はじめに
旭川の件では、彼女の死について「いじめが原因だった」という理解が広く定着しています。
実際、2019年に起きた出来事が彼女を深く傷つけ、その後の生活にも影響を残したことは否定できないと思います。
しかし、彼女が亡くなったのは、それから約1年8か月後です。
その間にも、彼女の生活にはさまざまな出来事がありました。
学校での人間関係が変わり、入院し、転校し、新しい学校にもなじめず、学業は遅れ、希望していた進路は次第に遠ざかっていきました。
家庭について悩んでいたことも、強い孤独を感じていたことも、残された記録から確認できます。
そして、こうした出来事を考える前に、もう一つ確認しておかなければならないことがあります。
彼女は、2019年に「いじめられた少女」として突然現れたわけではありません。
それ以前から、自分なりの能力、認知の仕方、価値観を持ち、人と関わり、勉強をし、将来を考えて生きていた一人の子どもでした。
その彼女が、周囲の人たちや環境との間で何を経験し、それをどのように受け止め、その後どのような苦しみを抱えるようになったのか。
私は、そこから順番に見ていきたいと思います。
この順番は重要だと思っています。
最初から「発達特性のために人間関係に問題があった子」と見るのでもなく、
最初から「いじめによって壊された子」と見るのでもありません。
まず彼女自身がどのような人だったのかを確認し、その上で、彼女と周囲との間に何が起きたのかを考えます。
そしてこの記事では、死亡原因についても、最初から一つの答えを置くつもりはありません。
ある出来事が彼女を傷つけたこと。
その出来事が、その後の精神状態に影響したこと。
死亡に至る過程に何らかの形で寄与したこと。
そして、
「その出来事がなければ、自殺は起こらなかった」
とまで言えること。
これらは同じではないからです。
例えば、
「いじめがなければ、自殺はなかった」
という可能性を考えるのであれば、同じ基準で、
「学校不適応がなければどうだったのか」
「家庭で抱えていた苦しみがなければどうだったのか」
「学業や進路を失っていく苦しさがなければどうだったのか」
「孤独がなければどうだったのか」
ということも考えなければならないと思います。
複数の要因が重なって一つの結果に至ったのであれば、そのうち複数が同時に、結果を左右する重要な条件だった可能性もあります。
だからこそ、私は特定の出来事だけを最初から特別扱いせず、できる限り同じ物差しで見ていきたいと思います。
いじめの影響を小さく見積もるためではありません。
家族や学校、まして本人に責任を押し付けるためでもありません。
彼女が実際にどのように生き、何を大切にし、何に傷つき、何を失い、それでも何を求め続けていたのか。
その経過を一つずつ確認した上で、
14歳の彼女が亡くなった原因について、残されている事実から本当はどこまで言えるのか。
最後に、そこを考えたいと思います。
目次
第一部 彼女はどんな子どもだったのか
第一章 北光小学校時代――人との関係に難しさを抱えていたことについて
→ 高い言語理解力や論理的思考力ゆえに、周囲との認識のずれや矛盾に敏感になり、人との関係に生きづらさを感じながらも、人とのつながりを強く求めていた
第二章 北星中学校入学――順調だった学校生活はいつ変わったのか
→ 複数の人間関係や出来事を重ねながら、4月後半から6月にかけて、居場所を失っていった
第二部 2019年に起きた出来事を一つずつ見る
→ 人とのつながりと、自分を受け入れてくれる居場所を失いたくない気持ちが、次第に望まないことまで受け入れてしまう一因になった。
→ 拒否や羞恥が、関係の中で繰り返し境界を越えられることによって、次第に自分でも何が嫌なのか、どこまでなら応じてもよいのか、その感覚自体が曖昧になっていった。
→ 誰がどの程度要求したのかは特定できないが、12日前には同種の性的要求を長時間拒否していたことから、自発的に望んで行ったとは考えにくく、人間関係を失いたくない気持ちや要求への諦めが、彼女の境界を越えさせた可能性が高い。
→ 人とつながるために自分を抑えるほど、本当の自分は理解されなくなり、その矛盾の中で積み重なった苦しみが「誰もわかってくれない」という言葉とともに噴き出した。
→ 強い希死念慮を伴う自傷的・危険な行動だった可能性は高いが、生命を絶つ具体的な意思を伴う「自殺企図」だったとまでは断定できない。
第三部 入院後から死亡まで
→ 希死念慮や自傷的な衝動は断続的に続いていたが、理解や安心を得ると落ち着き、勉強や将来、人とのつながりを求める気持ちも見られた。
→ 転校によって以前の人間関係から離れても、理解されない孤独や周囲との認識のずれ、自責や失敗への恐怖は残った。そのため、学校へ行きたい気持ちを持ちながらも、安定して通うことが難しかった。
第十章 学業と進路――「自分だけ置いていかれている」という苦しみ
→ 学業よりも人との繋がりを求めた。勉強は自分の能力を実感し、認められ、未来を描くための大切な支柱であったが、学校へ行けなくなり、その支柱まで失われていき、絶望感を強めていった。
→ 母親は愛情を注ぎ支えてきたと認識していた一方、本人は「理解されない」「頑張りを認めてもらえない」「結果で評価される」と感じていた。母と娘の認識には大きな隔たりがあり、母親との関係は本人の自己評価や精神状態に大きな影響を与えていた可能性がある。
→ 人とのつながりを強く求めながらも、迷惑をかけることや否定されることを恐れた。うまく人に近づけず、孤独から抜け出そうとするほど傷つく悪循環の中にいた。
→ 強い希死念慮や孤独、学校や進路への不安を抱えながらも、将来への希望は最後まで完全には失われておらず、精神状態は一方向に悪化し続けていたわけではなかった。
→ 失踪直前の言動から自殺であったことは強く推認される。直接の引き金は特定できないが、彼女は最後まで生きたい気持ちを残しながらも死ぬ方向へ自分を委ねた可能性があり、それまでの苦しみと2月13日の行動、死亡結果には因果的な連続性があると考える。
第四部 14歳の少女が亡くなった原因について
→ 「影響したこと」「死亡に寄与したこと」「それがなければ自殺は起こらなかったこと」「死亡結果まで法的責任を負うこと」は同じではない。複数の要因が同時に必要条件となることもあるため、事実的因果関係と相当因果関係を分け、それぞれの要因が死亡までの経過で果たした役割を考える必要がある。
第十六章 彼女を死に近づけたもの、彼女を生につなぎとめたもの
→ 見捨てられることへの不安から人とのつながりを強く求め、周囲との違いの中で我慢を重ねるうちに、人間関係、家庭、学校、学業、進路での苦しさと「うまくいかない」という経験が連鎖し、次第に身動きが取れなくなって自責を深めていった。一方で、人とのつながりや勉強、将来への希望は、最後まで彼女を生につなぎとめる力でもあった。
第十七章 最初の第三者委員会と再調査委員会は、なぜ違う結論になったのか
→ 最初の第三者委員会は、いじめだけでなく、学校不適応、孤独、学業上の挫折など複数の要因が重なったと考え、それぞれの寄与の程度は分からないとした。一方、再調査委員会は、いじめを起点とする精神的影響が死亡まで継続したと評価し、「いじめ被害が存在しなければ、自殺は起こらなかった」とまで判断した。両者の違いは、いじめの影響の有無ではなく、その影響を死亡までの因果関係の中でどこまで中心的に位置づけたかにある。
第十八章 「いじめがなければ自殺はなかった」と、どこまで言えるのか
→ いじめが彼女を傷つけ、その影響が死亡までの経過に関係した可能性は高い。しかし、「いじめがなければ自殺は起こらなかった」とまで確実に言うのであれば、孤独、学校不適応、家庭で感じていた苦しさ、学業や進路など、他の要因についても同じ基準で検討する必要がある。いじめとの因果関係を認めることと、いじめだけを「それがなければ自殺は起こらなかった条件」とすることは別である。
第十九章 14歳の少女が亡くなった原因について、今の私が言えること
→ 彼女の死を誰か一人のせいにすることはできない。しかし、何のせいでもなかったわけではない。いじめ、学校不適応、孤独、家庭で感じていた苦しさ、学業や進路、自責などが互いに影響しながら連鎖し、その延長線上に死亡があったと考える。どれか一つだけを「本当の原因」と決めるのではなく、彼女をそこまで追い詰めた経過全体を見る必要がある。
第一部 彼女はどんな子どもだったのか
第一章 北光小学校時代――人との関係に難しさを抱えていたことについて
彼女が亡くなった原因を考えるのであれば、中学校に入学してから起きた出来事だけを見るわけにはいかないと思います。
最初の第三者委員会も、死亡に至る過程を検証するにあたり、彼女の幼少期からの成育歴や精神医学的な特徴を理解する必要があるとして、出生時から小学校卒業まで遡って検討しています。
彼女は在胎40週6日で出生し、出生時に大きな問題はありませんでした。
1歳半頃に両親が別居し、3歳頃に離婚しています。
3歳児健診では言葉の遅れを指摘され、保育園では一人遊びを好み、友達付き合いが少なく、ルールに強くこだわる様子などが見られていました。
ただ、小学校時代の彼女を「人付き合いが苦手で、一人でいることを好んでいた子」とだけ捉えるのは違うと思います。
母親によれば、小学校時代の彼女は「元気いっぱいの女の子」で、少し目立ちたがりなところがあり、声も大きく、周囲を引っ張っていくような明るい子でした。
朝早く学校へ行き、普段はなかなか会えない校長先生や教頭先生などに会って挨拶することを楽しみにしていたともされています。
勉強も好きでした。
特に算数が得意で、運動が苦手だった彼女に対し、小学校低学年の頃、担任から「運動で1位は取れないかもしれないけれど、勉強は誰でも1位になれる」といった趣旨の言葉をかけられたことをきっかけに、勉強へ熱心に取り組むようになったとされています。
小学4年生頃からは学習塾に通い、塾のテストでは上位になることが多かったようです。
一方で、学校生活では以前から、感情や行動を調整すること、人との適切な距離を保つこと、状況に応じて自分の行動を変えることなどに難しさがありました。
例えば、授業中に居眠りをしていることを他の児童から指摘されると、怒って感情のコントロールができなくなり、教室を飛び出してしまうことがありました。
また、10歳頃には自宅の2階から飛び降りるといった行動も記録されています。
ただし、この行動について自殺の意思があったと確認されているわけではないので、後の自殺と直接結び付けて考えるべきではありません。
さらに、順番や時間へのこだわり、状況判断の苦手さ、人との距離感がつかみにくいこと、冗談が通じにくく言葉を額面どおり受け取ることなども見られていました。
こうしたことから、小学4年生の頃に精神科を受診し、自閉スペクトラム症と診断されています。
このとき行われたWISC-IVでは、全検査IQ107、言語理解119、知覚推理113、ワーキングメモリー82、処理速度96という結果でした。
第三者委員会はこの結果について、言葉の知識や言語発達の能力は高く、彼女の長所であったとしています。
また、視覚的な情報を正確に捉え、論理的に考えることも得意だった一方、人の話に集中して必要な情報を覚えることや、必要な情報へ注意を向けることなどには苦手さがあったと分析しています。
ここは、彼女のことを理解する上でかなり重要だと思います。
特に言語理解119という数字は、単に「平均より少し高かった」という程度ではありません。
WISCの標準得点の分布から見れば、高い側に位置する数値です。
つまり彼女は、言葉を理解し、言葉を使って物事を整理し、理由や関係性を考えることについて、同年代の多くの子どもより高い能力を持っていたと考えられます。
同時に、ワーキングメモリー82や処理速度96という数字については、そのまま彼女の固定的な能力として扱うことには慎重であるべきだと思います。
WISC-IVの再検査研究では、言語理解に比べてワーキングメモリーや処理速度は得点の安定性が低く、特に臨床場面では、ワーキングメモリーと処理速度は注意・集中状態の影響を受けやすい指標であることが指摘されています。
また、ストレスが注意やワーキングメモリーを含む実行機能に影響し得ることも研究で知られています。
ただし、その影響の程度や方向は、年齢、ストレスの種類、個人差などによって変わるため、単純な関係ではありません。
彼女が精神科を受診していたという事実だけから、「当時すでに慢性的なストレス状態にあった」と断定することはできません。
しかし、少なくとも、感情のコントロールが難しくなったり、衝動的な行動が現れたりするなど、何らかの困難を抱えていたために精神科を受診し、検査を受けた時期だったことは確かです。
そのため、検査時の心理状態や注意・集中状態が、特にワーキングメモリーや処理速度の結果に影響していた可能性は残ります。
より精神的に安定した状態で検査を受けていれば、それらの数値がもう少し高く出た可能性もあります。
もちろん、実際に再検査したわけではない以上、それを事実としていうことはできません。
だから、この検査から言えるのは、「彼女は言語理解だけが高く、ワーキングメモリーが低い人間だった」ということではなく、少なくともその時点の検査では、高い言語理解力や知覚推理能力に比べて、注意を維持しながら情報を一時的に処理したり、素早く作業したりする課題では十分に能力を発揮できていなかったというところまでだと思います。
そして私は、それ以上に、彼女の高い言語理解力そのものが、その後の生きづらさを考える上で重要だったのではないかと思っています。
発達特性について語られるとき、
「空気が読めない」
「人の気持ちが分からない」
という説明がよく使われます。
しかし、私はこの説明だけで彼女を見ることには違和感があります。
そもそも、人の感情は常に論理的に整理され、言葉にされているわけではありません。
人は、自分がなぜ怒っているのか自分でも分からないことがあります。
言っていることと、していることが一致しないこともあります。
昨日と言っていることが変わることもあります。
理由を説明することができず、
「なんとなく嫌だから」
「普通はそうだから」
「みんなそう思っているから」
「空気を読めば分かるから」
という形で、自分の感情や感覚を相手に受け入れるよう求めることもあります。
こうした感情そのものが間違っているという話ではありません。
ただ、十分に言語化されていない感情を他人が理解しようとすれば、そこには当然、推測が入ります。
「きっとこういう意味なのだろう」
「この人はこう感じているはずだ」
と解釈しなければならないからです。
それはある意味では、恣意的な解釈を必要とする世界でもあります。
言語理解力や論理的思考力の高い人同士であれば、感情が生じた理由について、
「私はあなたのこの言葉をこう受け取ったから傷ついた」
「私はこういう理由で怒っている」
「あなたの説明のここが理解できない」
と、言葉に置き換えながら調整できる場合があります。
しかし、社会にいるすべての人が、同じ程度に言葉で自分の感情を整理し、理由を説明することを得意としているわけではありません。
そして、彼女の言語理解力が高い側に位置していたのであれば、日常生活では、自分よりも言葉による整理や説明を得意としない人と接する方が統計的には多くなります。
私は、そこに彼女の生きづらさの一つがあったのではないかと思っています。
彼女にとっては、相手が怒っていること自体よりも、
なぜ怒っているのか説明してもらえないこと。
相手の言葉と行動が矛盾していること。
筋道を立てて考えれば納得できないことが、集団の中では「普通」として通ってしまうこと。
その方が理解しにくかった可能性があります。
そして、そのような場面で彼女が理由を求めたり、矛盾を指摘したりすれば、今度は彼女の方が、
「面倒くさい」
「空気が読めない」
「人の気持ちが分からない」
と評価されることもあり得ます。
しかし、それを彼女の落ち度として捉えるのは違うと思います。
彼女が他人の感情を理解できなかったのだとしても、それは必ずしも、彼女に他人を思いやる気持ちがなかったという意味ではありません。
むしろ当時のバウムテストでは、彼女には他者への関心が非常に強くある一方、どのように人と関わればよいのか分からず、失敗体験を繰り返すことで、寂しさや自信のなさを抱えている可能性が指摘されています。
さらに興味深いのは、彼女が「私は人の気持ちが理解できない」「できないから仕方ない」と繰り返し語っていたことについて、第三者委員会が、それを単なる共感能力の不足として処理していないことです。
報告書は、彼女が気持ちを揺さぶられる出来事を、彼女なりに知性を使って整理しようとしていたのではないかと分析しています。
私は、この部分は彼女を理解する上でとても大切だと思います。
彼女は、人の気持ちについて何も考えていなかったのではありません。
むしろ、
「なぜこの人はこう思うのだろう」
「なぜこういう行動をするのだろう」
と考えていたからこそ、理解できないことに苦しんでいた可能性があります。
高い言語理解力や論理的思考力を持っている人にとって、説明のつく複雑な問題よりも、理性で処理できない単純な感情の方が理解しにくいことがあります。
そして、彼女が暮らしていたのは、言語理解力や論理的思考力の高い人だけが集まる場所ではありません。
学校も家庭も社会も、さまざまな認知能力、価値観、感情の表し方を持った人が一緒に暮らす場所です。
その中では、言葉による説明よりも、感情、多数派の感覚、その場の空気の方が強い力を持つことがあります。
人数の多い側の感覚は、それだけで「普通」になりやすい。
私は、彼女が感じていた生きづらさは、そうした環境と彼女自身の認知の仕方との間に生まれた摩擦だったのではないかと思います。
もちろん、彼女自身にも感情のコントロールが難しくなることがありました。
対人関係でストレスを感じると、それを内面的に処理しきれず、衝動的、あるいは攻撃的な行動として表してしまいやすかったと分析されています。
その結果、周囲と仲良くしたいのに、衝動的な行動によってさらに周囲との距離が広がってしまうという悪循環も推測されています。
つまり、
人とつながりたい。
相手を理解したい。
しかし、相手の感情や行動の理由が理解できない。
強いストレスを感じる。
感情的になる。
その反応を見て、周囲が離れる。
離れられることで、さらに孤独になる。
それでもまた、人を求める。
そうした循環が、彼女の中で起きていた可能性があります。
小学5年生からは特別支援学級に在籍しながら通常学級で学び、小学6年生になると、将来の受験を考えて通常学級へ変更しています。
小学6年生時の学校資料には、興味のあることや自分がやりたいことには一生懸命取り組むこと、年下の子には優しく接することができること、自立活動ではリーダーシップを発揮していることなどが長所として記されています。
その一方で、人との距離感がつかめない、忘れ物が多い、イライラすると物に当たったり暴言を言ったりする、思いついたことをその場で言ってしまう、頭では分かっていても行動へ移すことが難しい、といった課題も記録されています。
再調査委員会も、彼女が自閉スペクトラム症であったという点では基本的に同じ見方をしています。
その上で、幼少期からの行動を改めてDSM-5-TRの基準に照らして検討し、ADHDも併存していた可能性が高いと評価しています。
ただ、私はここでも、診断名から彼女を逆算して理解することには慎重でありたいと思います。
「ASDだったから人の気持ちが分からなかった」
「ADHDだったから衝動的だった」
と説明してしまえば簡単です。
しかし、それでは彼女自身が何を見て、何に困っていたのかが消えてしまいます。
最初の第三者委員会も、彼女が亡くなった背景を検討する際には、いじめだけではなく、本人の特性が関与して生じた学校での不適応、それに伴う孤独感の増大、学業上の挫折などが抑うつ状態をもたらした可能性を挙げ、それぞれがどの程度、どのような形で関与したのかは分からないとしています。
私は、この「特性」という言葉についても、彼女自身の中だけに原因があったように読まないことが重要だと思います。
人の特性は、環境との関係によって長所にも短所にもなります。
筋道を立てて考えること。
言葉の意味を大切にすること。
矛盾を見過ごさないこと。
一つのことを深く考えること。
それ自体は欠点ではありません。
しかし、周囲と認識の仕方が大きく異なり、その違いについて説明も調整もされなければ、それらの長所が、そのまま本人を苦しめることもあります。
彼女は決して、人を必要としていなかったわけではありません。
むしろ後に本人自身が、人のことをうまく分かってあげられず喧嘩になってしまうことがあったと振り返りながら、「一人になりたくなかった」「何より一人が怖かった」と書いています。
この言葉まで含めて考えると、小学校時代から見えていた彼女の姿は、一人を好み、人間関係を避けていた子というより、
人とのつながりを強く求めているのに、人とつながることがとても難しかった子
だったように思います。
高い言語理解力や論理的思考力ゆえに、周囲との認識のずれや矛盾に敏感になり、人との関係に生きづらさを感じながらも、人とのつながりを強く求めていた。
私は、彼女の小学校時代を一文で表すのであれば、そういうことなのではないかと思います。
そして大切なのは、彼女の生きづらさが2019年に突然始まったわけではなかったということと、だからといって彼女がその後亡くなることが最初から決まっていたわけでもないということです。
彼女には苦手なことがありました。
同時に、高い能力もありました。
勉強が好きで、努力することができ、年下の子には優しく、リーダーシップを発揮することもできた。
そして将来の受験まで考えていました。
そうした彼女が2019年4月、北星中学校へ進学します。
次の章では、入学時には学校が好きで、成績も良く、将来への希望も持っていた彼女の学校生活が、いつ、どのように変わっていったのかを見ていきたいと思います。
第二章 北星中学校入学――順調だった学校生活はいつ変わったのか
2019年4月、彼女は北星中学校へ入学しました。
第一章で見たように、彼女には小学生の頃から人との関係に難しさがありました。
しかし、中学校への進学そのものを嫌がっていたわけではありません。
むしろ、入学した頃の彼女は学校生活にかなり前向きだったようです。
母親によれば、彼女は「学校が大好き」と話し、「2年生になったら生徒会に入りたい」「将来は生徒会長になって、みんなのために頑張りたい」「いつか合唱部に入りたい」といったことをよく話していました。
進学についても、旭川東高校や札幌南高校を目標としていたとされています。
学校でも、入学後しばらくは朝早く登校し、授業では積極的に発言し、他の生徒にも継続的に話しかけていました。
学級役員選挙では総務委員に立候補して当選しています。
入学後まもなく行われた学力テストでも、81人中5番という成績でした。
クラスメートからも、「すごく頭の良い子」「明るい元気な子」という印象を持たれていたとされています。
放課後には、それまでの集団指導から個別指導に変更した塾へ週4日程度通い、休日には8時間以上勉強することもあったとされています。
ここまでを見ると、少なくとも中学校入学の時点で、彼女がすでに学校生活そのものに絶望していたとは考えにくいと思います。
学校へ行きたい。
勉強を頑張りたい。
生徒会活動もしてみたい。
高校へ進学したい。
彼女には、学校の中で実現したい未来がありました。
しかし、その学校生活には、かなり早い段階から変化が現れます。
第三者委員会の調査では、4月22日、授業中に頭痛を訴えて保健室で休んだ記録があります。
同日の放課後には、掃除当番をめぐって担任が注意した生徒と彼女との間でやり取りがあり、彼女が怒って教室を飛び出しました。
担任から説明を受けて謝罪した後も、彼女は「自分はできないダメな奴だ」と自分を否定するような発言をしていたとされています。
4月24日には、学級旗の色を並べる順番をめぐって他の生徒と意見が食い違い、再び教室を飛び出して帰宅しようとしています。
さらに4月26日には、全校奉仕活動中に他の生徒と口論になり、走って帰宅しようとする出来事がありました。
つまり、彼女の中学校生活に最初の大きな変化が確認できるのは、6月の性的な出来事より前の、4月下旬です。
この点は、彼女が亡くなった原因を後で考える上でも、かなり重要だと思います。
4月中旬から下旬頃には、後に問題となる上級生たちとの交流も始まっています。
オンラインゲームをしたり、LINEを交換したり、公園で会ったりする関係が作られていきました。
しかし、それとほぼ同じ時期に、クラス内でも意見の食い違いや感情的な反応がすでに起きていました。
したがって、
「上級生との出来事が起きたから学校生活が崩れ始めた」
と、この段階から一直線に因果関係を引くことはできないと思います。
むしろ、いくつかのことが同時に進んでいました。
第一章で見た、周囲との認識のずれや矛盾に敏感になりやすい彼女の特徴が、中学校という新しい集団の中で現れる。
意見の食い違いが起きる。
感情を強く揺さぶられる。
その場から飛び出してしまう。
後になって自分の言動を振り返り、自分を責める。
そうしたことが繰り返される中で、クラスメートの側にも、彼女との接し方に戸惑う生徒が現れていったようです。
5月以降、彼女が衝動的に教室を飛び出したり、感情を露わにしたりすることが繰り返されると、クラスメートの中には彼女と距離を保ったり、話しかけられても会話を避けたりする生徒が現れるようになりました。
ここも慎重に見る必要があります。
彼女が孤立していったことと、周囲の生徒が彼女を意図的にいじめていたことは同じではありません。
第三者委員会の記録から見えるのは、彼女の反応をどう受け止めればよいのか分からず、トラブルを避けるために距離を取る生徒が出てきたという状況です。
