拾い上げられた事案を、最終的にどのような基準で「いじめ」と評価すべきなのだろうか。

私は、この段階については、現在よりも厳格にする必要があると考えている。

ここでいう「厳格」とは、いじめを認めにくくするという意味ではない。

被害を訴えた子どもに対して、「その程度ではいじめではない」と我慢を求めることでもない。

実際に何が起きたのかを確認した上で、その行為の性質を複数の要素から丁寧に評価するという意味である。

現在のいじめ防止対策推進法第2条では、一定の人的関係にある他の児童等から心理的または物理的な影響を与える行為を受け、その対象となった児童等が「心身の苦痛を感じているもの」をいじめと定義している。

この定義は、いじめを見逃さないための入口として考えれば非常に有効である。

しかし、事実確認を終えた後の最終的な評価基準として考えた場合には、十分なのだろうか。

例えば、二人の子どもが口論になり、互いに相手を傷つける言葉を言ったとする。

一方の子どもが、その言葉によって強い苦痛を感じた。

その苦痛は当然、軽視してはならない。

しかし、その事実だけをもって、もう一方の子どもの行為を「いじめ」と評価することが適切なのかは、別の問題である。

双方が同程度に言い合っていたのか。

一方が継続的に攻撃されていたのか。

それまでの二人の関係はどうだったのか。

複数人対一人という状況だったのか。

相手を傷つける意図があったのか。

その場から離れたり、関係を断ったりすることが困難な状況だったのか。

こうした事情によって、同じ言葉であっても、その意味は大きく変わる。

そこで、最終的に「いじめ」に該当するかを評価する際には、例えば、

行為の一方性

反復性・継続性

当事者間の力関係や優越的な関係

故意性

集団性

行為の態様や悪質性

被害の程度

被害を受けた側が、その状況から離れることの困難性

行為に至るまでの経緯や当事者間の関係性

などを総合的に考慮する仕組みが必要ではないかと考えている。

重要なのは、これらを単純なチェックリストにしないことである。

例えば、

「一回しか行われていないから、いじめではない」

「同級生だから優越的な関係ではない」

「悪意がなかったから、いじめではない」

と機械的に判断する制度にしてしまえば、再び深刻ないじめを見逃すことになる。

一度の行為であっても、極めて悪質なものは存在する。

また、身体的な力の差がなくても、友人関係、集団内での立場、情報、人間関係、SNSなどを利用して、一方が他方に対して強い影響力を持つこともある。

だからこそ、一つの要素だけで判断するのではなく、複数の事情を総合して評価する必要がある。

また、「故意性」についても慎重に考えなければならない。

相手を傷つけようとする明確な意図が確認できれば、それは重要な評価要素になる。

しかし、「傷つけるつもりはなかった」と説明すれば、それだけでいじめではなくなる制度にしてはならない。

行為の内容や、それまでの経緯から、相手が苦痛を感じることを容易に認識できた場合もあるからである。

一方で、本当に偶発的な出来事や、通常の人間関係の中で生じた一度の行き違いまで、相手が苦痛を感じたという一点だけをもって、すべて同じ「いじめ」という評価にすることにも疑問がある。

ここを丁寧に区別するための評価基準が必要なのである。

そして、私は、最終的な評価を「いじめである」「いじめではない」という二択だけにする必要もないと考えている。

事実確認の結果に応じて、

いじめ

対人トラブル

双方的な争い

偶発的な出来事

など、行為の性質を適切に整理する方法も考えられる。

ただし、「いじめではない」と評価されたからといって、学校が何もしなくてよいという意味ではない。

例えば、双方的な争いであっても、一方または双方が深く傷ついているのであれば、支援や関係調整が必要になることがある。

偶発的な出来事であっても、その結果として学校へ行けなくなった子どもがいるのであれば、その子どもへの支援は必要である。

支援の必要性と、行為に対する評価は分けて考えるべきである。

これも今回の改正案において重要な考え方の一つである。

子どもが苦しんでいるから支援する。

そのことに、「相手がいじめ加害者である」という結論は必ずしも必要ではない。

逆に、本人が「大丈夫」と話していたとしても、客観的な事実を確認した結果、深刻ないじめが行われていたと評価すべき場合もある。

つまり、本人の主観は極めて重要ではあるものの、それだけを唯一の評価基準にするのではなく、確認された事実と客観的な事情も含めて判断する仕組みに変えるのである。

ただし、この評価基準を考える上では、一つ大きな問題が残る。

継続性や一方性などを重視し過ぎれば、一度の行為で重大な被害を与える事案を「いじめではない」としてしまう危険がある。

暴行、恐喝、性的な加害、重大なネット上の拡散など、一回であっても子どもの生命、身体、尊厳に深刻な影響を与える行為は存在する。

こうした事案をどのように扱うべきなのか。

次章では、「一回でも重大ないじめは存在する」という観点から、評価を厳格化することで重大な被害を取りこぼさないための仕組みについて考えたい。


 

第五章 「一回でも重大ないじめ」は存在する


前章では、いじめを最終的に評価する際には、一方性、反復性・継続性、当事者間の力関係、故意性、集団性、行為の悪質性、被害の程度など、複数の事情を総合的に考慮する必要があると述べた。

しかし、ここで注意しなければならないことがある。

それは、「繰り返されていなければ、いじめではない」という考え方に戻ってはならないということである。

いじめは、必ずしも長期間にわたって繰り返されるとは限らない。

たった一度の行為であっても、子どもの生命、身体、尊厳に重大な影響を与えることがある。

例えば、集団で一人の子どもに激しい暴行を加えた場合。

金銭や高価な物品を脅して要求した場合。

本人が望まない性的な行為を強いた場合。

裸やそれに近い画像を撮影し、インターネット上で拡散した場合。

多数の児童生徒が参加するSNSのグループなどで、特定の子どもの尊厳を著しく傷つける情報を公開した場合。

こうした行為について、

「今回が初めてだった」

という理由だけで、いじめではないと評価することが適切だとは思わない。

むしろ、一度の行為であっても、その態様や結果が重大であれば、それ自体によって「いじめ」と評価できる制度にしておく必要がある。

これは、前章で提案した「評価を厳格にする」という考え方とも矛盾しない。

評価を厳格にするということは、いじめと認めるための条件を単純に増やすことではないからである。

例えば、

「継続性がある」

「一方的である」

「優越的な関係がある」

「故意に行われた」

という条件をすべて満たさなければいじめではない、という制度にしてしまえば、極めて重大な一回の行為が評価から漏れる可能性がある。

必要なのは、行為の性質を正確に評価することである。

継続性が弱くても、行為そのものが極めて悪質であれば、その事情を強く評価する。

反対に、一つ一つの行為だけを見れば軽微に見えても、それが長期間、集団的かつ一方的に繰り返されているのであれば、その継続性や集団性を強く評価する。

つまり、それぞれの要素を独立した必須条件にするのではなく、事案全体を見て判断する必要がある。

そして、もう一つ重要なのは、こうした重大な行為を「いじめ」という言葉だけで処理しないことである。

例えば、殴る、蹴るといった行為があれば、内容によっては暴行や傷害に該当する可能性がある。

金銭を脅し取る行為であれば、恐喝などに該当する可能性がある。

性的な行為や画像の撮影・拡散についても、内容によっては犯罪として扱うべき場合がある。

現行の「いじめの防止等のための基本的な方針」でも、いじめの中には犯罪行為として取り扱われるべきものがあり、学校だけで抱え込むのではなく、警察との連携や通報が必要になる場合があることが示されている。

この点は非常に重要である。

子ども同士で起きたからといって、あらゆる行為を「いじめ」という教育上の問題だけに置き換えるべきではない。

いじめであると同時に、暴力であることもある。

いじめであると同時に、犯罪に該当する可能性のある行為であることもある。

そして、その場合には、学校による教育的な対応と、警察をはじめとする関係機関による対応を適切に組み合わせる必要がある。

私は、今回の法改正によって評価を厳格化するのであれば、こうした重大な事案を取りこぼさないための規定も同時に整備すべきだと考えている。

例えば、評価基準を定める際に、

行為が一回であることのみを理由として、いじめに該当しないものと判断してはならない

という考え方を明確にする。

その上で、生命、身体、財産、性的尊厳などに重大な侵害を与える行為については、反復性や継続性が認められない場合であっても、その行為の態様や被害の程度などから、いじめに該当すると評価できる仕組みにする。

これなら、評価を厳格にすることで、かえって深刻ないじめが見逃されるという問題を防ぐことができる。

そして、ここまで整理すると、今回の改正案で重要な考え方が見えてくる。

広く拾うことと、何でもいじめと評価することは違う。

同時に、

厳格に評価することと、重大ないじめを認めにくくすることも違う。

大切なのは、行為の回数だけでも、被害を受けた側の主観だけでも、行為をした側の意図だけでも判断せず、実際に確認された事実から、その行為の性質を適切に評価することである。

そのためには、さらに整理しなければならない問題がある。

「いじめの疑いを認知した」

「ある行為が実際にあったと認定した」

「その行為をいじめと評価した」

「その行為について誰にどの程度の責任があると判断した」

これらは、本来すべて別の判断である。

しかし、この違いが十分に理解されなければ、「いじめ疑いとして認知された」というだけで、特定の子どもが事実上の加害者として扱われる可能性がある。

次章では、今回の改正案の中でも特に重要な、「認知・事実認定・評価・責任を分ける」という考え方について詳しく述べたい。


 

第六章 認知・事実認定・評価・責任を分ける


ここまで、いじめの疑いについては広く認知し、その後の評価については、確認された事実を基に、より厳格に行うべきだと述べてきた。

この仕組みを実現するためには、その途中にある判断を明確に分ける必要がある。

私は、いじめへの対応を、

「認知」「事実認定」「評価」「責任」

という4つの段階に分けるべきだと考えている。

この4つは似ているように見えるが、それぞれ意味が異なる。


「認知」は、調査と支援を始めるための入口

最初の段階は「認知」である。

ここでいう認知とは、誰かがいじめを行ったと認定することではない。

「この子はいじめを受けている可能性がある」

「何らかの問題が起きている可能性がある」

という情報を把握し、必要な確認や支援を始めることである。

この段階では、結論を出す必要はない。

むしろ、結論が出ていないからこそ調べるのである。

例えば、ある子どもが教師に「○○さんから嫌なことをされた」と相談したとする。

その時点で、

「それはいじめだ」

と確定する必要はない。

しかし、

「まだ事実が分からないから何もしない」

という対応も適切ではない。

まず「いじめ疑い」として認知し、必要であれば安全を確保した上で、何が起きたのかを確認する。

私は、この入口については可能な限り広くするべきだと考えている。


「事実認定」は、何が起きたのかを明らかにする作業

次に必要なのが「事実認定」である。

ここでは、行為をどのように評価するかより先に、実際に何があったのかを確認する。

例えば、

「悪口を言われた」

という訴えがあった場合でも、

いつ、どこで、誰が、どのような言葉を言ったのか。

その場には誰がいたのか。

一度だけだったのか、繰り返されていたのか。

その前後に何があったのか。

双方の説明は一致しているのか。

メッセージや画像、動画などの資料は存在するのか。

こうした事実を可能な限り確認する。

この段階で重要なのは、被害を訴えた子どもの話を軽視しないことと、その話だけで全ての事実を確定しないことを両立させることである。

訴えは真剣に受け止める。

同時に、相手とされた子どもの説明にも耳を傾ける。

周囲の児童生徒や教師が把握している事情も確認する。

客観的な資料があるのであれば、それも確認する。

これは、被害を訴えた子どもを疑うためではない。

その子が何を経験したのかを、できる限り正確に明らかにするための作業である。


「評価」は、認定された事実の意味を判断すること

事実関係が整理された後に初めて、その行為をどのように評価するのかを考える。

これが「評価」である。

例えば、

「AさんがBさんに、この言葉を言った」

という事実が認められたとしても、それだけでは、その行為の意味までは決まらない。

それまでの関係性や行為の経緯などを踏まえた結果、継続的かつ一方的な攻撃の一部であったことが分かる場合もある。

反対に、双方の口論の中で生じた一度の発言だったことが分かる場合もある。

同じ行為であっても、その背景によって評価は変わり得る。

だからこそ、

「行為があった」という事実認定

と、

「その行為はいじめである」という評価

を混同してはならない。


「責任」は、さらにその後の問題である

そして最後に、「責任」がある。

私は、ここも「いじめ」という評価とは分ける必要があると考えている。

ある行為がいじめに該当すると評価されたとしても、そこから直ちに、

「この子が全て悪い」

という結論になるわけではない。

子どもの年齢や発達段階。

行為に至った経緯。

周囲の児童生徒の関与。

学校がそれ以前に問題を把握していたか。

大人による適切な介入が行われていたか。

家庭や学校を含む環境にどのような事情があったか。

こうした問題は、行為そのものの評価とは別に考える必要がある。

また、学校に改善すべき点があったからといって、それだけで個々の教師に責任があるとも限らない。

同様に、ある児童生徒の行為がいじめに該当したからといって、その子どもの人格全体を「加害者」という言葉で評価するべきでもない。

行為についての評価と、人間そのものへの評価は違う。

これは、子どもを扱う制度である以上、特に大切にしなければならない。


4つを分ければ、「調べること」を恐れなくて済む

この4段階を制度として明確に分けることには、大きな意味がある。

学校が「いじめ疑い」を認知しても、それは誰かの加害を認定したことにはならない。

調査によってある行為が確認されても、それだけで「いじめ」という評価が確定するわけではない。

いじめと評価されても、それだけで一人の子どもに全ての責任があると判断されるわけではない。

つまり、

認知 ≠ 事実認定 ≠ いじめ評価 ≠ 責任判断

である。

この区別が社会にも共有されれば、学校は今よりも積極的に「いじめ疑い」を拾いやすくなるのではないかと思う。

保護者に対しても、

「いじめと認定したわけではありません。いじめの可能性を把握したので、まず事実を確認します」

と説明できる。

被害を訴えた側に対しても、

「まだ認定していないから何もしません」

ではなく、

「結論はまだ出ていませんが、訴えを受け止め、必要な支援を行いながら調査します」

と対応できる。

相手とされた側にも、

「あなたを加害者と決めたわけではありません。何が起きたのかを確認しています」

と説明できる。

この仕組みなら、被害を訴えることと、公正な事実確認を対立させる必要がなくなる。

現行法でも、第23条は、児童等が「いじめを受けていると思われるとき」に事実の有無を確認する措置を求め、その確認によって「いじめがあったことが確認された場合」の対応を別に定めている。

