はじめに
この記事は、誰かを責めるために書くものではありません。
また、以前関わっていた人たちに、私のところへ戻ってきてほしいという思いから書くものでもありません。
私と連絡を取る必要はありませんし、私の考えに賛同する必要もありません。
ただ、長い間この問題に関わり、関係する子どもたちや保護者とも接してきた人間として、現在の状況を見ていて、どうしても伝えておきたいことがあります。
それは、
今進んでいる方向が、本当に本人たちのためになっているのか、一度考えてほしい
ということです。
私は、争うことそのものが悪いとは考えていません。
事実ではないことを事実だと言われたのであれば、否定すればいい。
誤った情報によって名誉を傷つけられたのであれば、訂正を求めてもいい。
不当に重い責任を負わされようとしているのであれば、自分を守るために争うことも必要です。
私自身、争うべき場面では、きちんと争うべきだと考えています。
しかし、争うこと自体が目的になってはいけません。
誰と争うのか。
何のために争うのか。
どこまで争うのか。
そして、どこで争いを終わらせるのか。
その判断を誤れば、本来は誰かを守るために始めたはずの支援が、かえってその人から大切なものを奪ってしまうことがあります。
特に、まだ若い人を支援する大人には、そのことをよく考えてほしいと思っています。
本人の意思を尊重することは大切です。
しかし、本人が望んでいることを、そのまま実現することだけが支援ではありません。
人の意思は、周囲との関係や置かれている状況から影響を受けながら形成されます。
不安を抱えているとき。
怒りにとらわれているとき。
孤立しているとき。
そうした状況では、自分を支えてくれる大人の言葉が、普段以上に大きな影響を与えることがあります。
だからこそ、支援する側には、本人の背中を押すだけではなく、
「本当にこの方向でいいのか」
と立ち止まって考える責任があると、私は思っています。
そして、私が考える支援には、もう一つ大切な考え方があります。
それは、本人の経済的利益を最大化することを、支援の目的にしないということです。
生活を守ることは大切です。
過大な責任を負わせないことも大切です。
これからも続いていく人生を守るためには、できる限り経済的な安心を確保しなければなりません。
しかし、人が守るべきものは、お金や生活だけではありません。
自分が大切にしてきた気持ち。
人を思いやる心。
自分自身の良心。
認めるべきことを認めること。
謝りたいと思ったときに、きちんと謝れること。
そして、この問題では何よりも、
亡くなってしまった友達に対する想い。
私は、そうしたものを失わずに生きていけることも、その人にとって大切な利益だと考えています。
この記事では、それを「道徳的利益」と呼ぶことにします。
経済的利益を最大化するのではなく、これからの生活を守るための経済的安心と、人として大切なものを失わないための道徳的利益を、できる限り両立させる。
私は、それが支援の目指すべき方向だと思っています。
この記事では、なぜ私がそう考えているのか。
そして、なぜ今、この問題に関わっている人たちに、もう一度、自分たちが進んでいる方向を考えてほしいと思っているのか。
これまでの経緯を振り返りながら、私の考えを書いていきたいと思います。
目次
→ 本人の意思を尊重することは大切だが、本人が望んでいることを、そのまま実現することだけが支援ではない。不安や怒り、周囲との関係によって判断が揺れることもあるからこそ、支援する側には、その選択が将来まで含めて本当に本人のためになるのかを考え、必要であれば耳の痛いことを伝え、別の方向を示す責任がある。
→ その時点で本人が選んだことと、その人が本当に大切にしていることは、必ずしも一致しない。不安や怒り、孤立の中で考えが変わることもあるからこそ、現在の言葉だけを見るのではなく、以前何を悲しみ、誰を大切にし、何について申し訳ないと思っていたのかまで振り返り、自分の本意と現在の選択が一致しているのかを考える必要がある。
→ 賠償額を減らすことや、金銭的な損失をできるだけ小さくすることは、本人を守るために必要な場合がある。しかし、それだけを支援の目的にすれば、争いの中で良心や人間関係、大切にしてきた気持ちまで失わせることになりかねない。支援が守るべきなのは、目の前の金額ではなく、その人が問題の後も自分の人生を生きていける状態である。
→ 経済的安心とは、できるだけ支払わずに済ませることではなく、過大な負担によって生活や将来を壊されない状態を確保することである。負う必要のない責任からは守り、生活が成り立つ現実的な解決を求める一方で、必要な安心が確保された後まで、さらに有利な条件を求めて争い続けることは、本人の人生を守ることとは別の目的になっていく。
→ 人にとっての利益は、金銭だけでは測れない。自分に悪かったところがあれば認めること、謝りたい相手に謝れること、大切にしてきた人への気持ちや自分自身の良心を失わずに生きていけることにも、大きな価値がある。生活を守る「経済的安心」と、自分自身に嘘をつかずに生きるための「道徳的利益」を両立させることが、その人の人生にとってより良い解決につながる。
→ 自分の言動の一部に悪かったところがあったと認めることは、相手の主張をすべて認め、起きたことのすべてに責任を負うこととは違う。認めるべきことは認め、謝るべきことには向き合う一方で、事実ではないことや、自分が負うべき範囲を超えた責任については否定する。「全部認めるか、全部否定するか」ではなく、自分の責任を正確に切り分けることが必要である。
→ 「誰のせいでもない」とは、誰にも責任がないという意味ではない。それぞれが自分の認めるべきことには向き合いながら、誰か一人に出来事のすべてを背負わせ、相手を倒すまで責任を追及し続けることをやめようという提案である。完全に理解し合えなくても、互いに異なる認識があることを受け入れ、この辺で手打ちにして、それぞれの人生へ戻っていくことも解決の一つ。
→ 当事者同士の責任追及に区切りをつけることと、社会に広がった誤った情報を放置することは別の問題である。報道や情報提供の中に事実と異なるものがあったのであれば、発信した媒体や情報を提供した人物との間で、その出所や根拠を確認し、必要であれば訂正を求める。誰かを新たな敵にするためではなく、錯綜した情報を整理し、問題を終わらせるために法的手続を利用することには意味がある。
→ 法的手続は、利用できるから利用するのではなく、何を解決するために、誰に、何を求めるのかを考えて使うべきである。誤った報道を正したいのであれば報道機関や情報提供者との間で整理すればよく、別の相手との新たな争いを始めれば、その影響は他の当事者にも及び得る。目の前の勝敗だけでなく、その行動が問題全体をどこへ動かすのかまで考えなければならない。
→ 裁判で主張を認めさせることや、賠償額を減らすこと、相手に謝罪させることは「勝ち」と呼べるかもしれないが、それによって本人の人生が良い方向へ進むとは限らない。勝つことはあくまで手段であり、本当に目指すべきなのは、本人が問題から離れ、自分の生活へ戻れる状態をつくることである。完全な勝利を求めるより、「ここから先は求めない」と決めることが、解決につながる場合もある。
→ 必要なことを伝え、守るべきものを守り、一定の目的を果たした後も争いを続ければ、相手も自らを守るために動き始める。その結果、それまで表に出ていなかった責任まで検討され、守ろうとしていた本人に新たな負担が返ってくることもある。引くことは負けることではなく、これ以上進むことで得るものより失うものの方が大きくなると判断したときに、そこで止まることである。
→ まず守るべきなのは、過大な責任や負担によって人生を壊されないための「経済的安心」であり、そのために必要な防御は徹底して行えばいい。しかし、自分を守ることと、自分自身の問題から逃げることは違う。生活と将来を守ったうえで、認めるべきことには向き合い、申し訳ないと思う気持ちや人を思いやる心まで失わないことが、今求めるべき「道徳的利益」だと思う。
→ 私に連絡する必要も、私の考えに賛同する必要も、以前の人間関係に戻る必要もない。考えてほしいのは、誰かとの関係や目の前の勝ち負けではなく、自分が何を大切にしてきたのか、自分はどこまで責任を負うべきなのか、問題がすべて終わった後にどのような自分でいたいのかということである。私のところへ戻る必要はない。ただ、自分自身のところには戻ってほしい。