一方、彼女自身も、自分の言動がクラスメートを困らせていることを意識していたようです。
「止めなければならない」と思いながら繰り返してしまうことにひどく落ち込み、5月末頃には、一部のクラスメートに「自分は嫌われているのではないか」と尋ねることもありました。
後に本人も、当時について、
「クラスではいつも浮いていました」
と振り返っています。
そして、自分はすぐに怒ったり、すぐに笑えなくなったりすることがあり、それには自分なりの理由があったものの、うまく言葉にできなかったこと、自閉スペクトラム症という特性があり「人のことが上手くわかってあげられませんでした」と書いています。
第一章で見た彼女の特徴が、ここで実際の学校生活の中に現れてきたように見えます。
ただし、私はこれを「彼女は特性のせいで孤立した」と単純に整理するべきではないと思います。
彼女は、なぜ周囲が自分から距離を取るのか理解しにくい。
周囲は、なぜ彼女がそこまで感情的になるのか理解しにくい。
お互いに相手の反応が理解できないまま、距離だけが広がっていった。
そう考えた方が、記録に残された状況には近いと思います。
そして、この時期に重要なのが、彼女がクラスの外にも人間関係を求めるようになっていたことです。
4月中旬から下旬頃に知り合った上級生たちとオンラインゲームをし、公園で会い、次第に交流する時間が増えていきました。
彼女自身は後に、
「いろいろな人と少しずつ関わっていくと共にとある先輩たちとも関わることがありました。その先輩たちと仲良くしようと私は頑張りました」
と振り返っています。
ここには、第一章から続く彼女の姿が見えると思います。
人間関係に難しさがあったから、人を避けたのではありません。
うまくいかないからこそ、別の場所で人とつながろうとしていた。
クラス内で自分が浮いているという感覚が強くなる中、上級生たちとの関係は、彼女にとって新しい人間関係であり、居場所になり得るものでもあったと思います。
その一方で、この頃から母親は彼女の変化を感じるようになります。
母親によれば、4月後半頃から、塾の授業に遅れることが増え、「小遣いが足りない」と言い出すようになり、部屋に閉じこもることが増えました。
帰宅時間も遅くなり、それまで一緒に出かけていた買い物や外食にも行きたがらなくなったとされています。
母親は、それまで「いつもキャッキャと楽しそうにしていた」彼女が明るさを失い始め、「がらっと、人が変わってしまった」ように感じたと述べています。
さらに6月になると、状況はより深刻になります。
母親によれば、塾を遅刻することが複数回あり、理由を尋ねると「疑うなら薬やらなかった」と答えることもありました。
また、学校を休んだ際に「お母さん、死にたい」と唐突に言うことがあり、理由を尋ねても「理由はない」と答えるだけだったとされています。
母親がいじめの有無を尋ねても、「『いじめ』ってどこから『いじめ』か、分からない」と答えていたとされています。
6月9日には、上級生に「自殺したい」と相談したLINEのやり取りが残されており、時期は特定できないものの、「自殺したい」というLINEメッセージを突然送られたと話す生徒も複数いました。
また、5月末頃からは保健室や支援学級で休むことが増え、眠気や嘔吐などの身体的不調も見られるようになります。
6月に入ると、眠気、嘔吐、頭重感、気分不快などを訴えて保健室へ行くことがほぼ毎日のようになり、教室で授業を受ける時間が減っていきました。
ここまでの経過を見ると、彼女の学校生活が変わっていった時期を、ある一日や一つの出来事だけに求めることは難しいと思います。
入学直後には、学校が好きで、成績も良く、生徒会や高校進学について具体的な希望を持っていた。
4月下旬にはクラス内で意見の食い違いや感情的な出来事が繰り返されるようになった。
同じ頃、上級生たちとの新しい人間関係が始まった。
5月にはクラスメートとの距離が広がり、自分が嫌われているのではないかと考えるようになった。
そして6月になる頃には、「死にたい」という言葉や身体的不調がはっきりと記録に現れるようになった。
つまり、順調に始まった中学校生活が、一つの事件によって突然壊れたというより、複数の人間関係や出来事が重なりながら、短い期間のうちに居場所を失っていったと見る方が、残されている記録には合っているように思います。
そして、その過程で彼女がクラスの外に求めた人間関係の一つが、上級生たちとの関係でした。
次の章では、その関係が彼女にとってどのようなものだったのか、何を求めてそこへ近づき、どのように関係が変化していったのかを見ていきたいと思います。
第二部 2019年に起きた出来事を一つずつ見る
第三章 上級生たちとの関係――彼女は何を求めていたのか
第二章で見たように、彼女は中学校へ入学した直後から学校生活に前向きで、クラスの中でも積極的に人と関わろうとしていました。
しかし、4月下旬頃からクラスメートとの間に意見の食い違いが生じ、感情的になって教室を飛び出すことが繰り返されるようになります。
その後、周囲の生徒が彼女との距離を取るようになり、彼女自身も「自分は嫌われているのではないか」と感じるようになっていきました。
その時期と重なるように始まったのが、上級生たちとの関係です。
最初の第三者委員会によれば、2019年4月中旬から下旬頃、彼女は上級生A、B、Cと知り合い、オンラインゲームをするようになりました。
その後、LINEでやり取りをしたり、公園で会ったりするようになり、学校のクラスとは別の人間関係が作られていきます。
ここで最初に確認しておきたいのは、彼女が一方的に上級生たちから近づかれ、最初から嫌々付き合っていたわけではないということです。
本人は後に、当時について、
「その先輩たちと仲良くしようと私は頑張りました」
と振り返っています。
この言葉は、上級生たちとの関係を考える上で重要だと思います。
彼女は人との関係そのものを避けていたのではありません。
第一章でも見たように、人との関係を作ることには難しさがありながら、人への関心は強く、人とつながることを求めていました。
クラスの中で自分が浮いていると感じ始めた時期に、学年の違う上級生たちとゲームをしたり、LINEで話したり、公園で一緒に過ごしたりすることができた。
それは彼女にとって、単に「悪い先輩たちと付き合い始めた」というだけの出来事ではなかったと思います。
再調査委員会も、クラス内での孤立感が強くなっていく中で、クラス外の人間関係の重要性が高まり、上級生たちとの関係が彼女にとって一つの「居場所」になり得たと考えています。
さらに、上級生の一人に対して、本人が恋愛感情に近い好意を持っていたとされる関係もありました。
つまり、この集団の中にあった感情は、恐怖や被害感情だけではありません。
好意、憧れ、楽しさ、仲間でいたいという気持ちも混在していたと考えた方が、実際の関係には近いと思います。
私は、この点を曖昧にしてはいけないと思っています。
後に問題のある行為が起きたからといって、それ以前からの関係をすべて「加害者が被害者を支配していた関係」と読み替えてしまえば、彼女自身がなぜそこにいたかったのかが分からなくなります。
同時に、最初は自分から望んで始めた関係だったからといって、その後に嫌なことを断れなかった可能性を否定することもできません。
この二つは両立します。
自分から仲良くなりたいと思って近づいたことと、その関係を失いたくないがゆえに、次第に相手の要求を断りにくくなることは、別の問題です。
彼女と上級生たちとの関係を見ると、その変化が少しずつ現れているように思います。
2019年5月中旬から6月中旬頃、彼女は公園で上級生Dに会う際、コンビニなどで菓子や飲み物を買って渡したり、その場にいた他の子どもたちにもおごったりすることを繰り返していました。
ただし、これも最初から「脅されて金を取られていた」と単純に整理できる記録ではありません。
彼女自身が進んで支払っていた場面もあったと考えられる一方、本人は後に、その関係についてかなり複雑な気持ちを記しています。
2020年に本人が当時を振り返った文章では、先輩たちと仲良くしようと頑張っていたものの、「どこからか変わっていく」ことに気付けなかったこと、いつの間にかコンビニへ行けば自分が代金を払うようになり、塾へ行く際に自分の食事や飲み物に使うはずだった金の多くを先輩たちのために使っていたことが書かれています。
そして、そのことについて、
「それも私は先輩たちといるためだと」
いう趣旨で振り返っています。
私は、ここに彼女と上級生たちとの関係を理解する重要な手掛かりがあると思います。
単に「お金を取られた」のではない。
しかし、単に「好きでおごっていた」だけでもない。
人と一緒にいること自体に、彼女が大きな価値を置いていた。
だから、自分から与えることもあった。
そして、その関係が大切になればなるほど、関係を維持するために自分がどこまで応じればよいのか、その境界線が曖昧になっていった可能性があります。
再調査委員会も、クラス内で孤立する中でクラス外の関係の比重が高まり、上級生たちとの間に「離れたくない」という関係が形成されていったことが、その後の要求を断りにくくしていった可能性を指摘しています。
この見方については、私は一定の説得力があると思います。
ただし、それをそのまま「上級生たちが彼女の孤独につけ込んで支配した」とまで読み替えるべきではありません。
記録から確認できるのは、彼女がその関係を必要としていたことと、その関係の中で次第に断りにくい要求が生まれていったことです。
上級生側が最初から彼女の孤独や特性を利用する意図を持っていたとまで確認できる資料ではありません。
むしろ、私はこの関係について、
誰か一人が最初から一方的に作り上げたというより、彼女自身の「人とつながっていたい」という強い気持ちと、上級生たちそれぞれの興味や好意、軽率さ、要求などが重なりながら、少しずつ境界線が崩れていった関係
として見る方が適切ではないかと思っています。
そして、彼女にとって最も難しかったのは、「嫌なら離れればいい」ということではなかったのだと思います。
人との関係を作ること自体が難しく、クラスでも孤立感を深めていた彼女にとって、一度できた居場所を失うことは、他の人よりも大きな意味を持っていた可能性があります。
嫌なことがある。
でも、その人たちとは一緒にいたい。
要求には応じたくない。
でも、断った先に関係が続くのか分からない。
自分から仲良くなろうとした関係だからこそ、「相手が全部悪い」と考えることも難しい。
そうした矛盾した感情の中に、彼女はいたのではないでしょうか。
もちろん、これは記録から推測できる範囲の話です。
本人がその時点で「断ったら仲良くしてもらえなくなる」と明確に語った記録まで確認できるわけではありません。
だからこそ、後から作られた分かりやすい被害者像ではなく、本人が実際に残した言葉と、当時の関係の変化を丁寧に見なければならないと思います。
彼女は上級生たちとの関係を求めていました。
その関係に楽しい部分もあった。
好意を持った相手もいた。
自分から与えたものもあった。
しかし、関係を大切にする気持ちが強かったからこそ、次第に自分の嫌なこととの境界を守ることが難しくなっていった可能性もある。
この両方を見なければ、彼女がなぜその場所から離れなかったのかも、その後なぜ傷つくことになったのかも理解できないと思います。
そして、この関係の中で、次第に性的なやり取りが現れるようになります。
次の章では、彼女が性的な画像や動画などを求められた出来事について、実際にどのような要求があり、彼女はどこで拒否し、どこで応じることになったのかを、記録から確認していきたいと思います。
第四章 性的な画像・動画などを求められたことについて
第三章では、彼女が上級生たちとの関係に、人とのつながりや居場所を求めていた可能性について書きました。
その関係の中では、性的な話題が出ることもあり、彼女自身がそうした話題に参加していた場面もありました。
しかし、6月3日に起きた出来事については、それまでの性的なやり取りとは分けて考える必要があると思います。
ここでは、彼女の拒否がかなり明確に記録されているからです。
最初の第三者委員会によると、2019年6月3日、上級生Eは、別の上級生から、彼女が以前LINEのビデオ通話中に自慰行為を見せたことがあるという話を聞きました。
その後、Eは彼女とLINEでやり取りをし、自慰行為をすることや、その様子を動画で送ることを長時間にわたって繰り返し求めました。
第三者委員会は、彼女がその要求を断っていたにもかかわらずEが要求を続け、最終的に彼女が断り切れなくなって自身の下半身の画像を送ったとして、この一連の行為をいじめと認定しています。
再調査委員会は、このときのLINEのやり取りをさらに詳しく検討しています。
それによると、Eに対応する生徒Mは、彼女のLINEの連絡先を入手して通話を始め、自慰行為をすることや、その様子を動画で送ることを求めました。
これに対して彼女は、40分以上にわたって要求を断り続けていました。
それでも要求は続き、最終的には彼女が「わかりました」という趣旨の返答をして、何らかの送信をした形跡が確認されています。
ただし、再調査委員会が確認できた資料からは、何枚の写真が送られたのか、要求されていた自慰行為の動画そのものが実際に送られたのかなど、すべてを特定することはできなかったとされています。
少なくとも写真が1枚送られたことは確認されています。
私は、この経過は非常に重要だと思います。
彼女は最初から何でも受け入れていたわけではありません。
むしろ、具体的な性的要求に対して、かなり長い時間、拒否していました。
この事実は、それ以前に彼女自身が性的な話題に参加していたことによって消えるものではありません。
性的な話をすること。
性的な冗談に参加すること。
自分の性的な経験について話すこと。
そして、自分の身体や自慰行為を相手に見せたり、写真や動画を送ったりすること。
これらはすべて別のことです。
一つについて抵抗がなかったからといって、別の行為についてまで同意していたことにはなりません。
再調査委員会も、彼女が性的な話題そのものには必ずしも拒否感を示しておらず、むしろ積極的に会話へ参加する場面もあったことを確認しています。
その一方で、自慰行為の動画を送るという具体的な要求については、一貫して拒否する様子が見られたとしています。
ここは、彼女の行動を理解するときに混同してはいけないところだと思います。
後から結果だけを見れば、
「以前にも性的なことをしていた」
「性的な話もしていた」
「最後には画像を送っている」
という事実だけが並びます。
しかし、その間にあった「嫌だという意思」を落としてしまえば、出来事の意味はまったく変わってしまいます。
最終的に要求の一部に応じたことは、その前に40分以上断り続けていた事実を、遡って同意に変えるものではありません。
私は、これまで取り上げてきた性的な出来事の中でも、この点については比較的はっきりしていると思います。
例えば、それ以前の別の上級生との性的なやり取りについては、本人が具体的な場面で明確に拒否していたことまで確認できないものもあります。
その場合には、本人が本当に望んでいたのか、関係を失いたくないために応じていたのか、後からどのように受け止めるようになったのかを分け、慎重に考える必要があります。
しかし、6月3日の生徒Mとのやり取りについては違います。
要求があった。
彼女が断った。
それでも要求が続いた。
この経過が記録として残っています。
したがって私は、この出来事については、彼女の意思が十分に尊重されなかった行為であり、いじめと評価してよいと思います。
以前の記事でも同じように評価しました。
ただ、この章で考えたいのは、それだけではありません。
なぜ彼女は、40分以上も断っていた要求に、最後には何らかの形で応じることになったのか。
そこには、第三章で見た人間関係が関係していた可能性があります。
再調査委員会は、この頃の彼女にとって、上級生たちを含む学校外の人間関係が重要な居場所になっていたことを重視しています。
また、生徒Mとのやり取りでは、相手の機嫌が悪くなったように感じた際に、彼女が「怒らないで」という趣旨のメッセージを送ったり、相手の機嫌を取ろうとするような行動も確認されています。
再調査委員会は、こうした事情も踏まえ、彼女がこの関係を維持することに強い意味を感じていた可能性を指摘しています。
もちろん、ここから、
「断ったら仲間から外されると思っていた」
「関係を失うのが怖かったから画像を送った」
と、彼女の内心を断定することはできません。
本人がその場でそこまで明確に言葉にしている記録は確認できないからです。
しかし、少なくとも、
人とのつながりを強く求めていたこと。
クラス内では孤立感を深めていたこと。
学校外の人間関係を大切にしていたこと。
具体的な性的要求には長時間抵抗していたこと。
それでも最終的には何らかの形で要求に応じていること。
これらを合わせて考えれば、単純に「最終的には本人も同意した」と処理することには無理があると思います。
彼女自身も、翌年に一連の性的な出来事を振り返り、
「私は最初断りました」
と書いています。
そして、要求が繰り返されていく中で、
「途中から羞恥心なんてありませんでした。何が何だか分かりませんでした」
という趣旨のことも残しています。
この言葉を、私は「彼女は途中から性的な行為を平気で行うようになった」と読むべきではないと思います。
むしろ、最初には存在していた拒否や羞恥が、関係の中で繰り返し境界を越えられることによって、次第に自分でも何が嫌なのか、どこまでなら応じてもよいのか、その感覚自体が曖昧になっていった可能性を考える必要があります。
ただし、それも本人の後年の言葉から考えられる一つの解釈です。
この時点で、後に彼女が亡くなるまでの因果関係を決めてしまうべきではありません。
この出来事が彼女を傷つけたことと、この出来事が約1年8か月後の死亡の必要条件だったことは、別の問題だからです。
今ここで確認できるのは、
彼女が具体的な性的要求を明確に拒否していたにもかかわらず、その要求が繰り返され、最終的に何らかの形で応じることになった。
ということです。
そして、この出来事から12日後の6月15日、今度はオンラインではなく、複数の生徒がいる公園で性的な行為を求められる出来事が起こります。
次の章では、その公園で実際に何が起き、彼女がどこまで拒否し、誰がどのように関わったのかについて、二つの報告書の違いも含めて検証したいと思います。
第五章 6月15日の公園での出来事について
2019年6月15日、彼女は複数の上級生たちと公園で過ごしている中で、最終的にその場で自慰行為をしました。
この出来事について、最初の第三者委員会と再調査委員会はいずれも「いじめ」と評価しています。
ただし、この出来事は、第四章で見た6月3日の出来事とは、事実関係の確かさがかなり違います。
6月3日については、生徒Mから自慰行為を見せたり、その動画を送ったりするよう求められた彼女が、40分以上にわたって拒否し、それでも要求が続き、最後には何らかの送信に応じたという経過が確認されています。
一方、6月15日の公園で、誰が最初に自慰行為の話を持ち出したのか、誰がどの程度要求したのか、彼女がその場でどの程度拒否していたのかについては、関係生徒の証言が一致していません。
この日、公園にいたのは、彼女のほか、北星中学校側のK・L、北門中学校側のM・N・Oでした。
Mは6月3日に彼女へ性的な要求をしていた生徒で、NとOは、この日まで彼女と面識がなかったとされています。
最初の第三者委員会は、彼女が自慰行為を求められて当初は嫌がっていたものの、関係生徒らから要求され、最終的に断り切れず行為に及んだという経過を採用しました。
しかし、再調査委員会が関係生徒の供述を改めて検討すると、その経緯について複数の異なる説明が存在することが明らかになります。
一つの説明では、6月3日の出来事について話が出た後、Kが彼女に「今できるの?」という趣旨のことを尋ね、彼女が「人が多いからできない」と答え、その後、周囲から見えにくい状態が作られて行為に及んだとされています。
別の説明では、Kが彼女について「あの子ヤバいよ」という趣旨のことを話し、自分が言えば自慰行為をするというような話をした後、彼女自身は嫌そうな様子を見せず「できますよ」と答えたとされています。
ただし、実際に行為へ移る段階では躊躇する様子があり、NとOが「やりたくなかったらやらなくてもいい」という趣旨のことを言ったとされています。
再調査委員会は、こうした供述などを検討した上で、Kが以前から彼女の性的な行動について知っていたことなどから、Kが自慰行為の話を切り出した可能性が高いと判断しています。
しかし、これは全員の証言が一致して確認された事実ではありません。
私がこれまで北星中側のKとLから聞いてきた説明は異なります。
KとLは、自慰行為の話を持ち出し、彼女に要求を続けていたのは北門中側のM・N・Oだったと説明しています。
Kによれば、M・N・Oが彼女に要求している中で自分にも意見を求められ、その場の嫌な雰囲気から早く抜け出したいという気持ちから、「やるならやれば」という趣旨の発言をしたとのことでした。
またKとLは、彼女が行為をしている際、近くにいた小学生から見えないよう、自分たちが壁になるように立っていたとも説明しています。
もちろん、この説明が正しいと私が断定することもできません。
しかし反対に、北門中側の説明をそのまま採用し、Kが中心となって彼女に自慰行為をさせたと事実として確定することにも慎重であるべきだと思います。
誰が、どの程度、彼女に要求したのかについては、今ある資料からは特定できません。
ただし、私はここから先については、もう少し踏み込んで考えてよいと思っています。
それは、彼女がこの行為を自発的に、積極的に望んで行ったとは考えにくいということです。
その最大の理由は、わずか12日前の6月3日にあります。
彼女は生徒Mから、自慰行為を見せたり、その動画を送ったりするよう求められ、40分以上も拒否していました。
つまり、少なくとも6月3日の時点で彼女には、自分の性的な行為を他人に見せることへの明確な抵抗があったことが分かります。
そして、6月15日に行われたことは、それよりもさらに心理的なハードルが高かったと考えるのが自然です。
6月3日は、少なくともLINEを介したやり取りでした。
6月15日は違います。
そこには、6月3日に彼女へ要求をしていたM本人がいました。
さらに複数の生徒がいました。
NとOについては、それまで面識さえありませんでした。
その人たちの目の前で、自ら下半身を露出し、自慰行為を直接見せる。
下半身の画像などをMに送ることすら長時間拒んでいた彼女にとって、これは相当に高い心理的なハードルだったはずです。
わずか12日間で、その羞恥心や性的な境界がほとんど失われ、自分から積極的に複数人の前で行為をしたくなったと考えるよりも、その境界を越えるだけの何らかの働きかけや人間関係上の圧力があった可能性を考える方が、直前の彼女の行動とは整合的だと思います。
もちろん、それが具体的に誰から、どのような言葉で、どの程度行われたのかは分かりません。
北星中側と北門中側の証言が食い違っている以上、
「この生徒が強く要求したからやった」
と一人に原因を求めることはできません。
しかし、要求した人物を特定できないことと、彼女が自発的に望んで行ったとは考えにくいことは、まったく別の問題です。
ここは分ける必要があります。
再調査委員会が取り上げている「できますよ」「平気」という態度についても同じです。
仮に彼女が実際にそう言っていたとしても、それをそのまま「やりたい」という意思表示として受け取るべきではないと思います。
同じ説明の中で、実際に行為へ移ろうとした際には、彼女が躊躇する様子もあったとされています。
外に向けては「平気」と言う。
しかし、身体を動かす段階では止まる。
この二つが同時に存在していたのだとすれば、むしろ彼女の外側の態度と内側の抵抗が一致していなかった可能性を考える必要があります。
また、私がこれまで聞いてきた証言の中には、彼女がほとんど躊躇する様子を見せず、平然と行為に及んでいたというものもあります。
私は、仮にこの証言が正しかったとしても、それを「だから本人も望んでいた」という方向には評価しません。
むしろ6月3日の明確な拒否を踏まえれば、そこまで平然と振る舞えるほど、彼女の中で諦めや迎合が進んでいた可能性を考えます。
拒否しても要求は終わらない。
嫌だと言い続けることにも疲れる。
その場の空気を壊したくない。
ここで断れば、この人たちとの関係がどうなるか分からない。
だったら、やってしまった方が早い。
そして、やるのであれば、恥ずかしがったり嫌がったりするより、「平気」と振る舞った方が自分自身も楽になる。
本人が本当にそのように考えていたのかは分かりません。
しかし、6月3日に長時間拒否しながら最後には応じてしまったという経験と、第三章で見た、人とのつながりを失いたくないという彼女の強い気持ちを合わせれば、十分に考えられる心理だと思います。
人は諦めたとき、必ずしも嫌そうな顔をするわけではありません。
抵抗をやめることもあります。
平然と振る舞うこともあります。
自分から身体を動かすことさえあります。
だから、
「自分でズボンを脱いだ」
「自分で行為をした」
という事実だけから、
「自分からやりたかった」
という内心を導くことはできません。
むしろ彼女の場合には、その12日前に、同じMからのより限定された性的要求を40分以上拒否していたという具体的な事実があります。
私は、この事実を重く見ます。
6月15日の彼女の内心を完全に知ることはできません。
しかし少なくとも、何の抵抗もなく、性的好奇心だけから、自発的に複数人の前で自慰行為を公開したという説明は、直前の彼女の行動と整合しにくいと思います。
彼女には本来、越えたくない境界線があった。
