「僕も仲間に入れて」
そう言っても
「お前は下手くそだからダメ〜」
と一蹴され、けっして仲間には入れて貰えませんでした。
幼稚園の頃の話です。
日常的に叩かれもしました。
ティッシュの箱で殴られて、瞼の上を縫う怪我をしたこともあります。
泣きながら職員室に行き、先生達に慰めて貰ったり、遊んで貰ったりしていたことを今でも覚えています。

小学校に入学した後も、男子グループや女子グループに登下校を阻まれ、ランドセルを蹴られたり、殴られたり、引っ張られたりして、何度も転ばされました。
酷い時は、唾を吐きかけられることもありました。
父親は「男らしくあれ」というタイプの人間で、レンタルビデオ屋で借りてきた「あしたのジョー」を私に観せ、「男はこうあるべき」という教育を施しました。
時には喧嘩の技を教えてくれることもありました。
しかし、私は、その思いに応える勇気がなく、クラスの人気者に媚び諂って、運動会の際に、椅子を運んであげたり、図工の作品や休み時間中に書いた漫画を誉めちぎったりすることで、生き残る道を模索しました。
その姿を見た父に「情けない」「そんなことをするな」と言われ、叱られたことは、懐かしい思い出です。

中学校に入学した後は、素行の悪いグループに入ってしまった「友達だった筈の同級生」と、その先輩達に、胸倉を掴まれて、脅かされたり、突き飛ばされたり、殴られたり、蹴られたりしていました。
クラスメイトの前だけでなく、好きだった女の子の前でやられたこともあったので、自分を情けなく思い、一人で泣いた日もありました。
中学校二年生のある日、私は、いつものように、公園で、友達と、ソフトテニスをして遊んでいました。
すると、原付バイクに乗った素行の悪い先輩と同級生達が私のところに寄って来て、こう言いました。
「てめえ、調子に乗ってんじゃねえよ」
全く身に覚えのない指摘に、私は動揺し、
「調子に乗ってません」
と返答しました。
その後、取り囲まれ、脅かされ、突き飛ばされ、これでもかという程に尊厳を傷付けられたことは、言うまでもありません。
「このままではいけない」
そう思い、帰宅後に、両親に「ボクシングを習いたい」とお願いしました。
両親共に、強く反対していましたが、もうどうにでもなれという思いで、泣きながら、いじめられてきたことを告白したところ、しぶしぶ納得をして、月謝を負担することについても了解をしてくれました。
あんなに「あしたのジョー」を観せていたのに、何故反対するのか、不可解でしたが、最終的に私の意思を尊重してくれた父には、感謝しています。
ジムに通い始めてからは、毎日早朝に10キロ走り、学校には、10キロの重りを付けて登校しました。
あれをしなければ、もう少し身長が伸びていたかも知れないと思うと、非常に悔やまれます。
ちなみに私の身長は、調子の良い時で、173センチです。
学校から帰宅した後は、自転車に乗って、ジムへ行き、夜遅くまで、酔っぱらいの会長の元で、シャドーボクシングをしたり、サンドバッグを叩いたりしました。
拳と身体が少しずつ大きくなり、逞しくなっていった結果、素行の悪いグループは、危機感を抱いたのか、今度は、海で遊んでいたところにやってきて、土建屋さんのような身なりをした角刈り頭のトカゲ顔男子を差し出し、こう言いました。
「そんなに調子に乗りたいなら、こいつと喧嘩しろ」
私は、海で遊んでいただけです。
そう言いかけて、飲み込んだのは、話が通じる相手ではないことが分かっていたからです。
私は、その限りなく強要に近い要望に応じることにして、これが最後だろうと覚悟を決め、ボコされる道を選びました。
「十数人に囲まれた一方的に殴られるだけの公正公平な戦い」が終わると、案の定、リーダー格の先輩が「認めてやる」と言い、周りで見ていた虎の威を借る狐達が拍手をし始め、その中の一人が、私が脱ぎ捨てたジャケットを拾い上げながら「本当にやるとは思わなかったよ」などと言って、称賛して来たのです。
そして、その日以来、素行の悪い同級生たちは、私を「友達だ」などと言い始め、水に流そうという態度で接して来るようになりました。
「いつか殺してやる」
そう決意し、私は、とりあえず、一番弱そうな奴にだけ冷たくすることにしました。
ちなみに、「友達だ」などと言い始めた者は、成人してから、ミクシーのメッセージ機能を使って、私に謝罪をしてきました。
恐らく、当時の私のプロフィール欄に新右翼団体の名前が記載されていたからだと思います。

その後は、喧嘩をすることが怖くなくなったり、一方的な喧嘩を止めることが出来るようになったり、いじめをしている不良生徒を脅かして、仲裁することが出来るようになったりしました。
そして、次第に
「もう恐れるものは何もない」
そう思うようになっていきました。
もちろん、本当はそんな筈もないのですが、思い込みというものは凄いものです。
高校生の身分でありながら、駅前で公然と、若い女性や年下と思われる学生に暴力を振るっていた暴力団のお兄さま、お姉さま、おじさま達を相手に、仲裁することも出来ました。
幸い、相手方は、私の話を聞き入れ、罰が悪そうな顔をして、その場を立ち去って下さいましたが、振り返ってみると、「怖いもの知らずだったなぁ」と、しみじみ感じます。
そんなこんなで、いじめられることとは無縁になり、喧嘩や論争で相手を負かす生き方を貫いていった私ですが、今度は、その代償として、理不尽な社会と折り合いを付けて生きていくことが出来なくなっていました。
それはつまり、いじめを仲裁することで、相手を言い負かすことで、沢山の敵を作ってしまうということです。

社会は常に、多数の意思が尊重されます。
そして、いじめられる側は、味方のいない少数の立場に追いやられている場合が殆どです。
いじめられている者の味方をすることがどういうことなのか、立場の弱い者が立場の強い者に正論を吐くことがどういうことなのか、今は、よく分かりますが、当時の私は、その結果を受け入れることが出来ず、ただひたすらに、理不尽な結果を作り出した相手を責め立て、逃げていく様を見て、勝ったつもりになっていました。
そして、その度に、敵を増やし、バイトや派遣の契約を解除され、途方に暮れていたのです。
その流れは、まるでルーティンのようでした。

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