はじめに
前回の記事では、第三者委員会と再調査委員会が認定した「いじめ」について、一つずつ内容を確認し、今の私がどう考えているのかを書きました。
今回は、その続きとして、北星中学校と旭川市教育委員会の対応について考えます。
この件については、「学校は何もしなかった」「いじめを隠蔽した」「謝罪だけさせて終わらせた」といった形で語られることがあります。
しかし、実際には、本人が入院した後、学校は病院へ見舞いに行って本人の様子を確認し、本人への負担に配慮しながら、何があったのかを聞き取ろうとしています。
また、警察による聴取が行われ、本人への聞き取りにも制約がある中でも、関係生徒への聞き取りを行い、その後、指導もしています。
そのため、今回検証したいのは、単純に「対応したか、しなかったか」という話ではありません。
その時点で学校や市教委は何を把握していたのか。
何を疑うことができたのか。
実際にどのような対応を行ったのか。
その対応には、どのような問題があったのか。
第三者委員会と再調査委員会は、学校や市教委の対応について多くの問題点を指摘しています。
ただし、委員会が後から多数の資料を集めて評価できたことと、当時の学校や市教委がその時点で知ることができたことは同じではありません。
また、学校や市教委が実際に対応していたという事実だけで、その対応が十分だったことにもなりません。
今回も、最初から「学校が悪かった」「学校は悪くなかった」と決めつけるのではなく、当時の事実関係と二つの委員会の評価を照らし合わせながら、一つずつ考えていきたいと思います。
目次
→ いじめを認知しなかったことに落ち度はないが、もう少し丁寧に本人と関係生徒との人間関係や状況を確認することはできたかもしれない。
→ 本人の様子を気にかけ、その時々で必要だと考えた対応を実際に行っていた。支援が十分だったかについては、さらに検討する余地がある。
→ 実質的にいじめを認知し、組織的に対応していた。
→ 必要な聞き取りを行い、他校とも情報を共有し、当時可能な範囲で相当程度の事実把握を行っていた。
→ 当時どのような指導をすればよかったのか具体的に示さずに、「指導が不十分だった」などと評価することは許されない。
→ 学校は「謝罪の会を実施して対応を終わりする」と宣言したことはない。必要な調査を行なった上で関係修復と教育的指導の為に謝罪の会を提案していた。
第七章 母親が「もう対応しなくてよい」とした後の対応について
→ 繊細な出来事である以上、本人や母親の意思を尊重することも支援の一つである。一定の引き継ぎも行われ、転校先の学校も適切に対応しているため、結果として問題は生じていない。
→ 引き継ぎの方法には検討の余地があったとしても、それによって本人に具体的な不利益が生じたことは確認できず、学校批判の材料にする実益はほとんどない。
→ 委員の選任、調査主体、調査範囲、期間、予算の決定、複数校との調整などが必要である以上、重大事態として正式な枠組みに移行するかは市教委が主体的に判断するべきだった。その中心的な責任は市教委にある。
→ 学校は警察の判断を見て対応を終えたのではなく、自ら調査を行い、確認できた事実に基づいて関係生徒への指導や本人側への対応を行っていた。
→ 学校が「ありもしないことを書かれた」と訴えたことには実際に根拠があった。当該文書を、本人、関係生徒、その他多数の生徒を守るために配布したことを責めることはできない。
→ 北星中学校は、本人に起きた問題を把握した後、必要な調査、指導、連携、本人側への対応をきちんと行っていた。一方、市教委には、重大事態として正式な調査に移行するかを主体的に判断しなかった問題がある。
第一章 6月22日以前の北星中学校によるいじめ認知について
まず考えたいのは、6月22日に本人が川に入る以前の段階で、北星中学校はいじめを認知するべきだったのかということです。
この点について、第三者委員会と再調査委員会では、少し評価の仕方が異なっています。
第三者委員会は、4月から5月にかけての連休中の深夜に、本人が上級生Aから呼び出されたという話を、母親が休み明けに担任へ伝えていたとしています。
担任は、Aについて女子生徒との関係で注意が必要な生徒だと認識していました。
一方で、本人からAとの交流について聞いた際には、本人が「うれしそうな」様子で話していたため、Aとの関係を特に危険なものとして捉えなかったとされています。
第三者委員会は、母親から伝えられた内容が事実であれば「いじめ」に当たると考えるべきであり、母親からの情報提供を「いじめの相談」として受け止め、学校いじめ対策組織で検討する必要があったと評価しています。
また、本人とAの双方から詳しく話を聞き、二人の関係を確認することで、Aから本人へのいじめを認知し、必要な指導につなげることも可能だったとしています。
私は、この評価については少し慎重に考える必要があると思います。
前の記事でも書いたように、深夜に中学生を公園へ呼び出すことは適切ではありません。
しかし、不適切な行為であることと、いじめであることは別です。
本人自身がAとの交流について「うれしそうな」様子で話していたのであれば、その時点で学校が、この関係を本人の意思に反する一方的ないじめだと判断できたとは言い切れません。
もちろん、深夜の呼び出しという情報を把握した以上、安全面から詳しく事情を確認したり、上級生との関係に注意を払ったりする必要はあったと思います。
ただ、後に性的な問題が明らかになったことを知っている現在の視点から、「この時点でいじめだと分かったはずだ」と評価することには慎重であるべきです。
この点について、再調査委員会は第三者委員会よりも事実認定に慎重です。
再調査委員会は、母親が7月1日の教育相談で、「5月中旬頃から本人の様子がおかしいと感じて学校に相談し、6月中旬頃にはいじめについて調査してほしいと相談した」という趣旨の説明をしていたことを確認しています。
しかし、6月22日より前に、実際に「いじめについて調査してほしい」という明確な要請が学校へなされていたのかについては、再調査では確定していません。
ここは重要だと思います。
もし6月22日以前に、母親から明確に「いじめではないか」「調査してほしい」と相談され、学校側もその意思を認識していたのであれば、いじめと確定できなくても、少なくとも「いじめの疑い」として記録し、組織的に情報共有して確認するべきだったと思います。
しかし、その要請がいつ、どのような内容で行われたのか自体が確定していないのであれば、「学校はいじめの訴えを受けていたのに放置した」と断定することはできません。
私は、6月22日以前については、北星中学校がいじめを認知しなかったことを非難するのは難しいと思います。
一方で、本人が学校生活で困難を抱え、深夜に上級生と関わっているという情報も入っていた以上、いじめかどうかにかかわらず、もう少し丁寧に本人の人間関係や状況を確認する余地はあったと思います。
つまり、この時点で問題になるのは、「いじめと認定しなかったこと」よりも、「気になる情報をどこまで確認し、組織として共有していたのか」ということではないかと私は考えています。
第二章 本人が抱えていた学校生活上の困難への支援について
次に、いじめの認知とは少し離れて、本人が学校生活の中で抱えていた困難に対して、北星中学校がどのような支援をしていたのかを考えます。
第三者委員会の報告書によると、本人はクラスメートと親密な関係を築きたいという気持ちが強く、男女を問わず積極的に話しかけていました。
一方で、本人とクラスメートではコミュニケーションの取り方に違いがあり、本人の言動を好意的に受け止める生徒もいれば、戸惑いや不安を感じる生徒もいました。
本人自身も、思うように人間関係を築けないことに悩み、感情的になって教室を飛び出すことなどがありました。
第三者委員会は、教員たちが本人の行動上の特徴についてはある程度把握していたものの、本人がなぜそのような行動を取るのかという心情の理解や、具体的な支援の検討については十分ではなかったと評価しています。
また、本人との交流に戸惑い、距離を取っていたクラスメートについても、本人を攻撃したり意図的に排除したりしていたわけではなく、本人との関わり方が分からず、不安を感じていた可能性があるとしています。
そのため第三者委員会は、本人だけではなく、本人との関係に困っていたクラスメートに対しても支援が必要だったとしています。
私は、本人だけではなく、周囲の子どもたちにも支援が必要だったという点については納得できます。
前の記事でも書いたように、クラスメートが本人と距離を取ったこと自体を「いじめ」と評価することには賛成できません。
しかし、本人が人間関係に苦しんでいたことまで否定する必要はありません。
同時に、本人との接し方に困っていた周囲の子どもたちについても、
「本人を避けたのだから悪い」
と考えるのではなく、子ども同士だけでは調整することが難しくなっていたのであれば、大人が間に入り、双方が少しでも過ごしやすくなる方法を考える必要があったと思います。
ただし、ここで重要なのは、北星中学校が本人のこうした様子をただ見ていただけではないということです。
報告書には、担任が本人に対して行っていた具体的な対応も記録されています。
例えば4月下旬、掃除当番の場面で本人が「私は何をしたらよかったのか」と尋ね、担任から周囲と一緒に考えるよう促されたことに怒って帰宅した出来事がありました。