その境界線を自分一人では守り切れなくなり、結果として越えてしまった。
私は、現時点の記録からは、そのように考える方が妥当だと思います。
そして、そこには、彼女自身の弱さだけを見るべきではありません。
第三章で見たように、彼女は人とのつながりを強く求めていました。
人間関係を失いたくない。
仲間でいたい。
居場所を失いたくない。
そうした気持ちが強い人にとって、拒否とは単に「嫌だから断る」という行為ではありません。
断った先に、その人との関係が残るのか。
自分の居場所が残るのか。
そこまで一緒に背負わなければならないことがあります。
6月3日の彼女は、それでも40分以上拒否しました。
そして最後には応じました。
その12日後、複数人がいる場所で、さらに高いはずの境界を越えています。
この経過を見ると私は、彼女の羞恥心が突然なくなったというより、拒否する力の方が削られていった可能性を考えます。
誰がその状態を作ったのかについては、証言の食い違いがあるため断定できません。
要求を始めた者。
要求を続けた者。
その場の流れに同調した者。
「やらなくてもいい」と言った者。
周囲から見えないようにした者。
それぞれの関わり方と責任は、本来、一人ずつ分けて考えなければなりません。
だから私は、
「五人全員が、嫌がる彼女を無理やり自慰行為させた」
という形で事実を単純化することには賛成できません。
しかし同時に、
「彼女が自分でやったのだから、自発的だった」
という説明には、それ以上に賛成できません。
今ある記録から私が言えるのは、
誰がどの程度要求したのかは確定できない。
しかし、
わずか12日前には同種の性的要求を40分以上拒否していた彼女が、その要求をしていたMを含む複数人の前で、さらに羞恥を伴う行為に及んだ以上、それを積極的に望んで自発的に行ったとは考えにくく、その抵抗を乗り越えさせるだけの要求や人間関係上の圧力があった可能性は高い。
ということです。
私は、この二つを同時に見ることが、彼女にも、関係生徒にも、事実にも公平な見方だと思います。
そして、この出来事から1週間後の6月22日、彼女は同じ公園で激しく感情を乱し、
「私のことなんか何も知らないくせに」
「誰もわかってくれない」
「自分には障害がある」
「親とうまくいっていない」
「もう死にたい」
と、自分が抱えていた苦しみを言葉にします。
次の章では、その6月22日に何が起き、彼女自身がその場で何を訴えていたのかを確認していきたいと思います。
第六章 6月22日の公園で何が起きたのか
2019年6月22日に起きた出来事は、この件を考える上で非常に重要だと思います。
この後、彼女は川へ入り、精神科病院へ入院することになります。そのため、この日の出来事は後に「いじめによって自殺を図った日」として語られることが多くなりました。
しかし、私はまず、その結論から離れて、この日、彼女が何を言い、どのような行動を取っていたのかを見たいと思います。
そして、ここでは一つ注意しておかなければならないことがあります。
この日の公園で交わされた言葉について、録音や映像が残されているわけではありません。
第三者委員会が記載している経過は、その場にいた生徒や小学生などへの聞き取りを踏まえて再構成されたものです。
したがって、彼女が一字一句そのままの言葉を、この順番で話したとまで考えるべきではありません。
その一方で、複数の人がその場にいた中で行われた調査によって、彼女がこのような趣旨のことを語っていたと事実認定されている以上、当時の彼女が何に苦しんでいたのかを知るための重要な手掛かりの一つとして扱う必要があると思います。
この日、彼女は午前中から公園にいました。
午後になるとKが来て、その後Mも友人と公園に来ています。
さらに、その場には近隣の小学生5~6人がいました。
午後4時頃、東屋にいた際、Mが彼女の仕草などを真似してからかったとされています。
それが6月15日の自慰行為の様子を真似たものだった可能性も指摘されています。
彼女は「真似しないでください」という趣旨のことを言いました。
しかしMは、面白がるように真似を続け、さらに、自分が知っている彼女の秘密をその場で大声で言うような素振りをしたとされています。
すると彼女は、泣きそうな表情になって激しく怒り、Mを握り拳で叩いたり、蹴ったりしました。
この場面だけを見れば、Mから彼女への一方的な行為ではありません。
Mが彼女の嫌がることを続けたことは問題ですが、彼女の側もMを殴ったり蹴ったりしています。
また、彼女自身は後に、Mが自分をからかった理由について、自分がMの「地雷を踏んだ」からではないかという趣旨の説明もしています。
したがって、二人の間にその前から何らかのやり取りがあり、Mも感情的になっていた可能性は残ります。
ただ、私がこの場面で最も重要だと思うのは、誰が先に悪かったのかということではありません。
激しく感情を乱した彼女が、そのとき何を口にしたのかです。
第三者委員会は、彼女がMを叩いたり蹴ったりしながら、大声で怒るように、
「私のことなんか何も知らないくせに」
「誰もわかってくれない」
「自分には障害がある」
「親とうまくいっていない」
「もう死にたい」
という趣旨のことを言い続けたとしています。
私は、この一連の言葉には、この時期の彼女が抱えていた苦しみがかなり凝縮されているように思います。
第一章では、彼女には高い言語理解力や論理的思考力があり、そのために、周囲との認識のずれや矛盾を強く感じ、それを理解することに苦労していた可能性について書きました。
第三章から第五章では、その彼女が、それでも人とのつながりを求め、できた人間関係や居場所を失わないために、自分の境界線を守り切れなくなっていた可能性について見てきました。
この二つの間にあったものが、
「理解されたい」
という気持ちだったのではないかと思います。
彼女が欲しかったのは、単に誰かと同じ場所にいられることだけではなかったのではないでしょうか。
自分がなぜ怒るのか。
なぜ嫌なのか。
なぜ他の人と同じようにできないのか。
なぜこんなにも人と一緒にいたいのか。
自分が何を考え、何に困っているのか。
それを誰かに理解してほしかった。
だからこそ、
「私のことなんか何も知らないくせに」
という言葉が出たのだとすれば、これは単なる売り言葉ではなかった可能性があります。
そして、その直後に、
「誰もわかってくれない」
という言葉が続いています。
もちろん、この言葉の順番や正確な表現は証言を基にした認定ですから、そこから細かな心理まで断定することはできません。
それでも、「知らない」「わかってくれない」という二つの言葉が、彼女の激しい感情の中で出てきたことは、私は軽く扱えないと思います。
彼女は、人を必要としていました。
しかし、ただ人がそばにいれば満たされるわけではなかった。
つながりたいのに、理解されない。
ここに、彼女の生きづらさのかなり大きな部分があったのではないでしょうか。
そして、その次に出てきたとされるのが、
「自分には障害がある」
という言葉です。
これも重要です。
彼女はすでに、自閉スペクトラム症という診断を知っていました。
本来、診断は本人を責めるためのものではなく、自分の特徴を理解し、必要な支援につなげるためのものです。
しかし、彼女自身が人との関係で失敗を繰り返し、「人の気持ちが分からない」と自分を評価するようになっていたことは、第一章でも見たとおりです。
そう考えると、この日の「自分には障害がある」という言葉には、
「なぜ自分はみんなとうまくいかないのか」
という問いに対して、彼女がその原因を自分自身の中に求め始めていた可能性も感じます。
本当は、彼女だけの問題ではありません。
人との理解は相互的なものです。
彼女が周囲を理解できなかったことがあったとしても、周囲もまた彼女を理解できなかった。
それでも、多数派の中で生きていると、理解されない側の人間は、
「自分がおかしいからうまくいかない」
と考えやすくなります。
彼女は、高い言語理解力を持ち、自分の経験について考えることのできる子でした。
その能力があったからこそ、自分と周囲とのずれについて何度も考え、その説明を自分の「障害」に求めるようになっていた可能性もあると思います。
そして、さらに重要なのが、
「親とうまくいっていない」
という言葉です。
この発言も、Mとの出来事とは直接関係ありません。
もし、この日の激しい感情が6月15日の性的な出来事だけによって生じたのであれば、なぜ彼女はこの場面で、自分と親との関係まで持ち出したのでしょうか。
少なくとも、この時点の彼女の中には、上級生との関係とは別に、家庭についても苦しみがあった可能性があります。
しかも、この発言はこの場だけで終わっていません。
彼女は川から助けられた後にも「家に帰りたくない」と話し、いったん学校へ向かいます。
学校で落ち着いてからも母親には会いたくないと話し、最終的には母親と知人男性に会わないまま、女性警察官に付き添われて病院へ向かっています。
これは、家庭に何らかの虐待があったことを意味するものではありません。
そこまでの事実は、この記録からは言えません。
しかし、
「親とうまくいっていない」
と語った直後に、
「家に帰りたくない」
「母親には会いたくない」
という行動が続いている以上、当時の彼女にとって家庭関係が現実のストレスの一つだった可能性は、因果関係を考える際にも無視できないと思います。
さらに興味深いのは、彼女がその危機の中で助けを求めた相手です。
川の方へ向かった彼女は、そのまま誰にも連絡せずにいたわけではありません。
自分から学校へ電話をしています。
教師との電話の中でも「死にたい」「生きたくない」などと繰り返し、うまく話せなくなったところでKが電話を代わり、学校へ状況を説明しています。
教師が駆け付けた後にも、彼女は「先生、死にたい」と話しています。
そして、その後に彼女が向かったのも学校でした。
この事実も、私は重要だと思います。
この時点の彼女にとって、学校が単純に「自分を苦しめていた場所」であったとは言いにくい。
少なくとも、極度に混乱した状態の中で、彼女は学校に助けを求めています。
家庭には帰りたくない。
母親には会いたくない。
しかし、教師には電話をする。
この行動からだけで学校が安全基地だったと断定することはできませんが、少なくともこの瞬間、彼女が大人の助けを求める先として学校を選んだことは事実です。
そしてもう一つ、この日の彼女について見落としてはいけないことがあります。
学校で少し落ち着いた彼女は、パニックになった原因についてはっきり覚えていない、誰かに何かをされたわけではなく自分が勝手にそうなった、という趣旨の話をしています。
またMについても、謝ってほしいとは思っておらず、自分が過敏になっているせいで、相手は悪くないと思っているという趣旨の説明をしています。
これを、
「だからMは何も悪くなかった」
という意味に使うべきではありません。
彼女がやめてほしいと伝えた後にも真似を続け、秘密を言うような素振りをしたこと自体は、本人を傷つける行為だったと考えられます。
しかし同時に、この言葉は、彼女自身がこの日の出来事を、
「Mにいじめられたから自分はこうなった」
という一つの原因だけで捉えていなかったことを示す材料でもあります。
実際、その場で彼女が口にしたとされる内容も一つではありません。
理解されないこと。
自分の障害。
親との関係。
そして死にたいという気持ち。
彼女自身の言葉から見えるのは、複数の苦しみが同時に存在していた姿です。
私は、この6月22日の出来事を考える上で、ここが最も重要なのではないかと思っています。
Mのからかいは、彼女の感情が爆発するきっかけになった可能性があります。
しかし、きっかけになった出来事と、そのとき噴き出した苦しみのすべての原因は同じではありません。
むしろ、
「私のことなんか何も知らないくせに」
という言葉をきっかけに、その時まで彼女の中に積み重なっていたものが一気に外へ出た。
その中には、上級生との出来事だけではなく、人から理解されないという感覚、自分の特性についての苦しみ、家庭についての悩みまで含まれていた。
そう考える余地があります。
第一章からここまでをつなげると、一つの構図が見えてきます。
彼女には、物事を深く理解し、理由を求める力があった。
だからこそ、周囲とのずれや矛盾に苦しんだ。
それでも孤独には耐え難く、人とのつながりを求めた。
そのつながりを失いたくないために、自分の境界を譲ってしまうこともあった。
しかし、ただそこに所属できればよかったわけではない。
本当は、自分のことを分かってほしかった。
それなのに、関係を守るために自分を抑えれば抑えるほど、本当の自分は理解されなくなる。
私は、この矛盾が彼女をかなり苦しめていた可能性があると思います。
人とつながりたい。
だから相手に合わせる。
相手に合わせるほど、本当の自分は伝わらない。
そして最後には、「誰もわかってくれない」と感じる。
6月22日に彼女が語ったとされる言葉は、この循環を解明する上で非常に重要なものだと思います。
そして、その激しい感情の中で、彼女は「もう死にたい」と繰り返し、川の方へ向かいました。
彼女がこのとき死を意識するほど苦しんでいたこと自体を、私は疑いません。
しかし、
「死にたい」と思っていたことと、川へ入った行為そのものが、死ぬことを目的とした具体的な自殺企図だったことは同じではありません。
次の章では、6月22日の入水について、実際の川の状況、彼女が取った行動、学校へ電話したこと、その後の言動まで含めて、これを「自殺企図」と評価できるのかを考えたいと思います。
第七章 6月22日の入水は「自殺企図」だったのか
6月22日、彼女は公園で激しく感情を乱し、「もう死にたい」などと繰り返した後、近くを流れる川へ入りました。
この出来事は、後に彼女が亡くなった原因を考える上で、非常に重要な意味を持つことになります。
特に再調査委員会は、この日の入水を、いじめを受けた後に起きた最初の「自殺企図」と位置付け、その後の希死念慮や2021年の自殺までをつなぐ重要な出来事として評価しています。
だからこそ私は、この日の彼女に強い希死念慮があったかどうかだけではなく、
彼女は本当に、川へ入ることによって自分の生命を絶とうとしていたのか。
そこまで分けて考える必要があると思います。
まず、最初の第三者委員会が確認した実際の経過を見ます。
前章で書いたように、彼女はMから仕草を真似され、やめるよう求めても続けられ、秘密を大声で言われそうになる中で激しく感情を乱しました。
そして、Mを叩いたり蹴ったりしながら、
「私のことなんか何も知らないくせに」
「誰もわかってくれない」
「自分には障害がある」
「親とうまくいっていない」
「もう死にたい」
などと、大声で怒るように言い続けたとされています。
つまり、彼女の「死にたい」という気持ちは、川へ向かう前からすでに表れていました。
その後、彼女が「もう死にます」という趣旨のことを言った際、その場にいたKが、
「死ぬ気もないのに死ぬとか言ってんじゃねえよな」
という趣旨の発言をしています。
これに対して彼女は「うるせえ」と返し、その直後に川の方へ向かい、柵を越えました。
私は、この時系列については重く見るべきだと思います。
Kの発言より前から、彼女には「死にたい」という気持ちがありました。
したがって、この発言が彼女の希死念慮を生み出したわけではありません。
しかし、
「もう死にます」
と言った彼女に対して、
「死ぬ気もないのに死ぬとか言うな」
という趣旨の言葉が返され、
その直後に彼女が「うるせえ」と反応して川へ向かった。
この流れを見る限り、Kの発言が、彼女を川へ向かわせる直接的な引き金の一つになった可能性は高いと思います。
彼女は前章で見たように、すでに「誰もわかってくれない」と叫んでいました。
その状態にある彼女にとって、
「死ぬ気もないのに」
という言葉は、
自分が死にたいほど苦しんでいることさえ信じてもらえない
という意味で受け取られた可能性があります。
最初の第三者委員会も、この発言を、彼女が希死念慮を表している状況でさらに行動を促す可能性のある不適切な発言として厳しく評価しています。
ただし、ここでも分けなければならないことがあります。
Kが彼女を傷つける目的でこの言葉を発したのか。
Kが彼女に川へ入ってほしいと思っていたのか。
彼女が実際に川へ向かうことまでKに予測できたのか。
そして、この言葉が結果として彼女を川へ向かわせる引き金になったのか。
これらは同じではありません。
少なくとも、最初の第三者委員会が認定した事実から、「Kが彼女に死んでほしいと思って言った」とまで考えることはできません。
しかし、意図とは別に、この言葉が彼女の感情をさらに刺激し、その直後の行動につながった可能性については考える必要があると思います。
では、川へ向かった彼女は、その後どうしたのでしょうか。
ここが非常に重要です。
彼女は柵を越えた後、すぐに川へ飛び込んだわけではありません。
Kらがしばらくして様子を見に行くと、彼女は川の流れの近くの草むらに立ち、自分から学校へ電話をしていました。
彼女が電話でうまく話せない状態だったため、Kが電話を代わり、学校へ場所や状況を説明しています。
その後、彼女は川の流れに入り、膝下まで水に浸かりました。
近くにいた子どもたちなどによって川岸へ引き上げられた後も、「死にたい」「生きたくない」などと繰り返していました。
教師が到着した際にも、彼女は「先生、死にたい」と話しています。
この経過から、彼女がこのとき強い希死念慮を持っていたことについて、私はほとんど疑う余地はないと思います。
だから、
「本当は死にたくなかった」
という話をしたいわけではありません。
彼女は死にたいほど苦しかった。
これは、そのまま受け止めるべきだと思います。
しかし私は、
「死にたいと思っていたこと」と、「実際に死ぬことを目的として、その手段として川に入ったこと」は同じではない
とも思っています。
ここでは、「希死念慮」「自傷的な行動」「自殺企図」を区別して考える必要があります。
希死念慮とは、死にたい、消えたい、生きていたくないという思いを抱くことです。
自傷的な行動は、自分自身を傷つけたり、危険にさらしたりする行動を指しますが、そこに必ずしも「この行為によって死のう」という意思が存在するとは限りません。
一方、自殺企図と評価するのであれば、少なくともその行為に、自分の生命を絶つという意思が一定程度伴っていたことが必要になります。
この三つは重なることがあります。
しかし、同じではありません。
例えば、
「死にたい」
と思っている人が、強い感情の中で自分を傷つける。
その行動には死への思いが関係している。
それでも、その行為そのものを「これによって死ぬ」という目的で選んだとは限らない。
そういうことはあり得ます。
6月22日の彼女についても、この区別が必要だと思います。
自殺企図と考える方向の事実は確かにあります。
彼女は何度も「死にたい」と言っています。
「もう死にます」とも言っています。
そして、その直後に川へ向かい、柵を越え、実際に水へ入っています。
これだけを見れば、自殺企図だったと考えたくなるのは理解できます。
再調査委員会も、この出来事を自殺企図と評価し、6月22日の出来事を、いじめと希死念慮、自殺企図を直接つなぐ重要な根拠の一つにしています。
さらに、いじめの直後に自殺企図が生じたことなどから、いじめと希死念慮・自殺企図との因果関係は明らかであるという方向で評価しています。
しかし、反対側の事実もあります。
彼女は川へ向かった後、実際に水へ入る前に、自ら学校へ電話しています。
自分が「死にたい」「生きたくない」と訴えています。
その電話はKに代わり、自分がどこにいるのかも学校側に伝わっています。
そして実際に入った水は、第三者委員会の記録では膝下まででした。
さらに、これは報告書に書かれていることではなく、私自身が現場の河川状況について確認してきた範囲ですが、この場所のウッペツ川は、水深がおおむね30~40センチ程度、川幅も2メートルに満たない場所です。
もちろん、浅い川なら安全だと言いたいわけではありません。
増水していれば流される危険もあります。
転倒したり、意識を失ったりすれば、浅い水でも死亡する可能性はあります。
そして当日は雨で川が増水していました。
だから、彼女が危険な行動を取ったことを軽く見るべきではありません。
しかし、
高い橋から飛び降りた。
深い川へ身を投げた。
そのまま流れの中へ身体を沈めようとした。
という出来事が確認されているわけでもありません。
第三者委員会が確認したのは、川岸へ向かい、学校へ電話をした後、流れに入り、膝下まで水に浸かったという経過です。
この客観的な行動だけから、
彼女は「この川に入れば死ねる」と考え、その手段としてこの川を選んだ
とまで認定できるでしょうか。
私は、そこには一段の飛躍があると思います。
むしろ、この日の彼女には、
死んでしまいたいほど苦しい気持ち
と、
誰かに助けてほしい気持ち
が同時に存在していた可能性があります。
学校へ電話したことは、その一つの手掛かりです。
もちろん、助けを求めた人には自殺意思がない、という意味ではありません。
自殺しようとしている人が、同時に助けを求めることもあります。
だから、この電話だけで自殺企図を否定することもできません。
ただ、自殺企図と認定するのであれば、このような反対方向の事実も同じように扱う必要があります。
川から上がった後の彼女の行動にも、同じ両面性があります。
彼女はなお「死にたい」と繰り返していました。
その一方で、「家に帰りたくない」と訴え、いったん学校へ行き、教師たちと話しています。
教師が彼女の好きな絵やテレビ番組などの話をすると、次第に落ち着きを取り戻しました。
その後も母親には会いたくないと話し、最終的には家には帰らず病院へ向かっています。
その日の夜、精神科医は彼女について、自閉スペクトラム症、混合性不安抑うつ状態、急激な不安・衝動性の亢進に伴い、希死念慮に伴う行動化のリスクがある状態と判断し、今後さらに悪化する危険もあるとして、入院による環境調整が必要だとしています。
私は、この当日の医学的評価も重要だと思います。
医師は彼女の状態を軽く見ていません。
むしろ、希死念慮と衝動性が行動へ移る危険を認め、入院が必要なほど重大な状態だと判断しています。
しかし、この診療時の記録を見る限り、重要なのは、
「希死念慮に伴う行動化のリスク」
として捉えられていることです。
少なくとも、この記録だけから、すでに起きた入水について、
「生命を絶つ意思をもって行われた自殺企図である」
と医学的に確定されていたとは言えません。
私は、ここに最初の第三者委員会と再調査委員会との間の重要な違いがあると思います。
最初の第三者委員会は、6月22日の出来事について詳細な事実経過を記録し、彼女が強い希死念慮を示し、川へ入り、その後精神科へ入院したことを重く扱っています。
一方、再調査委員会は、その出来事をさらに一歩進めて、自殺企図と評価しました。
そして、その評価を、
いじめ
↓
希死念慮
↓
6月22日の自殺企図
↓
その後も続く精神症状
↓
2021年の自殺
という因果関係を考える上での重要な橋の一つにしています。
だから、「自殺企図」という言葉を使うかどうかは、単なる表現の違いではありません。
もし6月22日を、
「いじめを受けた直後に起きた最初の自殺企図」
と確定すれば、その後の彼女の死までを一本の線で結びやすくなります。
しかし、その最初の前提に不確かさがあるのであれば、その不確かさを残したまま後の因果関係を考えなければならないと思います。
私は、6月22日の出来事が自殺企図ではなかったと断定したいわけではありません。
それもまた、本人の内心を決めつけることになるからです。
私が言いたいのは、
自殺企図だったと断定するだけの根拠があるのか
ということです。
彼女には明確な希死念慮がありました。
その中で、衝動的に危険な行動に及びました。
その行動には、「死にたい」という気持ちが深く関係していた可能性があります。
だから私は、少なくとも、
強い希死念慮を伴った自傷的、あるいは自らを危険にさらす行動
であった可能性は高いと思います。
しかし、
「その川に入ることによって自分の生命を絶とうとした」
という具体的な意思まで確認できる資料は見当たりません。
そして、この違いは彼女の苦しみを小さくするものでもありません。
自殺企図でなければ大したことではなかった、という話ではないからです。
死にたいほど苦しみ、自分を危険にさらすほど感情や衝動を制御できなくなっていた。
それだけで、十分に深刻です。
むしろ、その状態を正確に理解するためには、すべてを「自殺未遂」という一語にまとめない方がいいと思います。
彼女が何を感じていたのか。
死にたい気持ちはどれほど強かったのか。
それでもなぜ学校へ電話したのか。
なぜ家には帰りたくなかったのか。
そして、なぜこのような危険な行動にまで至ったのか。
その一つ一つを残しておいた方が、彼女の状態をより正確に見ることができます。
私は6月22日について、
強い希死念慮が存在し、Kの発言が川へ向かう直接的な引き金の一つになり、その後、希死念慮と強い衝動性の中で自傷的・危険な入水行動に及んだ。
しかし、その入水自体が、生命を絶つことを具体的な目的とした「自殺企図」だったとまでは断定できない。
そう考えるのが、現在残されている事実に最も近いと思います。
そして、この違いは、この先の記事で再調査委員会による因果関係判断を検証する際に、もう一度重要になります。
この日の夜、彼女は精神科病院へ入院しました。
次の章では、入院直後から退院までの診療記録を見ながら、彼女の精神状態が当時どのように捉えられていたのかを確認していきたいと思います。
第三部 入院後から死亡まで
第八章 入院中の精神状態について
6月22日の出来事の後、彼女はその日のうちにN病院を受診し、そのまま精神科病院へ入院することになりました。