→ 事実ではないことには反論し、背負う必要のない責任からは自分を守ればいい。しかし、世間から浴びせられた心ない言葉への怒りと、亡くなった友達に対して抱いていた気持ちは分けて考えてほしい。悲しかったこと、申し訳ないと思ったこと、生きていてほしかったという想いまで争いの中で失わず、これからも一人の友達として想い続けること。それが、この問題において私が最も守ってほしい「道徳的利益」である。
第一章 支援とは、本人の望みを叶えることではない
支援という言葉を聞くと、本人の意思を尊重し、本人が望んでいることを実現するために力を貸すことだと考える人もいると思います。
もちろん、本人の意思を丁寧に聞くことは大切です。
しかし私は、本人が望んでいることを、そのまま実現することだけが支援だとは考えていません。
なぜなら、人はいつでも、自分にとって最も良い選択ができるわけではないからです。
不安を抱えているときには、目の前の不安から逃れることを優先してしまうことがあります。
怒っているときには、本来なら必要のない争いまで望んでしまうことがあります。
傷ついているときには、自分を守るために、それまでとは違う考え方をすることもあります。
特に、まだ若く、社会経験も十分ではない人の場合には、周囲の大人から受ける影響も小さくありません。
自分を助けてくれた人。
自分の話を聞いてくれた人。
自分の味方になってくれた人。
そうした人の言葉は、本人にとって大きな意味を持ちます。
だからこそ、支援する側は、自分の言葉や態度が本人の意思形成に影響を与えることを自覚しなければならないと思います。
私は、支援する人間には、本人を正しい方向へ導く責任があると考えています。
ここでいう「正しい方向」とは、支援する側にとって都合のよい方向ではありません。
本人の生活や将来を守りながら、その人が大切にしてきた良心や思いやりも守れる方向です。
本人が「こうしたい」と言ったから、その方向へ進ませればいい。
本人が「争いたい」と言ったから、一緒に争えばいい。
本人が「認めたくない」と言ったから、否定するための方法を考えればいい。
それだけでは、支援者としての責任を果たしたことにはならないと思います。
本人が望んでいることを聞いたうえで、
「その方向へ進むことが、本当に本人のためになるのか」
「その選択によって、何を得て、何を失うのか」
「今は納得していても、何年か後に振り返ったときに後悔しないか」
そこまで考えなければなりません。
そして、本人にとって良くない方向へ進もうとしていると判断したのであれば、私は支援する側がそれを止め、別の方向を示すことも必要だと思っています。
時には、本人が望んでいないことを伝えなければならないこともあるでしょう。
耳の痛いことを言わなければならないこともあります。
本人の反発を受けることもあると思います。
それでも、本人の将来にとって必要だと考えるのであれば、伝えるべきことは伝えなければならない。
それが、人の人生に関わる支援をする側の責任だと私は考えています。
ただし、ここには非常に大切な前提があります。
支援する側も、間違えるということです。
自分が正しいと思っている方向が、本当に正しいとは限りません。
善意があるから正しいとも限りません。
経験があるから間違えないわけでもありません。
だからこそ、自分の判断についても、常に疑い続けなければならないと思っています。
自分が見落としている事実はないか。
感情に引っ張られていないか。
誰かへの好悪によって判断が歪んでいないか。
本人にとっての利益ではなく、自分自身の勝ち負けや面子を優先していないか。
状況が変わったのに、以前決めた方向に固執していないか。
そうしたことを繰り返し考えながら、自分の判断を修正していく必要があります。
私は、支援とは、本人の希望を叶えるためのサービスではないと思っています。
本人と一緒に悩みながら、その人にとって何が最も良いのかを考え、必要であれば進む方向を示す。
そして、自分が示している方向そのものについても、本当に正しいのかを問い続ける。
その両方が必要です。
本人の意思を聞くこと。
正しい方向へ導こうとすること。
そして、自分自身も間違えるという前提に立ち続けること。
私は、この三つを欠かさないことが、人を支援するうえで大切だと考えています。
第二章 本人の意思と、本意は同じではない
人は、その時々の状況によって、自分が本当に大切にしているものとは違う選択をすることがあります。
不安が強ければ、目の前の不利益を避けることを優先することがあります。
怒りが強ければ、本来は大切にしていた相手への気持ちが見えなくなることもあります。
傷ついていれば、自分を守るために、それまでとは違う考え方を選ぶこともあるでしょう。
だから私は、その時点で本人が口にしている言葉や、選んだ方針だけを見て、それをその人の本意だと考えるのは危険だと思っています。
もちろん、人の考えは変わります。
新しい事実を知れば、以前とは違う判断をすることもあります。
経験を重ねる中で、価値観そのものが変化することもあります。
ですから、考えが変わったというだけで、その変化を否定するつもりはありません。
ただし、大きく方向が変わったのであれば、その変化がどこから生まれたのかは考える必要があります。
以前は何を大切にしていたのか。
何を悲しいと感じていたのか。
誰に対して、どのような気持ちを持っていたのか。
何について申し訳ないと思っていたのか。
何を守りたいと考えていたのか。
そうした、それまで積み重ねてきた言葉や感情まで含めて見なければ、その人の本意は分からないと思います。
その時に本人が選んだことと、その人が本当に大切にしていることは、必ずしも一致しません。
例えば、本当は誰かに対して申し訳ないという気持ちを持っていたとしても、責められ続ける中で怒りが強くなれば、その気持ちを表に出せなくなることがあります。
本当は争いを終わらせたいと思っていても、ここで引けば負けだと感じるようになれば、争い続けることを選ぶかもしれません。
本当は相手との間に何らかの折り合いをつけたいと思っていても、周囲との関係を壊したくないという気持ちから、別の方向を選ぶこともあります。
その選択が本人自身のものであることと、その選択が本人の本意に沿っていることは、同じではありません。
もちろん、その人の本意を、周囲の人間が外から断定できるわけではありません。
大切なのは、過去の自分の言葉や感情と現在の選択を、本人自身がもう一度照らし合わせてみることだと思っています。
私は、「本意」というものは、現在の言葉だけではなく、その人が長い時間をかけて大切にしてきた気持ちの中にも表れるものだと思っています。
だからこそ、現在の考えだけを切り取るのではなく、それまでの経緯も振り返る必要があります。
以前の自分の言葉と、今の自分の言葉。
以前大切にしていた気持ちと、今選ぼうとしている行動。
その二つの間に大きな隔たりがあるのであれば、なぜそうなったのかを一度考えてみる。
それは、過去の考えに戻れという意味ではありません。
以前の自分が常に正しかったという意味でもありません。
ただ、今の自分の選択が、自分自身の大切にしてきたものと本当に一致しているのかを確かめるためです。
私は、本人の本意を考えるときには、その瞬間の意思だけではなく、これまで積み重ねてきた感情や言葉、そしてその人が本来大切にしてきたものまで見なければならないと思っています。
現在表明されている意思を尊重することと、その人の本意を理解することは、同じではありません。
だからこそ、その人が何を選んだのかだけではなく、何を大切にして生きてきたのかを見ることが大切なのだと思います。
第三章 支援とは、経済的利益を最大化することではない
人を支援するとき、その人にとっての「利益」を考えることは大切です。
特に、金銭が関係する問題では、できるだけ多くのお金を得ることや、できるだけ支出を少なくすることが、本人の利益であるように見えることがあります。
損害賠償を請求する側であれば、少しでも多くの金額を得ようとする。
反対に、請求される側であれば、少しでも支払う金額を減らそうとする。
法律上可能なのであれば、そのような判断をすること自体がおかしいわけではありません。
しかし私は、それを支援の最終的な目的にしてはいけないと思っています。
なぜなら、人間にとっての利益は、お金だけではないからです。
仮に、争い続けることで支払う金額を減らすことができたとしても、その過程で大切な人との関係を完全に壊してしまうかもしれません。
自分が本当は認めるべきだと思っていたことまで否定し続けることになるかもしれません。
長い争いの中で怒りや憎しみが膨らみ、それまで大切にしていた気持ちまで失ってしまうこともあります。
そうなったとき、金銭的には得をしたとしても、その人の人生全体を見て、本当に利益を得たと言えるのか。