担任はその日のうちに母親へ電話をし、翌日には本人を呼んで、なぜそのような指導をしたのかを説明しています。
さらに、本人が自分の考えをクラスメートへ説明できるよう、本人自身に文章を作ってもらい、その文章を一緒に確認しながら、より伝わりやすい内容にしようと指導しています。
本人が不安定になったため、その場では文章作りを中止し、家でもう一度考えてくるようにしています。
また、本人がクラスメートとうまく相談できず、「自分の仕事がないから帰る」と言って教室を出ようとした際には、担任が本人を引き止め、教育相談室で学年副担任を交えて本人の話を聞いています。
このとき本人は、話を聞いてもらった後に感情を大きく乱すこともなく、担任に対して「良かった」という趣旨の話をしていたと記録されています。
本人が突然「帰る」と言って教室を出ることが繰り返されるようになった後も、本人は実際にそのまま帰宅するのではなく、保健室へ行ったり、気持ちを落ち着かせるために学校側が用意していた教室へ移動したりし、落ち着けば再び教室へ戻っていました。
つまり、学校側は、本人がその場から離れることを単なる「わがまま」として叱責するのではなく、いったん場所を変えて気持ちを落ち着かせるという対応も取っていたことになります。
5月の体育祭後から本人がおとなしくなり、保健室で過ごすことが増えていったことについても、担任はその変化を見ていました。
再調査委員会によると、担任は本人の様子を看取しながら、その原因を探ろうとしており、本人が「教室にはいられない」という状態になった際には、特別支援学級の担当教員に相談し、別室で過ごせるようにしています。
本人はそこで絵を描くなどしながら過ごすこともありました。
さらに、本人が教室を飛び出したり早退したりする出来事があるたびに、担任は、1年生や特別支援学級の副担任を務めていた教員に、本人への対応や指導について個別に相談しています。
学年内でも、職員室での朝の打ち合わせや学年会議などを通じ、担任から本人の様子について報告し、情報を共有していました。
本人自身が、
「クラスで自分のことについて説明したい」
と希望した際にも、担任はそれを放置していません。
学年副担任とも相談しながら、本人に説明文を書いてもらい、その文章を読み、どうすれば同級生に伝わるのかを考えながら指導しています。
このような経過を見ると、
「担任が本人の異変に気づいていなかった」
「本人が教室にいられなくなっても何もしなかった」
「担任が一人で抱え込み、他の教員と情報共有もしなかった」
という評価は、少なくとも報告書に記録された事実とは合いません。
本人はその後、体調不良を訴えるようになり、授業への参加が減り、保健室や支援学級で過ごすことも増えていきました。
6月に入ってからは、吐き気、頭痛、気分不良などを訴えて保健室を利用することが繰り返され、授業中にほとんど教室にいないと感じていた教員や生徒もいたことが記録されています。
第三者委員会は、この時期について、本人を気にかけていた教員同士では話が出ていたものの、それぞれが把握していた情報は断片的で、本人の状況や支援の必要性について、学校全体で十分に共有されていなかったと評価しています。
再調査委員会も、担任や学年内で対応が行われていたことを認める一方、本人の発達特性や人間関係上の困難も含め、より広い学校のチームとして組織的に支援する必要があったと評価しています。
私は、この部分については少し分けて考える必要があると思います。
確かに、本人が人間関係に苦しみ、周囲の生徒も本人との関わり方に戸惑い、さらに体調不良や教室にいられない状態まで生じていた以上、もっとできることがなかったのかを検討することには意味があります。
例えば、本人と周囲の生徒との関係について、より具体的に整理したり、本人がどのような場面でつらくなるのかをさらに確認したり、特別支援教育に関わる教員なども含めて支援方法を検討したりする余地はあったのかもしれません。
しかし、そのことと、
「学校は本人を放置していた」
という評価は全く違います。
実際には、担任は本人の異変を見ていました。
本人が怒って帰宅すれば母親へ連絡し、翌日には本人と話をしています。
本人がクラスメートとうまく関われなければ、別の教員を交えて話を聞いています。
本人が教室にいられなければ、保健室や別室で気持ちを落ち着かせる方法を用意しています。
本人が自分についてクラスメートへ説明したいと言えば、そのための文章作りも一緒に考えています。
そして、その都度ほかの教員にも相談し、学年内で情報を共有していました。
私は、この事実をきちんと踏まえたうえで評価する必要があると思います。
この章で問うべきなのは、
「学校は支援をしていたのか」ではありません。
支援は、実際に行われていました。
問うべきなのは、
「その支援が、本人と周囲の生徒が抱えていた困難に対して十分だったのか」
ということです。
私は、本人と周囲の生徒の双方が人間関係に困難を抱えていたことを考えれば、さらにできる支援がなかったのかを検討する余地はあると思います。
しかし同時に、報告書に残された具体的な対応を見る限り、北星中学校の教員たちは本人の様子を気にかけ、その時々で必要だと考えた対応を実際に行っていたことも、正当に評価するべきだと思います。
第三章 6月22日の入水後における学校の対応について
6月22日に本人が川に入り、その後入院したことで、北星中学校の対応はそれ以前とは大きく変わっています。
この時期については、「学校はいじめを認知せず、組織的な対応もしなかった」という評価があります。
しかし、二つの報告書に記録されている実際の対応を見ると、私はその評価には賛成できません。
本人の入院後、母親は本人のスマートフォンに残されていたLINEのやり取りなどを確認し、性的な被害を受けていた可能性があるとして、6月23日に学校へ連絡しています。
学校はその翌日の24日から関係生徒への聞き取りを始めています。
第三者委員会の報告書でも、この時点で複数の関係生徒から事情を聞き、問題となった出来事の概要を把握していたことが確認されています。
しかも、対応したのは北星中学校の担任一人ではありません。
再調査委員会の報告書によると、関係生徒について、それぞれが在籍する学校で聞き取りが行われ、各学校の管理職が必要な情報を共有しています。
その後、複数の学校による協議も行われ、北星中学校ではさらに追加の聞き取りを行い、関係生徒について指導記録も作成しています。
また、学校は本人の入院先の医師や本人とも面談し、その後の対応についても検討しています。
この時期には警察も関係生徒への聴取を行っていました。
そのため、学校による聞き取りには一定の制約がありましたが、学校は警察とは別に学校として事実を把握する必要があると考え、可能な範囲で調査を続けています。
そして、この点について再調査委員会は、学校による聞き取りは詳細に行われ、学校間の情報共有も適切であり、この時期の事実把握そのものについて問題は認められないという評価をしています。
私は、この事実は非常に重要だと思います。
第三者委員会は、北星中学校が学校いじめ対策組織で情報を共有し、そこで対応方針を検討しなかったことを問題としています。
確かに、「学校いじめ対策組織」という正式な枠組みの中で、会議を開いていじめを認知し、その名称の下で対応方針を決定したわけではありません。
しかし、私は、それだけをもって「組織的な対応が行われていなかった」と評価することには疑問があります。
学校いじめ対策組織は、その組織の構成員全員が自ら一つ一つの聞き取りや指導を行うためのものではありません。
実際の学校現場では、管理職や生徒指導担当、担任など、その時に動くことのできる教職員が役割を分担し、情報を共有しながら調査や指導を進めることになります。
本件でも、教頭を中心として複数の教職員が動き、さらに他校の管理職や教職員とも連携しながら、関係生徒への聞き取り、情報共有、追加調査、指導を行っています。
これは、少なくとも実態としては、十分に組織的な対応だったと私は思います。
また、学校が「いじめ」という視点を持たず、単なる生徒間のトラブルとして処理していたとも言えません。
学校側には本人に起きた出来事をいじめとして捉えて対応していたという認識があり、その認識のもとで調査や指導を進めていました。
したがって私は、6月22日以降については、北星中学校は実質的にいじめを認知し、組織的に対応していたと評価しています。
もちろん、学校いじめ対策組織として正式に記録し、会議や認知の手続を明確に残しておけば、後から見たときに対応の経緯がより分かりやすかったとは思います。
しかし、それは手続や記録の問題です。
正式な名称や手続を用いていなかったことと、実際にいじめを認知せず、組織として対応していなかったことは同じではありません。
二つの報告書に記録された実際の対応を見る限り、私は、北星中学校が入水後に「いじめを認知せず、組織的にも対応しなかった」と評価することには賛成できません。
むしろ、形式ではなく実際に何をしたのかを見るのであれば、学校は速やかに事実確認を始め、複数校と連携し、関係生徒を調査して指導するという、いじめを認知した場合に求められる対応を実際に行っていたと評価するのが適切だと思います。
第四章 関係生徒への聞き取りと事実調査について
前章では、6月22日の入水後、北星中学校が実質的にいじめを認知し、教頭を中心として複数の学校と連携しながら組織的に対応していたと書きました。
では、その中で行われた関係生徒への聞き取りや事実調査そのものは、十分なものだったのでしょうか。