前章で見たように、この日の彼女には強い希死念慮があり、感情や衝動を自分だけでは十分に制御できない状態にありました。
N病院を受診した際、医師は彼女について、自閉スペクトラム症に加えて「混合性不安抑うつ状態」、そして急激な不安や衝動性の亢進によって希死念慮に伴う行動化の危険があり、今後さらに状態が悪化する可能性もあるとして、入院による環境調整が必要だと判断しています。
本人は、入院によって携帯電話が使えなくなり、友人と連絡できなくなることを心配して入院に同意することが難しかったため、最終的には母親の同意による医療保護入院となりました。
この時点で彼女の状態が深刻だったことは、疑う必要がないと思います。
ただし、入院後の記録を時系列で追ってみると、彼女の精神状態は、ずっと同じ強さで悪化し続けていたわけではありません。
そこには、激しい不安や希死念慮、自傷的な行動が現れる時期と、落ち着いて他の患者と交流し、勉強や趣味を楽しみ、将来について話すことのできる時期が混在しています。
私は、この「揺れ」をそのまま見ることが重要だと思っています。
6月23日の朝、彼女は看護師に「寝れました。三度寝くらいしました」と話し、朝食も完食しています。
翌24日の朝には、食事の前までは機嫌よく他の患者と交流していました。
ただし、食後には頭痛を訴え、不機嫌さが目立つようになります。
同日の主治医との面談では、
「学校早く行きたい、勉強遅れちゃうから、出席日数も気になるし」
という趣旨のことを話し、旭川東高校への進学、さらに北海道大学を目指したいとも語っています。
これは重要だと思います。
6月22日に「死にたい」と繰り返し、翌日には精神科病院へ入院した彼女が、そのわずか数日後には、
学校へ戻りたい。
勉強が遅れることが心配だ。
高校へ進学したい。
大学へ行きたい。
と未来のことを考えていました。
もちろん、将来の希望を語ったからといって希死念慮がなかったことにはなりません。
人は、死にたい気持ちを抱えながら、同時に未来への希望を持つことがあります。
しかし少なくとも、彼女の精神状態を、
「6月22日を境に、生きる希望を失って一方向に悪化していった」
という形で理解することはできないと思います。
実際、この面談後、彼女は自発的に卓球へ参加し、医療記録には表情も明るかったと記されています。
25日にはアクセサリー作り、26日にはカラオケへ自発的に参加し、終始穏やかだったため、隔離室から多床室へ移っています。
しかし、落ち着いた状態はそのまま続きませんでした。
6月27日には、他の男性患者から悪口を言われたことをきっかけに感情を失禁し、靴を脱ぎ捨てて走るなどの行動が見られています。
一方、その後のストレッチや体力作りには穏やかに参加できています。
6月30日には、自傷行為が悪いことは分かっているが「したい気持ちが持続している」という趣旨のことを看護師に話しています。
ここでも、彼女の状態は一定ではありません。
人との関係で何かが起きる。
感情が急激に高まる。
自分や物に向かって衝動が出る。
しかし、しばらくすると落ち着き、別の活動に参加できる。
この変化が何度も現れます。
そして7月1日の記録には、彼女の苦しみを考える上で、とても重要な言葉が残っています。
病室で泣いていた彼女は、他の患者との距離感をめぐる出来事について話す中で、
「みんなを困らせる」
「だけど一人でいるのも辛い」
「もう死にたい」
という趣旨のことを語っています。
私は、この言葉は第一章からここまで見てきた彼女の生きづらさと、かなり強くつながっていると思います。
彼女が苦しんでいたのは、単純に「一人にされたこと」だけではありません。
人と近づけば、距離感が分からなくなり、相手とうまくいかなくなる。
相手とうまくいかなくなれば、自分が迷惑をかけていると考える。
だから離れなければならないと思う。
しかし、一人になることにも耐えられない。
人と一緒にいることも苦しい。
一人でいることも苦しい。
この間から抜けられなくなっていたように見えます。
そして、この時にも「もう死にたい」という言葉が出ています。
ところが、看護師から他の患者との距離の取り方について具体的な説明を受けると、彼女はその説明を理解し、表情が和らぎ、希死念慮も落ち着いたと記録されています。
その後はホールで勉強し、午後には卓球にも参加しています。
私は、この変化にも注目したいと思います。
彼女の「死にたい」という言葉は決して軽いものではありません。
しかし同時に、その強さは固定されたものでもなかった。
人との関係で傷ついたり、理解できないことが起きたりすると急激に高まり、誰かが状況を整理して説明し、自分の気持ちを受け止めてくれると落ち着く。
そういう形で変動していた可能性があります。
7月2日にも、彼女は「うまくやっていこうと思ったのに、できない」という趣旨のことを大声で訴え、スリッパを投げるなどしています。
その一方、作業療法の場では落ち着いて作品を作り、人間関係のトラブルについては「私が悪いんだ」と自罰的に話しながらも、寂しさから「また話したい」と語っています。
ここにも同じ構造があります。
人と関わりたい。
しかし、うまく関われない。
失敗すると自分を責める。
もう関わらない方がいいと思う。
でも、寂しくなってまた人を求める。
彼女の精神状態を考える上で、これはかなり重要な循環だったのではないかと思います。
N病院への入院初期には、母親との面会で、Kにあたる生徒へ早く連絡しなければならない、謝らなければならないという趣旨のことを何度も話していたともされています。
時間が経つにつれ、そのような訴えは見られなくなっていきました。
この事実も、単純ではありません。
彼女が6月22日の出来事について傷ついていなかったという意味ではありません。
ただ、直後の彼女の中には、関係生徒を一方的な加害者として遠ざけたいという気持ちだけではなく、関係を修復したい、謝りたい、もう一度つながりたいという気持ちも存在していたことになります。
7月8日、彼女はO病院へ転院します。
転院当日の看護記録には、「理解力はあり、他患との交流が多く活発である」と記されています。
7月10日にも、デイルームで過ごし、他の患者とゲームをしたり、グループで交流したりしていました。
しかし、その後も精神状態は大きく揺れます。
7月11日には警察官から事情聴取を受けました。
彼女は、画像を送らされたこと、身体を触られたこと、公園で自慰行為を求められたことについて「全て覚えていない」と答えています。
事情聴取の後、母親から見ると、わざと明るく振る舞っているように見えた一方、精神的には不安定になった様子があり、翌日の記録には、母親に怒鳴ったり、ペットボトルで自分の手や腕を叩いたりする行動が記録されています。
7月13日から15日頃には大きな不穏行動は見られず、他の患者と過ごしたり、ゲームやテレビを楽しんだりしています。
しかし19日には再び急激に感情が高まり、廊下で大声を出し、壁を蹴り、看護師に暴言を吐きました。
落ち着いた後には、
「頑張ってないって言われることが嫌」
「必死こいて頑張っているのに、努力しても認められない」
という趣旨のことを泣きながら訴えています。
私は、この言葉にも彼女らしさが表れているように思います。
単に感情的になったのではありません。
彼女の中には、
自分はこれだけ努力しているのに、その努力を理解してもらえない。
という強い苦しさがあった。
第一章で見たように、彼女はもともと勉強にも熱心で、努力することに大きな価値を置いていました。
人間関係についても同じだったのかもしれません。
自分では頑張っている。
相手を理解しようとしている。
うまくやろうとしている。
それなのに失敗し、「頑張っていない」「分かっていない」と評価される。
そのことが、彼女の自己評価を強く傷つけていた可能性があります。
翌20日には、さらに激しい状態が記録されています。
ホールで他の患者と過ごしていた彼女は、突然お茶をばらまき、
「私が全部悪いんだ」
「わかんない」
「何もかもどうでもいい」
「死にたい」
などと言いながら、手すりや椅子などを蹴る行動を取りました。
保護室へ移った後にも過呼吸となり、自分の胸や太ももを叩こうとし、手の震えが強く、言葉を発することも難しい状態になっています。
これは明らかに深刻な状態です。
しかし、その翌21日にはホールでゲームをし、他の患者とのトラブルなく過ごしています。
夜になると、一人でいることが怖いと訴えたため、眠るまで看護師が付き添っています。
22日には、
「我慢しなきゃよかった。なんであたしだけ」
と泣きながら話し、
「人のことが分からない」
「普通じゃないんだって」
という趣旨の言葉も残しています。
そして翌23日には、
「死にたい」
「どうしていいかわからない」
「何が最適かわからない」
と訴えた上で、4人部屋では人がいて休めないが、1人部屋では孤独で眠れないという趣旨のことを話しています。
私は、この言葉は入院中の彼女を象徴していると思います。
人がいると疲れる。
しかし、一人になると孤独に耐えられない。
近づきたいのに、近づくとうまくいかない。
離れたいのに、離れると寂しい。
これは、6月22日に突然生まれた問題ではありません。
小学校時代から確認されていた、人とつながりたい気持ちと、人との距離を調整する難しさが、強い精神的ストレスの中でさらに深刻な形になって現れていたように見えます。
その後は比較的落ち着いた日も増え、7月31日には一人で穏やかに過ごしていたと記録されています。
8月1日には、
「今まで頑張ってやってきたことが無駄なような気がしてきた」
「誰かが悪い訳じゃなくて自分が嫌になる」
という趣旨のことを話す一方、「早く家に帰りたい」とも訴えています。
この日の看護記録では、笑顔もあり、他の患者との関係で大きなトラブルもなく、大声を出したり自分の身体を叩いたりする行動も見られなかったとされています。
そして8月4日、彼女はO病院を退院しました。
ここまでの入院記録から、私は少なくとも三つのことが分かると思います。
一つは、彼女の精神状態が非常に不安定であり、希死念慮や自傷的な行動を繰り返していたことです。
これは軽く見ることはできません。
二つ目は、その状態が一定ではなく、大きく変動していたことです。
死にたいと訴える日がある。
自分を叩こうとする日がある。
その翌日にはゲームをする。
卓球をする。
作品を作る。
教師と勉強する。
高校や大学について話す。
他の患者と笑って過ごす。
つまり、彼女の中では、死にたい気持ちと、生きようとする力や未来への関心が同時に存在していました。
そして三つ目は、精神状態が悪化する場面のかなり多くに、人間関係が関係していたことです。
相手との距離をどう取ればいいのか分からない。
拒絶されたと感じる。
自分の努力を認めてもらえないと感じる。
人に迷惑をかけたと思って自分を責める。
一人になると孤独になる。
そうした出来事の後に、感情が急激に高まり、「死にたい」という言葉や自傷的な行動が現れています。
これは、性的な出来事の影響がなかったという意味ではありません。
警察から性的な出来事について事情を聞かれた後に精神状態が不安定になったことも記録されています。
一方で、入院中に起きたすべての不調を、性的な出来事だけから説明することも難しいと思います。
実際の記録では、他の患者との些細な言葉の行き違い、距離感、孤独、自責感、努力を認めてもらえない感覚など、さまざまなことが彼女の感情を大きく揺さぶっています。
そして、この時点の医療記録で確認できる診断・評価と、その後の委員会による評価も分けておく必要があります。
6月22日のN病院受診時に確認できるのは、自閉スペクトラム症、混合性不安抑うつ状態、急激な不安や衝動性、希死念慮に伴う行動化のリスクという評価です。
一方、再調査委員会は数年後、当時の記録やその後のSNSなどをDSM-5-TRの基準に照らして再検討し、彼女にはいじめを外傷的ストレス因としてPTSDが発症していたと評価しています。
この二つは同じものではありません。
当時、医師が目の前の彼女をどのように診ていたのか。
後から集めた資料を委員会がどのように再解釈したのか。
私は、この二つを分けた上で、後の章で改めて検討したいと思います。
少なくとも入院中の記録から直接見える彼女は、
強い希死念慮や自傷的な衝動を抱えながらも、その状態は大きく揺れ動き、人との関係で傷つくと急激に悪化し、理解や安心を得ると落ち着き、勉強や将来、人とのつながりを求め続けていた子ども
だったように思います。
そして退院後、彼女は新しい学校へ進むことになります。
しかし、場所を変えても、人との関係、孤独、学校生活、そして将来をめぐる苦しさがなくなることはありませんでした。
次の章では、永山南中学校へ転校した後の彼女について見ていきたいと思います。
第九章 永山南中学校――転校しても苦しさは終わらなかった
2019年8月、彼女は北星中学校を離れ、永山南中学校へ転校しました。
それまで関わっていた上級生たちから離れ、学校も生活環境も変わりました。
6月22日の出来事と、その後の入院を経て、これまでとは違う場所で学校生活をやり直すことになります。
しかし、転校した時点で、彼女が学校や将来を諦めていたわけではありません。
8月9日に北星中学校の教員と話した際には、新しい学校には知り合いがいないため友達ができるか心配だと話しながらも、公立の進学校へ進みたい、成績には自信があるという趣旨のことを語っています。
つまり彼女は、新しい環境に不安を感じながらも、
勉強を続けたい。
高校へ進学したい。
新しい人間関係も作りたい。
という気持ちを持っていました。
永山南中学校では、彼女は特別支援学級に在籍し、可能な授業について通常学級で受け、難しい場合には支援学級へ戻るという形で学校生活を始めます。
学校側へ引き継がれた資料では、彼女について、明るく、人懐っこく、学習意欲が高く、決まりを守って生活することができるといった長所が記されています。
その一方で、急な予定変更への対応、人との距離、相手の気持ちや言葉を理解することなどについて配慮が必要だとも整理されていました。
再調査委員会も、このような情報が転校先へ共有されていた経過を記録しています。
ただ、私はここで、これらをそのまま「彼女の能力が足りなかった部分」として読むことには賛成できません。
第一章で見たように、彼女には高い言語理解力と論理的思考力がありました。
そして、周囲の生徒たちとの言語理解力そのものを比較した検査があるわけではありませんが、彼女の能力が相対的に高かったことを考えれば、彼女と周囲との間に、物事を理解するときの前提や、説明に求める精度の違いが生じていた可能性は考える必要があります。
人は、言葉だけを聞いて相手の感情を理解しているわけではありません。
その人が何を知っているのか。
それまでに何があったのか。
その言葉がどのような文脈で発せられたのか。
なぜその表情になったのか。
そうした前提を組み合わせて、初めて相手の表情や言葉の意味を推測します。
だから、そもそもの前提理解が食い違っていれば、表情だけを見て相手の気持ちを正確に読み取ることも難しくなります。
彼女だけが周囲を理解できなかったのではありません。
周囲もまた、彼女が何を考え、なぜその反応をするのかを理解できていませんでした。
私は、この相互の理解のずれを、彼女だけの「発達上の問題」として整理するべきではないと思っています。
そして、学校や子どもの集団には、必ずしも合理的に言語化されたルールだけが存在しているわけではありません。
「普通はこうする」
「なんとなく分かるだろう」
「みんなそうしている」
という形で、理由が十分に説明されないまま運用されていることもあります。
そうした曖昧な了解は、集団の中で体当たりの試行錯誤を繰り返しながら身につける人にとっては問題にならなくても、物事の理由や整合性を脳みそ(言葉や論理)で理解しようとする人にとっては、かえって分かりにくい場合があります。
彼女にとっての生きづらさは、能力が低かったから周囲に合わせられなかったというより、「能力の高さが周囲の環境と噛み合っていなかった」ことによって生じていた可能性を考える必要があると思います。
転校後、そのずれはすぐに現れます。
通常学級で数時間授業を受けることができても、自分から「無理」と申し出て支援学級へ戻る。
学校を欠席する。
通常学級へ行こうとしても途中で戻ってくる。
調理実習では、手を洗った際にハンカチがないことからパニックになり、その後は支援学級で過ごしています。
この「ハンカチがなかった」という出来事も、私は単純に、
「予定外の出来事に弱かった」
とは読みません。
予定外の出来事に柔軟に対応するためには、
「多少失敗しても何とかできる」
「分からなくても誰かに聞けば大丈夫」
「間違えても取り返せる」
という経験の積み重ねが必要です。
しかし彼女は、人との関係で認識が食い違い、自分なりに考えて行動しても理解されず、感情的になった後には自分を責めるという経験を繰り返していました。
そうした中で、自分の判断への安心感や成功体験を十分に積み上げることができなかった可能性があります。
そうであれば、予定外のことが起きた際に強い不安が生じることを、単純な能力不足として説明するべきではありません。
本来持っていた能力を安心して使える環境が十分に作られていなかった可能性も考える必要があります。
9月6日、転校から約3週間後、彼女は支援学級の担任と学校生活について振り返っています。
このとき彼女は、高校には行きたい、進学校を希望しているものの、場合によってはレベルを下げたり通信制を選んだりすることも考えていると話しています。
通常学級では十分な人間関係を作れておらず、話のできる女子生徒は3人ほど、男子生徒はいないとも説明しています。
一方、支援学級については、
「皆何かもっているからお互い理解できる」
という趣旨のことを話しています。
私は、この言葉を非常に重要だと思っています。
彼女にとって必要だったのは、単に「特性を持つ人たち」がいる場所だったのではないと思います。
説明しなくても分かってもらえること。
あるいは、少なくとも、
「おかしい」と決めつけられず、お互いに理解しようとすること。
それがある場所では、彼女は安心できたのではないでしょうか。
そして、このことは、人との「距離感」の問題についても別の見方を可能にします。
彼女は、人との距離が近すぎると評価されることがありました。
しかし、私はそれを単純に「適切な距離を理解できない」という能力の問題として見るべきではないと思います。
第一章から繰り返し見てきたように、彼女は人とのつながりを非常に強く求めていました。
一方で、自分を理解してもらえないという孤独も強く感じていました。
そうした人が、自分を理解してくれそうな相手を見つければ、その関係を強く求めることは不自然ではありません。
つまり彼女の人との距離の近さには、
理解されない孤独から、理解してくれる人とのつながりを強く求めた結果
という側面があった可能性があります。
「距離感が分からなかった」のではなく、
ようやく見つけたつながりを失いたくなかった。
第三章から第五章で見てきた上級生たちとの関係にも、同じ構造があったと思います。
そして9月6日の面談で、彼女はさらに重要なことを話しています。
北星中学校では通常学級で頑張り過ぎ、
「息詰まって爆発したんだと思う」
という趣旨のことを述べ、
「あんな気持ちになるなら、通常学級に戻りたくない」
とも話しています。
再調査委員会の報告書にも、この発言と、勉強が遅れているため通常学級へ戻らなければならないと理解しながらも気持ちがついていかないという葛藤が記されています。
この本人の説明は、とても重要です。
彼女自身は、
「上級生にいじめられたから学校へ行けない」
とだけ説明していたわけではありません。
集団の中で頑張り続けたこと。
周囲に合わせ続けたこと。
その結果、自分が耐えられなくなったこと。
そこまで自分なりに分析していました。
私は、「頑張り過ぎた」という言葉も、彼女の能力の低さではなく、むしろ逆から考えたいと思います。
彼女には、周囲と違うことに気付き、それを理解しようとする力があった。
だからこそ、
なぜ相手はそう考えるのか。
なぜ自分の説明では伝わらないのか。
なぜ自分には合理的に見えないことを周囲は当然のように受け入れているのか。
その一つ一つを考え続けた可能性があります。
しかし、集団の側が自分たちの前提を十分に言語化しなければ、彼女だけが答えのない問題を解き続けることになります。
それでも孤立したくないから合わせる。
合わせ続ければ疲れる。
疲れて感情が崩れる。
感情が崩れると、今度は自分が周囲に迷惑をかけたと考える。
そして、ますますその集団へ戻りづらくなる。
私は、彼女の学校不適応には、この循環があった可能性を考えています。
もちろん、通常学級で過ごせない状態がずっと続いていたわけではありません。
9月13日の学校祭では通常学級の生徒たちと合唱コンクールへ参加し、9月中旬には毎朝登校して、体育、家庭科、調理実習、校外学習などにも参加しています。
学校へ行ける。
人と一緒に活動できる。
楽しい時間を過ごせる。
しかし、何かが噛み合わなくなると、急激に不安定になる。
第八章で見た入院中の状態と同じように、学校生活も大きく揺れていました。
また、北星中学校で起きた出来事の影響が消えていたわけでもありません。
9月には地元月刊誌で北星中学校での出来事が報道されることを知り、自分のことが周囲に知られるのではないかと不安を感じています。
再調査委員会も、この報道をめぐる本人と母親の不安を取り上げています。
過去の性的な出来事や報道によって、人からどう見られるのかという不安が強くなっていた可能性は十分にあります。
しかし同時に、
いじめの影響が残っていたことと、転校後に起きたすべての学校不適応がいじめから生じたことは同じではありません。
10月28日には、同学年の男子生徒から別の男子生徒を待っているのかという趣旨でからかわれ、彼女が激しく怒り、「殺すぞ」という趣旨の暴言を口にして、蹴ろうとする出来事が起きました。
帰宅した後には、多くの生徒がいる前で泣き叫んでしまったので学校へ行きづらい、相手に謝りたいがどうすればよいか分からないと話しています。
学校側は、すぐに謝罪させるのではなく、本人が落ち着いた後に謝る機会を作りました。
ここでも彼女は、
傷つけられたから学校へ行けない、
とだけ考えているわけではありません。
むしろ、
自分が人に迷惑をかけてしまった。
合わせる顔がない。
だから自分が学校へ行かない方がいい。
という方向へ考えています。
私は、この強い自責を重く見る必要があると思います。
彼女は周囲を理解しようとしていた。
自分自身の行動も分析していた。
そして、うまくいかなかったときには、非常に強く自分の側へ責任を引き寄せていました。
11月になると、彼女は通常学級へ戻ることについて、
「今の状況だと通常学級に入ってもパニックになって、また人に迷惑をかけたり、ぐちゃぐちゃになって行きづらくなると思う」
という趣旨のことを話しています。
これは、
「通常学級の人が怖い」
という一言では説明できません。
彼女が恐れていたものの一つは、
自分の能力が通用しないことではなく、自分なりに考えて行動しても周囲と噛み合わず、また失敗したと感じ、自分を責めることになる未来
だったのではないかと思います。
そして、この学校不適応は、次第に別の重大な問題へつながっていきます。
学業の遅れです。
11月28日、定期テストを受けるよう促された彼女は、
「英語分かんないから受けない」
「やっても無駄」
「もうヤダ」
「こんな学校来たくなかった」
「明日から来ない」
などと訴え、帰宅しようとしました。
もともと勉強が得意で、成績にも自信を持ち、進学校を目指していた彼女にとって、
「分からない」「できない」
という経験は、それまで自分が築いてきた自己評価そのものを揺らす出来事だった可能性があります。
12月になると、登校そのものへの不安もさらに強くなります。
再調査委員会の報告書では、12月23日の診療時、学校へ行くことが怖い、近くまで行くことにも抵抗がある、人に見られると強く反応してしまうといった趣旨の訴えが記録されています。
一方、永山南中学校側は、彼女を無理に通常学級へ戻そうとしていたわけではありません。
12月16日の母親との面談では、欠席や早退は本人の意思に沿ってよいこと、最低でも週に一度程度は登校できるようにすること、学校を「集団の中でも安定した気持ちで生活できるよう練習する場所」くらいの気持ちで考えてよいことなどを確認しています。
それでも、登校は安定しませんでした。
2020年になっても欠席は続き、学校へ行ける日は限られました。
ただし、行けた日には落ち着いて過ごせることもありました。
2年生になってからも同じです。
再調査委員会の報告書には、短時間だけ登校した日、保健室で過ごした日、絵を描いたり他の生徒と話したりした日などが記録されています。
2020年8月18日から9月24日までに登校できたのは3日だけでした。
10月には数日間登校し、保健室で絵を描き、来室した生徒と絵について話して盛り上がったり、作品をプレゼントしたりして、楽しそうに過ごした日もあります。
しかし、10月16日以降、年末まで登校することはありませんでした。
そして2021年2月4日、彼女は久しぶりに登校しています。
2時間目から学校へ行き、給食を完食しました。
その後、頭痛を訴えて保健室で休みましたが、養護教諭から自分が作った菜を使っていると言われると笑顔を見せ、その日は支援学級の仲間と一緒に下校しています。
最初の第三者委員会にも、再調査委員会にも、この日の様子が残されています。
彼女が亡くなる9日前です。
この一日だけをもって、彼女の状態が改善していたとは言えません。
しかし、
転校してから亡くなるまで、学校生活がただ一方向に悪化し続けた
とも言えません。
彼女は学校へ行けない日が多くなっていました。
それでも、人と話すことのできる日があった。