私は、そこまで考える必要があると思っています。
これは、金銭を軽視しているという意味ではありません。
生活していくためには、お金が必要です。
過大な負担を背負えば、その後の人生にも大きな影響が及びます。
だからこそ、支援する側は、本人の生活が壊れないように守らなければなりません。
ただ、そのために必要なことと、経済的利益を最大限まで追求することは同じではありません。
例えば、本人の生活を守るために必要な減額を求めることと、支払わずに済む可能性があるからという理由だけで、認めるべきことまですべて否定することでは、目的が違います。
本人が将来困らないようにすることと、目の前の金銭的な損失を可能な限り小さくすることも、同じではありません。
支援する側が数字だけを見てしまうと、その違いを見失いやすくなります。
「いくら取れるのか」
「いくら減らせるのか」
「勝てるのか、負けるのか」
そうしたことばかりを考えるようになると、いつの間にか、本人の人生よりも争いの結果そのものが重要になってしまうことがあります。
しかし、支援の目的は、裁判や交渉で最も有利な結果を得ることではありません。
その人が、その後も自分の人生を生きていける状態をつくることだと、私は考えています。
だから私は、本人にとって何が一番得なのかを考えるとき、金額だけを基準にはしません。
その選択によって生活を守れるのか。
将来に必要以上の負担を残さずに済むのか。
自分自身の良心を損なわずに済むのか。
大切にしてきた気持ちを失わずに済むのか。
可能であれば、傷ついた人との間に折り合いをつけることができるのか。
そうしたものを一緒に考える必要があります。
私は、支援とは経済的利益を最大化することではないと思っています。
目指すべきなのは、本人がこれから生活していくために必要な安心を守りながら、お金では測ることのできない大切なものも失わせないことです。
そのために必要なのが、私の考える「経済的安心」と「道徳的利益」です。
次章では、まず「経済的利益」と「経済的安心」が、どのように違うのかについて書いていきたいと思います。
第四章 経済的安心と経済的利益は違う
前章では、支援の目的を経済的利益の最大化に置くべきではないと書きました。
では、私が大切にしている「経済的安心」とは何なのか。
私は、経済的安心とは、本人がこれから生活していくうえで、必要以上の不安や負担を抱えずに済む状態を確保することだと考えています。
生活費を失わないこと。
住む場所を失わないこと。
将来の生活設計が壊れないこと。
支払いによって人生そのものが立ち行かなくならないこと。
こうしたことは、支援するうえで非常に重要です。
特に、まだ若く、これから長い人生を生きていかなければならない人に対して、過大な経済的負担を負わせることには慎重であるべきだと思っています。
だから私は、必要以上に高額な賠償を求められているのであれば、減額を求めてもいいと思っています。
本人が負うべき範囲を超えた責任まで求められているのであれば、そこは争うべきです。
支払いによって生活そのものが成り立たなくなるのであれば、現実的な支払方法について話し合うことも必要です。
私は、そうした対応を否定しているわけではありません。
むしろ、それこそが本人の生活を守るために必要な支援だと思っています。
ただし、ここで大切なのは、経済的安心と経済的利益では、目指しているものが違うということです。
経済的安心は、本人の生活と将来を守ることを目的としています。
一方、経済的利益の最大化には、際限がありません。
例えば、生活を守るために必要な範囲まで負担を減らすことと、払わずに済むのであれば可能な限り払わないことは、同じではありません。
前者の目的は、本人の生活を守ることです。
後者の目的は、本人の経済的な損失をできる限り小さくすることです。
似ているように見えますが、私は、この二つを分けて考える必要があると思っています。
経済的利益だけを考えるのであれば、支払う金額は少なければ少ないほど得になります。
ゼロにできるのであれば、ゼロが最も有利です。
反対に、お金を受け取る側であれば、多ければ多いほど得になります。
しかし、人の人生は、それほど単純ではありません。
仮に、ある程度の負担を受け入れたとしても、それによって問題に区切りをつけ、その後の人生を穏やかに生きられるのであれば、その選択には大きな意味があります。
反対に、金銭的な負担をさらに減らすために何年も争い続け、その間ずっと人間関係や過去の出来事に縛られ続けるのであれば、数字の上では得をしていても、人生全体では大きなものを失うかもしれません。
だから私は、
「最も安く済む方法は何か」
ではなく、
「本人の生活を守るためには、どこまで守る必要があるのか」
と考えることが大切だと思っています。
ここには、大きな違いがあります。
経済的安心を目指すのであれば、本人の生活が守られ、将来を再び組み立てられるところまで支えればいい。
しかし、経済的利益を最大化しようとすれば、その先にも争う理由を見つけることができます。
もう少し減らせるかもしれない。
もう少し有利な条件を引き出せるかもしれない。
まだ相手の主張を崩せるかもしれない。
そうしているうちに、いつの間にか、「生活を守るために争っていた」という最初の目的が見えなくなってしまうことがあります。
私は、支援する側が、そこを見失ってはいけないと思っています。
必要なものは守る。
背負う必要のないものは背負わせない。
生活が壊れないようにする。
しかし、本人が生活していくために十分な安心が確保できたのであれば、その先まで経済的利益だけを追い続ける必要があるのかを、一度考える。
その判断が必要です。
経済的安心とは、本人が「得をすること」ではありません。
本人が、これからの人生を続けていけるだけの土台を守ることです。
そして私は、その土台さえ守ることができれば、次に考えるべきなのは、どれだけ金銭的に得をするかではなく、その人が人として何を大切にして生きていくのかだと思っています。
それが、次章で書く「道徳的利益」という考え方につながります。
第五章 道徳的利益という考え方
前章では、「経済的安心」と「経済的利益」は同じではないと書きました。
では、経済的安心が確保された後に、何を大切にすべきなのか。
私は、そこで考える必要があるのが「道徳的利益」だと思っています。
道徳的利益という言葉は、一般的な法律用語として使っているわけではありません。
この記事では、人が自分自身の良心や、大切にしてきた気持ちを失わずに生きていくことで得られる利益を、そのように呼ぶことにします。
人は、金銭的に得をすれば、それだけで幸せになれるわけではありません。
反対に、多少の負担を受け入れたとしても、自分自身が納得できる選択をしたことで、その後の人生を穏やかに生きられることもあります。
例えば、自分に悪かったところがあったと思うのであれば、それを認める。
謝りたいと思っているのであれば、謝る。
自分がしていないことまで責任を負わされそうなのであれば、それは否定する。
相手に対して大切な気持ちが残っているのであれば、その気持ちまで捨てない。
私は、そうした選択をすることには、金銭では測ることのできない大きな利益があると思っています。
それは、誰かから「立派だ」と評価されるためのものではありません。
世間から褒められるためでもありません。
自分自身が、自分の過去や選択と向き合いながら生きていくために必要なものです。
争いの中にいると、物事はどうしても「勝つか、負けるか」という形で捉えられやすくなります。
認めれば負け。
謝れば負け。
譲れば負け。
相手の言い分を一部でも受け入れれば不利になる。
そのように考え始めると、本来は自分自身の良心から生まれていた気持ちまで、争いの邪魔になるものとして扱われることがあります。
しかし私は、その考え方には違和感があります。
自分が悪かったと思っていることを認めることは、必ずしも敗北ではありません。
申し訳ないと思う気持ちを持ち続けることも、弱さではありません。
相手に対して大切な感情が残っているのであれば、それを守ることも、その人自身の人生にとって大切なことです。
むしろ、目の前の争いで有利になるために、自分が本当に感じていたことまで否定し続ければ、後になって別の苦しさを抱えることになるかもしれません。
争いが終わった後にも、自分自身とは付き合い続けなければならないからです。
裁判や調停には、いつか終わりが来ます。
周囲にいた支援者も、いつまでもそばにいるとは限りません。
世間の関心も、いずれ薄れていきます。
しかし、自分がそのとき何を選んだのかという記憶は、その後も本人の中に残ります。
