母親の苦労と覚悟
子供のお昼ご飯を準備して、朝ご飯を作り、急いで食べて、食器と調理器具を洗う。
子供を送り出し、洗濯を回しながら、掃除機をかけ、回し終わった洗濯物を籠に入れたら、ひとつひとつハンガーに掛け、洗濯ばさみでつまみ、干し、気付くと昼も間近。
自分の昼ご飯を簡単に作って食べ、飲み終わった後のお茶のボトルを洗って新しいお茶を作り、適当に化粧をして、食材や日用品を買いに行く。
メニューを考えながら、足りないものを思い出しながら、買い物を済ませ、華奢な両腕で荷物を抱え帰宅。
洗濯物を取り込んで、夕飯を作り、口数の減った思春期の我が子とテレビを眺めながら義務のように食事を済ませ、再び食器と調理器具を洗う。
テレビ番組が終わったタイミングで、風呂を洗い、湯を沸かし、子供を先に入れ、一休み。
子供が出たのを確認したら、服を脱ぎ、鏡の前で老いた身体に肩を落として、戸を開ける。
化粧を落とし、長い髪と身体を洗い、トリートメントを付けて、ようやく入浴だ。
風呂を出て身体を拭いたら、適当に化粧水を付け、ドライヤーで何分もかけて髪を乾かし、取り込んでおいた洗濯物を畳んで、一日を終える。
子供の感性を育てる目的で、植物を育てたり、ペットを飼ったりすれば、水やりや土の入れ替え、植木鉢の移動、餌やり、糞の処分、トイレシートの入れ替えなど負担は更に増える。
子供が発達障害児であれば、接し方や発達支援についての下調べなど、負担は、もっと増える。
自分のやりたいことなど、殆どできない。
考えるのは、漠然とした空想ばかりだ。
子供が、人間関係のトラブルを抱えれば、肉体的にも、精神的にも、確実に限界を迎えるだろう。
それが解っているから、子供も言わない。
しかし、世間では、楽な仕事扱いされて、評価をしてくれる人は殆どいない。
家の中では、事ある度に、稼ぎがどうのと、子育てに関心のない夫からマウントを取られてばかりだ。
色んなことを試して解決しなかったことを、いとも簡単に解決されて「合理的ではない」「効率的ではない」と指摘されることも多い。
別に評価が欲しくてやってる訳では無い。
「自分が産みたくて産んだ子」なのも解ってる。
でも、これだけは言いたい。
「やりたい時にやればいい」一人暮らしとはワケが違う。
母親は、子供が産まれた瞬間から、自分のことも「(子供のために)やらなければいけないこと」に変わるからだ。
それは「覚悟」のようなもの。
「対価」は子供の幸せだ。
しかし、その都度、必ず貰える訳ではない。
不合理で、意地っ張りで、間違えてばかりだから。
それが「母親」だ。
シングルマザーの苦労
シングルマザーは、これら家事育児をやりながら、外でも仕事をする。
その為、冷凍食品を多めに活用せざるを得なくなるだろうし、子供に手伝いをして貰うことも増えるだろう。
掃除、片付け、洗濯も毎日できず、散らかることも多いだろうし、職場の付き合いで子供を留守番させることもあるかも知れない。
そうして、子供が思春期を迎え、ひねくれ、生意気なことを言っても、叱る人は自分しかいない。
自分を擁護して、謝りなさいと言ってくれる人など、どこにもいない。
だから、いつも、ただの親子喧嘩になってしまう。
病気になったり、怪我をしたりしても、頼れる人は家の中にいない。
家計は何とかやりくりしている。
でも、時間がない。
忙しい分、欲しいものが買えたり、遊べるかといえば、それも違う。
ギリギリの生活だ。
それを自覚しているから、子供にだけは惨めな思いをさせたくないと焦る。
子供が欲しいと言ったものを、買ってあげられないと、罪悪感が生まれる。
何が欲しいか聞いて、遠慮されると辛い。
だから、給料が入ると、周りの子より良いものを買ってあげたくなる。
心にあるのは、父親と離れ離れにさせた罪悪感と、その上に積もった無数の罪悪感。
でも、それが、エネルギーにもなっている。
それがシングルマザーだ。
田舎者の悪意
体力も判断力も、年々衰えていく。
ストレスで身体が動かなくなってしまう時もある。
疲れがちで手指の怪我や肌荒れも多々起こる。
それで、子供に言わせたくないことを言わせてしまったこともあるだろう。
そして「明日からは、自分のペースを大切にして、もっと楽に生きよう」と決意し、生き方を変えてみる。
すると今度は、関わりの少ない人たちの間で、男が変わっただの、都会から出てきて気取ってるだの、若いから常識を知らないだの、部屋が散らかってるだの、子供と飲み屋に居ただのと、噂話の種にされる。
気付いた時には、孤立状態だ。
社会的弱者であるシングルマザーは、このような世間の悪意を真っ先に向けられてしまう。
傷を負った子を育てる
シングルマザーの苦労と
小さな覚悟
コップの水は溢れそうなのに、色んなことが起きる。
子供に嫉妬する交際相手とのいざこざ、習い事をさぼる子供との口論、お友達付き合いで失敗をした子供の泣き声、当たり前だと思うことが通らない学校とのやり取り、地元紙の先走り記事、職場の人間関係。
引きこもってゲームばかりしている子供の社会性を失わせない為に。
1日でも早く元の生活に戻れるように。
頑張れば楽しいことが待っていると思って貰うために。
私は、前に進み続けるしかない。
そう心の中で呟き、自分を奮い立たせてきたけれど、傷付いた子供の心は直ぐには癒えない。
だから、時々、苛々して、冷たい言い方をしてしまう。
そして、後悔する。
あんなことさえなければ。
今頃、普通に学校に通って、普通に進学の準備をして、普通の青春を待っていた筈なのに。
あの子を傷付けた子達は、私たちの気持ちなんて少しも考えずにインスタを投稿してる。
私達も、もっと強くならないといけない。
私はこう思う
母親とは、不合理な生き物だ。
しかし、だからこそ、ヒステリーに怒っても、最後は許せる。
うまくいかないことは当然だと思える。
他方、男たちは、男社会の原理原則を重視し、筋が通るか、通らないか、合理的かつ効率的であるか否かを気にしてばかりで、うまくいかないことを許せない。
「俺が言った通りにすれば、おかしなことにはならない」「なんで、こんなことも解らないんだ」「何で言われたこともできない」などと正論を言って「本当に大切なもの」を見失いがちだ。
「できない人」「できないこと」に対する配慮は、「できない人」という区別をしなければできず、「できる筈なのに」という苛立ちを常に抱えている。
オチのない話や、生産性のない話の根っこに、どんな思いがあるのか、考えようともせず、右から左に聞き流す。
正しければ正解で、間違っていれば不正解。
常に、話の筋と、相手の可能性ばかり見て、「できないこと」「できない人」を認めようとしない。
認めた時は、切る時だ。
それが男の思考パターンである。
私は、今、こう思う。
いじめ事案における、ヒステリーな訴えは、最後に許す為にあるのではないかと。
男や男社会が、正論ばかり言って、母親たちの話に耳を傾け、吐き出させてやらなかったことが、この事態を招いているのかも知れない。
そうであるとするならば、ヒステリーな出来事の原因は、我々父親たちの態度にある。
そして、原因が我々にあるなら、責任も我々にある筈だ。
母親たちは、間違っているが、悪くない。
間違っているが、不正解ではない。
父親たちは、間違っていないが、悪い。
間違っていないが、不正解だ。
つまり、お前が悪いってことだろ?
ふつざわさん