笑うことのできる日があった。
誰かと一緒に帰ることのできる日もあった。
彼女が最後まで求め続けていたものは、第一章から大きく変わっていなかったのだと思います。
自分の能力を正しく理解してもらうこと。
自分の考えていることを理解してもらうこと。
その上で、人とつながること。
彼女の高い能力そのものが問題だったのではありません。
むしろ、その能力が周囲の環境の中で正しく理解されず、彼女自身もその能力を安心して使える経験を十分に積み重ねられなかったことが、生きづらさを作っていた可能性があります。
そこへ、北星中学校での出来事によって受けた傷、人からどう見られるのかという不安、新しい学校での人間関係、自責、登校できないことによる学習機会の喪失が重なっていった。
私は、永山南中学校での彼女を、そのように見ています。
そして、学校へ行けなくなるということは、彼女にとって単に欠席日数が増えることではありませんでした。
勉強が遅れる。
テストを受けられなくなる。
進学校が遠くなる。
大学へ進むという未来まで変わっていく。
それは、学ぶことに大きな価値を置き、自分の能力を使って未来を作ろうとしていた彼女から、その未来が少しずつ奪われていくことでもありました。
次の章では、学業と進路を失っていくことが、彼女にとってどのような苦しみだったのかを見ていきたいと思います。
第十章 学業と進路――「自分だけ置いていかれている」という苦しみ
彼女にとって、勉強は大切なものでした。
しかし、ここまでの経過を見ると、私は、彼女が何よりも勉強を優先していた子どもだったとは思いません。
むしろ、より切実に求めていたのは、人とのつながりや、自分を受け入れてくれる居場所だったのだと思います。
2019年6月20日の出来事は、そのことをよく表しています。
この日、彼女は学校を欠席し、公園で友人たちと過ごしていました。夕方になって塾へ行く時間になっても「塾へ行きたくない」と言い、母親と電話で話した後にはスマートフォンを投げ、その場から離れようとしています。
翌21日も学校だけでなく塾を欠席しました。
彼女は勉強の大切さを理解していたはずです。
それでも、その時には塾へ行くことより、公園に残ることを選びました。
これは、「勉強なんてどうでもよかった」という意味ではありません。
勉強も大切だった。
しかし、人とのつながりや居場所を失わないことの方が、その瞬間の彼女には切実だった。
そう考える方が、第三章から見てきた彼女の姿ともつながります。
彼女は、人とつながることを強く求めていました。
そのために、自分の時間やお金を使うこともあった。
自分が本当は嫌だと思っていることまで受け入れてしまった可能性もありました。
つまり、彼女の人生を考えるとき、最初から、
「勉強を第一に考えていた優等生が、いじめによって勉強できなくなった」
という一本の物語にしてしまうのも、少し違うと思います。
彼女には、もっと複雑な価値の葛藤がありました。
一方で、勉強が彼女にとって非常に大きな意味を持っていたことも間違いありません。
小学生の頃から勉強を好み、成績も良く、中学校へ進んでからも自分の学力に自信を持っていました。
永山南中学校へ転校する際にも、公立の進学校へ行きたいこと、成績には自信があることを話しています。
しかし、私はここで、
なぜ彼女にとって「勉強ができること」が、それほど大切な価値になっていたのか
ということも考える必要があると思っています。
2020年1月19日、彼女はSNSで、親について、
「大人になったら結果しか見てくれない。そこまでたどり着く過程を見てくれるのは小学生までだってずっと言われてる」
という趣旨のことを書いています。
この投稿から、少なくとも彼女自身は、
大きくなれば、努力した過程ではなく、最終的な結果で評価される。
という価値観を、親から繰り返し伝えられてきたと受け止めていたことが分かります。
私は、彼女が勉強を好きだったことまで、親から押し付けられたものだったとは思いません。
もともと彼女自身に学ぶことへの興味があり、自分の能力を使って問題を理解し、結果を出すことに喜びを感じていたのだと思います。
しかし、そこへ、
「結果を出すことが評価につながる」
という家庭内の価値観が重なっていった可能性はあります。
つまり彼女にとって勉強は、
好きなこと。
得意なこと。
将来へつながるもの。
であると同時に、
自分が認めてもらうためのもの
という意味まで持つようになっていた可能性があります。
そう考えると、入院中の彼女が残した言葉も違って見えてきます。
7月19日、彼女は激しく感情を乱した後、泣きながら、
「頑張ってないって言われることが嫌」
という趣旨のことを話し、必死に頑張っているのに、努力しても認めてもらえないという苦しさを訴えています。
この時の「認めてくれない」が具体的に誰を指していたのかまでは、当時の記録だけでは特定できません。
しかし、その後の本人自身の言葉を見ると、母親からの評価が無関係だったとは考えにくくなります。
彼女は後に、配信者のなあぼうへ学校や進路について相談した際、
「人が怖い」
「人と話すのも苦手」
「人に迷惑をかけるのも怖い」
「失敗するのが怖い」
という趣旨のことを話しています。
さらに、人に迷惑をかけることを強く恐れてしまう自分について、周囲から怒られることがあると説明し、その相手として、
「周りのネットの方だったり、お母さんだったり」
と、母親を自分から挙げています。
これは重要だと思います。
彼女は、単に母親から「勉強しなさい」と言われて苦しんでいたのではないように見えます。
もっと根本に、
失敗してはいけない。
人に迷惑をかけてはいけない。
頑張っただけでは足りない。
結果を出さなければならない。
という強い評価基準を、自分自身の内側に持つようになっていた可能性があります。
もちろん、それがすべて母親によって作られたと断定することはできません。
彼女自身の価値観もあったでしょうし、学校やネット上の人間関係など、さまざまな経験が影響していたはずです。
しかし、本人が「結果しか見てくれない」と書き、さらに後には、失敗への恐怖や迷惑をかけることへの恐怖を語る中で母親を挙げている以上、家庭で受けていた評価が彼女の自己評価に影響していた可能性は、十分に検討する必要があると思います。
そして、ここから彼女にとって非常に苦しい循環が始まります。
人とのつながりが欲しい。
孤独になりたくない。
だから、人と一緒にいられる場所を優先する。
ときには塾よりも、その場に残ることを選ぶ。
しかし、学校へ行けない状態も続く。
授業を受けられなくなる。
勉強が遅れる。
テストを受けられなくなる。
内申点も下がる。
その結果、今度は自分が大切にしていたもう一つの価値である、学業と進路が壊れていきます。
永山南中学校へ転校した当初、彼女はまだ自分の学力に自信を持っていました。
11月7日には学力テストを別室ですべて受け、学年19位という結果を出しています。本人も結果が良かったことを喜んでいました。
つまり、能力そのものが失われていたわけではありません。
登校が安定しない中でも、条件が整えば結果を出せていた。
だからこそ、その後の変化は彼女にとって苦しかったのではないでしょうか。
11月28日、定期テストを受けるよう促された彼女は、
「英語分かんないから受けない」
「やっても無駄」
「もうヤダ」
「こんな学校来たくなかった」
「明日から来ない」
などと、急激に感情を崩しています。
数週間前には学年19位を取って喜んでいた子が、
「分からない」
「やっても無駄」
と言うようになった。
私は、この変化を単なる勉強嫌いとは考えません。
彼女は、自分には能力があることを知っていました。
以前ならできたことも知っていました。
だからこそ、
本当ならできるはずなのに、今の自分にはできない。
という感覚が生まれた可能性があります。
そして学校へ行けない状態が長引くほど、その問題は現実の進路にも影響するようになります。
なあぼうへの相談の中で、彼女自身がその状況をかなり具体的に説明しています。
中学1年生の2学期から学校へほとんど行けていないため内申点が下がり、
「高校に行けないって言われてる」
と話しています。
通信制高校へ行くのか。
内申より学力点を重視する高校を選ぶのか。
そうした選択を迫られていると説明しています。
ここには、単なる将来への漠然とした不安ではなく、自分の進路が現実に狭くなっていることを本人自身が理解していたことが表れています。
しかし、彼女はその状況を理解していながら、学校へ行くことができませんでした。
外へ出ること自体がつらい。
体力もない。
学校まで行くだけでも難しい。
登校すると吐きそうになる。
人が怖い。
失敗するのが怖い。
人に迷惑をかけることが怖い。
彼女自身が、そう説明しています。
つまり、
「高校へ行くためには学校へ行かなければならない」
という理屈を理解していなかったわけではありません。
むしろ、十分理解していた。
それなのに身体と心がついていかなかった。
私は、この状態は非常に苦しかったと思います。
「やればいいのに、やらない」のではない。
やらなければならないことも、その結果どうなるかも分かっているのに、できない。
しかも彼女には、
「結果を見られる」
という感覚がありました。
そうであれば、
学校へ行けない。
勉強できない。
内申が下がる。
希望していた高校へ行けない。
という現実は、単に進路が変わることだけではなく、
自分は結果を出せなかった
という自己評価にもつながり得ます。
そして、この頃には、人間関係の中でも彼女の自己評価はかなり傷ついていました。
人とうまく関われない。
迷惑をかけてしまう。
感情を抑えられず、後から自分を責める。
学校にも安定した居場所がない。
一人でいるのは怖いのに、人と関わることも怖い。
そうした中で、勉強はなお、彼女が自分の能力を客観的に確認できる数少ない領域の一つだったのではないかと思います。
勉強なら、答えがあります。
点数が出ます。
順位が出ます。
そして彼女は、そこで実際に結果を出せる能力を持っていました。
人間関係のように、相手の曖昧な感情や評価によって正解が変わるものではありません。
だからこそ、学業は彼女にとって、「自分にはできることがある」と確認できる大切な支柱でもあった可能性があります。
その支柱まで崩れていった。
私は、ここに学業上の挫折の重さがあると思っています。
彼女が失っていったのは、単に偏差値や内申点ではありません。
自分が得意だと思えていたもの。
努力すれば結果を出せると思えていたもの。
自分の能力を証明できる場所。
そして、その能力を使って進んでいくはずだった未来。
それらが少しずつ遠ざかっていきました。
最初の第三者委員会も、最終的な死亡に至る過程を検討する際、いじめだけではなく、学校での不適応と孤独感の増大、そして「学業での挫折」を、抑うつ状態をもたらした可能性のある要因として並べています。
そのうえで、それぞれがどの程度関与していたのかを明らかにするだけの情報は得られなかったとしています。
私は、この「学業での挫折」を、もっと本人側から見る必要があると思います。
彼女にとって最も切実だったものは、おそらく人とのつながりでした。
だから、そのために勉強を後回しにすることもあった。
しかし、勉強もまた彼女にとって大切でした。
しかも、それは単なる進学手段ではなく、自分の能力を実感し、自分を肯定し、周囲から認めてもらい、未来を描くための大きな支柱の一つになっていた可能性があります。
そして、人とのつながりを求める中で学校から遠ざかり、学校から遠ざかるほど学業が崩れ、その学業が崩れることで自分への評価まで下がっていく。
彼女は、その循環の中に入っていったように見えます。
だから私は、
「進学校に行けなくなったから苦しんだ」
というだけでは、この問題を十分に説明できないと思います。
より深いところでは、
人間関係の中で自信を失い、学校にも安定した居場所を持てなくなる中で、それでも自分を肯定することのできた大きな支柱だった学業まで、少しずつ失われていった。
そのことが彼女の絶望感を強めていった可能性があります。
そして、その背景には、
「頑張っても認めてもらえない」
という感覚と、
「最後には結果で見られる」
という、彼女自身が語っていた評価への苦しさもありました。
この問題を考えると、次に避けて通れないのが家庭です。
彼女は6月22日の時点ですでに「親とうまくいっていない」と語り、その後もSNSや配信の中で、母親との関係についてさまざまな言葉を残しています。
次の章では、彼女が家庭、そして母親との関係をどのように受け止めていたのかを見ていきたいと思います。
第十一章 家庭について本人は何を感じていたのか
前章では、彼女にとって学業や進路が、自分の能力を実感し、自分を肯定し、未来を描くための大切な支柱になっていた可能性について書きました。
そして、その背景には、
「頑張っても認めてもらえない」
という感覚と、
「最後には結果で見られる」
という、評価されることへの苦しさがありました。
この問題を考えるとき、避けて通ることができないのが家庭です。
特に、母親との関係です。
ここでは最初に、一つ分けて考える必要があります。
母親が、自分と娘との関係をどのように認識していたのか。
そして、
娘自身が、母親との関係をどのように感じていたのか。
この二つは同じではありません。
2021年4月15日の文春オンラインの記事で、母親は、自分は仕事で家を空けることもあったものの、それ以上に愛情を込めて娘を育ててきたと語っています。
また、離婚後に交際していた男性についても、本人が小学校低学年の頃から3人でゲームをしたり、食事へ出かけたり、学校行事へ行ったり、その男性の実家へ行ったり、ワカサギ釣りへ出かけたりしていたと説明しています。
本人がその男性へ悩みを相談するほど距離が近く、学校であったことを自分から笑顔で話す子だったとも語っています。
こうした具体的な出来事があったことまで否定する理由はありません。
母親には、本当にそのように見えていたのだと思います。
しかし、
「愛情を込めて育てた」
「仲が良かった」
「距離が近かった」
というのは、母親側から見た家庭と親子関係の評価です。
それに対して、娘自身が生前に残した記録を見ると、かなり異なる姿が現れます。
そして重要なのは、その違いが2019年のいじめ疑い事案の後に突然現れたものではないことです。
再調査委員会が整理した精神科の受診記録には、彼女がまだ小学生だった頃から、母親との関係についての記録があります。
2017年頃には、彼女について、
「母親への反発と見捨てられ不安」
があるという趣旨の記載があります。
母親に反発する。
しかし同時に、母親から離されることや、見捨てられることを恐れる。
この二つが同時に存在していました。
その後も母親への強い反発は繰り返し記録され、2018年9月には、本人自身が、
「ママは私の気持ちわかってくれない」
という趣旨のことを話しています。
私は、この言葉を軽く見るべきではないと思います。
単に、
「母親に叱られて腹を立てた」
という話ではありません。
彼女自身が、
自分の気持ちを母親に理解してもらえていない
と感じていたからです。
そして、この「理解してもらえない」という感覚は、その後の彼女にも繰り返し現れます。
2019年6月22日、公園で感情を激しく乱した彼女は、
「親とうまくいっていない」
という趣旨のことを話しました。
その後、川から助けられた後にも、
「家に帰りたくない」
と話しています。
さらに学校へ移動し、少し落ち着いた後にも、
母親には会いたくない
という意思を示しました。
最終的に彼女は、母親と知人男性には会わず、女性警察官に付き添われて病院へ向かっています。
なお、この「知人男性」と、文春オンラインで母親が語った元交際相手が同一人物なのかについては、確認できている資料だけでは断定できません。
しかし、母親について本人が示した拒否は明確です。
「親とうまくいっていない」
という一言だけであれば、一時的な親子喧嘩として説明することもできるかもしれません。
しかし、
親とうまくいっていない。
家に帰りたくない。
母親には会いたくない。
という言葉と行動が、同じ危機の中で連続して現れています。
しかも、この時の彼女は「死にたい」と繰り返すほど精神的に追い詰められていました。
その状態にある本人が、自分の苦しみを語る中で親との関係を挙げ、家庭へ戻ることを拒み、母親に会うことまで拒んでいた。
少なくともこの時点で、
母親との関係が彼女にとって現実のストレスの一つになっていたことは、かなり強く示されている
と私は考えています。
そして、この問題を単に2019年6月22日の一時的な感情として片付けることも難しいと思います。
その後に本人自身が残した言葉があるからです。
2020年1月19日、本人はSNSで、
「親が大人になったら結果しか見てくれない。そこまでたどり着く過程を見てくれるのは小学生までだってずっと言われてる」
という趣旨のことを書いています。
ここで重要なのは、その言葉を母親がどのような意図で伝えていたのかではありません。
娘が、それをどう受け取っていたのか
です。
彼女は、
大きくなれば、
努力した過程ではなく、
最後に出した結果で評価される
と受け止めていました。
そして、そのわずか数日後の1月25日には、さらに具体的な投稿をしています。
母親から、
勉強も何もしないでゲームや携帯ばかりしていて何になるのか、
という趣旨のことを言われたとして、
彼女は、
勉強も何も辛くて手がつかないのに、今できていることまで否定されたら、どうやって頑張ればいいのか
という趣旨のことを書いています。
さらに、
最近は塾へ行けるように頑張ったのに
とも書いています。
私は、この投稿に母娘間の認識のずれが非常にはっきり現れていると思います。
母親から見れば、
ゲームや携帯ばかりで、勉強をしていない娘だったのかもしれません。
しかし本人から見れば、
何もしていなかったのではありません。
辛くて思うように動けない中でも、
自分なりに塾へ行こうとしていた。
自分なりに頑張っていた。
それなのに、
「何もしていない」
と評価されたように感じた。
だから、
「今できていることすら否定されたら、どうやって頑張ればいいのか」
という言葉になったのだと思います。
これは、入院中に彼女が泣きながら語った、
「頑張ってないって言われることが嫌」
という趣旨の言葉とも重なります。
彼女にとって、
頑張っていることそのものを認めてもらえないことは、かなり強い苦痛だったように見えます。
そして、その相手の中に母親もいました。
このことは、後に配信者のなあぼうへ相談した際の本人の発言からも確認できます。
彼女は、自分について、
「人が怖い」
「人と話すのも苦手」
「人に迷惑をかけるのも怖い」
と話した上で、
「人に迷惑かけることとかがいけないことだって思ってるフシが私の中にあって」
と説明しています。
なあぼうから、
「迷惑かけてもいいだろ別に」
という趣旨のことを言われると、
彼女は、
「それが、なんか怒られるんですよ」
と答えました。
そして、
「誰に?」
と尋ねられると、
「周りのネットの方だったり、お母さんだったりとか」
と、自分から母親を挙げています。
さらに、
「失敗するのが怖い」
とも話しています。
このやり取りは重要です。
第三者が後から、
「母親からプレッシャーを受けていたのではないか」
と推測したものではありません。
本人自身が、
人に迷惑をかけることへの恐怖を説明する中で、実際に自分が怒られる相手として母親を挙げています。
もちろん、この発言だけから、
どの程度の頻度で叱られていたのか。
どのような叱り方だったのか。
一般的な親の注意の範囲だったのか。
それとも、本人にとって過度な負担になるものだったのか。
そこまでは分かりません。
しかし、分からない部分があるからといって、確認できている部分まで曖昧にする必要はありません。
彼女には、
失敗することへの強い恐怖がありました。
人に迷惑をかけることへの強い恐怖がありました。
そして、その恐怖について話す中で、
母親から怒られることを自分自身で挙げていました。
さらにSNSを見ると、家庭内での小さな出来事についても、彼女の受け止め方が残されています。
2020年2月には、
寝られないと小声で言ったところ、母親からうるさい、しゃべるなという趣旨のことを言われた。
4月には、
「親に電気消されました。怖すぎて涙しか出ないやめて」
と書いています。
5月には、
深夜12時以降は携帯電話を触らないよう言われたことも書いています。
ここは慎重に見る必要があります。
例えば、深夜の携帯電話を制限すること自体は、それだけで不適切な養育だとは言えません。
子どもの生活習慣を考えれば、一般的な家庭でも十分にあり得ることです。
親子喧嘩があることも、それだけで家庭に重大な問題があったことを意味しません。
しかし、この記録を見るときに重要なのは、
一つ一つの親の行為が一般論として妥当だったかどうかだけではありません。
本人が、それをどのように経験していたのかです。
特に、
「怖すぎて涙しか出ない」
という本人の言葉まで、
「電気を消しただけだから問題ない」
として捨てることはできないと思います。
彼女は、同じ出来事を母親とは異なる意味で経験していた可能性があります。
その一方で、母親が娘を放置していたという記録でもありません。
むしろ、2019年6月22日の入院以降を見ると、母親はかなり強く本人に関与しています。
医療保護入院にも同意し、学校や警察とも対応しながら、病院へ頻繁に面会しました。
面会時間に制限がなかったことから、長時間本人と一緒に過ごしたこともあり、医療スタッフに誘われて本人と一緒に作業療法へ参加したこともあったとされています。
退院後にも、本人には突然「死にたい」と言ったり、窓から飛び降りようとしたり、夜中に突然起きて叫んだりするような状態が残っていました。
母親は本人を一人にしないようにし、本人の部屋の隣のリビングで寝て、何かあればすぐに本人のところへ行けるようにしていたとされています。
これは、事実としてそのまま評価する必要があります。
母親は、娘を心配していました。
医療につなぎました。
入院中には面会へ通いました。
退院後には危険を警戒しながら見守りました。
だから、
「母親が娘に無関心だった」
という説明は、残されている記録とは合いません。
しかし、私はここで、
「それなら母娘関係に問題はなかった」
と結論づけるのも違うと思います。
むしろ、資料を突き合わせるほど、別の問題がはっきりしてきます。
母親は娘を心配し、支えようとしていた。
しかし娘は、
「ママは私の気持ちわかってくれない」
と感じていた。
母親は、自分は愛情を込めて育ててきたと認識していた。
しかし娘は、
「結果しか見てくれない」
と感じていた。
母親から見れば、勉強もせずゲームをしているように見えた時期があった。
しかし娘は、
「辛くて手がつかない中でも、自分は頑張っているのに、その頑張りまで否定された」
と感じていた。
母親としては、社会で生きていくための当然の注意や教育だったのかもしれません。
しかし娘の側には、
「失敗するのが怖い」
「人に迷惑をかけるのが怖い」
という感覚が残り、
その文脈で、
母親から怒られること
を本人自身が挙げています。
私は、ここに本件の家庭関係を考える上で最も重要な問題があると思います。
母親から見えていた娘と、娘が自分自身について感じていたことが、かなり大きくずれていた可能性があります。
母親に悪意があったかどうかという話ではありません。
愛情があったか、なかったかという二択の話でもありません。
愛情があっても、人を理解できないことはあります。
心配していても、その心配の伝え方が相手を追い詰めることもあります。
相手のためを思って言っていても、
その言葉が相手には、
「お前は頑張っていない」
「結果を出さなければ意味がない」
「人に迷惑をかけるな」
という意味で届いてしまうことがあります。
そして彼女は、もともと他人からどう評価されるかを非常に強く意識する子でした。
失敗すると自分を強く責めました。
人との関係がうまくいかないと、
「私が悪い」
という方向へ考えました。
入院中にも、
「私が全部悪いんだ」
という趣旨の言葉を残しています。
そうした子にとって、
最も身近な母親から、
自分の努力を理解してもらえていない。
自分の結果を見られている。
失敗や迷惑をかけることを叱られる。
と感じることの影響は、小さくなかったと思います。
ここまでの資料を時系列で並べると、
小学生の頃から、
母親への反発と見捨てられ不安
があった。
「ママは私の気持ちわかってくれない」
と話していた。
2019年6月22日には、
「親とうまくいっていない」
と話した。
「家に帰りたくない」
と話した。
母親には会いたくない
と意思表示した。
2020年には、
「結果しか見てくれない」
という趣旨のことを書いた。
自分なりに頑張っているのに、
「今できていることすら否定されたら、どうやって頑張ればいいのか」
と書いた。
そして後には、
人に迷惑をかけることや失敗することへの恐怖を語る中で、
怒られる相手の一人として母親を挙げています。
これは、もはや一度の親子喧嘩だけでは説明しにくいと思います。
少なくとも本人の側では、
母親との関係における「理解されない」「頑張りを認めてもらえない」「評価される」「怒られる」という感覚が、複数年にわたって繰り返し現れていました。
したがって、
母親との関係が彼女の自己評価や精神状態に与えた影響を、小さな要素として扱うことには無理がある
と私は考えています。
母親は、彼女の人生において極めて大きな存在でした。
反発する相手であると同時に、
見捨てられたくない相手でもありました。
理解してほしい相手でもありました。
だからこそ、
理解されないと感じたときの傷も大きかったのではないでしょうか。
ここで、
母親が彼女の精神状態を悪化させた主因だった
とか、
母親の言動が死亡につながった