だからこそ私は、目の前の有利不利だけではなく、
「この選択を、何年か後の自分はどう思うだろうか」
という視点を持つことが大切だと思っています。
自分が認めるべきだと思っていたことまで否定してしまわなかったか。
本当は謝りたかった相手に、意地を張り続けてしまわなかったか。
誰かに対して持っていた大切な気持ちを、争いの中で失ってしまわなかったか。
そうしたことは、判決や和解金の金額には表れません。
しかし、その後の人生には大きく残ります。
私は、それこそが道徳的利益だと思っています。
もちろん、道徳的利益を守るために、生活を犠牲にしろという意味ではありません。
自分の生活が成り立たなくなるほどの責任を背負う必要はありませんし、事実ではないことまで認める必要もありません。
だからこそ、私は「経済的安心」と「道徳的利益」の両方が必要だと考えています。
生活を守りながら、良心も守る。
必要以上の責任から自分を守りながら、認めるべきことからは逃げない。
将来の生活を守りながら、自分が大切にしてきた気持ちも守る。
その両方をできる限り失わない方向を探すことが、支援する側にも求められていると思います。
金銭的に最も有利な解決と、その人の人生にとって最も良い解決は、必ずしも一致しません。
だから私は、支援するときには「いくら得をしたか」だけではなく、
「その人が、自分自身を大切にしたまま次の人生へ進めるか」
ということまで考える必要があると思っています。
そして、この問題において私が最も守ってほしいと思っている道徳的利益が何なのかについては、この記事の最後で改めて書きたいと思います。
第六章 認めることと、全面的に責任を負うことは違う
争いの中では、物事が極端な二択として捉えられやすくなります。
認めるのか。
否定するのか。
謝るのか。
争うのか。
しかし実際には、その間にいくつもの選択肢があります。
私は、何か一つの事実を認めたからといって、相手の主張をすべて受け入れなければならないとは考えていません。
自分に悪かったところがあったと認めたからといって、すべての責任を負わなければならないわけでもありません。
反対に、相手の主張の中に誤りがあるからといって、自分が本当に認めるべきだと思っていることまで、すべて否定する必要もありません。
大切なのは、一つ一つを分けて考えることです。
自分が実際にしたことは何なのか。
していないことは何なのか。
その行為によって、どのような影響が生じたのか。
自分にはどこまで責任があるのか。
そして、どこから先は自分の責任ではないのか。
そこを丁寧に整理する必要があります。
例えば、自分の言動の一部について「これは良くなかった」と思うのであれば、その部分については認めればいいと思います。
相手を傷つけたと思うのであれば、そのことについて謝ることもできます。
しかし、それは、相手の説明している出来事のすべてが正しいと認めることとは違います。
自分の行為と、その後に起きたすべての出来事との間に責任があると認めることとも違います。
何かを認めることと、全面的な責任を引き受けることは、別の話です。
ところが、争いが長くなると、この区別が見えにくくなることがあります。
少しでも認めれば不利になる。
謝れば責任を認めたことになる。
一部でも譲れば、すべてを押し付けられる。
そのような不安が強くなると、自分自身が本当は認めてもよいと思っていたことまで、否定する方向へ傾いてしまうことがあります。
しかし私は、それでは本人を守ることにならない場合もあると思っています。
もちろん、法的な手続では、発言の仕方や認める範囲について慎重になる必要があります。
何をどのように述べるかによって、その後の判断に影響が出ることもあります。
だから、感情だけで何でも認めればよいと言いたいわけではありません。
それでも、法的な有利不利だけを理由に、自分自身が事実だと考えていることや、本当に申し訳ないと思っていることまで否定し続けるのであれば、別の問題が生まれると思っています。
前章で書いた「道徳的利益」が、そこで失われる可能性があるからです。
私は、
「全部認めるか、全部否定するか」
という考え方そのものから離れた方がよいと思っています。
認めるべきことは認める。
否定すべきことは否定する。
責任を負うべきところでは責任を負う。
しかし、必要以上の責任までは負わない。
そのように、一つ一つを切り分けて考えることが大切です。
これは、責任を曖昧にするためではありません。
むしろ、自分の責任を正確に引き受けるために必要なことです。
すべてを否定してしまえば、本当に向き合うべき部分まで見えなくなります。
反対に、すべてを自分の責任として受け入れてしまえば、本来背負う必要のないものまで背負うことになります。
どちらも、私は正しい向き合い方ではないと思っています。
本人にとって大切なのは、自分が何をしたのかを正確に振り返り、その中で認めるべきものと、認める必要のないものを分けることです。
そして、その結果として必要な謝罪や責任があるのであれば、それには向き合う。
一方で、事実と違うことや、過大な責任については、きちんと否定し、必要な防御をする。
その両方を同時に行うことはできます。
認めることは、全面降伏ではありません。
否定することも、無責任であるとは限りません。
私は、その中間にこそ、本当に本人を守りながら、本人の良心も守る解決があると思っています。
第七章 「誰のせいでもない」
私は、この問題について「誰のせいでもない」という言葉を使ってきました。
この言葉だけを見ると、「誰にも責任がないと言っているのか」と受け取られるかもしれません。
しかし、私が言いたかったことは、そういうことではありません。
誰かが間違ったことをしたのであれば、その行為については向き合う必要があります。
学校や家庭に問題があったのであれば、その問題は検証されるべきです。
関係する生徒に良くなかった行為があったのであれば、それについて考える必要があります。
遺族にも、学校にも、関係する生徒や保護者にも、それぞれの立場から見える事実や、それぞれが抱えている思いがあります。
私は、それらをすべて消して、「誰も悪くなかった」という結論にしたかったわけではありません。
私が「誰のせいでもない」と言ったのは、この出来事を誰か一人の責任に集約し、その人を責め続けることで解決しようとすることに、限界を感じていたからです。
この問題では、長い間、さまざまな情報が社会に広がりました。
その中には、学校側や関係する生徒たちに極めて厳しい評価を向けるものもありました。
その後、報告書が公開され、さらにシンポジウムなどを通じて、学校側がどのように考えていたのかについても、社会に伝わる機会が生まれました。
私は、その段階で、学校側から伝えるべきことも相当程度伝わったと考えていました。
それまで十分に知られていなかった事情や、学校側から見た問題点についても、少なくとも以前よりは社会に届くようになったと思っていました。
だからこそ、私は、そこからさらに相手を責め続けるのではなく、そろそろ折り合いをつける段階に進むべきではないかと考えるようになりました。
それが、「誰のせいでもない講演会」で伝えたかったことの一つです。
簡単に言えば、
「この辺で手打ちにしよう」
ということです。
もちろん、過去に起きたことを忘れろという意味ではありません。
間違ったことを、なかったことにするという意味でもありません。
それぞれが、自分の認めるべきことには向き合う。
事実ではないと考えることについては、必要であれば訂正を求める。
しかし、そのうえで、誰かを倒すことを目的とした争いからは離れていく。
私は、そのような着地点を考えていました。
争いには、始めなければならないときがあります。
声を上げなければ、誰にも伝わらないこともあります。
一方で、伝えるべきことが伝わった後には、争いを終わらせるための判断も必要になります。
いつまでも相手を追い続ければ、新しい事実が明らかになるとは限りません。
むしろ、互いの怒りが強くなり、それまで以上に相手を敵として見るようになることもあります。
そうなれば、本来であれば折り合いをつけられたはずの人たちまで、さらに遠く離れてしまいます。
私は、それを望んでいませんでした。
遺族と学校。
遺族と関係する生徒や保護者。
それぞれの間に、完全な理解や許しが生まれなくても構わないと思っています。
すべての人が同じ結論にたどり着く必要もありません。
それでも、
「自分はこう認識している。しかし、相手には相手の認識や事情がある」
というところまで戻ることができれば、争いを終えることはできます。
私は、そのために「誰のせいでもない」という言葉を使いました。