この点については、最初の第三者委員会と再調査委員会で、評価にかなり違いがあります。
最初の第三者委員会は、6月23日に母親から申告を受けた後、北星中学校が翌24日から関係生徒への事情聴取を行い、複数の出来事について概要を把握していたこと自体は認めています。
一方で、その聞き取りについては、各生徒が「何をしたのか」という表面的な確認にとどまり、なぜそのような行為に至ったのか、本人と関係生徒がどのような関係だったのか、その背景や心理について十分に確認していなかったと批判しています。
また、LINE上で行われたやり取りについても、関係生徒の説明だけではなく、可能な限り実際の送信記録などを確認すべきだったとしています。
この指摘だけを読むと、学校の事実調査はかなり不十分だったようにも見えます。
しかし、再調査委員会の報告書を読むと、評価は大きく異なります。
再調査委員会は、本人に性的な被害があった可能性を学校が把握した後、関係生徒への聞き取りを速やかに開始していたことを確認しています。
当時は警察も関係生徒への聴取を行っており、学校側の聞き取りには制約がありました。
警察と学校では調査の目的が異なりますが、警察による聴取が優先される場面もあり、学校が自由に同じ生徒へ何度も聞き取りを行える状況ではありませんでした。
それでも学校は、警察から一定の制限を受けながら、学校として別に事実関係を把握する必要があると考え、可能な範囲で関係生徒への聞き取りを進めています。
そして再調査委員会は、その聞き取りについて、内容は詳細であり、学校間の情報共有も適切に行われていたと評価しています。
さらに、この時期の「事実の把握という点において問題は認められない」と明確に述べています。
どのような調査であっても、後から見れば「これも聞けた」「あれも確認できた」という点は出てきます。
まして本件では、本人が入院し、警察も介入していました。
学校が後の第三者委員会と同じ量の資料を集め、同じ時間をかけて調査することは現実的ではありません。
再調査委員会自身が、そうした状況を踏まえたうえで、学校による聞き取りは詳細であり、事実把握そのものには問題がなかったと評価している以上、私は、「学校は十分な調査をしなかった」と単純に評価することには賛成できません。
ただ、再調査委員会が全ての対応を肯定しているわけではありません。
再調査委員会が問題にしたのは、事実を把握するための聞き取りそのものよりも、把握した事実をどのように評価したのかという点です。
報告書では、学校の調査が関係生徒の問題行動の把握に重点を置き、本人がそれらの出来事によってどの程度の精神的苦痛を受けていたのか、その点について十分な評価が行われなかったとしています。
ここは、事実調査とは分けて考える必要があります。
「何があったのか」を調べることと、「その出来事をどう評価するのか」は別だからです。
私は、学校による事実確認については、少なくとも再調査委員会が認定した範囲では、必要な聞き取りを行い、他校とも情報を共有し、当時可能な範囲で相当程度の事実把握を行っていたと考えています。
その後、その事実をどのように評価し、どのような指導につなげるべきだったのかについては、また別の問題です。
したがって、第四章についての私の結論は、学校の事実調査そのものに大きな問題があったとは考えないというものです。
第三者委員会は調査方法に不足があったと批判しましたが、再調査委員会は、警察の関与による制約も踏まえたうえで、聞き取りの内容や学校間の情報共有を適切だったと評価しています。
後から追加で確認できたことがあるからといって、当時行われた調査まで不十分だったことにはならないと思います。
第五章 関係生徒への指導について
前章では、関係生徒への聞き取りや事実調査について、再調査委員会自身が、事実把握という点では問題が認められないと評価していることを確認しました。
では、その調査を踏まえて行われた関係生徒への指導については、どう評価すべきでしょうか。
まず確認しておきたいのは、学校が関係生徒を調査しただけで、その後何の指導もしなかったわけではないということです。
再調査委員会の報告書によると、学校側は関係生徒やその保護者に対して、本人に接触しないこと、今回の出来事について周囲に話さないこと、スマートフォンの使い方を見直すこと、他校の関係生徒との交流について注意することなどを確認し、継続的に指導する方針を立てています。
また、関係生徒には謝罪の準備をさせ、今回の出来事が重大なものであることを認識させることも方針として挙げられていました。
北星中学校では、その後も追加の聞き取りを行い、関係生徒の指導記録をまとめています。
したがって、「関係生徒への指導が行われなかった」という評価はできません。
問題は、その指導の内容が十分だったのかということです。
第三者委員会は、関係生徒への指導が、スマートフォンの使用に関する注意や、本人について周囲に話さないことなどにとどまり、関係生徒の考え方そのものに働きかける指導が不足していたと評価しています。
また、関係生徒に対して、他者の気持ちを想像したり尊重したりすることを身につけさせる教育や、必要に応じてスクールカウンセラーなどの専門職と連携した指導も検討すべきだったとしています。
再調査委員会も、似た問題を指摘しています。
学校の指導について、「どれほど悪い行為をしたのか」という認識や学校が示したルールの遵守にとどまり、本人がどれほど傷ついたのか、その心身の苦痛を理解させる指導が行われていなかったと評価しています。
そして、いじめの場合には、行為そのものの程度以上に相手へ心身の苦痛を与えることがあるため、そのことを理解させる教育的対応が必要だったとしています。
私は、この指摘には疑問があります。
もちろん、自分の行為によって相手が傷つく可能性を考えさせること自体は、教育として大切だと思います。
しかし、「本人をどれだけ傷つけたのか理解させるべきだった」というだけでは、あまりにも抽象的です。
生徒指導である以上、本来は、具体的にどの行為の何が問題だったのかを示し、それではどう行動すればよかったのかを教える必要があります。
例えば、相手が明確に拒否した後も性的な要求を続けたのであれば、「嫌だと示された時点でやめなければならない」ということを理解させる。
本人の性的な画像を承諾なく他人に見せたり送ったりしたのであれば、「性的な画像は極めて私的な情報であり、本人の同意なく第三者に共有してはいけない」ということを理解させる。
深夜に年下の生徒を外へ呼び出すような行為であれば、「深夜に外出させることには安全上の危険があり、年上の立場として慎重に行動する必要がある」と教える。
このような指導であれば、何を反省し、次からどのように行動すればよいのかが分かります。
一方で、
「本人は深く傷ついたのだから、それを理解しなさい」
というだけでは、何を理解させるのかが明確ではありません。
しかも、本件では関係生徒ごとに事情が大きく異なります。
前の記事で検討したように、本人から明確に拒否されても行為を続けたものもあれば、本人も積極的に関わっていたように見えるもの、相互に言い合っていたもの、当事者間で証言が食い違っているものもあります。
二つの委員会ですら、何をいじめと評価するのかについて判断が一致していません。
そのような事案で、本人が後に深刻な状態になったという結果から逆算して、関係生徒に「自分の行為が本人をここまで傷つけたのだ」と理解させることには慎重であるべきだと思います。
そこまで指導するのであれば、まず、その生徒が具体的に何をし、その行為によって本人がどのような苦痛を受けたのかという関係を、相当程度確認する必要があります。
そうでなければ、教育の名の下に、確認できていない責任まで子どもに背負わせることになりかねません。
再調査委員会は、本人の心身の苦痛について、専門職も交えて評価すべきだったとも述べています。
しかし、仮に専門家が本人の苦痛を評価できたとしても、それだけで、その苦痛のすべてを特定の関係生徒の行為に結びつけられるわけではありません。
本人は当時、学校生活、人間関係、家庭その他、複数の困難を抱えていた可能性があります。
だからこそ、本人の苦痛を理解することと、誰のどの行為がどこまでその苦痛を生じさせたのかを判断することは分けなければならないと思います。
私は、学校が行った指導について、改善の余地が全くなかったとは思いません。
それぞれの行為について、「何が問題だったのか」「次からどうすればよいのか」を、さらに具体的に考えさせる指導はできたかもしれません。
しかし、二つの委員会が学校の指導を不十分だったと評価するのであれば、誰に対して、どの行為について、どのような方法で、何を理解させればよかったのかまで具体的に示すべきです。
それを示さないまま、
「本人をどれだけ傷つけたのか理解させるべきだった」
「他者の気持ちを想像し、尊重する教育が必要だった」
とだけ述べても、当時の教師が具体的に何をすればよかったのかは分かりません。
何をすればよかったのかさえ具体的に示さず、「指導が不十分だった」と評価することは簡単です。
私は、調査委員会が学校現場に厳しい評価を下すのであれば、批判するだけではなく、その批判に見合うだけの具体性を示す責任があると思います。
第六章 「謝罪の会」の実施について
次に、関係生徒とその保護者による「謝罪の会」について考えます。