つまり、疑いの把握と確認後の対応を区別する考え方そのものは、現在の法律にも存在している。今回の改正案では、その区別をさらに明確にし、「認知」「事実認定」「評価」「責任」という段階として制度全体に徹底させたいのである。

そして、この仕組みを作る上で、絶対に避けなければならないことがある。

「評価を厳格にする」という主張が、被害を訴えた子どもや保護者、あるいは遺族に対する攻撃へと変わってしまうことである。

今回の改正案は、「最近は何でもいじめと言い過ぎだ」という不満を法律に反映させるためのものではない。

では、被害を訴える人の権利を守りながら、どのように公正な評価を実現するのか。

次章では、被害者や遺族を守ることと、評価を厳格にすることをどのように両立させるのかについて考えたい。


 

第七章 被害者や遺族を攻撃するための法改正にしてはならない


ここまで、私は、いじめの疑いについては現在よりも広く認知し、その後の評価については、確認された事実を基に、より厳格に行う仕組みを提案してきた。

しかし、この法改正を進める上で、絶対に避けなければならないことがある。

それは、この議論が、被害を訴える子どもや保護者、遺族を攻撃するために利用されることである。

近年、学校だけでなく、職場や社会のさまざまな場面で、「ハラスメント」という言葉が広く使われるようになった。

それに伴って、

「何でもハラスメントと言い過ぎだ」

「何でも被害者の言い分が通ってしまう」

「少し嫌なことがあっただけで被害を訴える人が増えた」

といった不満を耳にすることも増えている。

そうした問題意識の中には、検討すべきものもあるだろう。

しかし、それをそのまま、いじめを訴える子どもや保護者への批判に結び付けるべきではない。

ましてや、子どもを亡くした遺族に対して、

「いじめだと決めつけている」

「誰かを悪者にしたいだけだ」

などと、十分な事情を知らない第三者が安易に非難することは慎むべきである。

子どもが苦しんでいるのであれば、助けを求めてよい。

保護者が自分の子どもに何が起きているのかを知りたいと考えることも当然である。

そして、子どもを亡くした遺族が、

「学校で何が起きていたのか」

「なぜ子どもは亡くなったのか」

「防ぐことはできなかったのか」

と考え、調査を求めることも当然のことである。

調査を求めることと、誰かの責任が確定していることは別の問題である。

だからこそ、調査が必要なのである。

分からないことを調べるための制度であるにもかかわらず、調査を求めたこと自体を理由として、その人を「誰かを加害者にしようとしている人」と評価するのは適切ではない。

今回の法改正案は、そのような人々の声を弱めることを目的としていない。

むしろ、私は逆の方向を目指している。

被害を訴えるために、最初から「これはいじめです」と証明しなければ学校が動かない制度にするのではなく、

「何かがおかしい」

「子どもが苦しんでいる」

「いじめかどうかは分からないが、調べてほしい」

という段階から、安心して相談できる制度にしたい。

本人が何も訴えていなくても、周囲の大人が異変に気付いたのであれば、調べられる制度にしたい。

つまり、今回の改正案によって、被害を訴えるための入口は狭くなるどころか、現在よりも広くなる。

一方で、その訴えを受け付けたことと、訴えられた側の責任を認めることは分ける。

この二つを同時に実現したいのである。


被害を訴えた人に「証明する責任」を背負わせない

評価を厳格にすると聞けば、

「それでは、被害を受けた子どもが証拠を集めなければならなくなるのではないか」

という懸念も生じると思う。

私は、そのような制度にすべきではないと考えている。

子どもに、自分が受けたいじめを自分で立証させるべきではない。

相談を受けた学校や関係機関が、必要な確認を行う。

被害を訴えた側は、自分が経験したことや覚えていることを話せばよい。

もちろん、記録やメッセージなどを持っているのであれば重要な資料になるが、それが存在しないことだけを理由として、訴えを退けるべきではない。

子ども同士の出来事では、客観的な資料が残っていないことも珍しくない。

だからこそ、複数の関係者から話を聞き、それぞれの説明や周辺事情を確認し、可能な限り事実に近づいていく必要がある。

評価を厳格にする責任は、被害を訴えた子どもに負わせるのではなく、評価を行う側が負うべきである。

ここは、今回の改正案で明確にしておきたい。


「いじめではなかった」という結論も、苦痛の否定ではない

もう一つ、非常に重要な問題がある。

調査の結果、ある行為について「いじめとは評価できない」という結論になった場合である。

その結論が、

「あなたは傷ついていない」

「あなたの訴えは嘘だった」

という意味になってはならない。

例えば、双方が激しく言い争った結果、一方が深く傷つくことはある。

偶発的な出来事によって、学校へ行くことが怖くなることもある。

友人関係の破綻によって、大きな精神的苦痛を受けることもある。

その出来事が最終的に「いじめ」と評価されなかったとしても、その子どもが苦しんでいるという事実まで消えるわけではない。

必要な支援は行われるべきである。

ここを制度として分けることができれば、

「いじめと認定されなければ、自分の苦しみまで否定されたことになる」

という状況も減らせるのではないかと思う。

逆に言えば、苦しんでいる子どもを支援するために、必ず誰かを「いじめ加害者」にしなければならない制度である必要もない。

苦痛の承認と、他者への責任認定を切り離す。

これは、被害を訴えた側を守るためにも重要なことである。


遺族に対しては、より慎重でなければならない

特に自死などの重大な結果が生じた事案では、社会全体が慎重になる必要がある。

子どもが亡くなった直後には、本人から詳しい事情を聞くことができない。

残された記録、周囲の証言、学校での出来事、家庭での様子などを調べながら、何が起きていたのかを明らかにしていくしかない。

その過程で、遺族が特定の出来事について強い疑問を持つこともある。

その疑問が、後の調査によって裏付けられる場合もあれば、別の事実が明らかになる場合もあるだろう。

だからこそ、調査結果が出る前から、第三者が遺族を批判したり、反対に特定の児童生徒や教師を断定的に非難したりすることは避けなければならない。

重大な事案であればあるほど、

「まだ分からない」

という状態に社会が耐える必要がある。

そして、分からないからこそ調査する。

これは、遺族を守るためにも、関係する児童生徒や教師を守るためにも必要な姿勢だと考えている。


誰かを叩くための制度改革にはしない

今回の改正案には、さまざまな立場の人が賛同する可能性がある。

現在のいじめ対応に疑問を感じている教師。

子どもが加害者と扱われた経験を持つ保護者。

いじめ被害を経験した人。

重大事態調査に関わった専門家。

「何でもいじめとして扱う現在の制度には問題がある」と感じている人。

その中には、被害者側への強い反感を持っている人もいるかもしれない。

しかし、少なくとも私が目指す法改正は、その反感を社会制度に反映するためのものではない。

被害者を疑うための法律にもしたくない。

教師を守るために被害者を切り捨てる法律にもしたくない。

反対に、被害者を守るために、事実確認を経ずに別の子どもや教師へ責任を負わせる法律にもしたくない。

目指しているのは、誰かの側に立って別の誰かを攻撃する制度ではなく、どの立場にいる人についても、まず事実を丁寧に確認できる制度である。

被害を訴える人を守ること。

関係する子どもを守ること。

教師を守ること。

そして、何が起きたのかを明らかにすること。

これらは、本来、互いに敵対するものではない。

その中でも次に考えたいのが、いじめを行ったと疑われたり、実際にいじめに当たる行為をしたりした子どもを、制度としてどのように扱うべきなのかという問題である。

子どもの行為に適切に向き合うことと、その子ども自身を「加害者」という固定された存在として扱うこともまた、同じではない。

次章では、被害を受けた子どもを守りながら、関係する児童生徒も守るためにはどうすればよいのかについて考えたい。


 

第八章 関係する児童生徒も守らなければならない


いじめが疑われる事案では、被害を訴えた子どもの安全を確保し、必要な支援を行うことが最優先である。

しかし、子どもを守るという考え方は、被害を訴えた側だけに向けられるものではない。

いじめを行ったと疑われた児童生徒もまた、成長の途中にいる子どもである。

そして、その子どもについても、事実が確認される前から「加害者」と決めつけられたり、必要以上の社会的制裁を受けたりすることがないようにしなければならない。

これは、いじめを行った子どもの責任を曖昧にしようという話ではない。

実際に他の子どもを傷つける行為をしたのであれば、その行為には向き合わなければならない。

必要な指導を受けることもある。

重大な行為であれば、学校だけではなく、警察などの関係機関が対応すべき場合もある。

被害を受けた子どもから一定の距離を置かなければならないこともあるだろう。

しかし、

「この行為には問題があった」

ということと、

「この子は加害者という人間である」

ということは同じではない。

特に、子どもを対象とする制度では、この違いを大切にする必要がある。


「加害児童」という言葉が一人歩きする危険

いじめに関する報道やインターネット上の議論では、「被害者」「加害者」という言葉が頻繁に使われる。

もちろん、出来事を説明するために便宜上そのような言葉が必要になることはある。

しかし、子どもについて「加害者」という言葉が一度定着すると、その言葉が行為についての評価を超えて、その子どもの人格そのものを表すように扱われる危険がある。

「あの子はいじめ加害者だ」

という情報だけが広がり、

なぜその行為が起きたのか。

実際にどのような行為をしたのか。

どの程度関与していたのか。

その後、どのように向き合ったのか。

そうした違いが見えなくなってしまう。

複数の児童生徒が関係する事案では、なおさら慎重でなければならない。

中心となって行為を繰り返した子ども。

一度だけ同調した子ども。

その場にいただけの子ども。

止められなかった子ども。

面白がって見ていた子ども。

途中から止めようとした子ども。

それぞれの関与は同じではない。

ところが、一度「加害側」という大きな括りに入れてしまうと、この違いが失われやすい。

だからこそ、誰が、いつ、何をしたのかを可能な限り個別に確認する必要がある。

集団について責任を考える場合でも、個人の行為まで集団化して認定してはならない。


行為をしたとされる子どもにも「説明を聞いてもらう権利」がある

いじめの疑いが生じたとき、被害を訴えた子どもの話を丁寧に聞くことは当然である。

同時に、行為をしたとされる子どもについても、その説明を丁寧に聞く必要がある。

「相手が傷ついたと言っているのだから、あなたが悪い」

と最初から結論を決めた上で話を聞くのであれば、それは事実確認とはいえない。

本人には本人なりの説明があるかもしれない。

説明を聞いた結果、その説明が事実と一致しないと判断されることもあるだろう。

それでも、説明する機会そのものは保障されなければならない。

これは大人の裁判と同じ制度を学校に持ち込めという意味ではない。

学校は教育の場であり、子どもの問題について、すべてを司法手続と同じように扱うことは現実的ではない。

しかし、少なくとも、結論を出す前に双方の話を聞き、確認できる資料を確認し、その上で判断するという基本的な公正さは必要である。


「全ての子どもを守る」という原則

今回の改正案では、現在よりも広い範囲の事案を「いじめ疑い」として認知することを提案している。

当然、それによって、いじめを行った可能性があるとして調査の対象となる児童生徒も増える。

だからこそ、「認知された」という事実だけによって、その児童生徒が加害者として扱われることがあってはならない。

被害を訴えた子どもの安全を確保し、その話を丁寧に聞く。

同時に、相手とされた子どもの説明も聞き、個々の行為について事実を確認する。

そして、確認された事実を基に初めて「いじめ」に該当するのかを評価する。

いじめの可能性については広く拾い上げる。しかし、「いじめ」という評価については、十分な事実確認を行った上で慎重に判断する。

これは、どちらか一方の子どもを守るための制度ではない。

被害の可能性を見逃さないことと、十分な事実確認を行わないまま誰かを加害者と決めつけないこと。

その二つを両立させるための制度である。


 