責任を消すための言葉ではありません。
誰か一人にすべてを背負わせることをやめ、それぞれが自分の責任と向き合ったうえで、これ以上の争いを増やさないための言葉です。
私にとって「誰のせいでもない」は、過去を曖昧にするための結論ではなく、これから先へ進むための提案でした。
そして当時の私は、学校側の意見も社会に届き始めた今だからこそ、その提案をする意味があると考えていました。
争い続けることよりも、折り合いをつけること。
相手を打ち負かすことよりも、それぞれが自分の人生へ戻っていくこと。
私は、この問題が次に進むためには、そうした方向が必要だと思っていました。
第八章 間違った情報まで放置しろと言ったわけではない
前章で書いたように、私は、遺族、学校、関係する生徒や保護者の間で続いてきた責任追及については、そろそろ折り合いをつけるべきだと考えていました。
報告書が公開され、シンポジウムなどを通じて学校側の意見も社会に伝わるようになった以上、この問題をさらに当事者同士の争いとして拡大していくのではなく、一つの区切りをつけるべきだと思っていたからです。
しかし、それは、社会に広がった情報についてまで、何も整理せずに終わらせればいいという意味ではありません。
私の中では、この二つは別の問題でした。
当事者同士の責任追及には、どこかで区切りをつける。
その一方で、事実と異なる情報が社会に残っているのであれば、その情報がどこから生まれ、どのように広がったのかについては、必要な整理をする。
私は、そのように考えていました。
例えば、文春やNHKによる報道の中に、事実関係を誤って伝えた部分があると考えるのであれば、その点について検証し、必要であれば訂正を求める。
報道機関に誤った情報を提供した人物がいると考えるのであれば、どのような情報が、誰から、どのような形で提供されたのかを確認する。
また、事実関係について誤った印象を与えるような発言をした人物がいるのであれば、その発言が何を根拠としていたのかを明らかにする。
そうした問題については、必要であれば訴訟という手段を使って整理することも考えるべきだと思っていましたし、今でもその考えは変わっていません。
ただし、私がそこで求めていたものは、金銭ではありません。
できるだけ多くの賠償金を得ることでも、相手を懲らしめることでもありません。
私が必要だと思っていたのは、錯綜した情報を整理し、何が事実で、何が事実ではなかったのかを可能な限り明らかにすることです。
この問題では、多くの情報が短期間のうちに社会へ広がりました。
その過程で、誰かの推測が事実であるかのように扱われたり、一部の情報だけが切り取られることで、実際とは異なる印象が形成されたりすることもあったと私は考えています。
そして、一度広く定着した印象は、後から別の情報が示されたとしても、簡単には消えません。
だからこそ、当事者同士の争いを終わらせることと、誤った情報を整理することは、分けて考える必要があります。
むしろ、争いを終わらせるためにも、整理すべき情報は整理しておいた方がいい場合があります。
何が起きたのかについて共通の土台がないままでは、それぞれが異なる事実認識を持ったまま、いつまでも相手に対する不信を抱え続けることになるからです。
その意味で、私は訴訟にも役割があると考えていました。
裁判をすれば、すべての真相が明らかになるわけではありません。
裁判所が判断する範囲にも限界があります。
それでも、公的な手続の中で双方が主張を出し、証拠を示し、それぞれの言い分を整理することには意味があります。
少なくとも、SNS上の噂や断片的な情報だけで物事が決められていくよりも、何を根拠として主張しているのかを明確にすることができます。
遺族、学校、関係する生徒や保護者の間では、必要な責任に向き合ったうえで折り合いをつける。
その後に残った誤情報については、その情報を発信した者や提供した者との間で、必要な範囲に限って整理する。
そうすることで、誰かを新たな敵にするのではなく、問題そのものを少しずつ終わらせていく。
私は、そのような進み方が望ましいと考えていました。
大切なのは、訴えるか、訴えないかという二択ではありません。
何を解決するために、誰を相手として、どこまで法的な手続を利用するのか。
そこを見誤らないことです。
そして私は、当事者同士の争いには区切りをつけながら、社会に残された誤った情報については必要な整理を続けることが、この問題を終わらせるための現実的な道だったと思っています。
第九章 誰に、何を求めるのかを間違えてはいけない
前章では、遺族、学校、関係する生徒や保護者の間で続いてきた責任追及には区切りをつける一方で、社会に残された誤った情報については、必要な整理を続けるべきだと書きました。
私の中では、この二つは明確に分かれていました。
当事者同士の関係については、これ以上、互いに責任を追及し続けるのではなく、それぞれが認めるべきことに向き合ったうえで、折り合いをつける。
一方、社会に広がった情報の中に事実と異なるものがあるのであれば、その情報を発信した媒体や、情報を提供した人物などに対して、訂正や説明を求める。
必要であれば、法的手続を利用して事実関係を整理する。
私は、そのように問題を分けて考えていました。
大切なのは、法的手続を利用すること自体ではありません。
誰に対して、何を求めるのか。
その選択を間違えないことです。
例えば、報道された内容に誤りがあると考えるのであれば、その報道を行った媒体に訂正を求めることには意味があります。
報道機関に誤った情報を提供した人物がいると考えるのであれば、その情報がどのような根拠に基づいていたのかを確認することにも意味があります。
また、事実関係について誤った印象を社会に与えるような発言があったのであれば、その発言について説明や訂正を求めることも考えられます。
私が必要だと思っていたのは、そのような情報の整理でした。
ところが、「誰のせいでもない講演会」の後も、この問題をめぐる動きは続きました。
2025年8月24日には、福田ますみさんを招いた『でっちあげ』講演会が開催され、福田さんと元校長による旭川女子中学生凍死事件についての対談も行われました。
ここで誤解のないように書いておきますが、私は、福田さんが取材や講演を通じて、自ら確認した事実や見解を社会に伝えることを問題だとは考えていません。
これまで十分に知られていなかった事実や、異なる立場から見た問題を社会に伝えることには意味があります。
私が考えたいのは、そこから先に、どのような方法で問題を整理していくのかということです。
『でっちあげ』講演会の二日後にあたる2025年8月26日、今津市長は、市長選に向けた公開討論会において、元校長について「いまだに反省の色を一つも見せていない」などと発言したとされています。
さらに、同年9月4日の個人演説会でも、元校長に対する厳しい評価を含む発言をしたとされています。
これを受けて、元校長は2026年1月23日、自らの名誉を傷つけられたとして、今津市長に対し、200万円の損害賠償や謝罪広告などを求め、旭川地方裁判所に提訴しました。
もちろん、自分の名誉を不当に傷つけられたと考えた人が、法的な救済を求めること自体を否定するつもりはありません。
問題は、
「誰に対して、何を求めるのか」
ということです。
私が法的手続によって整理した方がよいと考えていたのは、この問題が全国的に注目される過程で広がった、事実関係や情報の出所についてでした。
これに対して、市長の「反省の色を一つも見せていない」といった発言は、元校長の態度に対する評価を含むものです。
少なくとも、私が整理する必要があると考えていた「何が起きたのか」「どの情報がどこから生まれたのか」という問題とは、性質が異なると考えています。
私が整理したかったのは、
何が事実だったのか。
どの情報が、どこから出てきたのか。
誰が、どのような根拠に基づいて情報を提供したのか。
報道される過程で、どのような情報が加わり、どのような印象が形成されていったのか。
ということです。
そこを整理することで、学校や関係する生徒たちについて社会に残された誤った認識を、少しずつ正していく。
私は、そのために法的手続を利用することには意味があると考えていました。
一方、市長を相手に損害賠償や謝罪広告を求める訴訟を起こせば、市との間に新たな法的対立が生じます。
しかも、この問題には元校長だけが関わっているわけではありません。
遺族がいます。
関係する生徒たちがいます。
その保護者がいます。
学校関係者がいます。
市や教育委員会も関わっています。
一つの法的手続を始めれば、その影響が別の当事者や別の問題に及ぶ可能性も考えなければなりません。