この謝罪の会については、二つの委員会とも、学校や市教委が「謝罪」に重点を置き過ぎたという趣旨の問題を指摘しています。
最初の第三者委員会は、学校が6月28日の段階で母親に謝罪の打診をし、その後も謝罪の場を設ける方向で対応を進めたことについて、まだ事案の全容が明らかになっておらず、関係生徒の供述にも食い違いがあり、事実関係を認めていない生徒もいたことから、時期尚早だったと評価しています。
また、本人自身が謝罪を希望していることも確認できておらず、本人に伝わらない謝罪では被害者への対応として意味を持たないとしています。
再調査委員会も、学校側が比較的早い段階から謝罪による解決を念頭に置いていたと評価しています。
実際、6月26日の段階では、関係生徒への厳しい指導とともに「謝罪の機会をつくる」という方針が示され、その後も、市教委とのやり取りの中で謝罪の実施が検討されていました。
ただし、ここは実際の経過を丁寧に見る必要があります。
学校は、母親の意向を無視して、すぐに関係生徒を集めて謝罪させたわけではありません。
6月28日の面談では、学校から関係生徒に謝罪の意思があることが伝えられましたが、母親は、事案全体が確認できるまでは謝罪を受け入れられないという趣旨の考えを示しています。
学校はその意向を関係生徒側にも伝え、その後も調査を続けています。
また、学校内部の対応方針にも、謝罪については、被害者側が受け入れられる段階になってから行うという趣旨の考えが記されています。
そのため、「学校は事実関係を調べず、とにかく謝罪だけさせて終わらせようとした」という理解は、報告書に記録された実際の経過とは一致しないと思います。
学校は先に関係生徒への聞き取りを行い、さらに追加の調査や指導を続けたうえで、謝罪について検討しています。
再調査委員会自身も、前章で確認したように、この時期の事実把握については問題が認められないと評価しています。
そのうえで、8月29日と9月11日に、関係生徒や保護者による謝罪の場が実施されています。
私は、謝罪の場を設けたこと自体を問題だとは思いません。
生徒同士の問題について、事実関係を確認し、問題のある行為について指導したうえで、関係を修復するために謝罪の機会を設けることは、学校教育の中ではごく自然な対応です。
むしろ、学校が関係生徒を一方的に処罰して終わるのではなく、自分が行ったことを振り返り、必要であれば謝罪し、当事者間の問題を終わらせようとすることには教育的な意味があります。
もちろん、謝罪は強制すればよいものではありません。
事実関係について争いがある生徒に、認めていない事実まで前提として謝罪させたり、本人や保護者が望んでいないのに対面の場を強行したりすることは適切ではありません。
しかし、本件では、少なくとも学校は母親の意向を確認しながら時期を調整しています。
再調査委員会の報告書によれば、母親は当初、本人が入院している中で謝罪の場を設けることや、関係生徒が本当に反省しているのかという点に疑問を持ち、謝罪は不要ではないかと考えていました。
一方で、学校や市教委が早期の解決には謝罪の場が必要だと考えていることを受け、最終的には弁護士の同席も含めた条件を調整したうえで、謝罪を受け入れています。
この過程では、弁護士の同席をめぐって学校と母親の間に考え方の違いもありました。
母親は、複数の関係生徒とその保護者が参加する場に自分一人で対応することに不安を感じ、弁護士の同席を求めています。
これに対して北星中学校側は、弁護士が同席すると、学校が想定していた謝罪の形とは異なるものになるとして、当初は否定的な姿勢を示していました。
再調査委員会は、この点について、弁護士は単なる第三者ではなく本人と母親の代理人であり、その視点を学校や市教委が持てなかったことを問題視しています。




公平中立性に疑いがある『旭川市いじめ問題再調査委員会』による「加害生徒ABに対する聴き取り調査」に、加害生徒ABの代理人(ボランティア)の同席を求めるオンライン署名
一方で、私は学校側の考え方にも一定の理由があったと思います。
学校が設けようとしていたのは、損害賠償や責任の確定について交渉する場ではなく、あくまで学校教育の一環として、関係生徒が本人や母親に謝罪する場でした。
そのため、弁護士が入ることで、教育上の謝罪の場が法的責任や示談について話し合う場へ変わってしまうことを学校側が警戒したのであれば、その懸念は理解できます。
また、関係生徒側には弁護士が付いていない中で、一方だけに弁護士が同席することについて公平性を懸念していたという話もあります。
ただし、この点については、私が確認した報告書の該当部分には明記されていません。
もちろん、母親が一人で複数の生徒や保護者と向き合うことに不安を感じたことも理解できます。
つまり、この問題は、「学校が弁護士を排除した」という一面だけで評価するのではなく、母親の安心をどう確保するかという問題と、学校が教育的な謝罪の場をどのような性格のものとして維持するかという問題が衝突していたと考える方が適切だと思います。
再調査委員会は、この経過について、母親の懸念が解消されないまま「謝罪」という形式が先行したと批判しています。
しかし、私は、この点についても少し違う見方をしています。
母親が謝罪の実施に疑問や不安を抱いていたことは、もちろん尊重されるべきですが、そのことだけを理由に、学校が問題解決の一つの方法として謝罪の場を提案したことまで不適切だったと評価する必要はないと思います。
学校には、本人と母親の気持ちだけではなく、関係生徒への教育や、事案をどのように収束させるかという問題もあります。
その中で、事実確認と指導を行い、相手側に謝罪の意思があるのであれば、その意思を被害を訴える側へ伝え、受け入れるかどうかを確認すること自体は、不自然な対応ではないと思います。
また、再調査委員会は、学校が「謝罪をもって解決することに目標を置いていた」と評価していますが、謝罪の会を実施することと、それをもって学校の全ての対応を終了すると考えていたことは同じではありません。
少なくとも報告書上、学校が「謝罪が終われば、もう何もしない」と明言した事実は確認できません。
むしろ、その前後にも本人への対応、関係生徒への追加の聞き取りや指導、転校に向けた対応などが続いています。
したがって私は、謝罪の会について、学校が調査を十分に行わないまま、形式的な謝罪だけで問題を終わらせようとしたものだったとは評価していません。
学校は事実確認を行い、関係生徒を指導し、母親の意向も確認しながら、問題解決の一つの方法として謝罪の場を設けています。
その進め方について改善の余地が全くなかったとは思いません。
しかし、謝罪という方法そのものを問題視したり、後から「謝罪という形式が先行した」と評価したりするのであれば、では、学校はその時点で具体的にどのような方法で当事者間の問題を解決すべきだったのかまで示す必要があると思います。
私は、本件の謝罪の会については、少なくとも、それ自体を学校対応の誤りとして評価するほどの問題があったとは考えていません。
第七章 母親が「もう対応しなくてよい」とした後の対応について
前章では、「謝罪の会」が実施された経緯について考えました。
その後、本人は転校することになりますが、最初の第三者委員会は、北星中学校が謝罪の会をもって本件への対応を実質的に終了させたことについて、本人への支援という視点を欠いた対応だったと厳しく評価しています。
報告書では、本人が転校したとしても、それまでに受けたとされるいじめの影響がなくなるわけではないため、転校先とも協力しながら継続的に本人を支援する必要があったとしています。
考え方そのものは理解できます。
しかし、この点を評価するうえでは、本人と母親が学校に何を求めていたのかを無視することはできないと思います。
本件では、母親が本人の転校を決め、その後、北星中学校に対してこれ以上の対応を求めないという趣旨の意向を示した経緯があります。
私は、ここを非常に重要なことだと思っています。
学校が本人や母親への対応を続けるためには、当然ながら本人や母親との連絡や面談などが必要になります。
しかし、保護者自身が「もう対応しなくてよい」と考えているにもかかわらず、学校が、
「いじめ事案だから、こちらはまだ終わっていない」
として連絡や面談を求め続ければ、今度は本人や母親の意思を無視することになります。
特に本件では、本人は精神科病院に入院しており、性的な内容を含む極めて繊細な出来事も扱われていました。
本人や母親が、これ以上この問題について学校とやり取りすることを望まないのであれば、その意思を尊重することも支援の一つだと思います。
もちろん、本人や保護者が望まないことは一切しない、ということが支援ではありません。
必要であれば、本人や保護者にとって耳の痛いことを伝えたり、希望とは異なる対応を提案したりしなければならない場合もあります。
しかし、本件では、母親が転校を決めたうえで、これ以上の対応を求めないという意思を示しています。
そのような状況で、学校側が「支援のために必要だから」と一方的に働きかけを続ければ、本人や母親の負担になったり、新たな衝突を生じさせたりする可能性もあります。
そのため私は、母親がこれ以上の直接的な対応を求めていなかったのであれば、その後、北星中学校から本人や母親への働きかけが減っていったこと自体を、学校の落ち度として評価することには賛成できません。
もちろん、学校が何も考えず、一方的に「転校するのだから、もう関係ない」と対応を打ち切ったのであれば話は別です。
