目玉を丸くさせた校長に退学届けを叩き付けたのは、高校3年生の10月のことでした。
卒業間近に、そんなことをしたのは、保身の為に嘘を付いた教師の胸ぐらを捩じり上げた結果、無期停学を言い渡されたからです。
でも、私が校長室の扉を蹴り上げた時に感じたのは、自由ではなく、むしろ不自由でした。
その後、プロミュージシャンになるためのオーディションを2回受け、いずれも一次審査を通過し、落選。
東京で一人暮らしをする予定をキャンセルして、2年間の引きこもり生活を開始させました。
タバコや酒は、家の手伝いをした報酬として頂く小遣いで購入し、髪はセルフカット、洋服はいつも同じ服を着ることで節約する正真正銘のモラトリアムです。
小林よしのりさん、宮台真司さん、小室直樹さん、少年犯罪関連の本を読み漁り、歴史、政治、社会の問題に関心を向けるようになりました。
上手くいかない人生は、こういう問題が絡んでいるのかも知れないと考えたからです。

2年間の引きこもり生活を終えた後は、バイトをしながら、癌を患った祖母の介護をして、死を看取りました。
私にとって祖母は、どんな時も味方をしてくれる、かけがえのない存在だったので、それを奪っていった生命を心の底から憎みました。

自分には、もう何もない。
何もかも消えて無くなればいい。
自分の命の価値を高めてくれるのは、右と左、どちらだろう。
右なら〇〇会、左なら〇〇〇派だ。
そうだ、これまでの人生は、全て学校に苦しめられてきた。
学校は、いじめを見ていながら、誰も助けてくれなかった。
保身のために嘘を付いた上に無期停学にしやがった。
理不尽な社会を作り上げているのは、教師だ、日教組だ、左翼だ。
天皇は民主主義の象徴で、ブルジョワではない。
分断を生んで、差別を作り出しているのは、左翼だ。
あいつらに復讐出来る方が良い。
そのように考え、私は、20歳を迎えて直ぐに、戸籍を皇居の住所に移し、東京の新右翼団体が開催しているフォーラムに参加し始めました。
話をよく聞いて、相手の弱い部分を見付け出し、質疑応答の時間に、積極的に質問をしました。
その後の飲み会でも、更に突っ込んだことを聞いたり、持論を述べたりして、代表やメンバーの方々と親睦を深めました。
集まっている人達の中で、一番若かったので、皆、期待の新人扱いをしてくれました。
そして、その流れで、代表付きの秘書として働くことになり、様々なところに同行させて頂きました。
そして、色んな方にお会いさせて頂きました。
怖い人から凄い怖い人まで揃った会合にも参加させて頂きました。

最後の舞台は、札幌でした。
洞爺湖サミットがあった年のことです。
「ここで一発ぶちかましてやる」
「中途半端な自分と決別して、新しいスタートを切るんだ」
そう決意して、彼女と家族に別れを告げ、出発しましたが、ある目的を果たすためのメンバーには入れて貰えませんでした。
皆が躊躇するようなものであればある程良いと考え、これがまさにそれだ、という状況であるのに、代表はこう言いました。
「お前はまだ若すぎる」
「もうちょっと待て」
私は、ここで死んでも良いと思っていたのに。
捕まって、刑務所に入っても良いと思っていたのに。
なぜ止めるんだ。
当時は、そう思いましたが、今は、あの時、止めてくれた代表に感謝しています。
そして、最終日、街宣車の中でマイクを握りアナウンスをしたり、アメリカ領事館の前で、公安の刑事さんや機動隊に囲まれながら、皆で全力の抗議をしました。
その際に、対峙する相手にリスペクトを欠かさず、物凄い数の警察官を相手にしても、堂々と主張する代表の姿を目の当たりにしました。
そして、こう思いました。
自分は死に場所を探していただけだ。
国のことを語る資格なんてない。
辞めよう。
「根を張ろう」
沢山のパトカーに囲まれながら、空港に向かっていたメルセデスの中で固めた小さな決意です。
搭乗口に入る直前に、振り返って、一列にダッーっと並んだ警察官に敬礼をすると、何人かが返してくれました。
そして、その中には、コンビニに行く時も、夜風に当たろうと外出した時も、ずっと私に付きまとい、左翼の群れに突っ込もうとしていた時には、一生懸命止めてくれた三島由紀夫さんにそっくりの刑事さんがいました。
あれは、多分、私の守護霊だったんだと思います。
こうして、私のモラトリアムは終わりました。


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