そして、2026年3月になると、新たな問題が現実味を帯びるようになりました。
遺族と旭川市との損害賠償請求訴訟が和解に向かう中、市議会では、市が負担することになる賠償金について、当時の教員や関係生徒らに求償するべきではないかという議論が出るようになりました。
3月26日に遺族と市との和解が成立すると、その日の市長記者会見では、当時の教育委員会職員、学校職員、関係生徒に対する求償について、教育委員会が検討していることが明らかにされました。
もちろん、元校長が市長を提訴したことによって、求償の検討が始まったと断定することはできません。
求償の話が具体化した背景には、遺族と市との訴訟が和解に至り、市に現実の金銭的負担が生じることになったという事情があります。
私は、この二つを単純な原因と結果として結び付けたいわけではありません。
ただ、私が「この辺で手打ちにした方がいい」と考えていた頃には、元教員や関係生徒への求償が、これほど具体的な問題として表面化していたわけではありませんでした。
それが、その後、2026年3月には、当時の教育委員会職員、学校職員、関係生徒に対する求償が、現実の検討事項として示される状況になりました。
私は、この経過を軽く見るべきではないと思っています。
法的手続を利用するときには、目の前の一つの問題だけを見ればよいわけではありません。
その手続によって何が明らかになるのか。
何を得ることができるのか。
その一方で、どのような問題が新たに生じる可能性があるのか。
関係するほかの人たちに、どのような影響が及ぶのか。
そこまで考える必要があります。
私が「誰のせいでもない講演会」の頃に考えていたのは、この問題を一つずつ終わらせていくことでした。
報告書が公開され、シンポジウムなどを通じて、学校側の意見も社会に届くようになった。
それなら、遺族、学校、関係する生徒や保護者との間では、必要な責任に向き合いながら折り合いをつける。
そのうえで、社会に残された誤った情報については、その情報を発信した者や提供した者との間で、必要な整理を行う。
私は、その方が関係する人たちを守りながら、この問題を終わらせることにつながると考えていました。
法的手続には、それぞれ目的があるはずです。
利用できるから利用するのではなく、何を解決したいのかを最初に考える。
そして、その目的に合った相手に、必要な範囲の対応を求める。
誰に、何を求めるのか。
その判断を間違えないことが、とても大切だと思っています。
それが、次章で書く「勝つことと、解決することは違う」という話につながります。
第十章 勝つことと、解決することは違う
問題が長く続くと、いつの間にか「解決すること」よりも「勝つこと」が目的になってしまうことがあります。
裁判で勝つ。
相手の主張を退ける。
自分たちの主張を認めさせる。
賠償額を減らす。
相手に謝罪させる。
そうした結果は、その一つ一つを見れば、確かに「勝ち」と呼べるのかもしれません。
しかし私は、勝つことと、問題が解決することは同じではないと思っています。
法的な手続では、どうしても勝敗が意識されます。
どちらの主張が認められたのか。
どちらに有利な判断が出たのか。
いくら支払うことになったのか。
そうした結果は分かりやすいため、そこだけを見れば、誰が勝って誰が負けたのかを語ることもできます。
ただ、その結果によって、関係する人たちの人生が良い方向へ進んだかどうかは、別の問題です。
例えば、裁判で自分の主張が認められたとしても、それによって長く続いた対立が終わるとは限りません。
相手に謝罪させたとしても、お互いの感情が整理されるとは限りません。
金銭的な負担を減らすことができても、その過程で大切にしていた気持ちまで失ってしまえば、その人にとって本当に良い結果だったのかは分かりません。
反対に、すべての主張が認められなくても、問題に区切りをつけ、その後の生活へ進めるのであれば、それを単純な「負け」と呼ぶ必要もないと思います。
私は、人を支援するときには、目の前の勝敗よりも、その先を見る必要があると考えています。
その結果によって、本人の生活は安定するのか。
問題から少しずつ離れられるようになるのか。
大切な人との関係に折り合いをつけられるのか。
自分自身の良心に反することをせずに済むのか。
何年か後に振り返ったときに、「あのとき、あの選択をしてよかった」と思えるのか。
裁判で勝つことが本人の人生にとって良い結果につながるのであれば、勝つことを目指してもいいと思います。
しかし、勝つことによって別の大切なものを失うのであれば、その勝利にはどれだけの意味があるのかを考えなければなりません。
特に注意しなければならないのは、「勝てそうだから続ける」という考え方です。
勝てる可能性があることと、勝つことが本人のためになることは別です。
法的に有利な材料がある。
相手の主張を崩せる可能性がある。
さらに有利な結果を得られるかもしれない。
そのような状況になると、続ける理由はいくらでも見つかります。
しかし、支援する側が考えるべきなのは、
「まだ勝てるか」
ではなく、
「これ以上続けることが、本当に本人のためになるのか」
ということだと思います。
これは、裁判だけの話ではありません。
講演会や情報発信についても同じです。
自分たちの意見が社会に届いたのであれば、それ自体が一つの成果です。
それまで一方的だった情報に別の視点を示すことができたのであれば、それにも意味があります。
しかし、その成果をさらに大きくしようとして、相手を打ち負かすことまで目標にしてしまえば、最初に目指していたものとは違う方向へ進むことがあります。
私は、「どちらが正しいのか」を最後まで決めなければ、問題は終わらないとは考えていません。
すべての人が同じ事実認識を持つ必要もありません。
完全に納得し合う必要もありません。
互いに認められない部分を残したままでも、
「ここまでは認める」
「ここから先は意見が違う」
と整理し、それ以上の責任追及をやめることはできます。
それも一つの解決です。
むしろ、長く続いた問題ほど、完全な勝利を求めるよりも、どこで折り合いをつけるのかを考える方が大切になることがあります。
完全に勝とうとすれば、相手も完全に負けないために動きます。
こちらが相手の責任を強く問えば、相手もこちら側の責任を強く問うようになります。
その結果、最初は限られていた問題が、さらに広がっていくこともあります。
だから私は、勝敗を目的にしてはいけないと思っています。
勝つことは、必要な場合もあります。
しかし、それはあくまでも手段です。
最終的な目的は、本人が問題から少しずつ離れ、自分の人生を生きられるようになることです。
そして、関係する人たちが、それぞれの立場から過去に向き合いながらも、いつまでも同じ問題に縛られ続けない状態をつくることです。
私が支援するうえで考えたいのは、
「どちらが勝ったのか」
ではありません。
「この結果によって、本人は少しでも幸せに近づいたのか」
ということです。
勝てるかどうかと、勝つことが本人のためになるかどうかは違います。
そして、解決するためには、ときに「これ以上は求めない」という判断も必要になります。
私は、その判断ができることも、支援する人間に求められる大切な役割だと思っています。
第十一章 引き際を誤れば、しっぺ返しを食う
物事には、引き際があります。
必要なことを伝え、守るべきものを守り、ある程度の目的を達成したのであれば、その先へ進むことが本当に必要なのかを考えなければなりません。
まだ動けるから動く。
まだ反論できるから反論する。
まだ責任を問えるから問い続ける。
そうしているうちに、最初に守ろうとしていたものよりも、目の前の勝ち負けや意地の方が大きくなってしまうことがあります。
そして、引き際を誤ると、思わぬところからしっぺ返しを食うことがあります。
こちらが何かをすれば、相手もそれに応じて動きます。
こちらが責任を問えば、相手もこちら側の責任を確認しようとします。
こちらが過去の問題をもう一度持ち出せば、それまで表に出ていなかった問題まで、改めて検討されることがあります。
物事は、自分に都合の良い方向にだけ動くものではありません。
一つの行動には、必ず何らかの反応があります。
そして、その反応が、自分ではなく、自分が守ろうとしていた人に返ってくることもあります。
私は、その可能性まで考えて行動する必要があると思っています。
もちろん、これは何もしない方がいいという話ではありません。
必要なことは、必要なときに行えばいい。
ただ、目的を達成した後まで続ける必要はありません。
むしろ、そこで止まれるかどうかが大切です。