とまで結論づけることはしません。
そこは、この後、他の要因と同じ基準で因果関係を検討する必要があります。
しかし反対に、
家庭は関係なかった。
母親との関係は大きな問題ではなかった。
という整理も、本人自身が残したこれだけの記録とは整合しません。
彼女の苦しみを理解しようとするのであれば、
いじめだけを見るのでもなく、
学校だけを見るのでもなく、
家庭について本人が何を感じていたのかも、同じ重さで見なければならないと思います。
そして、この母娘の関係を見た後に、もう一つ重要な問題が浮かび上がります。
それが、
彼女の強い孤独感です。
彼女は母親と暮らしていました。
ネット上にも知人がいました。
ゲームを一緒にする人もいました。
それでも彼女は、
何度も何度も、
「寂しい」
「誰かと話したい」
「抱きしめられたい」
「一人が怖い」
と訴え続けています。
次の章では、
本人自身の、
「私、『寂しい』ってよく言うんですよ」
という言葉を手掛かりに、
なぜ彼女がこれほどまでに人とのつながりを求め続けていたのかを考えていきたいと思います。
第十二章 孤独――人を求めるのに、人に近づけない
前章では、彼女と母親との関係について見てきました。
母親は娘を心配し、医療につなぎ、入院中には面会へ通い、退院後にも危険な状態を警戒しながら見守っていました。
その一方で、本人は、
「ママは私の気持ちわかってくれない」
と感じ、
自分の努力を認めてもらえないことや、結果で評価されること、人に迷惑をかけると怒られることに苦しんでいました。
ここで次に考えたいのが、
彼女が繰り返し訴えていた「寂しい」という感覚です。
彼女には母親がいました。
学校には教師がいました。
ネット上にも知人がいました。
ゲームを一緒にする人や、SNSで返信をしてくれる人もいました。
したがって、
「彼女には誰もいなかった」
という話ではありません。
しかし、人が周囲にいることと、その人が孤独を感じていないことは同じではありません。
そして彼女自身の言葉を時系列で追っていくと、
人とのつながりを非常に強く求めていたにもかかわらず、そのつながりの中で十分な安心感を得ることが難しかった
ように見えます。
この問題は、2020年になって突然始まったものでもありません。
2019年7月、精神科病院へ入院していた彼女は、一人でいることが怖いと訴え、眠るまで看護師に付き添ってもらったことがありました。
その二日後には、
4人部屋では人がいるため休むことができない。
しかし、
1人部屋では孤独で眠ることができない。
という趣旨のことを話しています。
この記録は、彼女の対人関係の難しさを非常によく表していると思います。
人がいると疲れる。
しかし、
一人になると寂しい。
人との距離が近すぎると苦しくなる。
しかし、人が離れていくことにも耐えられない。
第一章から見てきたように、彼女は人間関係に難しさがあったからといって、人を必要としていなかったわけではありません。
むしろ逆でした。
人との関係がうまくいかないからこそ、人とのつながりを強く求めていた
ように見えます。
そのことは、退院後に本人が残したSNSを見ると、さらに明確になります。
2020年1月11日、彼女は、
「抱きしめられたい、男の人でも女の人でもいいから抱きしめてくれ」
という趣旨のことを書いています。
別の日には、
「可愛くない女の子と通話してくれる人とかいない」
と、自分を卑下するような言葉を交えながら、誰かとの通話を求めています。
1月14日には、
「くそ寂しい、、どうしましょ」
「寂しすぎて禿げる。いまからはげるよ!」
と書き、
さらに、
「寂しいなぁ、誰か一緒にゲームするか、DMでお話してくれないかなぁ」
と、人との接触を求めています。
その数日後にも、
「私も寂しい」
「コンパスでもいいです。もはや雑談でもいいです。誰かと話させてください」
と投稿しています。
これだけであれば、
オンラインゲームをしている中学生が、暇な時間に誰かと遊びたいと書いていただけだと見ることもできるかもしれません。
しかし、投稿はそれだけではありません。
1月20日、彼女は、
「どうしようやることない。寂しい。しぬ。」
と書きました。
そして、その直後に、
「しかも迷惑かけるのこわくて人を誘えないという。悪循環。」
と、自分の状態を説明しています。
私は、この二つの投稿が非常に重要だと思います。
彼女自身が、
自分がなぜ孤独から抜け出せないのか
を言葉にしているからです。
寂しい。
誰かと話したい。
誰かと遊びたい。
しかし、
自分から誘ったら迷惑かもしれない。
断られるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
そのことが怖くて、自分から人を誘えない。
だから一人になる。
そして、さらに寂しくなる。
本人は、この状態を自分で、
「悪循環」
と呼んでいました。
前章で見た、配信者のなあぼうへの相談内容とも一致します。
彼女はその中で、
「人に迷惑かけることとかがいけないことだって思ってるフシが私の中にあって」
という趣旨のことを話しています。
そして、
「誰に怒られるのか」
と尋ねられると、
ネット上の人たちとともに母親を挙げています。
つまり、
人に迷惑をかけてはいけないという強い意識と、人とのつながりを求める気持ちが、彼女の中でぶつかっていた
可能性があります。
誰かにそばにいてほしい。
でも、自分から求めることが怖い。
この矛盾は、その後も続いています。
1月下旬には、
「誰か遊べる人いませんか」
「誰か一緒に遊びましょ、絡みなくてもいいんで」
と呼びかけています。
2月には、
「ひとり怖い。ひとり怖い。ひとり怖い。助けて。助けて。」
と繰り返した上で、
「何をしたら寂しくないんだろう」
と書いています。
同じ月には、
「今から電話してくれる人いませんか!だれでもいいです!」
「誰か私の絵を描いてる間通話しません?LINEかdiscordでお願いします」
など、何度も通話相手を求めています。
3月になっても、
「寝れないし、怖いし、寂しいのでもう泣きそう」
「さみしい」
「誰か通話してくれないかしら」
「ざみじいよぉぉぉぉ」
「寂しい」
などの投稿が繰り返されています。
そして4月には、
「誰かかまってくれる人が欲しい」
と書き、
翌日には、
「人とお話したい。寝れない。怖い。辛い。」
と投稿しています。
また、別の人とのやり取りの中で、
「一緒に楽しめる人欲しい」
と言い、
さらに、
「私も大切な人とか出来たら一緒に遊んだりするんだろうなぁ(夢)」
と書いています。
私は、この「大切な人」という言葉にも注目したいと思います。
彼女が求めていたものは、単に暇を潰してくれる相手だけではなかったように見えるからです。
誰でもいいから一時的に会話がしたい。
ゲームがしたい。
という投稿もあります。
しかし同時に、
自分を気にかけてくれる人。
一緒に楽しめる人。
自分の話を聞いてくれる人。
大切だと思える人。
そうした、もう少し安定した人間関係も求めていました。
5月17日には、
「非人類やりたいけど1人は怖い」 ※ 非人類…スマホのゲーム
と書いています。
翌日には、
「勉強だれかおしえて」
と人に助けを求めています。
そして5月23日には、彼女自身が人間関係について非常に重要なことを書いています。
自分が「病む」ことが多い。
しかし、それを人に話すと、
「病みアピール」や「かまってちゃん」だと思われるのが嫌だ。
それでも甘えたいし、人と話したい。
しかし、
上手く話せない。
その結果、
「変な風に絡んでしまう」
そして注意され、
また傷つく。
本人は、ここでもその状態を、
「悪循環」
と表現しています。
私は、この投稿は彼女の人間関係を考える上で非常に重要だと思います。
彼女は、人を必要としていなかったのではありません。
むしろ、人を強く必要としていました。
しかし、どう近づけばいいのかが分からない。
自分から近づけば迷惑になるかもしれない。
苦しいと訴えれば「かまってちゃん」と思われるかもしれない。
うまく伝えられず、相手が嫌がるような関わり方になってしまうこともある。
すると相手から注意される。
傷つく。
自分を責める。
人が怖くなる。
しかし、一人になるとまた寂しくなる。
そのため再び誰かを求める。
私は、
彼女の孤独は、この循環の中で深くなっていった
のではないかと思います。
その後にも、
「誰か私のお話聞いてくれる方いない」
「誰かとお話したい欲はあるのに、何かをしたい欲はないからちょっと人誘いづらい」
といった投稿があります。
7月1日には、
「作業通話でもなんでもいいから通話したいけど、わがまま言うと話を聞いてくれる人が欲しい」
と書いています。
ここで彼女が求めていたのは、ただ誰かの声を聞くことだけではありません。
自分の話を聞いてほしい。
ということでした。
第一章から何度も出てきた、
「理解してほしい」
という彼女の気持ちと重なります。
彼女は小学生の頃、
「ママは私の気持ちわかってくれない」
という趣旨のことを話しました。
2019年6月22日には、
「誰も私のことなんか分かってくれない」
という苦しさを爆発させました。
入院中にも、
人の気持ちが分からないことや、自分が周囲から理解されないことに苦しみました。
そしてその後も、
「話を聞いてくれる人が欲しい」
と求め続けています。
ここには一貫したものがあると思います。
彼女が求めていたのは、
単に人が近くにいる状態ではありませんでした。
自分のことを分かろうとしてくれる人とのつながり
だったのではないでしょうか。
そして、配信者のなあぼうへ学校へ行けないことを相談した際にも、この問題は本人自身の口から語られています。
昔からの知人から「学校へ行った方がいい」と言われたことについて説明する中で、彼女は、
「私が『寂しい』ってよく言うんですよ」
と話しています。
これは重要だと思います。
SNS上の「寂しい」という投稿を、一つ一つ切り取って、
「その日はたまたま寂しかった」
と説明することはできても、
本人自身が、
自分は普段から「寂しい」とよく言っている
と認識していたからです。
そして、その知人が学校を勧めた理由も、
学校へ行けば人との関わりを持つことができ、合う人がいるかもしれない、
というものでした。
つまり、周囲の人にも、
彼女が人とのつながりを求めていること
は認識されていたように見えます。
しかし、彼女にはもう一つの問題がありました。
学校へ行けば、人と関わることができる。
本人もそれは分かっている。
高校へ進学するためにも、学校へ行った方がいいことも分かっている。
それでも本人は、
外へ出ること自体が辛い。
学校へ行くと吐きそうになる。
一日二時間ほどで耐えられなくなる。
という状態について話しています。
ここにも、
彼女の苦しい矛盾があります。
一人になりたくない。
だから、人がいる場所へ行きたい。
しかし、
人がいる場所へ行くこと自体が苦しい。
人と話したい。
しかし、
人と話すことが怖い。
誰かを誘いたい。
しかし、
迷惑をかけることが怖い。
苦しいことを聞いてほしい。
しかし、
「かまってちゃん」と思われることが怖い。
彼女は、自分から孤独を選んでいたわけではないように思います。
むしろ、
孤独から抜け出そうとして、何度も人に手を伸ばしていました。
ただ、その手の伸ばし方がうまく分からなかった。
そして、人との関係で傷つくたびに、
また一人になることを恐れながら、
同時に人へ近づくことも怖くなっていった。
私は、この状態を単に、
「友達がいなかった」
とか、
「学校へ行かなかったから孤独になった」
という一言で説明することはできないと思います。
実際、彼女にはネット上の知人がいました。
返信をくれる人もいました。
ゲームを一緒にする相手もいました。
だから、ここで問題になっているのは、
客観的な人間関係の数ではありません。
人と関わっていても満たされない孤独。
そして、
安心して誰かを頼ることができない孤独。
だった可能性があります。
もちろん、学校へ安定して通えなくなったことは、その孤独を強めた要因の一つだったと思います。
学校は、良くも悪くも同年代の人間と継続的に接触する場所だからです。
最初の第三者委員会も、彼女の死亡に至る経過を考える中で、学校での不適応とともに孤独感の増大を問題にしています。
しかし、彼女自身の記録を見ると、
孤独を学校だけの問題として捉えることも難しいと思います。
家庭では、母親に理解されていないという感覚がありました。
学校では、人間関係や登校そのものに難しさがありました。
ネットでは人を求めながら、迷惑をかけることや嫌われることを恐れていました。
そして本人自身も、
人とどう関わればいいのか分からないことに苦しんでいました。
そうした複数の問題が重なった結果、
どこへ行っても「安心してつながっていられる」という感覚を得ることが難しくなっていた
のではないかと思います。
ただし、ここで一つ注意しなければなりません。
これほど「寂しい」「一人が怖い」と書いていたからといって、
彼女が毎日、絶望だけの中で生きていたわけではありません。
ゲームを楽しんでいた日もあります。
人と交流していた日もあります。
勉強について考えていた時期もあります。
そして、これらのSNS投稿自体も、
「誰かと話したい」
「誰かと遊びたい」
という、生きている人間に向けた呼びかけでもあります。
「寂しい」と言っていたことと、
「もう生きることを諦めていた」ことは同じではありません。
むしろ彼女は、
寂しいからこそ、
何度も人を求めていました。
誰かと遊びたい。
誰かと話したい。
誰かに聞いてほしい。
大切な人が欲しい。
抱きしめてほしい。
そう願い続けていました。
だからこそ、次に確認しなければならないことがあります。
これほど苦しさを抱えていた彼女は、
亡くなるまでの間、未来そのものを完全に諦めていたのでしょうか。
次の章では、彼女が亡くなる前までに残していた言葉や行動から、
それでも彼女の中に残っていた「これから」への気持ち
について見ていきたいと思います。
第十三章 それでも未来を完全に諦めていたわけではない
前章では、彼女が抱えていた強い孤独について見てきました。
彼女は、
「寂しい」
「一人が怖い」
「誰かと話したい」
と繰り返し、人とのつながりを求めていました。
学校へ安定して通うことができなくなり、学業や進路にも不安を抱え、家庭では母親に理解されていないという感覚を持ち、人間関係でも何度も傷ついていました。
希死念慮もありました。
2019年の入院中には「死にたい」という言葉が繰り返し記録され、その後のSNSにも、苦しさの中で死を思わせる言葉が現れています。
ここまでを見ると、
彼女は長い間、生きることそのものを諦めていたのではないか
と思うかもしれません。
しかし、私はそう単純には考えていません。
彼女の記録には、
死にたいという気持ちと同時に、これから先のことを考えていた姿
も残っているからです。
この二つは、どちらか一方だけが本当だったという話ではありません。
苦しくて死にたいと思うことと、
明日の予定について考えること。
高校へ行きたいと思うこと。
誰かと仲良くなりたいと思うこと。
好きなことを楽しみたいと思うこと。
それらは、一人の人間の中に同時に存在することがあります。
だから、
未来について語っていたから希死念慮はなかった
とも言えません。
反対に、
「死にたい」と言っていたから、未来についての希望はすべて失われていた
とも言えません。
彼女についても、この両方を見る必要があると思います。
そのことは、2019年6月の入院直後から確認できます。
6月22日の出来事によって精神状態を大きく崩し、その日のうちに精神科病院へ入院した彼女は、わずか数日後の診察で、
勉強が遅れていること。
出席日数のこと。
できるだけ早く学校へ戻りたいこと。
そして、高校やその先の進学について考えていることを話しています。
この時の彼女には、すでに強い希死念慮がありました。
それでも、
学校へ戻りたい。
勉強を続けたい。
進学したい。
という気持ちは残っていました。
診察後には卓球へ参加し、翌日以降もアクセサリー作りやカラオケなどの活動に自分から参加し、穏やかに過ごす時間もありました。
もちろん、
卓球をした。
カラオケをした。
笑っていた。
だから精神状態は問題なかった、という話ではありません。
実際、その後にも彼女は何度も状態を崩しています。
自傷的な行動があり、
「死にたい」と訴える日もありました。
その翌日にはゲームをしたり、
卓球をしたり、
人と話したりする。
また急激に苦しくなる。
そして再び落ち着く。
入院中の記録から見える彼女の精神状態は、一直線ではなく、大きく揺れ動いていました。
私は、この点を非常に重要だと思っています。
彼女の人生を、後から死亡という結果だけを見て、
「2019年6月22日から、ずっと死へ向かって悪化していった」
と描くことは、実際の記録とは合いません。
苦しい時があった。
死にたい時があった。
しかし同時に、
何かを楽しむ時もあった。
誰かと関わりたい時もあった。
学校について考える時もあった。
将来について考える時もありました。
退院後も同じです。
2019年8月、永山南中学校へ転校することになった彼女は、新しい学校に知り合いがいないため、友達ができるか不安だと話しています。
しかし同時に、
公立の進学校へ行きたい。
自分は勉強には自信がある。
という趣旨のことも話していました。
9月に支援学級の担任と学校生活について話した際にも、
高校には行きたい
という気持ちは残っていました。
進学校を希望しながらも、状況によっては学校のレベルを下げることや、通信制高校を選ぶことまで考えていました。
ここで私は、
彼女が単に、
「理想どおりにならないなら全部終わりだ」
と考えていたわけではないことにも注目したいと思います。
もともと希望していた進路から変更することは、本人にとって非常に苦しいことだったと思います。
それでも、
別の高校を考える。
通信制も考える。
という選択肢を本人自身が考えていました。
つまり、少なくともこの時点では、
思い描いていた未来が崩れ始めても、その先に別の道を探そうとしていた
ことになります。
11月には学力テストを受け、学年19位という結果を出して喜んでいます。
彼女にとって学業は、まだ、
「自分にはできることがある」
と確認できるものでもありました。
その後、学校へ安定して通えなくなり、学業の遅れが大きくなるにつれて、進路についての見通しは次第に厳しくなっていきます。
配信者のなあぼうへ相談した際、彼女は、
中学1年生の2学期頃から学校へほとんど行けていないため、内申点が下がり、
「高校に行けないって言われてる」
という趣旨のことを話しています。
そして、
通信制高校へ進むのか。
内申点より学力を重視する高校を探すのか。
そうした現実的な選択肢について話しています。
私は、この会話も、
未来を完全に諦めていたわけではない
ことを考える上で重要だと思います。
もし高校へ行くことそのものが、本人にとってどうでもよくなっていたのであれば、
内申点が下がったことについて、これほど悩む必要はありません。
どの種類の高校なら進学できるのかを考える必要もありません。
彼女が苦しんでいたのは、
高校へ行きたいのに、そのために必要なことができない
からでした。
学校へ行かなければならないことは分かっている。
出席日数や内申点が必要なことも分かっている。
しかし、
外へ出ることが辛い。
学校へ行くだけで吐きそうになる。
人が怖い。
失敗することも怖い。
頭では分かっているのに、心と身体がついていかない。
だから苦しかった。
これは、
未来なんてどうでもいい
という苦しさではありません。
むしろ、
未来をまだ望んでいたからこその苦しさ
でもあったように思います。
人との関係についても同じです。
前章で見たSNSには、
「寂しい」
「一人が怖い」
という言葉が何度もありました。
しかし、それらの投稿は同時に、
これから誰かとつながりたい
という呼びかけでもありました。
誰かとゲームをしたい。
誰かと通話したい。
自分の話を聞いてほしい。
抱きしめてほしい。
「大切な人」ができたら一緒に遊びたい。
「一緒に楽しめる人が欲しい」。
そこにあるのは、
現在の人間関係への絶望だけではありません。
これから自分にも、安心してつながることのできる相手ができてほしい
という願いでもあったように見えます。
彼女は人間関係に何度も傷ついていました。
それでも、人そのものを諦めてはいませんでした。
これは彼女の特徴として、かなり一貫していたと思います。
小学校でも。
北星中学校でも。
上級生たちとの関係でも。
入院中でも。
転校後でも。
そしてSNSでも。
うまくいかない。
傷つく。
嫌われたと思う。
もう誰とも関わらない方がいいと考える。
それでも、
一人ではいたくない。
再び誰かを求める。
その繰り返しでした。
だから、前章で見た強い孤独感も、
単純に「もう何も求めなくなった人の孤独」ではありません。
むしろ、
求めているものがあるのに、それを手に入れられない孤独
だった可能性があります。
そして彼女の状態は、亡くなる直前まで、単純な一方向の経過ではありませんでした。
2020年後半には、登校できる日はかなり少なくなっています。
2020年8月18日から9月24日までに登校したのは3日だけでした。
10月には数日登校し、保健室で絵を描いたり、そこへ来た生徒と絵について話したり、自分の作品をプレゼントしたりして、楽しそうに過ごした日もありました。
しかし、10月16日以降は年末まで登校できなくなっています。
かなり深刻な学校不適応が続いていたことは間違いありません。
ところが、2021年2月4日。
彼女は久しぶりに学校へ行っています。
2時間目から登校し、
給食をすべて食べています。
その後、頭痛を訴えて保健室で休みましたが、養護教諭とのやり取りの中で笑顔を見せ、
最後には、
支援学級の生徒たちと一緒に下校しています。
彼女が行方不明になる9日前のことです。
私は、この日のことも過大評価するべきではないと思います。
学校へ一日行けたから、
精神状態が改善していた。
自殺する気などなかった。
と判断することはできません。
たった一日の行動から、本人の内面すべてを推測することはできないからです。
しかし逆に、
この日の存在を無視して、
亡くなる直前まで、すべての希望を失い、外界との関係を完全に断ち切っていた
という人物像を作ることもできません。
少なくとも9日前には、
彼女はもう一度学校へ行きました。
食事をしました。
教師とのやり取りの中で笑いました。
そして同じ学校の子どもたちと帰りました。
これらの事実は、
彼女がその時点で健康だったことを示すものではありません。
しかし、
彼女の生活が最後まで「死にたい」という一つの感情だけによって占められていたわけではない
ことは示していると思います。
私は、このことを死亡原因を考える前に、きちんと確認しておく必要があると思っています。
人は、亡くなった後、
その結末から過去を読み直されます。
以前の「死にたい」という発言は、
すべて最終的な死の予告だったように見える。
学校へ行けなかったことも、
人間関係で悩んでいたことも、
進路を悲観していたことも、
すべてが最後の一点へ向かっていたように見えてしまいます。
しかし、実際の人生はそれほど単純ではありません。
彼女は苦しみながら、
何度も人を求めました。
学校へ戻ろうとしました。
高校について考えました。
進路を変更する可能性も考えました。
ゲームをしました。
絵を描きました。
人と話しました。
笑うこともありました。
そして、亡くなる直前にも学校へ行くことのできた日がありました。
だから私は、
彼女が2019年の出来事から亡くなるまで、一貫して死だけを望み続けていた
とは考えません。
同時に、
未来への希望が残っていたから自殺ではない
とも考えません。
ここは分けなければなりません。
彼女には、
死にたいほど苦しい自分
と、
それでも誰かとつながり、学校へ行き、高校へ進み、その先を生きたい自分
が、同時に存在していた可能性があります。
そして、この二つの間を大きく揺れながら生活していた。
少なくとも、現在残されている記録からは、そのように見えます。
このことは、次の章を考える上で非常に重要です。
これまで見てきた苦しさは、いずれも長期間続いていました。
いじめ疑い事案は2019年に起きています。
家庭との葛藤も、それ以前から確認されています。
学校不適応も長期間続いています。
学業や進路への不安も続いていました。
孤独も、一日や二日の問題ではありませんでした。
それでも彼女は、その間を生き続け、
未来について考えることもありました。
そうであるならば、
死亡原因を考えるためには、もう一つ確認しなければならないことがあります。
なぜ、2021年2月13日だったのでしょうか。
それまで長く存在していた苦しさの中で、
なぜその日に家を出たのか。
その直前に彼女はどのような状態にあり、
何が起きていたのか。
そして、そもそもその日の行動を、
どこまで自殺へ向かう行動として説明できるのか。
次の章では、
2021年2月13日という「その日」
に焦点を絞って考えてみたいと思います。
第十四章 2021年2月13日――なぜ、その日だったのか
ここまで、彼女が亡くなるまでに経験してきたことを見てきました。
人との関係を築くことに難しさを抱えながらも、人とのつながりを強く求めていたこと。
北星中学校へ入学した当初は、学校生活にも勉強にも意欲を持ち、高校、その先の大学へ進む未来を思い描いていたこと。
その一方で、クラスの中で周囲との関係につまずき、上級生たちとの関係の中では、性的な画像や動画を求められるなど、本人にとって大きな負担となる出来事を経験したこと。
2019年6月22日には感情を大きく乱し、
「もう死にます」
と言って川の方へ向かい、その後も「死にたい」「生きたくない」と繰り返し、実際に川へ入りました。