第九章 「認知件数」と「いじめ件数」を分ける


今回の改正案では、いじめへの対応を「認知」「事実認定」「評価」「責任」という段階に分けることを提案している。

この仕組みを導入するのであれば、学校や教育委員会が公表する統計についても、「認知」と「評価」を明確に分ける必要がある。

現在、文部科学省が毎年度実施している「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」では、「いじめの認知件数」という指標が使われている。

そして、文部科学省は、いじめの認知件数が多いことについて、単純に「いじめが多い学校だから問題である」と評価しているわけではない。

むしろ、いじめを初期段階のものも含めて積極的に認知し、その解消に向けた取組につなげることが重要だという考え方を示している。

つまり、現在の制度でも、「認知件数が多いこと」と「その学校に深刻ないじめが多いこと」は、必ずしも同じ意味ではない。

しかし、「いじめの認知件数」という言葉だけを見れば、その学校で実際に何件のいじめが発生したのかを示す数字だと受け取られても不思議ではない。

ここにも、「認知」と「評価」が混同されやすい現在の制度の問題が表れているように思う。

今回の改正案では、この点についても整理したい。


「いじめ疑い認知件数」を新たな指標にする

私は、現在の「いじめの認知件数」に代わり、まず「いじめ疑い認知件数」を集計する仕組みにするべきだと考えている。

これは、その学校でいじめが何件あったのかを示す数字ではない。

学校が、いじめの可能性がある事案を何件拾い上げたのかを示す数字である。

本人から被害の訴えがあった場合。

保護者から相談があった場合。

教師が異変に気付いた場合。

他の児童生徒から情報が寄せられた場合。

本人が苦痛を訴えていなくても、客観的な状況からいじめの可能性が疑われる場合。

こうした事案を、まず「いじめ疑い」として広く認知する。

その段階では、まだ「いじめがあった」と判断する必要はない。

だからこそ、学校は「これは本当にいじめなのだろうか」と入口で判断するのではなく、一定の基準に該当すれば、まず認知して事実確認を始めることができる。

「いじめ疑い認知件数」が多いこと自体を、学校にとって不名誉な数字として扱うべきでもない。

むしろ、子どもの小さな変化や訴えをどれだけ拾い上げているのかを見るための一つの指標として扱うべきである。


「いじめと評価された件数」は別に集計する

一方で、事実確認を行った結果、実際に「いじめ」に該当すると評価された件数については、別の数字として集計する。

例えば、ある学校で1年間に100件の「いじめ疑い」が認知されたとする。

その100件について事実確認を行った結果、

いじめと評価された事案。

対人トラブルと評価された事案。

双方的な争いと評価された事案。

偶発的な出来事と評価された事案。

十分な事実確認ができず、評価を確定できなかった事案。

などに分かれることが考えられる。

この場合、「いじめ疑い認知件数100件」と、「いじめと評価された件数」を同じ数字として扱うべきではない。

前者は、どれだけ広く問題を拾ったのかを示す数字である。

後者は、事実確認を経た結果、どれだけの事案がいじめに該当すると評価されたのかを示す数字である。

両者は、意味の異なる指標である。


認知件数を増やすことと、いじめを増やすことは違う

この区別を明確にすることには、もう一つ重要な意味がある。

今回の改正案では、現在よりも認知の範囲を広げることを提案している。

そのため、制度が実現すれば、「いじめ疑い認知件数」は現在のいじめ認知件数よりも増える可能性が高い。

しかし、それは、いじめそのものが増えたことを意味するわけではない。

これまで拾われなかった事案まで拾うようになった結果、数字が増えるのである。

ここを社会全体で理解しておかなければ、

「法改正後、いじめが急増した」

という誤った受け止め方が生まれる可能性がある。

逆に、認知件数を減らすことが学校の評価につながるような仕組みになれば、学校にとっては疑わしい事案を拾わない方が数字の上では有利になってしまう。

それでは、早期発見を進めるという制度の目的と逆行する。

認知の数字は、少ないほど良い数字ではない。

重要なのは、疑いを適切に拾い、その後の事実確認と評価につなげているかどうかである。


統計からも「認知」と「評価」を分離する

私は、国が公表する統計についても、今回の改正に合わせて見直すべきだと考えている。

例えば、

「いじめ疑い認知件数」

「事実確認を終えた件数」

「いじめと評価された件数」

「いじめ以外と評価された件数」

「事実を十分に確認できず、評価を確定できなかった件数」

といった形で、対応の段階が分かる統計にする方法が考えられる。

もちろん、実際にどの項目を設けるのかについては、学校現場の事務負担も考慮しながら検討する必要がある。

しかし、少なくとも、「拾い上げた件数」と「いじめと評価した件数」を一つの数字で表す仕組みは見直した方がよい。

統計の言葉は、制度の考え方そのものにも影響する。

「いじめを認知した」という言葉が、「いじめがあったと認定した」という意味で使われ続ければ、法律上だけ両者を分離しても、社会では混同が続いてしまう。

だからこそ、

「疑いを認知する」

「事実を確認する」

「確認された事実を評価する」

という違いを、法律だけでなく、統計や公表の仕組みにも反映させる必要がある。

認知は、可能性を拾い上げるためのもの。

評価は、確認された事実の意味を判断するためのもの。

この二つを統計上も明確に分けることで、初めて「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」という仕組みを、実際の学校現場に定着させることができると考えている。

そして、評価を厳格にするためには、その前提として、何が起きたのかを可能な限り正確に確認する必要がある。

次章では、「いじめ疑い」として認知された事案について、どのように事実確認を行うべきなのかを考えたい。


 

第十章 「いじめ」の評価基準を明文化する


ここまで述べてきたように、今回の改正案では、いじめの可能性については現在よりも広く認知する一方で、最終的に「いじめ」に該当するかどうかについては、確認された事実を基に、より厳格に評価することを提案している。

そのためには、「何をもって、いじめと評価するのか」という基準を明確にする必要がある。

現行法では、一定の人的関係にある他の児童等から心理的または物理的な影響を与える行為を受け、その対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものを「いじめ」と定義している。

この定義は、いじめを広く拾い上げるためには大きな意味を持つ。

しかし、今回の改正案では、この考え方を「認知」の段階で更に広げる一方、最終的な「評価」については、別の基準を設ける。

本人が苦痛を感じたという事実だけで評価を終えるのではなく、確認された行為の内容や経緯、当事者間の関係などを総合的に考慮し、その行為が「いじめ」と評価される性質のものだったのかを判断するのである。


一方性を評価する

まず重要になるのが、行為の一方性である。

一方の児童生徒が継続的に攻撃し、もう一方がそれを受け続けている事案と、双方が互いに言葉をぶつけ合っている事案を、全く同じように評価することには無理がある。

もちろん、双方に何らかの行為があったからといって、直ちに「喧嘩だった」と判断するべきでもない。

一方が長期間攻撃を受けた末に言い返した場合など、それまでの経緯を確認すれば、表面的には双方的に見えても、実質的には一方的な関係が存在している場合がある。

そのため、一場面だけを切り取るのではなく、行為全体を通して、どの程度の一方性があったのかを評価する必要がある。


反復性・継続性を評価する

同じ行為が繰り返されていたのかという点も、重要な評価要素になる。

一度の言い争いと、毎日のように特定の児童生徒だけが侮辱され続けている状態では、その性質は大きく異なる。

一つ一つの行為だけを見れば軽微に見える場合でも、それが長期間にわたって繰り返されれば、子どもに与える影響は大きくなる。

ただし、第5章で述べたように、反復性や継続性を「いじめ」と評価するための必須条件にしてはならない。

一度の行為であっても、その内容が重大であれば、いじめと評価すべき場合がある。

反復性・継続性は重要な評価要素ではあるが、それが存在しなければいじめにならない、という意味ではない。


当事者間の力関係を評価する

いじめを考える上では、当事者間の力関係も重要である。

ここでいう力関係とは、単純な身体的な強さだけを意味しない。

集団の中での立場。

友人関係。

人数。

情報を持っていること。

SNS上での影響力。

周囲の児童生徒との関係。

さまざまな事情によって、一方が他方に対して強い影響力を持つことがある。

また、表面的には対等な友人関係に見えていても、「この関係から外されたくない」という思いによって、一方が嫌な行為を拒否できなくなっている場合もある。

形式的な関係ではなく、実際の状況から力関係を評価する必要がある。


故意性を評価する

行為をした側に、相手を傷つけたり困らせたりする意図があったのかという点も、評価要素の一つになる。

明確に相手を苦しめる目的で行われた行為であれば、その故意性は強く評価されるべきである。

しかし、

「傷つけるつもりはなかった」

という説明だけで、いじめではないと判断するべきでもない。

その行為をすれば相手が苦痛を感じることを容易に認識できたにもかかわらず、繰り返していた場合なども考えられる。

一方で、本当に偶発的な行為や、相手を傷つけることを通常予想できない行為まで、結果として相手が苦痛を感じたという理由だけで同じように評価することにも問題がある。

本人の説明だけでなく、行為の内容やそれまでの経緯を踏まえて判断する必要がある。


集団性を評価する

複数の児童生徒が一人の児童生徒に対して行為を行っていた場合には、その集団性も重要な評価要素になる。

一対一であれば拒否したり、その場を離れたりできる行為でも、多数から行われれば難しくなることがある。

また、自ら直接的な行為をしていなくても、周囲が同調することで、一人の児童生徒を孤立させる構造が作られる場合もある。

ただし、同じ場所にいたというだけで、複数の児童生徒を一括して「いじめをした側」と評価してはならない。

誰が、どのような行為をしたのか。

それぞれについて個別に確認し、その関与の程度を評価する必要がある。


行為の態様と悪質性を評価する

行為そのものの内容も当然、重要である。

同じ一回の行為でも、軽微な言葉の行き違いと、生命、身体、財産、性的尊厳などを著しく侵害する行為を同じように扱うことはできない。

行為がどのような方法で行われたのか。

どの程度の危険性があったのか。

人の尊厳をどの程度侵害するものだったのか。

どの程度の範囲に影響が及んだのか。

こうした事情を評価する必要がある。

特に重大な行為については、第5章で述べたとおり、一度しか行われていないことを理由として「いじめではない」と判断してはならない。


被害の程度を評価する

その行為によって、対象となった子どもにどの程度の影響が生じたのかも考慮する必要がある。

ただし、ここでは注意が必要である。

被害の程度だけを「いじめ」の評価基準にしてしまえば、同じ行為について、強い苦痛を表現した子どもにはいじめが成立し、苦痛を表に出さなかった子どもには成立しないという問題が生じる。

子どもによって、苦痛の感じ方や表し方は異なる。

そのため、実際に生じた被害は重要な評価要素としながらも、それだけによって「いじめ」かどうかを決めるべきではない。


その状況から逃れることの困難性を評価する

子どもが、その行為や関係から自分の意思で離れることができたのかという点も重要である。

学校は、子どもが日常的に通う場所である。

同じ学級や部活動などで関係が続く場合には、大人同士の人間関係のように、簡単に相手との関係を断つことができないこともある。

また、友人関係や集団内での立場によって、本人が嫌だと思っていても拒否できない場合もある。

こうした逃れにくさが存在していたのかについても、評価する必要がある。


行為に至るまでの経緯を評価する

最後に、個々の行為だけでなく、その行為に至るまでの経緯を見る必要がある。

例えば、一方の児童生徒が突然相手を侮辱した場合と、それまで長期間にわたって侮辱され続けていた児童生徒が言い返した場合では、同じ言葉であっても意味が異なる。

過去にどのような出来事があったのか。

双方の関係はどのようなものだったのか。

その行為が、どのような流れの中で生じたのか。

一つの場面だけを切り取るのではなく、必要な範囲で前後の事情を確認する必要がある。


全てを満たす必要はない

ここまで複数の評価要素を挙げてきたが、最も重要なのは、これらを「いじめ認定の必須条件一覧」にしないことである。

一方性がなければいじめではない。

継続性がなければいじめではない。

優越的な関係がなければいじめではない。

故意が確認できなければいじめではない。

このような機械的な制度にしてしまえば、再び深刻ないじめを取りこぼすことになる。

必要なのは、それぞれの要素を独立した条件にすることではなく、確認された事実について複数の評価要素を総合的に考慮することである。

継続性が極めて強い事案もある。

一方性や力関係が特に強く表れている事案もある。

反復性はなくても、行為の悪質性が極めて高い事案もある。

事案によって、どの要素が強く表れるのかは異なる。

だからこそ、評価基準を明文化しながらも、一つの条件だけで結論を出さない仕組みにする必要がある。


「何となくいじめ」から「理由を示せる評価」へ

評価基準を明文化する最大の意味は、「いじめ」という評価の理由を説明できるようにすることにある。

単に、

「本人が嫌だったと言っているので、いじめです」

でもなく、

「一回だけなので、いじめではありません」

でもない。

例えば、

「継続的かつ一方的な行為が確認され、当事者間には実質的な力関係があり、対象となった児童生徒がその状況から離れることも困難だったため、いじめと評価した」

というように、何を根拠として判断したのかを示す。

反対に、いじめに該当しないと評価する場合についても、その理由を説明できるようにする。

これが、私の考える「評価をもっと厳格にする」ということである。

いじめを認めにくくすることではない。

被害を訴えるためのハードルを上げることでもない。

認知については可能な限り広く行い、最終的な評価については、確認された事実と明文化された評価基準に基づいて判断する。

この二つを分けるのである。

しかし、評価基準を厳格にすれば、当然、「いじめ疑いとして認知されたものの、最終的にはいじめとは評価されなかった」という事案も生じる。

そのとき、その出来事や子どもの苦痛をどのように扱うべきなのか。

次章では、今回の改正案において重要になる、「いじめではない」という結論を制度として認めることについて考えたい。


 