引き際とは、負けることでも、逃げることでもありません。
これ以上進むことで得られるものより、失うものの方が大きくなると判断したときに、そこで止まることです。
まだ先へ進める。
でも、進まない。
その判断には、勇気が必要です。
続けることより、終わらせることの方が難しい場合もあります。
守るべき人がいるのであれば、なおさら引き際を誤ってはいけません。
支援する側が考えるべきなのは、
「まだできることがあるか」
ではなく、
「これ以上やることが、本当に本人のためになるのか」
ということです。
その判断を誤れば、守るために始めたことが、今度は本人に新たな負担を与えることになります。
だから私は、引き際は非常に大切だと思っています。
旭川の件についても、私は同じように見ています。
私は、報告書が公開され、シンポジウムなどを通じて学校側の意見も社会に届くようになった段階で、一つの役割は果たしたと考えていました。
だからこそ、その後は、当事者同士の責任追及をさらに広げるのではなく、この辺で折り合いをつけるべきだと思っていました。
もちろん、社会に残された誤った情報まで放置する必要はありません。
その点については、前章までに書いたとおり、必要に応じて情報を発信した媒体や人物との間で整理すればいいと思っています。
しかし、当事者同士の対立については、別です。
その後も問題は動き続け、2026年3月には、当時の教育委員会職員、学校職員、関係生徒に対する求償について、教育委員会が検討していることが明らかになりました。
もちろん、これを特定の一つの行動の結果だと断定することはできません。
ただ、私が言いたいのは、まさにこういうことです。
問題を動かし続ければ、自分たちが望んでいる方向にだけ進むとは限りません。
こちらが何かを求め続ければ、相手側もまた、自らの立場や負担を守るために動きます。
そして、その結果として、守ろうとしていた人たち自身に、新しい責任や負担が返ってくることもあります。
私は、旭川の件についても、どこかで引き際を見極める必要があったと思っています。
そして今でも、「誰のせいでもない講演会」の頃が、その一つの引き際だったと考えています。
第十二章 今こそ、経済的安心と道徳的利益を追求してほしい
私は、人を支援するときに、第三者から「あなたが正しい」と認めてもらうことを、最終的な目的にするべきではないと思っています。
裁判で自分の主張が認められること。
世間から正しいと評価されること。
相手の間違いを認めさせること。
もちろん、それらに意味がある場合もあります。
しかし、第三者からどれだけ高く評価されたとしても、それによって本人の生活が壊れたり、自分自身が大切にしてきた気持ちを失ったりするのであれば、それを良い解決だとは思いません。
同じように、経済的利益を最大化することも、支援の最終的な目的ではないと思っています。
私が最初に守るべきだと考えているのは、経済的安心です。
これからも生活を続けていけること。
過大な負担によって人生を壊されないこと。
背負う必要のない責任まで背負わされないこと。
将来に対する必要以上の不安を抱えずに済むこと。
その状態を守ることが、まず大切です。
そして、その経済的安心を守るために、きちんと防御するべきだと思っています。
事実ではないことは否定する。
過大な責任を求められているのであれば、その範囲を整理する。
支払うことのできない金額を求められているのであれば、現実的な解決を求める。
不当な要求を強引に通そうとするなら、経済的安心を確保するための鉄壁のディフェンスを構築する。
自分の人生を守るために必要な防御まで、放棄する必要はありません。
ただし、防御することと、自分の問題から逃げることは違います。
自分を守るために必要なことをしたうえで、自分自身が向き合うべき問題には、きちんと向き合ってほしいと思っています。
自分に悪かったところはなかったのか。
相手に対して申し訳ないと思っていることはないのか。
本当は、どのような気持ちを持っていたのか。
以前の自分が大切にしていたものを、今も大切にできているのか。
そこから目を背けないでほしいと思います。
そして何より、自分がこれまで大切にしてきた気持ちを守ってほしい。
人を思いやる気持ち。
誰かを心配する気持ち。
申し訳ないと思う気持ち。
大切な人を失って悲しいと思う気持ち。
そうした感情は、弱さではありません。
目の前の問題を処理するうえで邪魔になるものでもありません。
むしろ、その人がその人らしく生きていくために、失ってはいけないものだと思っています。
私は、それを「道徳的利益」と考えています。
第三者から「正しい」と評価されることより、自分自身が大切にしてきたものを失わないこと。
経済的に最大限有利になることより、安心して生活できる状態を確保しながら、自分の良心にも向き合えること。
私は、その方が本人の人生にとって、はるかに大切だと思っています。
だから、私が今求めたい方向は、とても単純です。
まず、経済的安心を確保する。
そのために必要な防御はする。
そして、その安心が守られたところで、自分自身の問題と向き合う。
そのうえで、自分が大切にしてきた気持ちを守る。
私は、それが人を支援するときに目指すべき方向だと思っています。
誰かに「正しい人間」だと認めてもらう必要はありません。
すべての責任から逃れる必要もありません。
必要なのは、これからの生活を守りながら、自分自身に嘘をつかずに生きていけることです。
私は今、その両方を守る方向へ進んでほしいと思っています。
第十三章 私のところへ戻る必要はない
ここまで、私が考える支援のあり方や、この問題について今後どのような方向を目指してほしいのかを書いてきました。
ただ、最後に一つだけ、はっきりさせておきたいことがあります。
私は、以前関わっていた人たちに、私のところへ戻ってきてほしいと思っているわけではありません。
私に連絡をする必要もありません。
私の考えに賛同する必要もありません。
私が正しかったと認める必要もありません。
今の私を嫌っていても構いません。
人間関係と、この問題について何が本人にとって良いのかということは、分けて考えるべきだと思っているからです。
私はこれまで、関係する人たちと長い時間をかけて関わってきました。
その中で、さまざまな話を聞き、さまざまな気持ちに触れてきました。
だからこそ、今の状況を見ていて、「本当にこの方向でいいのだろうか」と思うことがあります。
しかし、それは、以前の関係に戻りたいという話ではありません。
私が望んでいるのは、誰かが私を選ぶことではなく、自分自身にとって大切なものを、もう一度考えてみることです。
誰かに勧められたからではなく。
誰かを守るためでもなく。
誰かを裏切らないためでもなく。
私に対する感情とも切り離して、自分自身の問題として考えてほしいと思っています。
今、自分が本当に守らなければならないものは何なのか。
自分が負うべき責任はどこまでなのか。
反対に、背負う必要のない責任は何なのか。
自分は、過去に何を感じ、何を大切にしていたのか。
そして、この問題がすべて終わった後、どのような自分でいたいのか。
そこを考えてほしいと思っています。
考えた結果として、今と同じ結論になることもあるでしょう。
以前とは違う結論になることもあると思います。
途中で考えを変えても構いません。
一度決めた方針を変更することも、恥ずかしいことではありません。
過去に言ったことと現在の考えが違うのであれば、なぜ変わったのかを自分自身で考えればいい。
そのうえで、「やはり今の考えでいい」と思うのであれば、それも一つの答えです。
大切なのは、自分自身で納得できるところまで考えることだと思っています。
私は、誰かに私と同じ結論を出してほしいわけではありません。
ただ、周囲の人間関係や、その場の勝ち負け、目の前の経済的な有利不利だけで、大切な判断をしてほしくありません。
前章で書いたように、まずは自分の生活を守る。
そのために必要な防御をする。
そのうえで、自分自身の問題に向き合い、自分が大切にしてきた気持ちを守る。
それができるのであれば、そのために私がそばにいる必要はありません。
むしろ、私との関係さえ判断の材料にしなくていいと思っています。
私に恩があると思う必要もありません。
人間関係が変わっても、事実は変わりません。
誰かに対する好き嫌いが変わっても、自分が過去に抱いていた気持ちまで、なかったことにする必要はありません。
私は、そこを大切にしてほしいと思っています。
私のところへ戻る必要はありません。
ただ、自分自身のところには戻ってほしい。
周囲の声や現在の対立から少し離れて、自分は本当は何を大切にしていたのかを、もう一度思い出してほしいと思っています。