しかし、本件では、それ以前に学校は関係生徒への調査と指導を行い、母親と何度もやり取りをし、謝罪の場も実施しています。
再調査委員会の報告書からも、謝罪に至るまで、母親の考えを聞きながら学校や市教委が対応を続けていたことが確認できます。
また、転校後についても、全く何もなされていないわけではありません。
転校先には一定の引き継ぎが行われ、転校先の学校では本人と母親との面談を重ねながら、本人の状況に応じた対応が行われています。
再調査委員会も、転校先の学校については、本人に寄り添いながら比較的適切な対応をしていたと評価しています。
つまり、本人や母親への直接的な支援が、その時点で完全に途切れたわけではありません。
ただし、ここで分けて考えなければならないのが、本人や母親への直接的な支援と、学校内部で重大事態として調査や報告を続ける必要があったのかという問題です。
第三者委員会は、本人や保護者が詳細な調査や公表を望まない場合であっても、それだけを理由として重大事態としての検証をしなくてよいことにはならないとしています。
この点についても、重大事態を扱う章で改めて検討します。
ここで私が分けて考えたいのは、本人・母親への直接的な支援と、学校内部の法的・組織的な手続は同じではないということです。
母親が「もう対応しなくてよい」と言ったからといって、法律上必要な内部手続まで当然になくなるとは限りません。
一方で、それを理由に、本人や母親が望んでいない直接的な支援まで学校が続けなければならないということにもなりません。
私は、この時期の北星中学校について、母親の意向を受けて本人や母親への直接的な対応を終えていったこと自体を、学校の対応の誤りだとは考えていません。
本人や保護者の意思を尊重することも、学校に求められる大切な対応だからです。
「もっと支援するべきだった」と後から言うのであれば、本人や母親がそれを望んでいない状況で、具体的にどのような支援を、どのような方法で行うべきだったのかまで考える必要があると思います。
本人や母親の意思を無視したまま、「支援を続けるべきだった」とだけ評価することには、私は賛成できません。
第八章 転校時の引き継ぎについて
本人が北星中学校から転校する際の引き継ぎについて、二つの委員会はいずれも問題を指摘しています。
最初の第三者委員会は、北星中学校から転校先に対して、本人が受けたとされるいじめの状況が十分に伝えられておらず、学校生活に関する引き継ぎも不十分だったと評価しています。
再調査委員会も、転校先には本人の特性などに関する情報は伝えられていたものの、いじめに関する具体的な情報は十分に共有されていなかったと指摘しています。
そのため、転校先の学校は、その後に本人や母親と面談する中で、本人が受けたとされるいじめや6月22日の出来事について詳しく知ることになりました。
しかし、私は、この点を本件における北星中学校の対応を批判する重要な材料として扱うことには疑問があります。
なぜなら、最初の引き継ぎが十分ではなかったことによって、本人に具体的な不利益が生じたことが確認できないからです。
転校先の学校は、その後、本人や母親との面談を通じて事情を把握しています。
そして、本人の状態や希望を踏まえながら支援を行い、教員間でも本人の状況を共有しています。
再調査委員会も、転校先の学校が本人に寄り添いながら支援を行ったことについて、肯定的に評価しています。
つまり、最初の引き継ぎに不足があったとしても、その後に必要な情報は共有され、本人への支援にもつながっています。
少なくとも二つの報告書からは、
「引き継ぎが不十分だったために必要な支援を受けられなかった」
「そのため本人の学校生活に新たな問題が生じた」
「本人の状態が悪化した」
といった具体的な不利益までは確認できません。
ここは、学校対応を評価するうえで重要な区別だと思います。
学校同士の情報共有について、
「最初からこの情報も伝えた方がよかった」
「このような方法で引き継いだ方がよかった」
という改善点を検討すること自体には意味があります。
しかし、それは基本的には、学校内部、あるいは学校間における情報共有の方法についての問題です。
その内部的な手続に改善の余地があったということと、本人に対する学校の対応に問題があったということは同じではありません。
学校対応を検証するのであれば、単に、
「もっと情報共有すべきだった」
「もっと丁寧に引き継ぐべきだった」
というだけではなく、それが行われなかったことによって、本人にどのような不利益が生じたのかまで確認する必要があると思います。
本件では、結果として転校先の学校が必要な情報を把握し、本人への支援を行っています。
そして、当初の引き継ぎの不足によって本人に具体的な不利益が生じたことも、報告書上は確認できません。
そのため私は、転校時の引き継ぎについて、学校間の情報共有の方法として改善を検討する余地はあったとしても、本人と北星中学校との関係における問題として、これを学校批判の材料にする実益はほとんどないと考えています。
学校内部の手続をより良くするための指摘と、本人に対する学校の対応を非難するための指摘は、分けて考えるべきです。
私は、この点については前者の問題にとどまると思います。
第九章 重大事態として扱うべき時点について
ここまで見てきたように、本人が6月22日に川へ入った後、学校側は比較的早い段階から事実確認を始めています。
本件では、北星中学校の教頭が実務上の中心となり、関係する学校や旭川市教育委員会と連携しながら、関係生徒への聞き取りや情報共有を進めていました。
再調査委員会も、関係生徒についてそれぞれの在籍校で聞き取りが行われ、学校間で必要な情報が共有されていたことを確認しており、この時期の事実把握そのものについては問題が認められないと評価しています。
つまり、本件について、北星中学校が何も調べず、市教委にも情報を伝えていなかったわけではありません。
むしろ、学校と市教委は情報を共有しながら、実際の対応を進めていました。
一方で、二つの委員会は、本件がいじめ防止対策推進法上の「重大事態」として正式に扱われなかったことを問題視しています。
最初の第三者委員会は、重大事態について、いじめによる重大な被害が確定してから対応を開始するのではなく、その「疑い」が生じた段階で調査を始める必要があるとしています。
そして、本人が「死にたい」などと発言して川に入り、その後、精神科病院へ入院したこと、母親からいじめを疑う情報が提供され、関係生徒への聞き取りによって複数の出来事が把握されていたことなどから、2019年6月の段階で重大事態として扱うべきだったと評価しています。
私は、遅くともこの頃には、本件を重大事態として正式な手続に移す必要があるのかを判断するべき状況になっていたと思います。
ただし、その判断責任を北星中学校に負わせることには違和感があります。
ここで分けて考える必要があるのは、実際の事実確認を誰が中心となって進めていたのかということと、重大事態としてどのような調査体制を構築するのかを誰が決めるべきだったのかということです。
本件では、北星中学校の教頭が中心となり、他校や市教委と連携して調査を進めていました。
しかし、だからといって、北星中学校の教頭が本件全体について最終的な決定権を持っていたわけではありません。
そのことは、その後の対応を見ても分かります。
例えば、謝罪の場に弁護士を同席させるかどうかについては、北星中学校と北門中学校で考え方が分かれ、結果として北門中学校側が先に謝罪の場を設けています。
私は、このような個別の対応について学校ごとに判断が異なること自体を問題だとは思いません。
謝罪の場をどのような形で設けるのか、誰の同席を認めるのかといったことについては、それぞれの学校が自校の生徒や保護者との関係を踏まえて判断する余地があるからです。
しかし、重大事態として扱うかどうかという問題は、それとは性質が違います。
重大事態として正式な調査を行うのであれば、単に学校が「重大事態として認知します」と言えば済むわけではありません。
誰を調査主体とするのか。
どのような委員を選任するのか。
どこまでを調査対象とするのか。
どの程度の期間をかけるのか。
必要な予算をどう確保するのか。
複数の学校が関係しているのであれば、それぞれの学校をどのように調査へ関与させるのか。
こうしたことまで決めて、初めて重大事態調査の具体的な枠組みができます。
本件では、複数校の生徒が関係し、実際の対応について学校ごとに判断が分かれる場面もありました。
そのような事案について、現場で聞き取りを進めていた北星中学校の教頭や、北星中学校一校だけに、重大事態としての調査全体の枠組みまで決めることを求めるのは無理があると思います。
だからこそ、私は、本件を重大事態として扱う必要があるのかを主体的に判断するべきだったのは、市教委だったと考えています。
市教委は本件について何も知らなかったわけではありません。
市教委は学校から報告を受け、学校と連携しながら対応を進めていました。
本人が川に入ったこと、その後精神科病院へ入院したこと、性的な内容を含む問題があったこと、複数校の生徒が関係していたことについても、事案への対応が続いている段階から把握していました。
その状況であれば、
「このまま各学校が連携して通常の生徒指導として対応を続けるのか」
それとも、
「重大事態として正式な調査体制を構築するのか」
を判断する責任は、市教委が負うべきだったのではないでしょうか。