第十一章 「いじめではない」という結論も認める


今回の改正案では、いじめの可能性がある事案を現在よりも広く「いじめ疑い」として認知し、その後、確認された事実を基に、明確な評価基準によって「いじめ」に該当するかどうかを判断することを提案している。

この仕組みに変えるのであれば、当然、もう一つ明確にしなければならないことがある。

それは、調査や事実確認を行った結果、

「いじめとは評価できない」

という結論に至る場合もあるということである。

これは、今回の改正案にとって非常に重要なことである。

認知した以上、必ずいじめとして評価しなければならないのであれば、「認知」と「評価」を分けた意味がなくなってしまう。

疑いは広く拾う。

しかし、その全てをいじめにするわけではない。

これが、「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」という考え方である。


「いじめではない」と「何もなかった」は違う

ここで、最も注意しなければならないことがある。

それは、

「いじめではない」

という結論と、

「何も問題はなかった」

という結論を混同しないことである。

例えば、友人同士が激しい口論になり、互いに傷つける言葉を言ったとする。

事実確認の結果、一方的な攻撃ではなく、双方が同程度に言い合っていたことが確認された。

その場合、今回提案している評価基準によって、「いじめ」ではなく「双方的な争い」などと評価されることが考えられる。

しかし、その結果として一方または双方が深く傷ついているのであれば、その苦痛まで存在しなかったことになるわけではない。

また、友人関係が壊れ、学校へ行くことがつらくなっているのであれば、必要な支援を行うべき場合もある。

つまり、

行為をどのように評価するのか

と、

その子どもに支援が必要なのか

は、別の問題として考える必要がある。


「いじめ」以外の評価を用意する

現在のいじめ問題では、出来事について、

「いじめだった」

「いじめではなかった」

という二択で語られることが多い。

しかし、実際の子ども同士の関係は、それほど単純ではない。

今回の改正案では、事実確認の結果に応じて、「いじめ」以外の評価も明確に位置付けることを検討してよいと考えている。

例えば、

「対人トラブル」

「双方的な争い」

「偶発的な出来事」

などである。

もちろん、実際にどのような区分を設けるのかについては、専門家や学校現場の意見も踏まえて慎重に検討する必要がある。

重要なのは名称そのものではない。

いじめに該当しなかった出来事を、全て「問題なし」として一括りにしないことである。

そうすることで、出来事の性質に応じた対応を考えやすくなる。


「いじめではない」という評価を、被害申告の否定にしない

特に重要なのは、いじめではないという結論が、被害を訴えた子どもに対して、

「あなたの訴えは間違っていた」

「あなたは被害者ではなかった」

「あなたが気にし過ぎただけだ」

という意味で伝わらないようにすることである。

子どもが苦痛を感じたことと、その行為が法律上または制度上「いじめ」と評価されるかどうかは同じではない。

例えば、双方的な争いの中でも、子どもが強い苦痛を受けることはある。

相手に悪意のない偶発的な出来事でも、大きなショックを受けることはある。

その苦痛については、いじめという評価とは別に受け止める必要がある。

これは、第7章で述べた、被害を訴える子どもや保護者を攻撃するための法改正にしてはならないという考え方にもつながる。

「いじめではなかった」という評価を、申告した側を責める材料として利用してはならない。


「いじめではない」という評価にも理由が必要である

そして、「いじめではない」と評価する場合にも、その理由を示す必要がある。

単に、

「学校はいじめとは認めませんでした」

だけでは、被害を訴えた側が納得できないこともあるだろう。

何が事実として確認されたのか。

どの評価要素を検討したのか。

なぜ、その事案について「いじめ」と評価しなかったのか。

可能な範囲で、その判断過程を説明する必要がある。

例えば、

「双方による同程度の言動が確認され、一方的な攻撃関係や実質的な力関係は確認されなかったことなどから、いじめではなく双方的な争いと評価した」

というように、判断の理由を示す。

もちろん、子どものプライバシーや第三者の情報など、全てを相手方へ開示できるとは限らない。

それでも、少なくとも、どのような考え方によって評価したのかを説明できる制度にするべきである。

評価を厳格にするということは、「いじめ」と評価するときだけ厳格にすることではない。

「いじめではない」と評価するときにも、同じように根拠が必要なのである。


認知したことを「間違い」にしない

そして、この制度で特に大切なのは、最終的にいじめではないと評価されたとしても、

「最初に認知したことが間違いだった」

とは考えないことである。

例えば、100件の「いじめ疑い」を認知し、そのうち30件が最終的にいじめと評価されたとする。

残りの70件について、

「70件も誤認した」

と評価するべきではない。

疑いがあったから拾い上げた。

事実を確認した。

その結果、いじめではないと分かった。

それでよいのである。

むしろ、それこそが、今回提案している制度が正常に機能している状態である。

最初から「いじめである可能性が高いもの」だけを認知するのであれば、認知の範囲を広げることはできない。

認知には、結論を求めない。

結論は、評価の段階で出す。

この区別を、学校だけでなく、保護者や社会にも共有する必要がある。


「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」を成立させるために

今回の改正案によって、認知の範囲を広げれば、「いじめ疑い」として扱われる事案は増えると考えられる。

そして、評価基準を明確にすれば、その中から、

いじめと評価される事案。

別の性質の問題と評価される事案。

十分な事実を確認できず、評価を確定できない事案。

などに分かれていく。

それでよいと私は考えている。

重要なのは、最初から全てを「いじめ」か「いじめではないか」に振り分けることではない。

まず、子どもの周囲で起きている異変を広く拾う。

その上で、何が起きたのかを確認し、一定の基準によって評価する。

そして、いじめであっても、いじめでなくても、必要な対応や支援は行う。

「いじめではない」という結論を認めることは、被害を軽視することではない。

それは、「認知」と「評価」を本当の意味で分離するために必要な仕組みなのである。

そして、この考え方は、通常のいじめ事案だけでなく、子どもの生命や心身に重大な結果が生じた「重大事態」を考える際にも重要になる。

次章では、重大事態における調査について、「いじめがあったかどうか」だけに問題を集中させることの是非も含めて考えたい。


 

第十二章 重大事態調査は、深刻な事案に重点を置く


ここまで、いじめの可能性については現在よりも広く「いじめ疑い」として認知し、その後、確認された事実を基に、明確な基準によって「いじめ」に該当するかどうかを評価する仕組みを提案してきた。

しかし、この考え方を、そのまま「重大事態」の範囲まで広げるべきだとは考えていない。

むしろ、重大事態については、通常のいじめ対応とは分けて考える必要がある。

重大事態調査には、多くの時間、人員、専門性を必要とするからである。

限られた調査資源をどの事案に投入するのかという問題を無視して、重大事態として扱う範囲だけを広げることは、結果として、本当に詳細な調査を必要とする事案への対応を弱めることにもなりかねない。

私は、通常の「いじめ疑い」については更に広く拾い上げる一方で、重大事態については、その制度の目的と現実の調査体制を踏まえ、対象を適切に絞る必要があると考えている。


重大事態調査は、通常のいじめ対応とは重さが違う

現行のいじめ防止対策推進法では、いじめによって生命、心身または財産に重大な被害が生じた疑いがある場合や、相当の期間、学校を欠席することを余儀なくされている疑いがある場合を「重大事態」としている。

文部科学省のガイドラインでも、「疑い」が生じた段階から調査に向けた取組を開始することとされている。(文部科学省)

重大事態調査では、単に学校が当事者から話を聞いて終わるわけではない。

調査組織を設け、必要な体制を整え、関係者への聴き取りや資料の確認などを行い、可能な限り詳細な事実関係を明らかにした上で、再発防止につなげることが求められている。(文部科学省)

当然、それには相応の人員と時間が必要になる。

だからこそ、通常の「いじめ疑い」と重大事態を、同じ発想で際限なく広げることはできない。


すでに重大事態は増加している

この問題は、単なる将来の心配でもない。

文部科学省によれば、令和6年度に報告された重大事態は1,405件で、過去最多となった。

文部科学省自身も、近年、重大事態の発生件数が増加傾向にあるとしている。(文部科学省)

さらに、重大事態調査については、自治体によっては調査経験がなく、調査の立ち上げに苦慮したり、調査委員の決定までに時間を要したりする課題があることも、文部科学省から指摘されている。(文部科学省)

つまり、

「重大事態として扱えば、十分な調査が行われる」

と単純に考えることはできない。

重大事態として扱う事案を増やせば、それだけ調査を担う人員も必要になる。

専門性や第三者性を求めれば、確保できる人材はさらに限られる。

対象だけを広げ、人員や予算を十分に確保できなければ、一件一件の調査に投入できる時間や人員が不足する可能性がある。


人員の問題を無視して対象を広げるべきではない

今回の改正案では、通常のいじめについて、現在よりも更に広く疑いを拾い上げることを提案している。

これは、学校が日常的に行う早期発見や初期対応の入口を広げようという提案である。

しかし、重大事態調査は性質が異なる。

詳細な調査を必要とし、そのために多くの人的資源を投入する制度である。

その体制を十分に確保できていないにもかかわらず、

「重大事態についても、もっと広く拾うべきだ」

と提言することは、私は無責任だと考えている。

入口だけを広げても、それを受け止める人がいなければ制度は機能しない。

むしろ、調査の長期化や質の低下を招き、本当に深刻な事案について十分な調査ができなくなるのであれば、本末転倒である。

限られた人的資源しかないのであれば、どの事案に高度な調査資源を投入するのかを考えることも、制度設計の一部でなければならない。


現行の重大事態の範囲についても検討する

そのため、私は、重大事態については対象を更に広げるのではなく、むしろ現在の範囲が適切なのかについて検証する必要があると考えている。

現在の文部科学省の運用では、児童生徒や保護者から申立てがあった場合、申立てに係るいじめが起こり得ない状況であることが明確であるなど、法の要件に照らして重大事態に当たらないことが明らかな場合を除き、重大事態として報告・調査することが求められている。(文部科学省)

これは、重大な被害を訴えている子どもや保護者の声を学校側の判断だけで退けないための仕組みとして、大きな意味を持っている。

その一方で、重大事態調査を必要とする事案が増え続ければ、調査を担う側の能力にも限界が生じる。

だからといって、単純に、

「不登校○日以上なら重大事態」

「この程度の被害なら重大事態ではない」

という機械的な線引きを厳しくすればよいとも思わない。

それでは、本当に深刻な事案を取りこぼす可能性がある。

必要なのは、現在どのような事案が重大事態として調査され、どの程度の人員と期間を要し、その結果どのような問題が明らかになっているのかを検証した上で、重大事態調査という重い制度を発動する基準を改めて検討することである。


