パパが、パパとしてお前に言えることだけが本当のことだと思う。
お前を愛する気持ちに嘘は一つもないからだ。
逆に、パパが、パパとしてお前に言えないことは嘘だ。
他所の子供にも言ってはいけない。
だから、お前に言えることだけを
お前に伝えるつもりで書くよ。
シン・いじめ撲滅「いじめを撲滅する方法」
娘よ。
多くの人達は「いじめを撲滅することはできない」と言う。
でも、パパはそう思わない。
何故かって?
うちにはいじめがないからだ。
もちろん、外に出れば、いじめは蔓延している。
不倫をした有名人が袋叩きにされていたり、致し方無く増税をした総理が「増税めがね」なんてあだ名を付けられていたり、先生や市の職員が税金泥棒と揶揄されていたりね。
学校でも同じことが起きているよな。
娘よ。
何故だと思う?
批判をしている大人達は口を揃えてこう言う。
これはいじめではない。批判だ。抗議なんだ。批判や抗議はいじめではない。ってね。
でも、いじめをする人達にも、いじめをする理由がある。
いじめようと思った理由があるんだ。
つまり、問題は、批判や抗議の理由が正当か不当か。
それだけなんだ。
では、正当であるか不当であるかは、誰が決めるのだろう?
そう、自分だ。
どんな権威が判断しても、その判断を受け入れるかどうかは、自分次第だからね。
では、その自分は何を基に判断していると思う?
答えは、感覚、思考、気分、知識、経験、立場、都合だ。
でも、娘よ。
パパもお前も完璧なんかじゃない。
何かを恐れ、自分を守るために必死になったり、都合の良いことを言ったりする、臆病で、矛盾だらけの、不完全な生き物。
それが人間だ。
でも、皆、自分を信じている。
信じずには生きていけない。
だから、こう考えておきなさい。
「批判や抗議」といじめは紙一重。
正義と悪も紙一重。
そう意識しておけば、いじめ加害やその他の悪を為すリスクを、少しは減らせるかも知れない。
そう意識した上で、それでも正義だと思うなら、貫け。
パパはお前の判断を信じる。
でも、忘れないでくれ。
誰かが誰かを批判している様を見て「これはいじめだ」と思う人がいる限り、いじめは無くならないんだ。
話を戻そう。
娘よ。
うちにはいじめがないのは何故だと思う?
答えは、恵まれていて、感謝し合っているからだ。
寒空の下で温かいご飯が食べられる。
暑い日は冷たいジュースが飲める。
空からミサイルが飛んでくることもないから公園で走り回ることもできる。
絵を描くペンや紙もある。
スマホやタブレットで面白い動画を観ることだってできる。
オンラインゲームで世界中の人達と遊ぶことまでできる。
時々うちに来て、楽しいお話をしてくれたり、お話を聞いてくれたりする人もいる。
そして何より、家族がいる。
ママもお前も「いつもありがとう」って何度も言ってくれる。
パパの下手くそな料理も「美味しい美味しい」って言ってくれる。
だから、パパも、頑張ることができるし、お前達にも感謝できるんだ。
愚痴を吐いたり喧嘩をしたりすることもあるけれど、大抵のことは寝て起きたら忘れてる。
おふざけで見下すようなことを言っても、おふざけだと分かるから皆笑える。
外で何があっても、帰る場所がある。
辛いことがあったら、逃げて帰れば良い。
そう思える環境があるんだ。
だから、うちには、いじめがない。
でも、皆がそうじゃないんだ。
されたこと言われたことを自分の中で処理できず、他人を見下すことでしか自分の価値を実感できない、そんな人達が、世の中には五万といる。
彼らは、お金が沢山ないと不安で、欲しいものが手に入らなかったり、投稿にいいねが沢山付かなかったり、フォロワーが増えなかったりすると不満で、仕舞いには「自分は不幸だ」なんて思ってしまうんだ。
だから、感謝も反省もできない。
でも、その結果は、その人たちの責任ではない。
何故かって?