最初の第三者委員会も、本件には複数校の生徒が関係していたことから、北星中学校が重大事態として報告したうえで、市教委を主体とした調査が必要である旨を具申することが適切だったとしています。
また、市教委についても、複数校の生徒が関係していることを把握した時点で、各校をまとめる中心的な立場や窓口となって対応方針を検討するべきだったと指摘し、対応の大部分を学校側の判断に委ねていた姿勢を問題視しています。
私は、この市教委に対する指摘には概ね賛成です。
一方で、
「北星中学校が重大事態として認知しなかったことが問題だった」
という形で、学校側の責任を中心に整理することには賛成できません。
本件では、北星中学校の教頭を中心として実際の事実確認が行われ、市教委もその調査と無関係だったわけではなく、学校と連携しながら情報を共有していました。
そうである以上、問題にすべきなのは、
北星中学校が「重大事態です」と宣言しなかったことではなく、学校とともに事案を把握していた市教委が、なぜ重大事態として扱う必要があるのかを主体的に判断しなかったのか
という点だと思います。
もちろん、学校側にも、把握した事実を正確に市教委へ伝え、必要であれば重大事態として扱うことを求める役割はあったと思います。
しかし、本件では、その前提となる情報自体は市教委にも共有されていました。
そして、重大事態として扱うのであれば、委員の選任、調査主体、調査範囲、期間、予算、複数校との調整など、市教委が関与しなければ決められない問題が生じます。
その意味で私は、本件を重大事態として正式に扱わなかったことに問題があるとすれば、その中心的な責任は旭川市教育委員会にあったと考えています。
第十章 警察の判断と学校によるいじめ判断の関係について
本件では、本人が6月22日に川へ入った後、警察も関係生徒への事情聴取を行っています。
学校側は警察に任せきりにしていたわけではありません。
警察による聴取と並行して、学校としても関係生徒への聞き取りを行い、他校や市教委と情報を共有しながら事実確認を進めています。
再調査委員会も、この時期の学校による聞き取りについて、警察による聴取の制約がある中でも必要な調査が行われており、事実の把握という点では問題が認められないと評価しています。
一方で、再調査委員会は、市教委が警察から伝えられた情報を、いじめ認知の判断に強く影響させたことを問題視しています。
確かに、警察が犯罪として事件化するかどうかと、学校がいじめとして認知するかどうかは同じではありません。
犯罪には当たらなくても、学校生活の中ではいじめとして扱うべき行為はあります。
しかし私は、この一般論だけで本件を評価することには慎重であるべきだと思います。
まず、本件について警察が、性的な問題をすべて「事件化できない」と判断したわけではありません。
再調査報告書には、母親が警察から受けた説明として、生徒M、最初の第三者委員会でいう上級生Eについては、児童ポルノの製造・頒布に関して「触法少年扱いで児相通告となる」と説明された旨が記録されています。
また、その後、警察から市教委に対しても、「画像の件は事件処理をした」と伝えられています。
もっとも、再調査委員会は、その「事件処理」が具体的にいつ、どのような形で行われたのかまでは確認できなかったとしています。
一方、公園で本人が自慰行為をした出来事については、警察の判断が異なります。
この出来事では、本人が自慰行為をしたこと自体ではなく、それが他の生徒から強要されたものだったのかという点が問題になります。
報告書によれば、警察が本人に事情を聞いた際、本人は、性的な画像を送ったこと、身体を触られたこと、自慰行為を強要されたことについて「覚えていない」という趣旨の回答をしています。
警察側も、本人が関係生徒をかばっているのか、本当に記憶していないのか分からないという状況だったとされています。
また、母親が警察から受けた説明として、生徒K及び他校の女子生徒2名については、強要に該当する可能性はあるものの、証拠不十分のため厳重注意となるという内容も報告書に記録されています。
つまり、警察は、
「強要などなかった」
と認定したわけではありません。
しかし同時に、
「強要されたことが確認できた」
と判断したわけでもありません。
強要に該当する可能性はあるものの、それを事件として処理できるだけの証拠までは得られなかったということだと思います。
ここで私は、「犯罪として事件化できるか」と「いじめに当たるか」という評価の違いだけではなく、その前提となる事実そのものが確認できていたのかを分けて考える必要があると思います。
例えば、ある行為が実際にあったことについて双方の認識が一致しているのであれば、警察が犯罪として扱わなくても、学校はその行為をいじめとして評価することができます。
しかし、本件のように、
「本人が強要されて自慰行為をしたのか」
という核心部分について本人自身の明確な供述が得られず、警察も証拠不十分としているのであれば、事情は違います。
学校には警察のような捜査権限はありません。
関係者の端末を強制的に押収することも、強制的に事情聴取を行うこともできません。
そのような学校に対して、
「警察が事件化できなかったとしても、学校は独自に強要されたという事実を認定するべきだった」
と当然のように求めることには、私は無理があると思います。
もちろん、本人が「覚えていない」と答えたことによって、「本人の自由な意思だった」と判断できるわけでもありません。
最初の第三者委員会は、本人が自慰行為を求められて拒否していたにもかかわらず、複数人から要求が続けられたことなどを理由として、この出来事をいじめと認定しています。
その評価が正しいかどうかについては、前の記事ですでに検討したとおり、誰が何を言い、誰がどのように関わったのかについて証言の食い違いもあります。
だからこそ、当時の学校に求められたのは、確認できない事実まで断定することではなく、確認できた事実に基づいて必要な対応をすることだったと思います。
そして本件では、学校は実際にそれを行っています。
警察による事情聴取とは別に学校独自の聞き取りを行い、複数校で情報を共有し、追加の事実確認もしています。そのうえで、本人への接触を避けること、出来事を他人に話さないこと、スマートフォンの利用について家庭でも指導することなど、確認された問題に応じた関係生徒への指導も行っています。
したがって私は、
「警察の判断に影響されたため、学校はいじめとして適切に対応できなかった」
という単純な評価には賛成できません。
確かに、警察が事件化しなかったことだけを理由として、「だからいじめではない」と判断することは適切ではありません。
しかし、本件では、学校は警察の判断だけを見て対応を終えたわけではなく、自ら調査を行い、確認できた事実に基づいて指導も行っています。
そのうえで、捜査権限を持つ警察でも証拠不十分となり、本人自身からも明確な供述を得られなかった「強要」という部分について、学校が断定しなかった。
私は、そのこと自体を学校の落ち度として評価することには賛成できません。
警察と学校では判断基準が違います。
しかし、だからといって、判断の前提となる事実まで別々に作ってよいわけではありません。
犯罪として成立しなくても、確認された行為をいじめと評価することはできます。
一方で、警察の捜査でも確認できなかった事実について、捜査権限を持たない学校だからこそ認定できたはずだと考えることにも、慎重であるべきです。
そして本件では、学校は確認できた範囲で事実を調べ、その結果に基づいて関係生徒への指導や本人側への対応を行っていました。
私は、この点については、警察の判断を一定程度参考にしたことや、確認できなかった事実まで学校が断定しなかったことを、学校対応の問題として批判することはできないと考えています。
第十一章 報道への対応について
本件では、2019年9月、地元月刊誌から北星中学校と旭川市教育委員会に取材が入り、その後、同誌の2019年10月号に本件を取り上げた記事が掲載されました。
表紙には、
「女子生徒が『いじめ』で自殺未遂 学校側は事件隠蔽に躍起」
という非常に強い見出しが掲げられています。
記事では、本人が複数の男子生徒から長期間にわたっていじめを受け、不適切な画像や動画を撮影され、それらがSNSなどで拡散され、そのことを苦にして自殺を図ったという趣旨の経過が描かれています。
さらに学校についても、いじめを本人の「妄想」のように扱い、事件を隠そうとしていたという印象を強く与える内容になっていました。
しかし、後に最初の第三者委員会が詳しく調査した結果、この記事には重要な部分で事実と異なる記載が多数含まれていたことが明らかになっています。
第三者委員会は、この記事について、本件を題材としていること自体は分かるものの、それ以外の事案の内容やその後の経過については、「事実と合致するところがないと言えるほど」杜撰なものだったと、極めて厳しく評価しています。
例えば記事では、複数の男子生徒が本人の不適切な写真や動画を何度も撮影したとされています。
しかし、第三者委員会は、そのような事実はなかったとしています。
また、本人の性的な画像や動画がSNSなどで広く拡散されたとも報じられました。
実際には、本人の画像が一つのLINEグループに送信されたことは確認されています。
しかし、そこからさらに広く拡散した事実までは確認されていません。
さらに記事では、
本人が自分の画像がSNSなどで拡散されていることを知り、それを苦にして自殺を図った