「重大事態にしない」と「対応しない」は違う

ここで、絶対に混同してはならないことがある。

ある事案を重大事態として扱わないことと、その事案に対応しないことは全く違う。

今回の改正案では、通常の「いじめ疑い」の入口については、むしろ現在よりも広げる。

したがって、重大事態に該当しなかったとしても、「いじめ疑い」として認知し、必要な事実確認や安全確保、支援を行うことになる。

重大事態に該当しないから、問題ではない。

重大事態に該当しないから、調べない。

という制度にするわけではない。

違うのは、どの程度の調査資源を投入するのかである。

日常的な学校対応で扱う事案。

通常のいじめ対応として組織的に確認する事案。

さらに高度で詳細な調査を必要とする重大事態。

その段階を分けることで、必要なところに必要な人員を投入するのである。


重大な結果と「いじめ」の評価も分ける

また、重大事態として調査することになった場合でも、「重大な結果が生じた」という事実だけによって、その前に起きていた行為を「いじめ」と評価するべきではない。

重大事態についても、今回の改正案における評価基準は同じである。

何が起きていたのかを確認し、その行為の一方性、継続性、力関係、故意性、集団性、悪質性、被害の程度、逃れにくさ、経緯などを総合的に考慮して評価する。

さらに、

「いじめがあった」

という評価と、

「そのいじめが重大な結果にどの程度影響したのか」

という因果関係についても分けて考える必要がある。

重大事態だから評価基準を緩めるのではない。

通常の事案と同じように、確認された事実に基づいて評価する。


認知は広く、評価は厳格に、重大事態調査は重点的に

ここまでを整理すると、今回提案している制度は三つの段階に分けることができる。

通常の「いじめ疑い」については、現在よりも広く拾い上げる。

その中から、確認された事実を基に、明文化された基準によって「いじめ」に該当するかを厳格に評価する。

さらに、その中でも特に重大な事案については、十分な人員と専門性を投入して詳細な調査を行う。

私は、

認知は広く。

評価は厳格に。

重大事態調査は重点的に。

という制度にすることが、限られた人的資源の中で、子どものSOSを取りこぼさず、本当に重大な事案について十分な調査を行うためには必要だと考えている。

もちろん、どのような基準で重大事態の対象を見直すべきなのかについては、重大事態調査の実態、必要な人員、調査期間、専門家の確保状況などを検証した上で、慎重に制度設計しなければならない。

人員が不足しているから、子どもの訴えを切り捨てるのではない。

広く拾う仕組みは維持した上で、限られた高度な調査資源をどこに投入するのかを整理するのである。

そのためには、重大事態を含む複雑な事案について、学校だけに調査や評価の負担を背負わせることにも限界がある。

次章では、「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」という制度を実際に運用する上で、学校と外部の専門家がどのように役割を分担するべきなのかを考えたい。


 

第十三章 学校だけに「評価」を背負わせない


今回の改正案では、「いじめ疑い」については現在よりも広く認知し、その後、確認された事実を基に、明文化された基準によって「いじめ」に該当するかどうかを評価することを提案している。

しかし、ここで考えなければならないのが、その評価を誰が担うのかという問題である。

全ての事案について外部の専門家が判断することは、現実的ではない。

一方で、事実関係が複雑な事案や、当事者間の主張が大きく食い違う事案、重大な結果が生じている事案まで、全て学校だけで判断することにも限界がある。

認知を広げ、評価を厳格にするのであれば、その役割分担についても考える必要がある。


日常的な事案まで学校の外に出す必要はない

学校では、子ども同士のさまざまな問題が日常的に起きている。

悪口を言われた。

仲間外れにされた。

物を隠された。

友人同士で言い争いになった。

SNSで嫌なことを書かれた。

こうした事案を広く「いじめ疑い」として認知するのであれば、その件数は相当なものになることが予想される。

その全てについて、弁護士や心理職などの外部専門家が事実確認や評価を行うことは現実的ではない。

通常の事案については、これまでと同じように学校が中心となって対応することになるだろう。

ただし、その際にも、

「本人が嫌だと言ったから、いじめ」

「一回だけだから、いじめではない」

といった単純な判断ではなく、今回提案している共通の評価基準を使用する。

つまり、評価を厳格にするということは、全ての判断を専門家へ移すことではない。

誰が評価しても、同じ基本的な評価要素を検討する仕組みにすることである。


学校だけでは評価が難しい事案もある

一方で、学校だけで評価することが難しい事案も存在する。

例えば、当事者双方の説明が大きく食い違っている場合。

多数の児童生徒が関係している場合。

長期間にわたる複雑な人間関係がある場合。

学校自身の対応についても問題が指摘されている場合。

重大な被害が生じている場合。

こうした事案では、学校が当事者から話を聞き、事実を整理し、その事実を評価し、さらに自らの対応についても検証することになる場合がある。

学校が自らの対応を評価する立場にもなれば、その判断に対して保護者や当事者から疑問が生じることもある。

また、法的な問題、心理的な問題、福祉的な問題など、学校教育だけでは判断が難しい論点が含まれることもある。

そのような事案については、学校だけで結論を出すのではなく、必要に応じて外部の専門家が評価に関与できる仕組みが必要になる。


外部専門家は「全件」ではなく「必要な事案」に

ただし、前章で述べた重大事態の問題と同じように、ここでも人員の問題を無視することはできない。

弁護士、心理職、福祉職などの専門家にも限りがある。

「公正な評価のためには専門家が必要だ」として、全ての「いじめ疑い」に専門家の関与を求めれば、制度そのものが動かなくなる可能性がある。

そのため、外部専門家が関与する事案については、一定の基準を設ける必要がある。

通常の事案については学校が評価する。

判断が難しい事案については、教育委員会などに相談する。

さらに複雑性や重大性の高い事案については、外部専門家の関与を求める。

このように、事案の性質に応じて段階的に対応する仕組みが現実的だと考える。


学校が「いじめと認めるかどうか」を抱え込まない

現在のいじめ問題では、

「学校がいじめを認めた」

「学校はいじめを認めなかった」

という表現が使われることがある。

この構図そのものが、学校と保護者の対立を深める場合がある。

しかし、今回の改正案では、学校が最初から「いじめかどうか」を決める必要はない。

まず「いじめ疑い」として認知する。

必要な事実を確認する。

そして、明文化された基準に当てはめて評価する。

判断が難しければ、上位の段階へ相談する。

この仕組みであれば、学校に求められるのは、

「いじめを認めるか、認めないか」

という二者択一の決断ではなくなる。

疑いを拾い、事実を確認し、共通の基準によって評価する。

学校が個人的な感覚で「認める」「認めない」を決める制度から、一定の手続と基準によって判断する制度へ変えるのである。


評価を外部へ丸投げしても解決しない

一方で、学校への不信があるからといって、評価を全て第三者へ移せばよいわけでもない。

子どもの日常を最も近くで見ているのは、多くの場合、学校である。

当事者同士の普段の関係。

学級内での様子。

それまでに起きていた出来事。

周囲の児童生徒との関係。

こうした情報は、学校だからこそ把握できることがある。

外部の専門家には専門性や第三者性がある一方、日常の状況については学校から情報を得なければ分からない。

必要なのは、

「学校か第三者か」

という二者択一ではない。

学校が持つ情報と、外部専門家が持つ専門性や第三者性を、必要な事案について組み合わせることである。


評価する人が変わっても、基準は変えない

そして、今回の改正案で最も重要なのは、誰が評価するかによって「いじめ」の意味が変わらないようにすることである。

担任が判断した場合。

校長が判断した場合。

教育委員会が関与した場合。

外部専門家が関与した場合。

いずれの場合でも、基本となる評価基準は同じでなければならない。

第十章で提案した、一方性、反復性・継続性、当事者間の力関係、故意性、集団性、行為の態様や悪質性、被害の程度、逃れにくさ、行為に至る経緯などを総合的に検討する。

そして、

「なぜ、いじめと評価したのか」

あるいは、

「なぜ、いじめとは評価しなかったのか」

について、その理由を説明できるようにする。

これによって初めて、「評価を厳格にする」という考え方を、学校ごとの感覚ではなく、制度として運用できるようになる。


通常の事案は学校で、難しい事案は外部の支援を

今回の改正案では、「いじめ疑い」については、学校が日常の中で広く認知することを想定している。

子どもの小さな変化や訴えに気付き、早い段階で問題を拾い上げるためには、日頃から子どもたちと接している学校の役割が重要だからである。

そして、通常の事案については、学校が必要な事実確認を行い、共通の評価基準に基づいて「いじめ」に該当するかどうかを評価する。

一方、事実関係が複雑な事案や、当事者の主張が大きく食い違う事案、学校自身の対応も検証する必要がある事案などについては、学校だけで評価を完結させることが適切ではない場合もある。

そのような場合には、教育委員会や外部の専門家から必要な支援を受け、専門性や第三者性を加えた上で評価できる仕組みにする。

全ての事案を学校だけに背負わせる必要はない。

一方で、全ての事案を外部の専門家に委ねることも、人員や現実の学校運営を考えれば難しい。

重要なのは、事案の性質や複雑さに応じて、誰が評価に関与するのかを適切に分けることである。

その場合でも、「いじめ」の評価基準そのものを変えてはならない。

学校が評価する場合でも、教育委員会や外部の専門家が関与する場合でも、同じ基準に基づいて評価する。

そうすることで、学校によって「いじめ」の意味が変わったり、担当者の感覚によって判断が大きく左右されたりすることを、できる限り防ぐことができる。


認知を広げながら、教師の負担を抑える

今回の改正案では、子どもの被害や異変を見逃さないため、「いじめ疑い」として認知する範囲を現在よりも広げることを提案している。

しかし、認知する事案が増えれば、学校が事実確認や評価を行う事案も増える。

教師の長時間労働や人員不足が問題となっている中で、単純に「もっと多くの事案を認知し、もっと丁寧に調べること」を求めれば、学校現場の負担はさらに大きくなってしまう。

だからこそ、認知の基準を広げるだけではなく、その後の評価に必要な基準や手順を明確にし、できる限り標準化する必要がある。

国が共通の評価項目や手順を示すことで、教師が事案ごとに「何を確認し、何を基準に判断すればよいのか」と迷う場面を減らす。

子どもの問題を広く拾うために、教師の仕事を際限なく増やすのではない。

認知する範囲を広げると同時に、その後の判断を標準化し、教師の負担をできる限り軽減する。

「いじめ疑い」は、学校が広く認知する。

通常の事案は、学校が共通の基準と手順に沿って評価する。

学校だけでは評価が難しい事案については、教育委員会や外部の専門家から必要な支援を受けられるようにする。

全てを学校に背負わせるのでもなく、全てを外部に委ねるのでもない。

このような役割分担によって、教師の負担をできる限り抑えながら、「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」という仕組みを、現実の学校現場で運用できる制度にしていく必要がある。

ここまで、今回提案する制度の基本的な仕組みについて説明してきた。

では、実際にこの制度へ変わった場合、これまでのいじめ対応はどのように変わるのか。

次章では、いくつかの具体的な事例を使い、現行制度と今回の改正案の違いを比較してみたい。


 

第十四章 改正によって、いじめ対応はどう変わるのか


ここまで、「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」という考え方に基づき、認知と評価を分ける仕組みについて説明してきた。

しかし、制度の考え方だけでは、現在の仕組みと何が変わるのか分かりにくい部分もあると思う。

そこで、いくつかの事例を使って、今回の改正案ではどのように対応することになるのかを考えてみたい。

なお、以下の事例は、制度の違いを分かりやすくするために単純化したものである。

実際の事案では、より多くの事情を確認した上で評価する必要がある。


事例1 一度だけ悪口を言われた

ある児童が、同級生から一度だけ「バカ」と言われ、嫌な気持ちになったと教師に相談した。

今回の改正案では、まず「いじめ疑い」として認知する。

「一回だけだから」という理由で、入口から除外することはしない。

その上で、どのような状況で発言されたのか、前後にどのようなやり取りがあったのか、当事者同士がどのような関係だったのかなどを確認する。

例えば、友人同士の一度限りの口論の中で、双方が同程度の言葉を言い合っていたことが確認された場合には、「いじめ疑い」として認知したものの、最終的には「いじめ」とは評価しないこともあり得る。

一方、一度だけの発言であっても、多数の児童の前で意図的に相手の尊厳を著しく傷つけるような言葉を投げかけた場合などは、その行為の態様や悪質性を踏まえ、「いじめ」と評価される場合もある。

つまり、

「一回だから、いじめではない」

とも、

「嫌だったと言ったから、必ずいじめである」

とも判断しない。

疑いは拾い、その後に確認された事実を評価する。


事例2 本人は「いじめられていない」と言っている

教師が、ある児童が特定のグループから繰り返しからかわれている場面を目撃した。

しかし、本人に確認すると、

「別に嫌じゃない」

「遊んでいるだけ」

と答えた。

今回の改正案では、本人が苦痛を訴えていないという理由だけで、この事案を認知の対象から外さない。

繰り返し特定の児童だけがからかわれているなど、客観的な状況からいじめの可能性があるのであれば、「いじめ疑い」として認知する。

その上で、行為の内容、継続性、当事者間の力関係、本人がその関係から離れることができる状況だったのかなどを確認する。

その結果、対等な友人関係の中で互いに同程度のやり取りをしていたことが確認されれば、いじめとは評価しない場合もある。

反対に、一方的なからかいが長期間続き、本人が集団から外されることを恐れて拒否できない状態だったことなどが確認されれば、本人が「嫌ではない」と話していたとしても、いじめと評価される場合がある。