したがって、この時点ですでに、彼女が死を強く意識するほど苦しんでいたこと自体は疑いようがないと思います。
ただ、第七章で書いたように、「もう死にます」と言ったことと、その後に行った「川へ入る」という具体的な行為が、川へ入ることで生命を絶つという意思をもって選ばれた自殺企図だったことは、同じではありません。
彼女は川へ入る前に自ら学校へ電話をしており、実際に入った水も膝下程度でした。
だから私は6月22日について、強い希死念慮があり、その中で自らを危険にさらす行動に及んだ可能性は高いものの、入水そのものが生命を絶つことを具体的な目的とした「自殺企図」だったとまでは断定できないと考えています。
その後、彼女は精神科病院へ入院しました。
入院後も、希死念慮、自傷衝動、自責、人間関係への不安、強い孤独は断続的に現れています。
しかし、彼女の状態は一方向に悪くなり続けていたわけではありません。
死にたいと訴えた後に、誰かに気持ちを理解してもらうことで落ち着く。
人間関係で大きく傷ついた後に、勉強をする。
卓球をする。
ゲームをする。
作品を作る。
そのような揺れが何度もありました。
転校後も同じです。
学校へ行きたい。
でも、行くことができない。
勉強したい。
でも、身体も気持ちもついていかない。
人と関わりたい。
でも、人が怖い。
一人では寂しい。
でも、人に迷惑をかけることも怖い。
そうした矛盾の中で学校へ通う日は減り、学業も遅れ、本人が大切にしていた進路も遠ざかっていきました。
勉強は、彼女にとって単なる進学の手段ではなかったと思います。
自分の能力を実感すること。
自分を肯定すること。
周囲から認めてもらうこと。
そして、自分にも未来があると思うこと。
そのための大きな支柱の一つだった可能性があります。
家庭では、母親から自分の気持ちや努力を十分に理解してもらえていないと感じることがありました。
SNSでは、「寂しい」「一人が怖い」「誰かと話したい」という言葉を何度も残しています。
それでも、前章で見たように、彼女は未来を完全に諦めていたわけではありません。
2020年12月17日に書いたとされる手紙には、
「私は『今』を生きています。『未来』はわかりません。『過去』は変えられません。」
とした上で、
「私はまだもう少しだけ頑張ってみます。」
という言葉を残しています。
そして、失踪する9日前の2021年2月4日には、久しぶりに学校へ行きました。
2時間目から登校し、給食を食べ、頭痛のため保健室で休んだものの、養護教諭とのやり取りでは笑顔を見せ、その日は支援学級の仲間と一緒に下校しています。
もちろん、この一日だけで彼女の精神状態が改善していたとは言えません。
死にたい気持ちを抱えている人が、笑うこともあります。
未来について話すこともあります。
誰かと楽しい時間を過ごすこともあります。
むしろ私は、そこが重要だと思っています。
死にたい気持ちと、生きたい気持ちは、必ずしもどちらか一方しか存在できないものではありません。
彼女の記録には、その両方が何度も現れています。
だからこそ、私は考えます。
なぜ、2021年2月13日だったのでしょうか。
2月4日の登校後、彼女は再び学校を休むようになります。
2月5日は欠席しましたが、その日の夕方、支援学級の教師が家庭を訪問すると、本人自身が玄関まで出て対応しています。
その後、8日、9日、10日、12日には学校を欠席しました。
そして2月13日を迎えます。
最初の第三者委員会報告書によれば、この日の彼女には、母親から見て普段と大きく変わった様子はなかったとされています。
再調査委員会報告書でも、母親が17時頃に仕事へ出る際には、特に変わった様子は見られなかったとされています。
ところが、その直後、彼女は17時26分頃、LINEで、
「ねえ」
「決めた」
「今日死のうと思う」
と送りました。
さらに、
「今まで怖くてさ」
「何も出来なかった」
「ごめんね」
とも送っています。
その後のSNSには、「ネットやめるかもしれません」「まだ決定では無いですけれどね」などの投稿も残っています。
スマートフォンを持って家を出ているため、それらの投稿が家を出る前だったのか、出た後だったのかまでは判然としません。
また彼女は、この日の失踪前後の時間帯に、東京在住の男性とボイスチャットで話をしていました。
再調査委員会報告書によれば、彼女はその男性に、
「家出をする。死にたい」
という趣旨の話をしており、男性は自殺の危険性が高いと考えて警察へ通報しています。
母親が18時過ぎに帰宅した時には、彼女はすでに家を出ていました。
6月22日にも、彼女は「もう死にます」と言っています。
だから、6月22日と2月13日の違いは、
「死ぬと言ったかどうか」
ではありません。
どちらの日にも、死への強い思いを示す言葉がありました。
違うのは、その言葉の後に確認されている事実の積み重なりです。
2月13日には、「決めた」「今日死のうと思う」という言葉があり、別の人物にも「家出をする。死にたい」と話し、実際に自宅を出ました。
そして帰宅しませんでした。
その後、彼女は約1か月後に公園で発見され、死因は低体温症とされています。
私は、この一連の経過を考えれば、
彼女は死のうと思って家を出たと強く推認できる
と思います。
そして、その結果としての死亡も、
自殺であったと強く推認される
と考えています。
ただし、それは、
最初から最後まで一切迷うことなく、具体的な死亡方法を計画し、その計画どおりに死んだ
という意味ではありません。
ここは、むしろ逆だったのではないかと私は思っています。
彼女には、躊躇いがあったのではないでしょうか。
これは事実として確認できることではありません。
最後に彼女が何を考えていたのかを知ることは、もうできません。
しかし、それまでの彼女が残してきた言葉や行動を見ると、私は、死ぬことだけを望んで家を出たとは考えにくいのです。
彼女は、死にたいと言いながら、人を求めていました。
一人が怖いと言っていました。
学校へ行きたいと思っていました。
高校へ行きたいと思っていました。
勉強したいと思っていました。
誰かに理解してほしいと思っていました。
誰かと一緒にいたいと思っていました。
幸せになりたいという気持ちも、最後まで完全にはなくなっていなかったのではないかと思います。
だから、死のうと思って家を出ても、歩きながら何度も迷ったのではないでしょうか。
引き返せば、まだ生きられる。
誰かに連絡すれば、助けてもらえる。
家に帰れば、いつもの生活に戻ることができる。
そういう可能性は、歩けば歩くほど頭に浮かんだのかもしれません。
だから逆に、戻れなくなるように、自宅から離れていったのではないか。
私は、そんな可能性も考えています。
もちろん、これも私の推測です。
彼女がなぜその公園まで行ったのか、どの道を歩き、何を考えていたのかについて、公表資料からすべてを再現することはできません。
ただ、死のうと思う気持ちと、生きたい気持ちが同時に存在していたとしても、何も矛盾しません。
むしろ、それまでの彼女はずっと、その二つの間を揺れていました。
私は、「ごめんね」という言葉にも、その揺れが表れているように感じます。
誰に向けた「ごめんね」だったのかは分かりません。
しかし、母親を含め、自分がいなくなることで傷つく人たちのことを考えていた可能性はあると思います。
母親との関係に苦しんでいたことと、母親を愛していなかったことも同じではありません。
親への気持ちは、その人の優れた部分を見つけ、その人格を評価して選ぶようなものではありません。
特に子どもにとって親は、自分が選ぶより先に、自分の世界の中にいる存在です。
理解してもらえないと苦しむ。
怒られることを怖がる。
それでも求める。
離れたいと思う。
それでも失いたくない。
そうした相反する気持ちが同時に存在していたとしても、私は何も不自然だとは思いません。
失踪の直前には、さらに二つの重要な対人関係があります。
再調査委員会は、彼女が家を出る日の前日、あるいは家を出る直前頃に、Clubhouseという通話アプリで知り合った男性と、合計1時間以上話していたという情報を確認しています。
この男性との会話では、勉強などの話から人生相談のような流れになり、彼女自身が2019年の出来事について話し始めたとされています。
複数人に囲まれて性的な行為をさせられたこと。
性的な画像を拡散されたこと。
そして、
「自分が悪い」
という趣旨のことを話しました。
男性が、あなたが悪いのではない、あなたは被害を受けた側なのだという趣旨で話すと、彼女は、
「私はいない方がよかった」
「私抜きでみんなが幸せになればいい」
という趣旨の話をしたとされています。
彼女は涙を流し、言葉を詰まらせながら話す場面もあったとされています。
この記録は重要です。
2019年の出来事が、2021年2月にはすでに彼女の中から消えていたとは言えないからです。
失踪の極めて近い時期にも、彼女はその出来事を自ら語り、
「自分が悪い」
という自己否定と結びつけていました。
だから私は、2019年の出来事がその後の彼女の精神状態に影響していたこと自体は、認めるべきだと思います。
ただ、このClubhouseでの会話が、2月13日の行動を直接引き起こしたとまでは言えません。
この会話が正確にいつ行われたのかには幅があります。
死ぬことをすでに考えていたから、過去の出来事を話した可能性もあります。
反対に、過去について話したことで苦しみが強まった可能性もあります。
その因果の向きまでは分かりません。
さらに私は、遺族から、公表された報告書には書かれていない話も直接聞いています。
母親によれば、彼女は東京在住の人物と通話をしながら家を出たようで、その会話では、どのような死に方が楽なのかといった、自殺に関わる話もしていたということでした。
母親自身も、彼女がその人物と話している声を聞いていたといいます。
また、警察がその人物から事情を聴いたものの、具体的に何を話していたのかについては明らかにしなかったという話も聞いています。
私は、この通話記録や警察の聴取記録を確認していません。
したがって、これは報告書によって確認された事実ではなく、
私が遺族から直接聞いた話
として区別しておかなければなりません。
一方、公表された再調査委員会報告書からは、東京在住の男性とボイスチャットで話し、「家出をする。死にたい」という趣旨の話をして、その男性が警察へ通報したことまでは確認できます。
私は、この人物との会話についても無視するべきではないと思います。
仮に遺族から聞いた話が事実であるなら、この会話は、いじめ、学校不適応、家庭、進路、孤独などの長期的な要因とは性質が違います。
彼女が実際に死のうと思って家を出る、その直前、あるいは家を出ながら行われていた可能性のある会話だからです。
この人物が彼女の自殺意思を強めたのか。
思いとどまらせようとしていたのか。
それとも単に話を聞いていただけなのか。
それは分かりません。
男性が警察へ通報したという事実からは、少なくとも本人の危険を認識して行動を取ったことも分かります。
だから、会話内容が分からない以上、この男性に責任を負わせることはできません。
しかし同時に、
この会話が彼女の心理状態に何の影響も与えなかった
と決めることもできません。
「なぜ2月13日だったのか」を考えるのであれば、失踪直前に彼女が誰と、何について、どのような会話をしていたのかも、本来は重要な検討対象になると思います。
では、結局、なぜ2月13日だったのでしょうか。
私は、その最後の一つの答えを、現在残されている資料から見つけることはできません。
彼女が死を考えるほど苦しくなった背景なら、いくつも挙げることができます。
2019年に経験した出来事。
その後も続いた人間関係への恐怖。
「自分が悪い」という自責。
学校へ安定して通えなくなったこと。
学業が遅れ、望んでいた進路が遠ざかっていったこと。
同年代から自分だけが置いていかれているような感覚。
家庭で本人が感じていた、理解されない、努力を認めてもらえないという苦しさ。
一人でいることへの強い恐怖。
人とつながりたいのに、迷惑をかけることを恐れて人に近づけないという悪循環。
そして失踪の極めて近い時期には、過去の出来事を語りながら「自分が悪い」「私はいない方がよかった」と話し、その日の失踪前後には別の人物と「死にたい」という話をしていました。
どれが最後に彼女を家の外へ向かわせたのかは分かりません。
そもそも、一つだけだったとも限りません。
しかし私は、
「なぜ彼女が死を考えるほど苦しくなったのか」
という問いと、
「なぜ2月13日に、その気持ちが実際の行動へ変わったのか」
という問いを分けながらも、その二つを完全に切り離すべきではないと思っています。
彼女は死のうと思って家を出た。
しかし、最後まで迷っていたかもしれない。
幸せになりたいという気持ちも残っていたかもしれない。
誰かに助けてほしい気持ちもあったかもしれない。
母親や大切な人たちを思い、「ごめんね」と思っていたかもしれない。
そして最終的に、雪の積もる公園から帰ることなく、そこで亡くなった。
その時の具体的な状況は分かりません。
自分から雪の中に身を置いたのか。
疲労や寒さの中で動けなくなったのか。
どの時点まで自力でその場を離れることができたのか。
そこは断定できません。
ただ、彼女はスマートフォンを持っていました。
家へ戻るという選択肢もありました。
誰かに助けを求める可能性も残っていました。
それでも結果として、彼女はそこから生還しませんでした。
私は、彼女が最後に、
助かろうと思えば、まだ助かるかもしれない。
でも、このまま誰も来なければ死ぬかもしれない。
それでもいい。
というように、自分の死を受け入れるところまで追い詰められていた可能性を考えています。
もちろん、これは最後の心理状態についての私の推測です。
事実として書くことはできません。
しかし、
「生きたい気持ちが少しでも残っていたなら自殺ではない」
とも私は思いません。
むしろ、人は最後まで生きたいと思いながら、それでも死ぬ方へ自分を委ねてしまうことがあるのではないでしょうか。
彼女が最初から最後まで迷いなく死だけを望んでいた必要はありません。
死のうと思って家を出した。
何度も躊躇ったかもしれない。
生きて幸せになる未来を思い浮かべたかもしれない。
それでも引き返さなかった。
最後には、死ぬ可能性のある状態に自分を置き、その結果を受け入れてしまった。
私は、そのような経過であった可能性を考えています。
だから、私はこれは自殺だったのだと思います。
最初の第三者委員会が指摘したように、死亡に至る過程には偶発的な要素が含まれていた可能性があります。
しかし、偶発的な要素があったことと、自殺ではなかったことも同じではありません。
死ぬ意思を持って家を出し、その途中で迷い、生への気持ちを残しながらも、最後には死亡する危険を受け入れてしまった。
そのような自殺もあるのだと思います。
そして私は、この死亡という結果を、それまでの彼女の苦しみから切り離すべきではないと思っています。
彼女は生前、何度も苦しさを伝えていました。
「誰もわかってくれない」
「死にたい」
「一人が怖い」
「頑張っているのに認めてもらえない」
「自分が悪い」
「迷惑をかけたくない」
「寂しい」
「誰かと話したい」
そういう言葉を、何度も残していました。
それでも彼女は、生きようとしました。
勉強しました。
学校へ戻ろうとしました。
人と仲良くなろうとしました。
進学しようとしました。
誰かに話を聞いてもらおうとしました。
何度も崩れながら、何度も立て直そうとしていました。
だからこそ、最後に死を選ぶところまで追い詰められたことの重さを、私は軽く扱いたくありません。
最後の瞬間が完全には分からないという理由で、
「それまでの苦しみと死亡との関係も分からない」
としてしまえば、彼女が生前に発していた苦しみを、死後になってもう一度軽く扱うことになってしまうと思うからです。
もちろん、道徳的な思いによって存在しない事実を作ることはできません。
事実は、可能な限り事実として検証しなければなりません。
しかし、すべての事実を完全に再現できない部分について、確認されている事実の連続性を重く見るのか、それとも反証できない別の可能性が一つ存在するという理由だけで、その連続性を切断するのか。
そこには、最後には評価の問題が残ります。
私はそこで、
彼女が生前に訴え続けていた苦しみの重さを、死亡という結果から安易に切り離さない
という立場を取りたいと思います。
彼女の死亡は、2021年2月13日に突然発生した、それまでの人生とは独立した出来事ではありません。
2月13日には、その前があります。
2019年があります。
さらに、その前の小学生時代があります。
彼女自身の特性があります。
学校があります。
人間関係があります。
いじめがあります。
家庭があります。
本人が大切にしていた勉強があります。
遠ざかっていった進路があります。
孤独があります。
自責があります。
その中には、彼女を傷つけた出来事だけではありません。
彼女を支えた人もいました。
守ろうとした人もいました。
誰かの言葉によって落ち着いた日もありました。
母親との面会で落ち着いたこともありました。
死にたいという気持ちが弱まり、再び勉強や人との関係へ向かった日もありました。
彼女の人生には、死へ向かわせる力だけでなく、彼女を生へ引き戻す力も存在していました。
その両方の中を彼女は生きてきました。
だから私は、
彼女が生きてきた歴史と、2月13日の行動と、その結果としての死亡には、因果的な連続性がある
と考えます。
これは、過去に起きたすべての出来事が、それぞれ単独で彼女を死亡させたという意味ではありません。
影響の大きさは、それぞれ違うはずです。
ある出来事は彼女を直接傷つけた。
ある出来事は、その傷を長引かせた。
ある出来事は孤独を深めた。
ある言葉は自己評価を傷つけた。
誰かが何かをしなかったことで、回復する機会が失われたこともあったかもしれません。
反対に、誰かが何かをしたことで、彼女が危機から戻ることのできた時もありました。
そして最後の2月13日には、その日の彼女と直接関わった人たちもいました。
そうした一つ一つが連なって、彼女の人生になっています。
だから、
「原因を一つに決められない」ことと、「因果関係を認められない」ことは同じではありません。
誰か一人だけを選び、
「この人が彼女を死なせた」
と結論づける必要はありません。
しかし、
誰か一人のせいではないから、誰が何をしても、何をしなくても、結局同じ結果だった
と考えることもできないと思います。
それでは、この死から何も学ぶことができないからです。
あの行為をしなかったら。
あの時、別の対応をしていたら。
学校へ通い続けられる環境を作れていたら。
本人の努力や苦しさをもっと理解できていたら。
人とのつながりを安心して持つことができていたら。
進路を失わずに済んでいたら。
失踪直前の誰かとの会話が違うものだったら。
どこか一つが違えば、その次の出来事も違っていた可能性があります。
私は、それを考えることが、この死を教訓にするということだと思います。
彼女の死亡は、自殺であったと強く推認されます。
なぜ2月13日だったのか、その最後の引き金までは特定できません。
そして、その最後の時間に彼女が何を考え、どこまで生きたいと思い、どの時点で死を受け入れたのかも分かりません。
それでも私は、
最後の一部分が分からないことを理由に、彼女がそれまで経験してきた苦しみと死亡という結果を切り離すべきではない
と思います。
彼女は、死にたかっただけではなかった。
生きたかったのだと思います。
人とつながりたかった。
理解されたかった。
認められたかった。
学校へ行きたかった。
未来を持ちたかった。
幸せになりたかった。
それでも、その希望よりも苦しみの方が大きくなり、最後には死ぬ方向へ自分を委ねてしまった。
私は、彼女が生きてきた歴史の中でさまざまな苦しみが生まれ、重なり、時には和らぎ、また強まり、その延長線上に2021年2月13日の行動と死亡があったのだと考えています。
では、その歴史の中にあった一つ一つの出来事は、彼女の死とどのような関係にあったのでしょうか。
いじめがなければ、自殺はなかったのか。
家庭で本人が感じていた苦しさがなければ。
学校不適応がなければ。
学業や進路の挫折がなければ。
あれほど強い孤独がなければ。
次の部では、一つの原因だけを特別扱いするのではなく、すべての要因に同じ基準を当てながら、彼女の死亡との因果関係を考えていきたいと思います。
第四部 14歳の少女が亡くなった原因について
第十五章 「原因」とは何を意味するのか
前章までで、彼女がどのように生き、何に苦しみ、それでも何を求め続け、2021年2月13日に家を出て亡くなったのかを見てきました。
ここからは、彼女が亡くなった「原因」について考えていきます。
ただ、その前に、「原因」という言葉が何を意味するのかを整理しておきたいと思います。
この点を曖昧にしたまま議論を進めると、
「彼女を傷つけた」
という話と、
「それがなければ彼女は亡くならなかった」
という話と、
「その人に死亡という結果まで法的責任を負わせることができる」
という話が、すべて同じものとして扱われてしまうからです。
私は、この三つは分けて考える必要があると思います。
例えば、ある出来事について、彼女自身が傷ついたことが確認できたとします。
さらに、その出来事がその後も思い出され、自責や恐怖などと結びつき、精神状態に長く影響していたことまで確認できたとします。
そこまで分かれば、
その出来事は彼女のその後の人生に影響した
とは言えるでしょう。
しかし、それだけで直ちに、
「その出来事がなければ、約1年8か月後の自殺は起こらなかった」
とまで言えるわけではありません。
「影響した」ということと、
「死亡に寄与した」ということと、
「それがなければ死亡しなかった」ということでは、因果関係について主張している強さが違います。
反対に、
「それがなければ絶対に亡くならなかったとまでは証明できない」
という理由だけで、
「死亡とは何の関係もなかった」
とすることもできません。
私は、この二つの間にある因果関係を丁寧に見ていく必要があると思います。
その中で、まず重要になるのが、いわゆる事実的な因果関係です。
非常に単純化して言えば、
「その出来事がなかったとしても、同じ結果が起きていたのか」
という考え方です。
仮に、その出来事がなければ死亡という結果は起こらなかったと考えられるのであれば、その出来事と死亡との間には、強い事実的な因果関係があることになります。
再調査委員会が、
「いじめ被害が存在しなければ、廣瀬爽彩の自殺は起こらなかった」
と評価したのも、少なくとも文言上は、このような反実仮想による非常に強い因果関係の判断です。
ただし、ここでも注意が必要です。
一つの結果について、
「それがなければ起こらなかった原因」
が一つしか存在できないわけではありません。
例えば、A、B、Cという条件がすべて重なって初めて一つの結果が生じたのであれば、
Aがなければ結果は起きなかった。
Bがなければ結果は起きなかった。
Cがなければ結果は起きなかった。
ということが、同時に成立する場合があります。
したがって、
「いじめがなければ自殺は起こらなかった」
という判断が正しいとしても、それだけで、
「学校不適応がなくても、孤独がなくても、学業や進路の挫折がなくても、家庭で本人が感じていた苦しさがなくても、結局同じように亡くなっていた」
ということにはなりません。
むしろ複数の要因が重なった結果なのであれば、それぞれについて、
「これがなければ、その後の経過は違っていたのではないか」
と検討する必要があります。
そして、もう一つ分けなければならないのが、相当因果関係です。
事実として、
「その出来事がなければ死亡しなかった」
と考えられることと、
その出来事を起こした人に、死亡という結果まで法的責任を負わせることが相当である
ということは、同じではありません。
人の人生には、その後にさまざまな出来事が起こります。
時間が経過します。
別の人との関係が生まれます。
本人自身の精神状態も変化します。
新たな問題が起きることもあれば、回復する機会が生まれることもあります。
そのような経過の中で、最初の行為からどれほど時間が経過しているのか。
その後にどのような事情が介在したのか。
死亡という結果が、その行為からどの程度予測し得るものだったのか。
その行為によって生じた影響が、死亡までどのように続いていたのか。
そうした事情を踏まえながら、
死亡という結果まで、その行為に法的に帰属させることができるのか
を考えるのが、相当因果関係の問題です。
だから、
事実的な因果関係が認められることと、相当因果関係が認められることは同じではありません。
さらに、
相当因果関係が認められることと、実際に誰かが法的責任を負うことも、完全に同じではありません。
法的責任を判断するためには、因果関係だけでなく、その人にどのような義務があったのか、結果を予見できたのか、結果を回避できたのか、過失があったのかといった別の問題も検討する必要があります。
私は、この区別はこの件を考える上で非常に重要だと思っています。
例えば、いじめが彼女を傷つけ、その後の精神状態にも影響していたとしても、それだけで関係した子どもたちが約1年8か月後の死亡という結果まで法的責任を負うことにはなりません。
学校へ行けなくなったことが自殺までの経過に関係していたとしても、それだけで学校が死亡を予見できたことにはなりません。
家庭で本人が感じていた苦しさが精神状態に影響していたとしても、それだけで母親に死亡結果について法的責任があるという話にもなりません。
反対に、法的責任まで認められないからといって、
その出来事が彼女の人生や死亡までの経過に何の影響も与えていなかった
ことにもなりません。
私は、
因果関係を認めることと、誰かを犯人にすることを同じにしたくありません。