という筋書きが描かれています。
ところが第三者委員会は、本人がその画像の拡散を知っていたことをうかがわせる事実自体が認められないとしています。
つまり、
「画像が広く拡散された」
「本人がそれを知った」
「それを苦にして自殺を図った」
という記事の中心的な筋書きは、後の調査では確認されていません。
そして私は、この記事が6月22日の出来事を「自殺未遂」と断定したことについても、慎重に考える必要があると思います。
本人がこの日の公園で「死にたい」などと繰り返し発言していたことは確認されています。
本人が非常に強い精神的苦痛を抱え、そのときに死を意識するほど追い詰められていたことまで否定するつもりはありません。
しかし、
「死にたいと思っていたこと」と、「実際に死ぬことを目的として、その手段として川に入ったこと」は同じではありません。
この二つを区別しなければ、「自殺未遂」という言葉を使うだけで、本人が何を意図していたのかまで決めてしまうことになります。
実際の記事では、本人が「市内の橋から飛び降りた」と書かれていました。
しかし、第三者委員会は、そのような事実はなかったと明確にしています。
確認された経過は、それとはかなり違います。
本人は、公園で関係生徒とのやり取りの後に「死にたい」などと発言し、川の方向へ向かいました。
その後、柵を越えて川岸へ降り、学校へ電話をしています。
本人がうまく話せない状態だったため、関係生徒が電話を代わって学校に場所や状況を伝え、その後、本人が川の流れに入ったという経過です。
さらに、現場となった北光ふれあいの森公園前のウッペツ川について、私が確認している河川状況では、水深はおおむね30~40センチ程度、川幅も2メートルに満たない場所です。
もちろん、水深が浅ければ絶対に死亡することがない、という意味ではありません。
水の中では、転倒したり意識を失ったりすることで、浅い場所でも重大な事故につながる可能性はあります。
しかし、少なくとも、
深い川へ身を投げた
とか、
高い橋から川へ飛び降りた
という状況ではありません。
本人は川岸まで自分で降り、その後、比較的浅く狭い川へ入っています。
この客観的な状況まで踏まえれば、私は、本人が「死にたい」という気持ちを抱えていたことと、その川に入ることで実際に死ぬことを具体的に意図していたのかは、分けて考える必要があると思います。
むしろ、
強い精神的苦痛の中で、自分を傷つけるような危険な行動に及んだ
という意味で、自傷的な行動として見る余地も十分にあったのではないでしょうか。
少なくとも、本人の内心について十分な確認もないまま、
「いじめを苦に自殺を図った」
と断定できるほど単純な事案ではなかったと思います。
この違いは小さなものではありません。
「自殺未遂」と表現すれば、
本人は死ぬことを目的として行動した、
その直接の原因はいじめだった、
という二つの意味が、読者には強く伝わります。
しかし、本件では、そのどちらについても慎重な検討が必要です。
本人が「死にたい」と発言していたことは事実です。
しかし、その発言がそのまま具体的な自殺意思を意味するのか。
そして、その意思に基づいて、水深30~40センチ程度、川幅2メートル未満の川に、死ぬために入ったのか。
そこまでを確認できる資料はありません。
にもかかわらず、記事では「橋から飛び降りた」という事実と異なる描写まで加えられ、「いじめによる自殺未遂」という非常に分かりやすい物語にされていました。
さらに、本人が市内の病院へ救急搬送されたという記述についても、第三者委員会は、そのような事実はなかったとしています。
画像についても、警察や学校が放置していたわけではありません。
関係生徒の端末に画像が残っていることが分かると、学校は保護者に端末を持参させ、画像を削除するよう指導しています。
第三者委員会も、記事で書かれたような継続的な画像流出について、この件以外には確認されなかったとしています。
このような記事が掲載されることになった中で、北星中学校は9月17日、校長とPTA会長の連名で保護者向けの文書を配布しました。
そこには、報道について、
「ありもしないことを書かれた」
うえに、いわれのない誹謗中傷を受けたとして、学校側の強い憤りが記されています。
この文書は、その後、
「学校がいじめを否定した」
「学校が事件を隠蔽しようとした」
ことの象徴のように扱われることがあります。
しかし私は、後の第三者委員会による検証まで踏まえるのであれば、学校がこの記事に強く反発したことは当然だったと思います。
実際に、
複数の男子生徒が何度も本人を撮影したという事実はなかった。
画像がSNS上で広く拡散したことも確認されていない。
本人がその拡散を知っていたことも確認されていない。
橋から飛び降りた事実もない。
市内の病院へ救急搬送された事実もない。
そして、「画像の拡散を苦に、橋から飛び降りて自殺を図った」という記事の中心的な筋書きそのものが、確認された事実とは大きく異なっています。
これだけ重要な部分に事実と異なる記載が並び、
「いじめで自殺未遂」
「学校側は事件隠蔽に躍起」
とまで書かれたのであれば、
学校が、
「ありもしないことを書かれた」
と怒ったことを、私は不適切だったとは思いません。
しかも、これは学校側だけの言い分ではありません。
後に本件を調査した第三者委員会自身が、記事の具体的な誤りを多数指摘し、極めて杜撰な記事だったと評価しています。
第三者委員会はさらに、学校名や関係者の情報から本人が誰であるのか推測されることは容易であり、性的な被害について広く報道されたことを本人が知った際の衝撃は計り知れないとして、被害を受けた本人への配慮を欠いた報道姿勢そのものも強く非難しています。
この点も重要です。
学校が報道から守らなければならなかったのは、学校の評判だけではありません。
本人も、関係生徒も、本件と直接関係のない多数の生徒も学校に通っています。
学校名を出し、性的な内容や自殺に関する確認されていない情報を大きく報じれば、その影響は学校全体に及びます。
したがって、学校が保護者向けの文書で、生徒の人格や安全を守ろうとしたことを、
「隠蔽」
と評価することはできません。
さらに、記事が作り出した学校像と、後の調査によって確認された学校の実際の対応にも大きな隔たりがあります。
この記事を読むと、
学校はいじめを否定し、何も調べず、事件を隠し続け、外部から圧力を受けてようやく動いた
という印象を受けます。
しかし実際には、学校は6月22日の出来事の後、関係生徒への聞き取りを行い、他校、市教委、警察と連携して事実確認を進めています。
画像についても確認し、削除を指導しています。
関係生徒への指導も行い、本人や母親へ調査結果を伝え、謝罪についても調整しています。
第三者委員会は、後の報道についても、重要な事実が誤って報じられたことが、インターネット上での情報発信の過熱や、無関係な人を含む特定個人への激しいバッシングにつながったと指摘しています。
その後、本件では、
「十数人のいじめグループに囲まれていた」
「いじめグループから逃げるために川へ飛び込んだ」
「飛び込む直前に学校へ『助けてください』と電話した」
「目撃者がいじめを見て110番した」
「関係生徒がスマートフォンを初期化して証拠隠滅した」
といった話まで広く拡散されました。
第三者委員会は、これらについても、確認された事実とは異なると整理しています。
私は、この経過を見ると、2019年の記事は単に一つの誤報として終わったものではなかったと思います。
「一人の少女が集団から長期間いじめられ、性的画像を広く拡散され、それを苦に橋から飛び降りて自殺を図り、学校がその事実を隠蔽した」
という物語の原型の一つが、この段階ですでに作られていたように見えます。
その中には、実際に起きた問題も含まれています。
本人に対する不適切な性的要求があったことも、性的な画像が他人へ送られたことも事実です。
本人が「死にたい」と口にするほど苦しい状態にあったことも事実です。
だからこそ、記事全体がもっともらしく見えてしまったのだと思います。
本人が「死にたい」と言ったから、川に入った行為は必ず自殺未遂だった。
性的な画像が一部の生徒に送られたから、その画像がSNS上で広く拡散され、それを本人が知っていた。
学校に対応上の問題があったから、学校は事件を隠蔽していた。
こうした飛躍を重ねれば、事実とは違う物語が出来上がってしまいます。
本件について批判すべきことがあるのであれば、確認された事実に基づいて批判すればいい。
その報道に学校が反論したのであれば、まず検証すべきなのは、
学校がなぜ反論したのかではなく、その報道は本当に正しかったのか
ということではないでしょうか。
そして、その答えについては、後の第三者委員会自身がかなり明確に示しています。
私は、北星中学校が保護者に対して、
「ありもしないことを書かれた」
と伝えたことについては、後から明らかになった事実関係を踏まえても、十分に理解できる対応だったと考えています。
6月22日の入水については、本人が強い希死念慮を示していたことを重く受け止めるべきです。
しかし、水深30~40センチ程度、川幅2メートルにも満たない川へ入ったという行動を、本人が自らの生命を絶つことを具体的に意図した「自殺未遂」だったと評価することは困難です。
私は、この行動については、少なくとも強い精神的苦痛の中で行われた自傷的な行動だった可能性も含めて評価するべきであり、「いじめを苦にした自殺未遂」と決めつけるべきではなかったと考えています。