ここでは、

「本人が嫌だと言ったかどうか」

だけで結論を出さない。

本人の訴えを大切にしながら、客観的な状況についても評価する。


事例3 双方が相手を「いじめられた」と訴えている

二人の児童が口論になり、互いに、

「相手からいじめられた」

と教師へ訴えた。

今回の改正案では、どちらか一方の訴えだけを「本当のいじめ」と決める必要はない。

双方について「いじめ疑い」として認知し、それぞれの行為を確認する。

その結果、双方が同程度に言葉をぶつけ合った一度限りの口論だったことが確認されれば、「双方的な争い」などとして、いじめとは異なる評価をすることが考えられる。

一方で、表面的には双方が言い返していたとしても、一方が長期間にわたって攻撃を受け続け、最後に言い返しただけだったことが確認される場合もある。

その場合には、一場面だけを切り取って、

「どっちもどっち」

と評価するべきではない。

双方から訴えがあったという事実ではなく、確認された行為とその経緯を基に評価する。


事例4 ふざけて押したところ、重大なけがをした

児童同士がふざけている中で、一人がもう一人を押し、転倒した児童が大きなけがをした。

被害を受けた児童が強い苦痛を感じているのであれば、当然、「いじめ疑い」として認知する。

しかし、重大なけがが生じたという結果だけで、直ちに「重大ないじめ」と評価するわけではない。

どのような状況で押したのか。

一方的な行為だったのか。

それ以前にも同様の行為があったのか。

相手を傷つける意図があったのか。

当事者間にどのような関係があったのか。

こうした事情を確認する。

本当に対等な友人同士がふざけている中で生じた偶発的な事故であれば、重大な結果が生じていても、「いじめ」とは評価しない場合がある。

もちろん、「いじめではない」という評価になったとしても、けがへの対応や安全管理上の検証が不要になるわけではない。

反対に、「ふざけていただけ」という説明があったとしても、一方が嫌がっているにもかかわらず繰り返し身体的な行為を受けていたことが確認されれば、いじめと評価される可能性は高くなる。


事例5 一度だけだが、極めて悪質な行為があった

ある児童が、同級生から一度だけ重大な暴力や著しく尊厳を侵害する行為を受けた。

今回の改正案では、当然「いじめ疑い」として認知する。

そして、「一度しか行われていない」という理由だけで、いじめから除外することもしない。

行為の危険性や悪質性、故意性、当事者間の力関係などを評価し、一度の行為であっても、その性質が重大であれば「いじめ」と評価する。

これは、第五章で述べた、

「一回でも重大ないじめは存在する」

という考え方である。

継続性は重要な評価要素の一つではある。

しかし、いじめと評価するための絶対的な条件ではない。


事例6 保護者から「いじめだ」と申告があった

保護者から学校へ、

「うちの子はいじめられている」

という申告があった。

今回の改正案では、学校がその場で、

「これはいじめとは思いません」

と入口から退けることはしない。

まず、「いじめ疑い」として認知する。

しかし同時に、保護者から「いじめだ」という申告があったという理由だけで、相手とされた児童を加害者として扱うこともしない。

必要な事実を確認し、その結果を共通の評価基準に当てはめる。

その結果、いじめと評価される場合もあれば、対人トラブルなど別の評価になる場合もある。

重要なのは、

「申告を受け付けること」

と、

「申告された内容をそのまま最終的な評価にすること」

を分けることである。

保護者の訴えを入口で退けない。

同時に、相手とされた子どもを入口で加害者にしない。

この両方を実現する。

「拾う段階」と「評価する段階」を分ける

ここまでの事例に共通しているのは、一つである。

「いじめかもしれない」という段階では、できる限り広く拾う。

そして、その段階では結論を出さない。

何が起きていたのかを確認した上で、共通の評価基準によって「いじめ」に該当するのかを判断する。

その結果、

「いじめ疑いとして認知し、いじめと評価した」

という事案もあれば、

「いじめ疑いとして認知したが、いじめとは評価しなかった」

という事案も生じる。

それでよいのである。

むしろ、この二つの結果が存在することこそ、「認知」と「評価」が分離されていることを意味する。


誰かの訴えを軽くするための改正ではない

そして、これらの事例から、もう一つ確認しておきたい。

今回の改正案は、

「最近はいじめと呼び過ぎているから、いじめを減らそう」

という提案ではない。

被害を訴える子どもや保護者に対して、

「その程度はいじめではない」

と言いやすくするための改正でもない。

むしろ入口は、現在よりも広げる。

本人が訴えている事案だけでなく、本人が訴えていなくても、客観的な状況からいじめが疑われるものまで拾い上げる。

その一方で、「いじめ」という評価には、確認された事実と理由を求める。

だからこそ、

認知は更に広く、評価はもっと厳格に。

なのである。

ここまでで、今回提案する制度が実際の事案でどのように機能するのかについて説明した。

次章では、これまで述べてきた考え方を、実際にいじめ防止対策推進法へ反映させるとすれば、どの部分をどのように改正することになるのかを考えたい。


 

第十五章 具体的な法改正案


ここまで、「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」という考え方に基づき、現在のいじめ対応をどのように変えるべきなのかを述べてきた。

ここからは、その考え方を実際の法律に反映させるとすれば、どのような改正が考えられるのかを整理したい。

なお、以下に示すものは、完成した法律の条文案ではない。

実際に法律を改正するためには、既存の条文との整合性、学校現場への影響、関係法令との関係などについて、法律や教育の専門家による詳細な検討が必要になる。

ここでは、今回の提案を法制度に反映させるために、最低限どのような変更が必要になるのか、その骨格を示したい。


現在の「いじめ」の定義を二つに分ける

今回の改正案で最も重要なのは、現在一つになっている「いじめ」の定義を、「認知するための基準」と「評価するための基準」に分けることである。

現在のいじめ防止対策推進法第2条では、一定の人的関係にある他の児童等から心理的または物理的な影響を与える行為を受け、その対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものを「いじめ」としている。

この考え方を完全に捨てる必要はない。

むしろ、問題を拾い上げるための入口として活用する。

ただし、その段階では「いじめ」と確定させず、「いじめ疑い」として位置付ける。

そして、その後に、別途設ける評価基準によって「いじめ」に該当するかどうかを判断する。

つまり、

「いじめ疑い」の定義

と、

「いじめ」の評価基準

を法律上も明確に分けるのである。


「いじめ疑い」の定義を現在より広げる

「いじめ疑い」については、現在の定義よりも広くする。

本人が心身の苦痛を感じている場合は、当然その対象とする。

それだけではなく、本人が苦痛を明確に訴えていない場合でも、行為の内容、反復性、当事者間の関係、周囲の状況などから、客観的に見ていじめの可能性がある場合についても、「いじめ疑い」として認知できるようにする。

例えば、法律上の考え方としては、

児童等に対して、一定の人的関係にある他の児童等が心理的又は物理的な影響を与える行為を行い、当該児童等が心身の苦痛を感じている場合又は当該行為その他の事情からいじめに該当する可能性があると合理的に認められる場合」

といった形が考えられる。

重要なのは、細かな文言そのものではない。

本人の苦痛の申告だけを入口にしないことである。

本人が「大丈夫」と言っていても、周囲から見れば明らかに異常な状態が続いている場合がある。

そのような子どもまで、制度の入口で拾えるようにする。

「認知」は「いじめの確定」を意味しないことを明記する

次に必要なのは、「いじめ疑いとして認知した」ということが、「いじめがあったと確定した」という意味ではないことを法律上明確にすることである。

例えば、

「いじめ疑いの認知は、当該行為がいじめに該当するとの評価を確定するものではない」

という趣旨の規定を設けることが考えられる。

これは、今回の改正案の中でも非常に重要な部分である。

認知した瞬間に「いじめがあった」という扱いになるのであれば、学校は認知そのものに慎重にならざるを得ない。

反対に、認知があくまで「調べるべき事案を拾い上げた」という意味であることが明確になれば、認知の入口を広げることができる。

また、相手とされた児童生徒についても、認知されたというだけで「加害児童」と扱われることを防ぐことにつながる。


「いじめ」の評価基準を新たに設ける

「いじめ疑い」として認知された後、その事案が実際に「いじめ」に該当するのかについては、別の評価基準を設ける。

第十章で述べたように、

一方性。

反復性・継続性。

当事者間の力関係。

故意性。

集団性。

行為の態様や悪質性。

被害の程度。

その状況から逃れることの困難性。

行為に至るまでの経緯。

などを評価要素として明文化することが考えられる。

ただし、これらを全て満たすことを「いじめ」の要件とするわけではない。

個々の事案について、確認された事実を基に、複数の要素を総合的に考慮して評価する。

また、一度の行為であっても、行為の悪質性や重大性などから「いじめ」と評価できることについても明確にする。

これによって、

「一回だから、いじめではない」

という機械的な判断も、

「本人が嫌だったと言ったから、必ずいじめである」

という機械的な判断も避ける。


評価結果を説明できる仕組みにする

評価基準を設ける以上、その基準をどのように適用したのかについても説明できるようにする必要がある。

「いじめ」と評価した場合には、何を根拠としてその結論に至ったのか。

「いじめではない」と評価した場合にも、何を確認し、どの評価要素を検討した結果、その結論に至ったのか。

これを一定程度記録し、必要な範囲で当事者に説明できる仕組みにする。

評価を厳格にするとは、単に「いじめと認めるためのハードルを上げる」という意味ではない。

どちらの結論を出す場合にも、その理由を説明できるようにするということである。


統計についても法律や制度に合わせて変更する

第九章で述べたように、認知と評価を法律上分けるのであれば、国や自治体が公表する統計についても変更する必要がある。

少なくとも、

「いじめ疑い認知件数」

と、

「いじめと評価された件数」

は分ける。

必要に応じて、

「事実確認を終えた件数」

「いじめ以外と評価された件数」

「評価を確定できなかった件数」

などについても集計することが考えられる。

これによって、認知件数が増えたことが、

「いじめが増えた」

という意味で受け取られることを防ぐ。

むしろ、「いじめ疑い認知件数」は、学校がどの程度広く問題を拾い上げているのかを見るための指標として位置付ける。


重大事態の基準についても別途検証する

重大事態については、第十二章で述べたように、通常の「いじめ疑い」と同じように対象を広げることは提案しない。

重大事態調査には、多くの人員、時間、専門性が必要になる。

すでに調査を担う人員の確保などが課題となっている中で、十分な体制整備について具体的な見通しを示さないまま対象だけを広げることは適切ではない。

むしろ、現在の重大事態制度について、どのような事案が対象となり、どの程度の人員や期間を要しているのかを検証した上で、本当に高度な調査を必要とする事案へ調査資源を重点的に投入できる基準を検討する必要がある。

ただし、重大事態の対象を見直す場合でも、通常の「いじめ疑い」として認知し、必要な対応や支援を行う仕組みまで狭めてはならない。

ここでも、

「重大事態ではない」

ことと、

「対応する必要がない」

ことを混同しないようにする。


学校だけで評価が難しい場合の仕組みを設ける

通常の事案については、学校が共通の評価基準を用いて判断する。

一方、事実関係が複雑な事案や、学校自身の対応についても検証が必要な事案などについては、教育委員会や外部専門家の関与を求められる仕組みを整える。

ただし、全ての事案について外部専門家による評価を義務付けることはしない。

これも、人員の問題を無視できないからである。

重要なのは、評価する主体を全て外部へ移すことではない。

学校だけでは適切な評価が難しい場合に、必要な専門性や第三者性を加えられる仕組みを用意することである。


今回の改正案の骨格

ここまでの改正内容を整理すると、今回提案している制度の骨格は次のようになる。

第一に、現在の「いじめ」の定義を、「いじめ疑いを認知するための基準」と「いじめと評価するための基準」に分ける。

第二に、「いじめ疑い」の認知については、本人の苦痛の申告だけでなく、客観的な状況から疑われる場合まで対象を広げる。

第三に、「いじめ疑い」として認知されたことは、「いじめがあった」という評価を意味しないことを明確にする。

第四に、「いじめ」の評価については、一方性、継続性、力関係、故意性、悪質性などの評価要素を明文化し、確認された事実を基に総合的に判断する。

第五に、「いじめではない」という評価も制度上認め、その場合にも判断の理由を説明できるようにする。

第六に、統計上も「いじめ疑い認知件数」と「いじめと評価された件数」を分ける。

第七に、重大事態については、調査体制や人的資源を踏まえて対象を別途検証し、高度な調査資源を重点的に投入できる制度を検討する。

第八に、学校だけで評価することが難しい事案について、教育委員会や外部専門家の支援を受けられる仕組みを整える。

これらを一体として行うことで、

認知は更に広く。

評価はもっと厳格に。

そして、

重大事態調査は、本当に必要な事案に重点的に。

という制度を実現する。

今回提案しているのは、いじめを認めにくくするための法改正ではない。

反対に、あらゆる子ども同士の問題を「いじめ」と呼ぶための法改正でもない。

見逃してはいけないものを広く拾い、その後に何が起きたのかを確認し、共通の基準によって適切に評価する。

そのために、「認知」と「評価」を一つの定義の中に押し込めている現在の仕組みを見直すことが、この改正案の中心である。

次章では、これまでの提案全体を整理し、この法改正によって何を守りたいのかを最後にまとめたい。


 