この二つを同じものとしてしまえば、誰かを守ろうとするために因果関係そのものを否定したり、逆に誰かに責任を負わせるために因果関係を必要以上に強く認定したりすることになります。
それでは、彼女に何が起きたのかを正確に見ることができません。
また、人が亡くなるまでの因果関係は、一つの原因から一つの結果へ伸びる一本の線とは限りません。
ある出来事によって人間関係への恐怖が強くなる。
その結果、学校へ行くことが難しくなる。
学校へ行けなくなったことで学業が遅れる。
学業が遅れたことで将来への不安が強くなる。
孤独になり、人を求める。
しかし、人との関係で再び傷つく。
そのことで、さらに自分を責めるようになる。
このように、
前の出来事が次の状態を作り、その状態が、その後に起きる出来事の意味まで変えていく
ことがあります。
その場合、「最初の出来事だけが原因だった」と考えることも、「最後の出来事だけが原因だった」と考えることも、どちらも実態から離れてしまいます。
遠い原因と近い原因は、同時に存在することがあります。
長期間にわたって精神状態を悪化させた要因があり、その上で、最後に行動へ移る直接的な引き金が存在することもあります。
前章で見たように、彼女については、
なぜ2021年2月13日に実際の行動へ移ったのか
という最後の直接的な引き金までは特定できません。
しかし、そのことは、
なぜ死を考えるほど苦しくなっていたのか
という、それ以前の因果関係まで分からないという意味ではありません。
私は、この二つも分けて考えたいと思います。
そして、この後の検討では、少なくとも、
その出来事によって彼女は傷ついたのか。
その後の精神状態に影響したのか。
自殺までの経過に寄与したのか。
それがなければ自殺は起こらなかったとまで言えるのか。
さらに法的な問題を考える場合には、
死亡という結果まで相当因果関係が認められるのか。
という段階を分けて考えていきたいと思います。
この区別をした上で見ると、最初の第三者委員会と再調査委員会の違いも、より分かりやすくなると思います。
最初の第三者委員会は、いじめだけではなく、孤独、学校生活への不適応、学業上の挫折など複数の要因を考え、それぞれが死亡にどの程度寄与したのかは分からないという立場を取りました。
一方、再調査委員会は、いじめによる影響が長期間続いていたことを重く見て、最終的に、
「いじめ被害が存在しなければ、自殺は起こらなかった」
とまで判断しています。
ここで重要なのは、
再調査委員会がいじめとの因果関係を認めたことが正しいか間違っているか
という二択だけではありません。
なぜ、そこまで強い因果関係を認定できたのか。
その基準を、他の要因に当てはめるとどうなるのか。
そして、仮に事実的な因果関係が認められたとしても、死亡という結果まで法的に帰責できる相当因果関係については、どこまで言えるのか。
そこまで分けて考える必要があります。
私はこの記事で、
彼女を傷つけた原因
と、
彼女が亡くなるまでの原因
と、
それがなければ亡くならなかったといえる原因
と、
死亡結果まで法的責任を負わせることのできる原因
を、同じものとして扱わないようにしたいと思います。
その上で、彼女の人生の中にあった一つ一つの出来事が、死亡までの経過の中でどのような役割を果たしたのか。
次の章から、それを考えていきたいと思います。
第十六章 彼女を死に近づけたもの、彼女を生につなぎとめたもの
ここまで見てきた彼女の人生を一つにつなげて考えると、私は、その出発点の一つには、見捨てられることへの不安と、一人になりたくないという強い気持ちがあったのではないかと思います。
彼女は、人との関係を避けていた子ではありません。
むしろ本人自身が後に、「一人になりたくなかった」「何より一人が怖かった」という趣旨のことを残しているように、人とのつながりを強く求めていました。
そして彼女には、高い言語理解力や論理的思考力がありました。
この点を考える時、私は彼女が周囲とうまくいかなかった理由を、安易に彼女自身の「発達上の問題」へ求めるべきではないと思っています。
能力が高い側にいる人は、日常生活の中では、自分よりも言葉で考えを整理することや、感情の理由を説明すること、物事を筋道立てて考えることを得意としない人と接する機会の方が多くなります。
そうなれば、相手の言っていることが理解できなくても、自分なりに意味を考えなければならない。
言葉と行動が矛盾していても、その理由を推測しなければならない。
納得できないことでも、関係を壊さないために自分の方が譲らなければならない。
まして彼女には、一人になりたくないという強い気持ちがありました。
私は、彼女は人間関係の中で、周囲に合わせ、理解しようとし、我慢する側に回ることが、他の子どもよりも多かった可能性があると思っています。
そして、その我慢が限界を超えた時に、外から見える形で感情が現れた。
失踪する。
教室を飛び出す。
泣く。
怒る。
激しい言葉を口にする。
そうした目立つ行動だけを切り取れば、「感情をコントロールできない子」「問題行動を起こす子」と見ることは簡単です。
しかし、私はそれでは彼女を理解したことにはならないと思います。
重要なのは、その前に何が積み重なっていたのかです。
彼女より言葉による整理を苦手とする相手との会話、十分に説明されない感情、集団の空気によって決められる「普通」、本人には納得できない優先順位。
誰に優しくするのか。
誰の気持ちを優先するのか。
誰が我慢するべきなのか。
何を大切にするのか。
そうした愛情、優しさ、配慮の配分そのものが、彼女には不合理に見えることもあったのではないかと思います。
私は、周囲のコミュニケーション能力や論理的な整理の水準、教養や想像力の不足によって生じる不合理に、彼女は人一倍敏感に気付き、人一倍傷つき、それでも関係を壊さないために我慢してきた可能性があると考えています。
実際、彼女は周囲とのずれについて繰り返し考え、その理由を理解しようとしていました。記録からも、彼女が高い言語理解力を持ち、自分と周囲との違いを深く考えていたことがうかがえます。
それでも、人とのつながりは必要でした。
北星中学校でクラスメートとの距離が広がっていった時にも、彼女は人間関係そのものを諦めたのではありません。
むしろ、別の場所に新しいつながりを求めました。
その一つが上級生たちとの関係でした。
ゲームをしたり、公園で過ごしたり、その関係には彼女にとって楽しい部分もありました。本人自身も、先輩たちと「仲良くしようと頑張った」と振り返っています。
クラスの中で居場所を失いかけていた彼女にとって、ようやくできた別の居場所です。
だからこそ、それを簡単には失いたくなかった。
嫌なことがある。
でも一緒にはいたい。
要求には応じたくない。
でも関係は壊したくない。
そうして自分の方が譲る範囲が広がり、性的なものを含む不適切な関係へ進んでいった可能性があります。
そして同じ頃、家庭でも状況が悪化していきました。
帰宅時間や塾、金銭などをめぐって母親との摩擦が増え、そこには母親の交際相手との関係もありました。
つまり彼女は、学校で従来の居場所を失い、新しく求めた人間関係でも傷つき、同時に家庭の人間関係にも苦しさを抱えるようになっていたのだと思います。
その状態が一気に表へ出たのが、2019年6月22日だったのではないでしょうか。
この日、彼女は激しく感情を乱す中で、
「何も知らないくせに」
「誰もわかってくれない」
「自分には障害がある」
「親とうまくいっていない」
「もう死にたい」
などと話しています。
私は、この言葉を非常に重く見ています。
ここで彼女が訴えているのは、一つの出来事だけではありません。
理解してもらえないこと。
自分と周囲との違い。
親との関係。
そして、もう耐えられないという気持ち。
それまで我慢していたものが、一度に噴き出したように見えます。
その後も彼女は「家に帰りたくない」と話し、学校へ移動した後にも母親には会いたくないという意思を示しました。学校には母親と母親の交際相手も来ていましたが、彼女は二人には会わず、女性警察官に付き添われて病院へ向かっています。
もちろん、これだけで家庭に虐待があったということにはなりません。
しかし、少なくともこの時点では、友人や上級生との関係だけではなく、家庭の人間関係も彼女の苦しみの一部になっていたと考える必要があります。
そして彼女は、強い希死念慮を示し、自傷的な入水に至りました。
その後、入院し、転校します。
しかし、そこで人生を立て直せたわけではありませんでした。
人間関係がうまくいかなかった。
学校へ安定して通えなかった。
以前のように勉強を続けられなくなった。
希望していた進路も遠ざかっていった。
本来、自分には能力があることを知っていた彼女だからこそ、「以前ならできたことができない」「頑張っているのにうまくいかない」という経験は、強い無力感につながったのではないかと思います。
そうした経験が積み重なるほど、次の経験が怖くなります。
また傷つくことが怖い。
また人に迷惑をかけたと言われることが怖い。
また関係が壊れることが怖い。
その結果、少しずつ身動きが取れなくなっていく。
しかし、身動きが取れなくなれば、人とのつながりも減っていきます。
そして孤独になるほど、
誰かと話したい。
誰かと一緒にいたい。
自分を分かってほしい。
という気持ちは、むしろ強くなっていきました。
私は、この矛盾が彼女を非常に苦しめたのだと思います。
誰よりも人とのつながりを求めているのに、人と関わればまた傷つくかもしれない。
そして、何度繰り返してもうまくいかない中で、彼女はその理由を次第に自分自身へ向けていきました。
「私が悪い」
「人のことが分からない」
「普通じゃない」
そして、自分と周囲との間で起きていた問題まで、自分の「(障害とされた)個性」のせいなのではないかと考えるようになっていった。
しかし、私はそうは思いません。
彼女が周囲を理解できなかったことがあったとしても、周囲もまた彼女を理解できなかった。
私はむしろ、彼女が周囲との違いに気付くだけの能力を持っていたからこそ、周囲の矛盾や不合理、配慮の不足に誰よりも傷つき、それでも人との関係を失いたくないために我慢を重ねていた可能性を考えています。
それなのに、最後には、
「自分がおかしいからうまくいかない」
と、その責任まで自分の中へ取り込んでしまった。
その自責が深まる中で、彼女は入院中にも、
「私が全部悪いんだ」
「何もかもどうでもいい」
「死にたい」
と訴えています。
私は、彼女を死に近づけたものを、一つの出来事に絞ることはできないと思います。
見捨てられることへの不安から人を強く求め、能力や認識の違う周囲に自分を合わせ、居場所を失いたくないために我慢を重ね、その中で不適切な関係にも巻き込まれた。
学校と家庭の双方で人間関係が悪化し、6月22日の入水、入院、転校を経て、その後は自己評価を大きく揺さぶる体験が積み重なった。
身動きが取れなくなるほど孤独が深まり、それでも人とのつながりを求め続け、最後には、うまくいかない理由を自分自身の個性に求めるようになっていった。
私は、この連鎖全体を見る必要があると思います。
ただ、その一方で、彼女を生につなぎとめていたものも最後まで残っていました。
誰かに理解してもらえば落ち着くことがありました。
勉強で結果を出せば喜びました。
高校へ進む未来も考えていました。
学校で人と話し、笑うこともありました。
そして最後まで、誰かとつながろうとしていました。
つまり、彼女を苦しめた「人とつながりたい」という強い気持ちは、同時に彼女を生につなぎとめていたものでもあったのだと思います。
彼女を死に近づけるものと、生へ引き戻すものは、最後まで同時に存在していた。
私は、彼女が亡くなるまでの経過を、そのような一つの連鎖として考えています。
次の章では、この経過を最初の第三者委員会と再調査委員会がそれぞれどのように捉え、なぜ死亡原因について異なる結論に至ったのかを見ていきたいと思います。
第十七章 最初の第三者委員会と再調査委員会は、なぜ違う結論になったのか
前章では、彼女が亡くなるまでの経過を、一つの出来事だけではなく、複数の苦しみが連なったものとして見てきました。
では、なぜ最初の第三者委員会と再調査委員会では、死亡原因について大きく異なる結論になったのでしょうか。
私は、単に「再調査委員会の方が詳しく調べたから結論が変わった」というだけでは説明できないと思います。
大きな違いは、彼女が亡くなるまでの因果関係を、どのように組み立てたのかにあります。
最初の第三者委員会は、いじめが彼女を傷つけ、その後の精神状態に影響した可能性を否定していません。
しかし死亡までの経過については、いじめだけではなく、学校生活への不適応、それに伴う孤独感の増大、学業上の挫折など、複数の要因が抑うつ状態をもたらした可能性を挙げています。
そして、それぞれがどの程度、どのような形で死亡に関与したのかを明らかにするだけの情報は得られなかった、という立場を取りました。
つまり最初の第三者委員会は、
いじめも影響した可能性がある。
孤独も影響した可能性がある。
学校不適応も、学業上の挫折も影響した可能性がある。
しかし、
どれがどの程度、死亡へつながったのかまでは分からない。
という、多因子的な見方をしていたことになります。
これに対して再調査委員会は、2019年のいじめを、その後の死亡まで続く因果関係の中心に置きました。
その判断で重要なのが、精神医学的な評価です。
2019年当時の医療記録では、自閉スペクトラム症、混合性不安抑うつ状態、急激な不安や希死念慮に伴う行動化の危険などが確認されていました。
一方、再調査委員会は数年後、当時の医療記録やその後のSNSなどを改めて検討し、いじめを外傷的ストレス因としてPTSDが発症していたと評価しています。
さらに、6月22日の入水についても、再調査委員会は「自殺企図」と評価しました。
そのため、
いじめを受ける。
その影響によってPTSDなどの精神的な問題が生じる。
希死念慮や自殺企図が現れる。
その影響がその後も続く。
最終的に自殺に至る。
という因果関係が組み立てられていきます。再調査委員会が6月22日の出来事を、いじめと希死念慮・自殺企図をつなぐ重要な出来事として評価していることも、ここに関係しています。
そして最終的には、
「いじめ被害が存在しなければ、自殺は起こらなかった」
とまで判断しました。
つまり、二つの委員会の違いはかなり単純化すると、
最初の第三者委員会は、複数の要因が重なった結果として死亡を捉え、それぞれの寄与の程度は分からないとした。
一方で、
再調査委員会は、いじめを起点とする精神的影響の継続を重く見て、いじめから自殺まで一本の因果的なつながりを認めた。
という違いだったのだと思います。
私は、どちらか一方だけが彼女の人生を見ていた、と考える必要はないと思います。
時間が経過しているからといって、いじめによる傷が消えるわけではありません。
その後も彼女が過去の出来事について苦しんでいたことを考えれば、再調査委員会がいじめの影響が長期間続いたと考えたこと自体には理由があります。
しかし同時に、彼女のその後には、学校不適応、孤独、家庭で感じていた苦しさ、学業や進路、自責など、実際に別の問題も起きていました。
そのため私は、二つの委員会の最大の違いは、
「いじめの影響があったかどうか」ではなく、その影響を死亡までの因果関係の中で、どこまで中心的なものとして評価したのか
にあるのだと思います。
そして、ここからが最も重要な問題です。
再調査委員会がいじめと自殺との因果関係を認めたことと、
「いじめがなければ、自殺は起こらなかった」
とまで言えることは、本当に同じなのでしょうか。
また、その基準を孤独、学校不適応、家庭、学業や進路など、他の要因にも同じように当てはめると、どうなるのでしょうか。
次の章では、そこを考えたいと思います。
第十八章 「いじめがなければ自殺はなかった」と、どこまで言えるのか
再調査委員会は、彼女が受けたいじめによる精神的な影響が、その後も長期間続いていたと評価しました。
そして最終的に、
「いじめ被害が廣瀬爽彩の自殺の『主たる原因』であった可能性は高い」
とした上で、
「少なくとも、現時点で確実に言いうることは、いじめ被害が存在しなければ、廣瀬爽彩の自殺は起こらなかった」
と結論づけています。
私は、いじめと彼女の死に因果関係がなかったとは考えていません。
彼女が2019年の出来事によって傷ついたこと、その影響がその後も残っていたことには、十分な根拠があります。
亡くなる直前とみられる時期にも、過去の性的な出来事について話し、「自分が悪い」という趣旨のことを語っていました。
時間が経っているからといって、いじめの影響が消えていたとは言えません。
しかし、
「いじめが自殺に影響した」
ということと、
「いじめがなければ自殺は起こらなかった」
ということは、同じではありません。
後者は、いじめを取り除いた世界を想定すれば、彼女は亡くならなかったとする、かなり強い判断です。
そして、ここで私が疑問に思うのは、なぜこの判断を、いじめだけについて確実に言えるのかということです。
一つの結果について、
「それがなければ結果は起こらなかった」
という条件が、一つしか存在できるわけではありません。
例えば、A、B、Cという三つの条件が重なって初めて結果が生じたのであれば、
Aがなければ結果は起こらなかった。
Bがなければ結果は起こらなかった。
Cがなければ結果は起こらなかった。
ということが同時に成立します。
彼女についても同じです。
いじめがなければ、その後の人生は違っていたかもしれません。
しかし同じように、
あれほど強い孤独がなければ。
学校へ安定して通い続けることができていたら。
家庭で「理解されていない」と感じる苦しさがなければ。
学業や進路という、自分を肯定し未来を描くための支柱を失わずに済んでいたら。
その後の経過は違っていた可能性があります。
実際、彼女の学校不適応や孤独、学業上の挫折は、最初の第三者委員会も死亡までの経過に関係した可能性のある要因として挙げています。
そして本稿で見てきたように、家庭で感じていた苦しさも、彼女自身の言葉として残っています。
もちろん私は、
「孤独がなければ絶対に自殺しなかった」
「学校へ行けていれば絶対に自殺しなかった」
「家庭関係が違えば絶対に自殺しなかった」
と断定したいわけではありません。
私が言いたいのは、その逆です。
他の要因についてそこまで断定できないのであれば、なぜ、いじめについてだけ「それがなければ自殺は起こらなかった」と断定できるのか。
そこには、説明が必要だと思います。
再調査委員会が他の要因をまったく検討していないという意味ではありません。
しかし最終的に、「これがなければ自殺は起こらなかった」として明確に位置づけられたのは、いじめです。
私は、ここに最も慎重な検討が必要だったと思います。
彼女が亡くなったのは、2019年の出来事から約1年8か月後です。
その間、彼女は入院し、転校し、新しい人間関係を作り、学校へ行けなくなり、学業や進路に悩み、家庭について苦しみ、強い孤独を抱え、それでも何度も人とつながろうとしていました。
精神状態も、一方向に悪化し続けていたわけではありません。
亡くなる9日前には学校へ行き、人と話し、笑い、同じ学校の子どもたちと帰っています。
そして、なぜ2021年2月13日に実際の行動へ移ったのかという、最後の直接的な引き金は分かっていません。
だからといって、いじめとの因果関係が消えるわけではありません。
しかし逆に、いじめの影響が残っていたという事実だけから、「他の要因がなくても同じ自殺が起きていた」と考えることもできません。
私は、
「いじめがなければ自殺はなかった可能性がある」
という評価には、根拠があると思います。
しかし、
「いじめがなければ自殺は起こらなかったことが、現時点で確実に言える」
とまで断定することについては、慎重であるべきだと思います。
むしろ、これまでの彼女の人生を見れば、
いじめも、孤独も、学校不適応も、家庭で感じていた苦しさも、学業や進路を失っていったことも、それぞれが次の出来事を変えていった可能性がある。
そう考える方が自然なのではないでしょうか。
いじめとの因果関係を認めることと、いじめだけを「なければ自殺は起こらなかった条件」として確定することは別です。
私は、そこを分けて考える必要があると思います。
では、結局、14歳の彼女はなぜ亡くなったのか。
最後の章では、ここまで見てきたすべてを踏まえて、今の私が言えることを書きたいと思います。
第十九章 14歳の少女が亡くなった原因について、今の私が言えること
ここまで、彼女がどのような子どもだったのかというところから、亡くなるまでの経過を見てきました。
最後に、14歳の彼女が亡くなった原因について、今の私が言えることを書きたいと思います。
私は、彼女の死を、誰か一人のせいにすることはできないと思っています。
しかし同時に、
誰か一人のせいではないからといって、何のせいでもなかったわけではありません。
彼女は、もともと人とのつながりを強く求めていました。
高い能力を持ち、周囲との違いや矛盾、不合理に気付きながらも、人との関係を失いたくないために、自分の方が合わせ、我慢することが多かったのではないかと思います。
北星中学校では、クラスの中で居場所を失いかける中、新しく上級生たちとのつながりを求めました。
その関係の中で、性的な画像や動画を求められるなど、本人が望んでいたとは考えにくい出来事が起きました。
同じ時期には家庭の人間関係にも苦しさを抱え、2019年6月22日には、
「誰もわかってくれない」
「親とうまくいっていない」
「もう死にたい」
という言葉とともに、それまで抱えていた苦しみが一気に表へ出ました。
その後、入院し、転校しました。
しかし、苦しさはそこで終わりませんでした。
人間関係がうまくいかない。
学校へ安定して通えない。
勉強が以前のようにできない。
希望していた進路が遠ざかる。
一人になるのは怖いのに、人と関わることも怖くなる。
そうした経験が重なる中で、彼女は次第に、
「自分が悪い」
という方向へ責任を引き寄せていったように見えます。
一方で、彼女は最後まで生きることを完全には諦めていませんでした。
人とつながろうとしました。
学校へ戻ろうとしました。
勉強をしました。
高校へ進むことを考えました。
亡くなる二か月ほど前にも「まだもう少しだけ頑張ってみます」という言葉を残し、失踪する9日前には学校へ行き、人と話し、笑っています。
だから私は、彼女の人生を、
2019年にいじめを受け、そこから一直線に自殺へ向かった
という一本の線だけで説明することはできないと思います。
しかし逆に、
その後にもさまざまな出来事があったのだから、2019年のいじめと死亡は関係がない
とも考えません。
いじめは彼女を傷つけました。
その傷は、その後にも残っていた可能性が高い。
そして、その後に生じた学校不適応、孤独、家庭で本人が感じていた苦しさ、学業や進路、自責もまた、彼女の精神状態や人生の経過に影響していたと考えられます。最初の第三者委員会も、いじめだけでなく複数の要因が関与した可能性を挙げています。
私は、それらを無理に順位づける必要もないと思います。
いじめが何割。
家庭が何割。
学校不適応が何割。
孤独が何割。
そのように人の人生を数字で分けることはできません。
一つの出来事によって傷つき、その傷によって次の出来事の受け止め方が変わり、そこでまた傷つき、今度は動くことができなくなり、孤独になり、その孤独によってさらに人を求める。
原因は並んでいたのではなく、つながっていたのだと思います。
そして、そのつながりのどこかが違っていたら、その次も違っていた可能性があります。
いじめがなかったら。
安心して人との関係を持つことができていたら。
家庭で自分の気持ちをもっと理解してもらえたと感じていたら。
学校へ通い続けることができていたら。
勉強や進路という支柱を失わずに済んでいたら。
孤独から抜け出すことができていたら。
失踪する直前の時間に、何か一つ違うことが起きていたら。
そのどれか一つが違うだけでも、彼女は2021年2月13日に家を出なかったかもしれません。
あるいは家を出ても、戻ってきたかもしれません。
だから私は、どれか一つだけを「本当の原因」と決めることよりも、彼女をそこまで追い詰めた経過全体を見ることの方が大切だと思います。
彼女の死亡は、自殺であったと強く推認されます。
なぜその日だったのかという最後の直接的な引き金は、今も分かりません。
しかし、最後の一部分が分からないからといって、それまでの苦しみと死亡という結果まで切り離すべきではないと思います。
彼女は、死にたかっただけではありません。
生きたかったのだと思います。
人とつながりたかった。
理解されたかった。
認められたかった。
学校へ行きたかった。
勉強をしたかった。
未来を持ちたかった。
幸せになりたかった。
それでも、少しずつ積み重なった苦しみが、生きる方向へ進もうとする力を上回ってしまった。
そして最後には、死ぬ方向へ自分を委ねてしまった。
それが、ここまで彼女の人生を見てきた私が、今考えていることです。
誰か一人のせいではない。
しかし、何のせいでもなかったわけではない。
彼女が亡くなった原因は、彼女が生きてきた時間の中にあります。
だからこそ、彼女の死を本当に教訓にするのであれば、誰か一人を悪者にして終わるのでも、誰にも責任がないとして終わるのでもなく、彼女がどこで傷つき、どこで孤独になり、どこで助けを求め、どこで生きる力を失っていったのかを、彼女の人生そのものとして見続けることが必要なのだと思います。
いじめ撲滅ドットコム 普津澤峻























































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