第十二章 学校と旭川市教育委員会の対応全体について
私は、北星中学校は、当時の学校に求められる対応をきちんと行っていたと評価しています。
6月22日以前について、学校が本人の人間関係や学校生活上の困難を全く把握していなかったわけではありません。
教員は本人の様子を注意して見守り、担任や副担任、学年内でも情報を共有しながら対応していました。
本人が上級生との交流について、うれしそうに話していたことなどを考えれば、その段階で学校が一連の関係を「いじめ」と認知しなかったことについても、私は落ち度があったとは考えません。
本人が学校生活や人間関係の中で困難を抱えていたことについて、学校全体として、さらにどのような支援が可能だったのかについては検討する余地があると思います。
しかし、それは学校が本人を放置していたという話ではありません。
後から考えれば別の方法もあり得たという程度のことまで、「学校の問題」として積み上げていけば、どのような学校対応であっても、後からいくらでも不十分だったと評価できてしまいます。
そして、6月22日に本人が川へ入った後の学校の対応を見ると、なおさら「何もしなかった」という評価は成り立ちません。
母親から性的な被害を疑う情報が伝えられると、学校は翌日から関係生徒への聞き取りを始めています。
北星中学校の教頭を中心として、複数の教職員が動き、関係する他校や市教委とも連携しながら事実確認を進めました。
警察による事情聴取が行われ、学校側の聞き取りにも制約がある中で、学校として独自に確認する必要があると考え、調査を続けています。
そして再調査委員会自身が、この時期の聞き取りについて、内容は詳細であり、学校間の情報共有も適切で、事実の把握という点では問題が認められないと評価しています。
調査しただけでもありません。
学校は、確認した事実に基づいて関係生徒を指導しています。
本人への接触を避けること、出来事を周囲に話さないこと、スマートフォンの使い方を見直すことなどを指導し、必要な画像の削除も行わせています。
謝罪についても、事実確認をせずに関係生徒を集めて形だけ謝らせたわけではありません。
母親が「全体の事実を確認するまでは謝罪を受け入れられない」という考えを示すと、その意向を尊重して調査を続け、その後、母親と条件を調整しながら謝罪の場を設けています。
その前後にも調査や指導は続いています。
したがって、
「謝罪だけさせて事件を終わらせた」
という評価も、実際の経過とは一致しません。
本人が転校することになった後についても同じです。
母親は、北星中学校にこれ以上の対応を求めないという意思を示しています。
そのような状況で、本人や母親に対して北星中学校が一方的に接触を続けなかったことを、私は問題だとは考えていません。
本人や保護者の意思を尊重することも支援だからです。
転校先にも一定の引き継ぎが行われ、その後、転校先の学校が本人や母親から事情を確認しながら支援を続けています。
再調査委員会も転校先の対応を肯定的に評価しており、当初の引き継ぎ方法によって本人に具体的な不利益が生じたことも確認されていません。
また、警察の判断についても、
「警察が事件化しなかったから、もう何もしない」
としたわけではありません。
警察による事情聴取とは別に学校自身が聞き取りを行い、確認できた事実に基づいて指導しています。
捜査権限を持つ警察ですら証拠不十分として確認できなかった事実について、捜査権限を持たない学校が断定しなかったことまで、学校の落ち度とすることはできないと思います。
そして、報道への対応についても、私は学校を批判する理由はないと考えています。
2019年の記事では、
「いじめで自殺未遂」
「学校側は事件隠蔽に躍起」
と大きく報じられました。
しかし、その後の第三者委員会による調査では、橋から飛び降りたこと、画像がSNS上で広く拡散したこと、本人がその拡散を知って自殺を図ったことなど、記事の重要部分に事実と異なる記載が多数あったことが明らかになっています。
第三者委員会自身が、その記事を極めて杜撰なものだったと評価しています。
そうである以上、北星中学校が保護者に対して、
「ありもしないことを書かれた」
と伝えたことは、隠蔽ではありません。
実際に、ありもしないことを書かれていたのです。
そのような報道から、本人、関係生徒、そして本件とは直接関係のない多数の生徒を守ろうとして学校が文書を配布したことを、私は責めることはできません。
むしろ、事実と異なる報道に学校が反論したことを、そのまま「隠蔽の証拠」のように扱ってきたことの方を、改めて検証する必要があると思います。
こうして一つずつ見ていくと、北星中学校について私が問題だと考えるような対応は、ほとんど残りません。
学校は、ちゃんとやっていた。
私は、そう評価します。
本人の様子を見守り、問題が明らかになれば調査し、関係生徒を指導し、他校や市教委、警察と連携し、母親へ説明し、謝罪の場を調整し、転校にも対応しています。
しかも、学校が事実を隠していた形跡があるどころか、市教委にも逐次情報が共有され、複数の機関が関わりながら対応が進められていました。
少なくとも、報告書から確認できる実際の経過と、
「学校はいじめを隠蔽し、何もしなかった」
という社会に広がった学校像は、全くと言っていいほど一致していません。
一方で、旭川市教育委員会については、一点、明確に問題があったと私は考えています。
それが、重大事態として正式に扱うかどうかの判断です。
ただし、市教委についても、
「何もしなかった」
と評価することは正確ではありません。
市教委は学校から報告を受け、学校と情報を共有し、必要な助言や指示を行いながら対応に関わっています。
市教委が事案を知らなかったわけでも、学校に完全に丸投げして無関心だったわけでもありません。
問題は、そのように学校と一緒に事案を把握していたにもかかわらず、重大事態として正式な調査体制に移行する必要があるのかを、自ら主体的に判断しなかったことです。
重大事態として扱うのであれば、調査主体を誰にするのか、委員をどのように選任するのか、調査範囲や期間をどうするのか、予算をどう確保するのか、複数の学校をどのように関与させるのかを決めなければなりません。
これらは北星中学校一校で決める性質のものではありません。
しかも本件では、市教委自身が学校と連携し、本人の入水、入院、性的な問題、複数校の生徒が関係する事案であることを把握していました。
だから私は、重大事態として正式に扱わなかったことについて責任を問うのであれば、その中心は北星中学校ではなく、旭川市教育委員会に置くべきだと考えています。
ただ、それも、
「市教委がいじめを隠蔽した」
という話とは別です。
重大事態についての制度上の判断を適切に行わなかったことと、事実を意図的に隠したことは同じではありません。
本件では、このような違う問題が長い間、一つの言葉でまとめられてきたように思います。
いじめと不適切な行為。
不認知と隠蔽。
手続上の問題と実際の対応。
警察が事件化できなかったことと、いじめではなかったこと。
重大事態として正式に処理しなかったことと、何も調査しなかったこと。
謝罪の場を設けたことと、謝罪だけで問題を終わらせたこと。
学校が誤報に反論したことと、事件を隠したこと。
これらは、すべて別の問題です。
それを一つにまとめて、
「いじめがあった。学校は認めなかった。だから学校は隠蔽した」
と整理すれば、非常に分かりやすい話になります。
しかし、分かりやすいことと、正しいことは同じではありません。
私は、この件について長い間、北星中学校や旭川市教育委員会が厳しく批判されてきたことを知っています。
だからこそ、今さら学校を評価するのであれば、中途半端な言い方をする必要はないと思っています。
問題があったのであれば、問題があったと書けばいい。
しかし、報告書を一つずつ読み直し、実際に何をしていたのかを確認した結果、学校が必要な対応を行っていたのであれば、そのことも同じようにはっきり書くべきです。
私は、北星中学校については、本人に起きた問題を把握した後、必要な調査、指導、連携、本人側への対応をきちんと行っていた学校だったと評価しています。
そして旭川市教育委員会については、学校とともに実際の対応を進めていた一方、重大事態として正式な調査に移行するかどうかについて、教育委員会自身が主体的に判断するべきだったと考えています。
これが、二つの調査報告書と、現在までに確認できた事実を改めて読み直したうえでの、今の私の結論です。
本件を検証することは、誰かを新しく悪者にすることではありません。
学校を守るために本人の苦しみを否定する必要もありません。
本人の苦しみを認めるために、学校がしてきたことまで無かったことにする必要もありません。
本人が苦しんでいたことは事実です。
問題のある行為をした関係生徒がいたことも事実です。
そして、北星中学校がその問題に対して、きちんと対応していたことも事実です。
私は、そのすべてを同時に認めることが、この件を正しく振り返るということだと思っています。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻























































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