第十六章 この改正で守りたいもの


ここまで、いじめ防止対策推進法について、「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」という考え方に基づく改正案を述べてきた。

この提案によって実現したいのは、いじめを認めやすい社会でも、認めにくい社会でもない。

子どもの異変や苦痛をできる限り見逃さず、それと同時に、確認された事実に基づいて一つ一つの事案を適切に評価できる仕組みである。

現在の制度が大切にしてきた「いじめを見逃さない」という考え方を後退させる必要はない。

むしろ、その考え方を更に徹底する。

その上で、「問題を拾い上げること」と「その問題をいじめと評価すること」を明確に分けたい。


声を上げられない子どもも守りたい

いじめを受けている子どもが、必ず「つらい」「いじめられている」と訴えられるとは限らない。

周囲との関係を壊したくない。

仕返しが怖い。

大人に知られたくない。

自分がいじめられていると認めたくない。

さまざまな理由から、「大丈夫」と答える子どももいる。

だからこそ、今回の改正案では、本人が苦痛を訴えた場合だけでなく、客観的な状況からいじめが疑われる場合についても、「いじめ疑い」として拾い上げることを提案している。

本人が声を上げるまで待つのではない。

周囲の大人が異変に気付いたのであれば、まず拾う。

その段階では、いじめであることを証明する必要もない。

助けを求められない子どもまで、制度の入口に入れる。

これが、認知を更に広くしたい最大の理由である。


被害の訴えを、入口で退けにくい仕組みにする

現行のいじめ防止対策推進法は、いじめを広く認知し、被害を見逃さないことを重視している。

今回の改正案も、その考え方を後退させるものではない。

むしろ、さらに徹底するための提案である。

しかし、現在は「いじめを認知すること」と「その事案をいじめと評価すること」が明確に分けられていない。

そのため、学校がある事案を「いじめ」として認知する際には、単に「いじめの可能性がある事案を拾い上げる」という以上の意味を持ちやすい。

「いじめと認めるのか、認めないのか」という判断を入口の段階から求められることになれば、

「一回だけだから」

「双方に問題がありそうだから」

「本当にいじめと言えるのか分からないから」

といった理由によって、認知そのものに慎重になる可能性がある。

しかし、本来、こうした事情の多くは、問題を拾い上げるかどうかではなく、事実を確認した後に「いじめ」と評価するかどうかを判断する際に検討すべきものである。

だからこそ、今回の改正案では「いじめ疑い」という段階を設ける。

疑いがあれば、まず認知する。

その段階では、「いじめがあった」と確定する必要はない。

その後、当事者双方の言動、それまでの関係、行為に至った経緯などを確認する。

被害を訴えた側にも問題となる行為があったのであれば、それについても評価する。

そして、確認された事実を共通の基準に当てはめて、初めて「いじめ」に該当するかどうかを判断する。

入口では、疑いを広く拾う。

出口では、確認された事実を厳格に評価する。

認知と評価を分けることで、被害の訴えを入口で退けにくくすると同時に、認知されたというだけで相手とされた子どもを加害者と決めつけることも防ぐ。

これが、「認知は更に広く、評価はもっと厳格に」という改正によって実現したい仕組みである。


「いじめではない」という結論でも、子どもの苦痛を捨てない

評価を厳格にすれば、「いじめ疑い」として認知されたものの、最終的にはいじめとは評価されない事案も生じる。

しかし、その結論によって、

「何も問題はなかった」

ことになるわけではない。

友人同士の争いで傷つくこともある。

偶発的な出来事によって強い苦痛を感じることもある。

いじめとは評価されなくても、学校へ行くことが難しくなっている子どももいるかもしれない。

「いじめ」という評価と、「支援が必要か」という判断を一つにしてしまえば、いじめと評価されなかった子どもが支援からこぼれてしまう。

だから、

いじめであるかどうかにかかわらず、必要な支援は行う。

この原則も、今回の改正と一緒に守らなければならない。


本当に重大な事案には、十分な調査資源を使う

そして、子どもの生命や心身に重大な問題が生じた事案については、十分な調査が必要になる。

しかし、重大事態調査には、多くの人員、時間、専門性が必要になる。

調査できる人員が限られている以上、その現実を無視して対象だけを広げれば、一件一件の調査が薄くなる可能性がある。

だからこそ、通常の「いじめ疑い」は広く拾いながら、重大事態調査については、本当に高度な調査を必要とする事案へ十分な資源を投入できる制度にする必要がある。

これは、軽い事案を切り捨てるという意味ではない。

通常の対応で拾い、確認し、支援する仕組みを広く確保した上で、特に重大な事案には、より多くの調査資源を投入するということである。

全てを同じ重さで扱うことが、全てを大切に扱うこととは限らない。

必要な事案に、必要な対応を行える制度にすることが重要である。


誰かを守るために、誰かを犠牲にしない

いじめ問題は、対立の構図になりやすい。

被害を訴えた側と、相手とされた側。

保護者と学校。

遺族と学校や教育委員会。

時には、それぞれを支持する第三者まで加わる。

しかし、法律の目的は、どちらかの側を勝たせることではないはずである。

被害を訴えた子どもの声を拾う。

声を上げられない子どもの異変も拾う。

疑われた子どもの話も聞く。

確認できた事実と、確認できなかったことを分ける。

その上で、共通の基準によって行為を評価する。

必要な支援は、評価とは別に行う。

この一つ一つを分けることで、誰かを守るために、別の誰かを最初から悪者にする必要はなくなる。


認知は更に広く、評価はもっと厳格に

私は、いじめ防止対策推進法が目指してきた、子どもの被害を見逃さないという考え方そのものを否定したいわけではない。

むしろ、その目的を更に徹底したい。

だから、認知の範囲は狭くしない。

更に広げる。

本人が訴えている事案だけではなく、周囲から見ていじめが疑われる事案についても拾い上げる。

ただし、「いじめの可能性がある」と判断しただけで、「いじめがあった」と結論付けることはしない。

何が起きたのかを確認する。

そして、確認された事実を、明文化された基準、標準化された手順によって評価する

いじめと評価するのであれば、その理由を示す。

いじめではないと評価するのであれば、その理由についても示す。

認知件数と、いじめと評価された件数も分ける。

そして、本当に重大な事案には、限られた調査資源を重点的に投入する

目指しているのは、

いじめを認めやすくすることでも、認めにくくすることでもない。

見逃さず、決めつけない制度にすることである。

認知は、更に広く。

評価は、もっと厳格に。

私は、その両方を実現するために、いじめ防止対策推進法の見直しが必要だと考えている。

いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻


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匿名さんのレビュー

元中学教員です。
書かれている内容から、どのような状況だったか、手に取るようにイメージできます。

「学校は何もしなかった」と安易にマスコミや世間は叩くけれど、じゃあ何ができたというのか。
自分たちが中学生の時、スマホやネットがなかった時代でさえ、「大人」が「中学生」を安易に理解できたか。「中学生」が「大人」に今日どこで何をしてどんなことがあったかを逐一報告したか。
自分たちの中学時代に置き換えて状況をもう少しでいいから想像して欲しい。
そこにスマホが加わることで、子供たちの世界はどれだけ大人から見えない物になってしまったか。
もう少し「中学生の今」を考えてみてほしい。

さらには、入学してきてたった数ヶ月の出来事。
生徒への理解、生徒同士の人間関係が少しずつ見えてきた矢先の事件であり、「いじめ」に相当する出来事のほとんどは学校外で起きていた。
教室内・学校内で起こっていたのであれば、学校・教師の責任を追及する声が上がっても仕方ない。
家庭に帰してからの出来事、さらには他校の生徒が絡んだ案件を、保護者すら把握できないのに、担任が、教員がどこまで即座に把握し、指導できるというのか。糾弾している人々にそのすべを教えてもらいたい。

もちろん、他校とも連携を取り、事実確認をしたり、それぞれ話をしたりはする。
一同に集めて話をするのは難しいし、さらにスマホの中での付き合いも加わると、人間関係が複雑で対応は困難を極める。
そこは本当に「学校の」責任の範疇なのか。
起きた事実が「いじめ」や「犯罪」かはさておき、放課後や夜間、休日に起きている出来事すら「学校・教師の責任」なのだろうか。

こんなにも多くの児童生徒が居場所を求めて公園に頻繁に長時間集まっていた。
その時点で保護者や地域にもできることはあったし、動くべきであった。
が、その責任は誰にも追及されない。

学校現場は、外部の方々が思っている何倍も、「トラブルの連続」である。
毎日のように何かしらのトラブルが起き、悩みを抱えた子がごまんといる。
そして、多感な成長過程にある子供たちは、常にそれぞれに課題を抱えている。

現場にいたとき、いつも子供たちに言ってきた。
「人と人とのトラブルは、0対100というケースはほとんどないんだよ。
向こうが全部悪い、私は悪くないと思ってるかもしれないけれど、自分にも何か問題がなかったか考えてみよう」
私は個人的に「限りなく0対100に近いケース」がいじめであると考えている。

本当に本当に悲しい事件だと思う。
しかし、残念ながら、似たような案件は、全国のあちこちに転がっている。
今回の被害者がそうであるかは私には分からないが、心に闇を抱える女の子の多くが、自らの性を、寂しさを解決する手段に使うケースを山ほど見てきた。
自分への興味関心を引き、誰かに求められる・必要とされる実感を得られる、最も分かりやすい「ツール」だからだ。
性の入口に立った中学生達は安易にそれに飛びつくし、特に勉強や部活への興味ややる気をなくし、目的や目標を持てずにいる子供たちにとっては、格好の娯楽となる。

「いじめだ!!」「学校の怠慢だ!!」と声高に叫び、介在した生徒・教員達を叩きまくることで何が生まれ、何が変わるというのか。
この件は、スマホ依存社会、同時に核家族化・共働き化が推し進んだ中で、そのすき間で危ういバランスの人間関係を保っている中学生なら、全国どこででも起こりえる事件だ。
表面化していないだけできっともう同じような事件はたくさん起きていると思う。
失われた尊い命を「無駄にしない」というのは、ただ誰かを叩き、吊るし、結果論で物を言うのではなく、その背景をしっかり理解し、原因や対応策を考え、さあやさんのように、寂しさや孤独を抱えた子供たちを救うこと。ただその一点にあると思う。

2024年6月30日 1:26 PM

匿名さんのレビュー

私も、入水後に入院した病院で治療を継続できなかったのか、ここがターニングポイントだったのかも?と思います。
児童デイや放課後デイは、家庭⇔学校⇔病院⇔福祉を繋ぎます
彼女特有の寂しさや人間関係の困難さ等のサポートが受けられる架け橋になれたはず。
この病院は、この点を指摘してました。
また、引っ越しや転校も彼女の気持ちからするともう少し慎重になれていたら、とも思います。
学校に弁護士を同伴して謝罪を受けられていたら、また入院費や引っ越し等の補償が出来ていたら、遺族はここまで執拗に先生や先輩を追い詰めなかったのか?遺族の本当の目的は何なのでしょう?私なら、売春させられていたとかレイプを受けた、と言われる方が娘の名誉の為に許せない行為ですが。そんな事を配信し続けるインフルエンサーには弁護士からの指摘はないですよね?
A子の「死ぬ気もないのに〜」って言う言葉も、受け取り方でこんなに変わってしまうなんて。A子にとっては、思い留めさせる為だった発言が彼女にとっては言って欲しくなかった一言。大人でも難しいなと思う出来事がまだ10代の子にダメ出しをする、そして死の責任まで言及する、ネットで名前も顔も出される、こんな世の中間違っている。
彼女の死で関係者の将来を潰す事、これが延長線で行われみんなが正義と信じ一致団結したように行われている事に吐き気がします。

2024年6月30日 7:53 PM

匿名さんのレビュー

子供に起こるさまざまな出来事。
起こった良いことを一緒に喜び、辛かったことを聞いて慰める役目を一番に担うべきなのは、子どもの変化に目を向け、小さな変化にも気付き、その原因を突き止めて解消するのは親の役目。

子どもの困りごとに寄り添い、その解消に繋がる道を模索するのも親の役目。
学校も行政も、親からのSOSを受け手助けをする1ピースでしか無い。

学校や行政のせいにし叩き続けている限り、いじめによる自死は無くならないだろう。

2024年6月30日 10:26 PM

学校とはさんのレビュー

再調査委員会の会見見ました。転校先の学校は前中学校でおきたいじめのフラッシュバックの対応までしなければならないのでしょうか。警察も学校もかなり高いレベルでの対応を要求されていますが、ひとりの生徒に対し無理だと感じました。学校の授業以外で校外やSNSを含めた対応を求められ、足りなかった場合は袋叩きに合うのであれば、誰も教員になれないと感じました。

