根を張る為に、別れを告げた彼女を追いかけて、故郷を離れた私は、3ヶ月後、父母に迎えに来て貰った上に、一回も支払わなかった家賃を支払わせ、うなだれていました。
我ながら流石だなとも思いましたが、そのまま終わる訳にはいかないので、父にサラリーマンをやりたいとお願いしてみましたところ、彼は、凄く嫌そうな顔をして、こう言いました。
「馬鹿言ってんじゃねえ」
「お前みたいな奴、入れられる訳ねえだろ」
私は「これが親の言う台詞でしょうか?」と思い、「人情とは何か」「親の務めとは何か」ということを力説し、説得を試みましたが、彼は人の話をきちんと聞かない悪いところがあるので、撤退を図りました。
確かに、私は、ウエイターのバイトをした時も絡まれて結婚式会場の裏で取っ組み合いをしたり、タメ口をきいてきた年下の先輩を脅かしたりしたこともありましたが、それらは不可抗力であり、当然の成り行きであり、私の責任は極めて限定的です。
それなのに、なぜこのような迫害を受けなければならないのかと、失望を禁じ得ませんでした。
しかし、私は、虐げられてきた21年間の人生の中で、「何事も押せばいける」ということを学習してきたので、落ちるのは時間の問題だろうと楽観視しました。
そして、予想通り、彼はまんまとサラリーマンの地位を私に与えたのです。

ここまでは私の思惑通りの展開でした。
しかし、出勤してみるとどうでしょう。
いわゆる理系と呼ばれる人達が居るわけですが、一目見て、人種が違うということに気付いたのです。
皆、どこか自閉症傾向がある様相で、黙々とマウスを動かし図面を描いている。
これは先が思いやられるな、と思いましたが、分からないことも、聞けばボソボソと教えてくれるので、何とか仕事を覚えることが出来ていきました。
そんな感じの職場だったので、休憩中などを使って親睦を深めた後、私は、飲み会しませんか?と皆に提案してみました。
すると、え〜みたいな事を言い、皆ニコニコしているので「はいわかりました」ということで店の予約をし、外に出てる人にも連絡をして、いざ開催。
最初は皆和気あいあいとして飲み食いをしていましたが、遅れてやってきた長身の男が、ずんぐりむっくり男を従わせ、私に色々と教えてくれていた先輩の耳を引っ張ったり、禿頭をペシペシと叩いたり、イジり倒し始めたのです。
私は飲み会が終わった後、その男に鬼電を掛け、要件だけを書いた短い文章を送り続け、更にずんぐりむっくり男を呼び出し、詰めました。
こうして、私は、危ない人認定をされて、孤立したこともあり、派遣を命じられる訳です。


そこは、かつて祖父や父も働いたところで、「ふつざわさんのお孫さんかぁ!」「息子さんかぁ!」という感じで接してくれるお偉方が多く、「良い祖父と父を持ったな」と鼻高々な気分でしたが、当然、社内は年寄りばかりではありません。
若い社員の中には、特別な反応で迎えて貰っている私を快く思わない嫉妬男もいます。
そういう場合は、ゴマをすってあげることにしていますが、内心では一度裏に連れて行こうかなと考えていたりすることも多々。
そんなこんなで、言われたことに従い、黙々と仕事をするわけですが、数ヶ月後に、自分と同じ会社の派遣社員を皆で馬鹿にしている光景を目の当たりにするのです。
馬鹿にされていた人は、根暗ではありましたが、とても真面目に、一生懸命仕事をしている人でした。
最初は客先だからと思い、スルーしていましたが、その人への当たりも強ければ、言う内容も酷くなっていくので、結局呼び出して叱り付けました。
すると、どうでしょう。
父がぶっ飛んできて、叱責するのです。
分かるけど、分かれない。
どちらも同じ気持ちだったと思います。
その後、私は、またしても契約を解除されました。
「バイトしながら高校卒業して専門行くわ」
そう父に伝えて、会社も辞めることにしました。


こうして、今度は、「はなの舞」の厨房で働きながら、月1、2回のスクーリングとレポート提出の生活が始まる訳ですが、同時に東日本大震災が訪れます。
「はなの舞」での関係は極めて良好。
皆、どんちゃん騒ぎが好きなADHD傾向がある人達で、息苦しさはゼロです。
しかし、ある日の飲み会で、またしても、皆で一人の男の子をいじり倒すという状況に遭遇してしまうのです。
最初は我慢していましたが、当然、ビシッと言いましたところ、もちろん雰囲気が悪くなり、孤立、すると思ったら、謝ってきてくれた仲良しの子が居て、皆また仲良くなり、そんなこともあるんだなぁという気持ちになりました。
若いからですかね。
本当に嬉しかった。
そして、夏が訪れ、私は、暴走する原発を抑え込むために福島に向かいました。



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