そして、その気持ちを大切にしたまま、自分の人生を歩いていってほしい。
私が望んでいるのは、それだけです。
おわりに
亡くなった友達への想いを
失わないでほしい
最後に、私がなぜ「道徳的利益」というものを、これほど大切に考えているのかを書いておきたいと思います。
生活は大切です。
これから先も人生は続いていきます。
だからこそ、生活を壊してしまうような過大な負担からは身を守らなければなりませんし、自分の責任ではないことまで引き受ける必要はありません。
そのために必要な防御は、きちんとするべきだと思っています。
事実ではないことは否定する。
過大な責任を求められているのであれば、その範囲について主張する。
生活が立ち行かなくなるような負担を求められているのであれば、現実的な解決を求める。
自分の人生を守るために必要なことまで、放棄する必要はありません。
しかし、自分を守ることと、自分自身の問題と向き合うことは、決して矛盾しないと思っています。
例えば、過去の言葉について記憶が曖昧なのであれば、無理に断定する必要はありません。
本当に言っていないと確信しているのであれば、「言っていない」と言えばいい。
一方で、覚えてはいないものの、「言ったかもしれない」と思うのであれば、その可能性を認めてもいいと思います。
「覚えていない」
「言った可能性はある」
そう答えることも、自分の過去に誠実に向き合うことだと思っています。
自分にとって都合の悪い可能性まで否定することと、自分を守るために必要な防御をすることは、同じではありません。
私は、その違いを大切にしてほしいと思っています。
そして、自分自身がどれだけ傷ついたのかだけではなく、遺族がどのような立場に置かれているのかについても、考えてみてほしいと思っています。
この問題が社会に広く知られるようになってから、関係する人たちも、たくさんの心ない言葉を浴びせられてきました。
自分が実際にしたこと以上の責任を負わされていると感じたこともあったと思います。
生活に影響が出たこともありました。
自分たちの事情を知ろうともせず、一方的に悪者として扱う人たちに対して、怒りや反発を感じたこともあったと思います。
その苦しさを否定する必要はありません。
ただし、ここで一つ、はっきり分けて考えてほしいことがあります。
遺族が失ったものの大きさを考えることと、その喪失のすべてについて、自分が責任を負うことは別です。
誰が、何について、どこまで責任を負うのかは、実際に起きたことや因果関係に基づいて、慎重に考えなければなりません。
子どもを亡くしたという事実がどれほど重いものであっても、その重さを、そのまま誰か一人の責任に置き換えることはできません。
私が求めたいのは、自分の責任ではないことまで背負うことではありません。
自分が負うべき責任と、相手が受けた苦しみに思いを馳せることを、分けて考えてほしいのです。
責任がないと思う部分については、自分を守ればいい。
それでも、相手が何を失い、どのような気持ちで生きているのかを想像することはできます。
そのうえで、自分と遺族の置かれている立場を、できるだけ広い視点から比べてみてほしいと思っています。
自分の周りには、今、どれだけの味方がいるのか。
これまで、どれだけの人から支えられてきたのか。
苦しい経験をした一方で、人とのつながりや支援など、この数年間で自分が得てきたものは何だったのか。
そして、これから先、自分にはどのような人生が残されているのか。
そうしたことも含めたうえで、遺族が何を失い、今も何を抱えて生きているのかを考えてみてほしいと思います。
自分も傷ついた。
自分も苦しんだ。
それは事実だと思います。
しかし、自分が受けた苦しみだけではなく、自分に残されているもの、自分が周囲から受け取ってきたもの、そして相手が失ったものまで含めて考える。
どちらが、より取り返すことのできないものを失ったのか。
どちらが、今、より弱い立場に置かれているのか。
私は、そこまで考えることも、思いやりの一つだと思っています。
ただ、正直に言えば、ここまでのことを求めるのは、少し酷なのかもしれません。
子どもの頃に起きた出来事について、自分自身の問題を振り返る。
現在の自分と遺族の置かれている立場を比べる。
自分自身も傷ついている中で、それでも相手の苦しみにまで思いを馳せる。
成人したばかりの若者に、普通であれば、私はそこまで求めないと思います。
もっと時間をかけてもいい。
今はまだ整理できない感情があったとしても、それは当然のことだと思います。
それでも私は、君たちには、そこまで考えてほしいと願ってしまいます。
たぶん、それは、君たちだからです。
私にとって、君たちは単なる「関係生徒」ではありません。
長い時間、話を聞き、考え方や気持ちに触れてきた、一人ひとりの人間です。
だから私は、君たちの中にある思いやりも、亡くなった友達に対して持っていた気持ちも知っています。
それを知っているからこそ、失わないでほしいと思ってしまいます。
誰にでも求めることではありません。
君たちだから、願ってしまうのだと思います。
そして、この問題において、私が何よりも大切にしてほしいと思っているのが、亡くなってしまった友達に対する想いです。
亡くなった子は、報告書に書かれた「被害者」という記号ではありません。
裁判や調停の中で語られる当事者でもありません。
かつて同じ時間を過ごした、一人の友達です。
亡くなったことを悲しいと思った気持ち。
もっと何かできなかったのかと思った気持ち。
自分にも悪かったところがあったのではないかと考えた気持ち。
申し訳ないと思った気持ち。
そして何より、生きていてほしかったという想い。
私は、そうした気持ちを大切にしてほしいと思っています。
世間に対する怒りがあっても構いません。
事実ではないことには反論していい。
自分を守らなければならないときには、きちんと守ればいい。
それでも、世間に対する怒りと、亡くなった友達への想いは分けて考えてほしい。
心ない言葉を浴びせられ続けたことで、亡くなった友達に対して持っていた大切な気持ちまで見失ってしまうのであれば、それはあまりにも悲しいことだと思います。
私は、そこには、ある種の「信仰心」のようなものが必要なのではないかと思っています。
ここでいう信仰心とは、宗教の話ではありません。
目に見える利益がなくても、自分が本当に大切だと思うものを大切にし続けることです。
誰かから評価されなくても守る。
目の前の損得だけでは手放さない。
苦しい状況に置かれていても、
「それでも、これは失ってはいけない」
と思えるものを、自分の心の中に残しておく。
私は、そういう意味での信仰心が、人には必要なのではないかと思っています。
亡くなった人は、もう自分の言葉で何かを伝えることができません。
怒ることもできません。
悲しいと言うこともできません。
許すこともできません。
だからこそ、生きている人が、その人への想いを持ち続けることには意味があると、私は思っています。
もちろん、生きている人の人生まで壊してしまってはいけません。
だから、まずは経済的な安心を守る。
そのために必要な防御をする。
そのうえで、自分自身の問題には誠実に向き合い、できる限り、亡くなった友達への想いを持ち続ける。
私は、その想いが、亡くなった子の無念を少しでも癒すことにつながるのではないかと信じています。
そして、それこそが、この問題における「道徳的利益」の最も大切な部分だと思っています。
第三者から「あなたは正しい」と評価されることよりも、大切なものがあります。
経済的に少しでも有利になることよりも、大切なものがあります。
誰かに勝つことよりも、大切なものがあります。
自分の生活を守ること。
自分自身の問題から逃げないこと。
自分とは違う立場に置かれた人の苦しさを想像すること。
そして、亡くなった友達を、いつまでも友達として想い続けること。
少し酷な願いなのかもしれません。
それでも、君たちには、そういう人でいてほしいと思っています。
そして、支援する大人にも、その気持ちを大切にしてほしいと思います。
彼ら彼女らが、自分を守りながらも、人を思いやる心まで失わずに済む方向へ導いてほしい。
亡くなった友達を、これからも友達として想い続けられるように支えてほしい。
私は、それが、この問題に関わる大人にできる、最も大切な支援の一つだと思っています。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻























































この記事へのコメントはありません。