2024年6月30日 11:44 PM

匿名さんのレビュー

発達障害の診断自体、専門医が少なく、予約して半年待ちはザラ。半年という時間は成長期の子供にとって貴重。思春期の二次障害については、受診できる病院が少ない。他県のものですが、これは全国的な課題だと思います。
15歳で思春期外来から精神科が受診先になることをみこした治療をすすめる。医師だけでなくコメディカルによるチーム医療ができる病院がよい。とスクールソーシャルワーカーをしている知人から聞いたことがあります。
遺族の手記が2つあり、文春本裏の30ページと、2021年8月18日公表3ページを読みましたが、いじめが起こる前後と学校側の対応のずさんさを強調した内容。
被害者にとっては小学校高学年から出現した特性ゆえの行動からの進級の選択、疲労につながる塾通い等の考慮、ネット依存状況の把握と離脱、なにより強く訴えている「さびしい」を受けとめてネット以外の心の安定につながる依存先を作っておくことだったと思います。この判断ができなかったという事では、母親にもこの時点で支援が必要だったと思います。
(実際のところはわかりませんが)
入院先での治療を継続すべきだったとのコメントが、ここまでに三人寄せられています。ここが転機だったでしょう。同感です。
再調査委員会最終報告は、自死といじめの因果関係を認めることで、被害者とさして年のかわらぬ子供達に、大人も背負うべきである責任を子供達に背負わす内容。代理人が誇らしげに全国モデルにと言ってたようですが、とんでもないことだと思います。なぜ死を選ぶほどつらい思いをしたのか。黒塗りなどせず公表し真実とむきあうことが、被害者の追悼です。

2024年7月2日 3:05 PM

匿名さんのレビュー

いじめ問題に関して被害者の発達障害について言及すると、
「発達障害を抱えているからっていじめられて良いというのか!」と批判する人が多い。
けれどそういう人達って、
発達障害を抱えている人達の生きづらさを理解しようとすらしていないし、発達障害に対して差別的な認識をしている。
そんな人達が被害者の事を理解せずに、自分の都合や当事者を蔑ろにした認識を押し付けるばかりで、
被害者だけでなく教師なども苦しめている事に目を向けない。

ふつざわさんは発達障害について言及しているけれど、
亡くなられた子が抱えていた特性に対して真摯に向き合っているからであって、そこには理解しようとする姿勢がある。
逆に、
彼を誹謗中傷している人達が、
理解されない事で苦しみ続けていた子に関して、
不都合な事実から目を逸らし続けるのは、
亡くなられた子が抱えていた苦しみを全く理解していないからとしか思えない。

私の場合、
私自身にそういう傾向があるからこそ、
当事者であるからこそ、
死にたくなるほど辛い思いをしてきた人の気持ちがわかる。
だからこそ、
亡くなられた子の等身大の人物像を隠蔽し、
自分達の都合の為に創り上げた虚像を掲げて、
更なる被害を生み出している連中に対して強い憤りを感じている。

イジメの有無ではなく、
「孤独(理解されない苦しみも含む)」こそが死に至らしめるほど心を苦しめる病であり、
衝動性がそれをより深刻な事態に発展させる要素。

2024年7月6日 7:10 AM

あるくむさんの応援メッセージ

世間の論調、それを形成したマスメディアの報じ方と実情がこれほどかけ離れていたことに、驚愕と強い反省を覚えます。昨日もマスメディアは詳細を伏せ、ヤフコメでは加害者晒しなどと全くの誤解憶測が飛び交ってます。とは言え昨日までの私の認識も大差ないものでした。恥ずかしいです。

真実はなぜ伏せられ続けたのか。遺族と協議して黒塗りしたという報道がなされていますが、その協議とは如何なる根拠で、いかなるプロセスで行われたのか。被害者と遺族の抱えた問題をプライバシー配慮という名の下に伏せたことは本当に正しいのか。それによって曲げられた真実は独り歩きして別の誰かを傷つける。社会課題を解決するふりをして、私たちは別の誰かに皺を寄せただけではないか。あなたの行為は多くの根本的な疑問を浮き彫りにしました。

自分も家族に精神障害者を抱えた当事者家族の立場から述べますが、全ての少年少女が障害や多様性を理解し対応できる日は来ないと思います。もちろん、そのための努力は尊いものですが、社会設計は理想や建前だけでは成立しない。そういう楽観論だけでいじめは無くならない。だからこそ本件は徹底した検証がなされるべきだと思いました。あなたが公開した行為の是非はともかく、行動を起こしたからには全ての経緯を公正な手段でつまびらかにしていただきたいと願います。メディアには、手記や告発レポートの形で切り取りしない全文を世に出す責任を果たしていただきたい。

2024年6月25日 6:11 AM

匿名さんからの応援メッセージ

公開してくれたんで、黒塗り版を作った人たちが何を隠したかったのか浮き彫りになると思う
後でゆっくり見させてもらいます、ありがとうございました

2024年6月25日 6:03 PM

匿名さんからの応援メッセージ

あなたは正義の味方です
これからも応援します

2024年6月25日 7:58 AM

匿名さんからの応援メッセージ

公開された正義感と勇気に敬服しました。
文春の記事のいい加減さに、あきれました。公開されなかったら、決して表に出てこなかった事実と感じます。
いじめと自死との関係性について、考えさせられました。
いじめを解決することで、自死を防ぐことができたか、疑問に感じるとともに、
結局、自死を防ぐ有効な手段が見当たらない(現在も)と感じました。

2024年6月25日 7:59 PM

匿名さんからの応援メッセージ

あれだけ大きく報じられ、全国からの問い合わせによって第三者委員会の調査が決まったのに、出来上がった報告書は黒塗りだらけで、なんだこれ?って思ったことを覚えています。
今回全てが読めて、リスク承知で公開してくれたことに、個人的にはありがとうございますと言いたいです

被害者の子が抱える、寂しさや、思春期と発達障害による特性の混ざりあった、お母さんとの衝突やクラスメートとの関わり方の悩み、自分を制御できないもどかしさ等、黒く塗られて知り得なかったことが知れ、どれほど辛かっただろう…と公表版の報告書を読んだ時よりも、より胸が痛みました
同時に、これらのことが何故隠されなければならなかったのか理解に苦しみます

また、ネットニュース等で悪の化身のような書かれかたをしていた校長先生はじめ教師の皆様が、なにも対応していなかったわけでは無かったと知ることができ、学校もすてたもんじゃないなとも思えました

AとBいう選択肢があって、Aを選択したのは間違いでBを選択すれば良かった(Bもするべきだった)
というような文言をよく目にしますが、AもBも選択していれば結果が違ったものになっていたかは誰にも解りません
現場の教師の方々は日々そういった選択を余儀なくされているのですから、むやみやたらに責めるのは辞めて欲しいです

調査報告書が誰かを責めるためのものではなく、起こってしまったことを次に生かすためのものでありますように
また、なるべく黒塗りのない状態で公表され、一人でも多くの人がいじめについて考えるものになりますように

2024年6月25日 10:45 PM

匿名さんからの応援メッセージ

テレビのニュースで見たので探してきました。
よくやった!感動した!!

2024年6月25日 11:35 PM

匿名さんからの応援メッセージ

これは大変勇気のいることだったでしょう。
それでもいじめとそれに関わる人間に立ち向かう姿に感動しました。

2024年6月26日 2:52 AM

匿名さんからの応援メッセージ

私は文春の記事を鵜呑みにして、学校の先生方を悪者と決めつけていました。
その事が恥ずかしいですし申し訳ない気持ちです。

学校の先生方はきちんと被害者に寄り添っていたと読み取れますし、
事実と異なる事を記事にされている加害少年達も一方で被害者と言えると思います。

一体誰のための何のための黒塗りだったのか。。

勇気を出して真実を公開して下さってありがとうございました。

2024年6月26日 8:35 AM

匿名さんからの応援メッセージ

あなたのYouTube Liveなどをよく拝見していました。
あの時、表立って言えないことがこんなにもあったのですね。
あなたの忍耐力に頭が下がります。

2024年6月28日 4:56 PM

匿名さんからの応援メッセージ

随分初期の頃から加害生徒とされる子・ご遺族の両方と繋がっておられたのですね
あなたがXで発信していたことの裏に様々な理由があったことを知りました
言葉が強かったり、一体何がしたいんだ…と思ったこともありましたが、理解できた気がします

2024年6月29日 8:04 PM

匿名さんからの応援メッセージ

2021年当時からふつざわさんの言葉を目にしており、自分なりに理解できたと思っていましたが
まだまだ知らなかった事ばかりで驚いています

いつの日だったか、あちらを立てるとこちらが立たなくなり悩むとどこかで言われていたように記憶しています

今回黒塗りなしの報告書を手にされて、相当悩まれたのではないかと想像しています

3年間見てきた中でこれだけは言えます

ふつざわさんは一貫して不当に叩かれている弱者の味方でした

これからも応援しております

2024年6月29日 8:35 PM

匿名希望さんからの応援メッセージ

黒塗り無しの報告書と内部告発を見て、事件の印象は全く変わりました。
いじめはあったものの、障害による特性と相まって起きた、事故に近い自死であったと認識しました。

加害児童と呼ばれる子達にも優しい面があり、何処にでも居る子供達なのだなと。

他にも知ってる嘘があれば告発してほしいです。
世論が変わるきっかけになると思います。

2024年6月30日 2:20 PM

匿名さんからの応援メッセージ

このサイトで今までの報道とは違う情報を知れてとても良かったです。
何があったのか、自殺だったのか家出だったのか、爽彩さんにしか分からない事ですが、苦悩を知り改善していく事が爽彩さんへの旭川市民として出来る誠意だと思っていました。
だから、某YouTuberに情報を提供した事もありました。
でも、彼は爽彩さんが売春させられていたとか加害児童と言われる子が暴力団と繋がっているとか、噂話をネットに流すだけ。
私にとっては、そんな証拠もない事をネットに流す事は爽彩さんの名誉を傷つける事、また爽彩さんへの誠意ではないと感じていました。
ただ、ネットでこのような意見を書けば加害児童の保護者か?と言われてしまうので。
一言言わせてください!
加害児童が何か今出ている情報よりもっと悪い事をしていても、あなた方の将来を潰していいとは思っていないし、爽彩さんもそんな事望んでいないと思っています。
あなた方が爽彩さんの事で反省や後悔をしていたら、他者に優しくしてあげてください。爽彩さんはきっと、それを望んでいますよ。
あなた方の将来を心配したり、少しでも健やかな毎日が送れる事を望んでいる旭川市民がいる事、お伝えしたかったです。

2024年7月1日 1:07 PM

いいじまさんからの応援メッセージ

自閉症スペクトラム障害の男児(8歳)父親です。
ウチの子もたまに「死にたい」とか衝動で飛び出したりします。

支援級や放課後等デイサービスに通って、今のところは協力いただきながらすくすくと育ってくれています。
成長すれば、色々と人間関係で出てくるかも知れません。

旭川事件は通りいっぺんの記事しか知りません。

ですが、
他人事とは思えず、大変勉強になりました。

ありがとうございます。

2024年7月1日 4:36 PM

匿名さんからの応援メッセージ

ふつざわさんの主張は、
発達障害を抱えている子が抱えていた本当の問題を理解しているからこそだと思うよ。

死にたくなるほど苦しんでいる子達に真剣に向き合ったことがない人達には分からないみたいだけれど、
孤独や理解されない苦しみこそが子供を死に至らしめる問題の本質だよ。

そもそも虐められても支えてくれる存在がいれば人は死を選ばない。

本件は、
支えるどころか自分達の都合を子供にも学校にも押し付けるばかりで、
子の認知を歪めに歪めて更に精神状態を悪化させた上に、
子供の孤立を更に深刻化させた人達が何故か被害者面し、
問題の解決に向き合っていた人達が不当に誹謗中傷されていることが問題。

2024年7月6日 9:33 AM

匿名さんからの応援メッセージ

「顔や名前が出てしまっているけど、遺族側から出てる情報だけでこんな状況おかしくないか?」と思っていても見て見ぬふりのいじめを続けていた私がいます
でも、ふつざわさんの話を見て考えが改まりました
ふつざわさんの話を一方的に信じているわけではなくて、爽彩さんが失踪したとの情報が出て以降、疑問に感じていた事がふつざわさんの話だと納得できる、一番辻褄が合うと感じたからです
だからって、今更私が声をあげても遅いのかも、見て見ぬふりをした時間は戻ってこない
爽彩さんの為にも、今 名前や顔を出てる人達の為にも、やっぱり私も動きます、ふつざわさんだけでなく私も。

2024年7月11日 3:04 PM

匿名さんからの応援メッセージ

陰ながら私も何か出来る事をしていきたいと思います。
優しい子ばかりが傷つくのは、もう嫌です…。

2024年7月14日 8:29 AM

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