人間なんて、そんなに変わらないものさ。
彼らだって、穏やかな環境で生きていれば、他人を見下したりせず、感謝をしながら生きていけた筈だよ。
彼らは、ただ「理不尽な目に遭ったと感じて悲しみを背負い、自信を失い、復讐に燃えるも果たせず、愚痴を吐き続け、良からぬものを引き寄せる装置となり、他人を見下し続け、更に悪い状況を招き、悲しみを肥大化させる」というサイクルから抜け出せなくなってしまっているだけなんだ。
いじめを無くしたいと思うなら、このサイクルから抜け出せそうな人のお手伝いをしてあげることだよ。
でも、批判はいけない。
彼らにとっては「自分を更に傷つける言葉」にしかならないからね。
お前が良いと思ったところを褒めて、健全な自信を持って貰うことから始めよう。
大事なのは、見下したり、指摘したりすることではなく、気持ちを理解して、良い行動を促すことだ。
彼らがそのサイクルから抜け出せれば、いじめはいつの日か必ず無くなる。
ただ、目の前で苦しんでいる人を助けるために、どうしても彼らを叩かなければいけない時が出てくるかも知れない。
そんな時は、せめて、心の中で、手を合わせよう。
その気持ちを持っているのといないのとでは大きな違いがあるからね。
娘よ。
少しずつで良い。
弱い立場に置かれた人達の気持ちを理解してあげろ。
そういう気持ちをもっていれば、少なくともお前はどこに行っても幸せに生きていける。
優しい気持ちを持った人達が自然と集まってくるからだ。
でも、色んな問題を背負い過ぎるのも良くない。
自分の心と相談しながら、一つずつ問題を解決していこう。
失敗したって良いんだ。
成功は、失敗が多ければ多いほど、デカくなって返ってくるものさ。
いいか?娘よ。
パパは、どんな時だってお前の味方だ。
お前の背後には常に、このパパがいるって意味だよ。
だから、他人に何を言われても動じることはない。
胸を張り、堂々と生きなさい。
パパはお前になら自分の命を預けられる。
与えてもらうことに感謝をし、
与えられることを幸せと思う。
我が子に私が教えられることはそれだけで、それを踏まえて生きていけたら、きっとどんな道でもその時の幸せを感じていけると私は思っている。
いじめはどこにでもある。
弱い自分を見せつけられる居場所を持つこと。
自分がだれかの居場所であることを忘れないこと。
そんな大きなことはできなくても、助けての声に気づくことは大切だし、
なによりどんなことより、「助けて」と声をあげられる環境にいることを忘れないでもらいたい。
いじめられたから異物というわけではなく、
どこにでも残酷な世界はあるから、
みんなが幸せな世界なんか叶えようとしなくていい。
大きなことはできなくても、
苦しいことを苦しいと言える。
寂しい時に寄り添ってもらえる。
楽しい時に笑い合える。
息苦しくなった時に、吐き出してもらえる。
できなかったら、難しいねーって愚痴れる友達が1人できれば十分。
家族がいつまで重要な役割を担えるかわからないけど、だからこそ、受け入れる器に穴あけときたい。
不安な時に側に居てくれる・ただ話を聞いてくれたり、時にはアドバイスをくれたり、叱ってくれたりもする・ちょっとくらい意見が食い違っても、喧嘩にならずに話し合える・喜びを分かち合える
そんな絶対的な味方が居る
これだけで人は救われる
家族が一番そうなれるはずで、理想なんだけど、そう上手くも行かないのが現実
だけど、小さな出来事の積み重ねで、家族ではない誰かととそういう関係になれることもある
クラスメイトの中に居るかもしれないし、給食室のおばさんがそうかもしれない
大人になってから出来る友達の中に居るかもしれない
皆が誰かのそういう存在になれたら、自分に存在価値は無い。と思うことは無くなると思うんだよなぁ