旭川女子中学生いじめ事案

『いじめ解決人』 4 weakness


「原発の中で必死に戦ってる人達がいるんだぞ。」

「その人達が仕事を終えた後、出来るだけ早く元の生活に戻れるように、俺たちは、いつも通り自分達の仕事をし続けなきゃいけないんじゃないのか。」

「自分達だけ逃げるのか。」

「お前は、国がどうとかって言ってたんじゃないのか。」

父にそう言われて、私は何も言い返すことが出来ませんでした。

だったら俺が行ってきてやる。

そんな気持ちで、原発行きを決めました。

だから、半分は、意地だったと思います。

自分の命など惜しくはない。

でも、家族だけは、と思っただけで。

父は、何故そうなる…というリアクションでしたが、私は、行くと決めたら、求人を探して、手当り次第です。

父の会社名義で放射線手帳の発行を申請して貰い、届いて直ぐに、誰にも別れを告げず、福島へ向かいました。



いわき駅に到着後、連絡を取り合っていた社長の元へ行き、改めて第一原発で働きたいとお願いしました。

すると社長は、険しい顔をしながらも、承諾をしてくれました。

10日間程度、原発と関係のない別の肉体労働をした後、第一原発行きが決まりました。

第二原発に割り振られた人達もいましたが、社長夫妻は、何故か私をとても可愛がってくれていて、どうしてもという私の希望を叶えてくれたようでした。

その後、多重請負構造に従って、上に上にと挨拶をしに行き、制服を受け取って、北茨城の旅館に向かいました。

途中まで着いてきてくれた社長は、別れ際に「頑張って来い」とエールを送ってくれましたが、私は、その言葉を聞いて、改めて、帰って来れる保証がないことを実感しました。

メンバーは、北は青森、南は福岡まで、志を持った方が多かったですが、皆、人でも殺しに来たのかな?という顔をしていました。

それでもって、タコ部屋です。

でも、この人達と一緒に死ぬことになるかも知れないな、と思うと、不思議と嫌な気はしなかったです。



そして翌朝、初出勤。

張り詰めた空気が立ち込めるぎゅうぎゅうのバスに、乗り込んで出発です。

まずは日立プラントに行き、そこで打ち合わせをして、Jビレッジに行き、着替えます。

線量計を首から下げ、肌着のような服を着て、その上にタイベックを2枚着て、長靴を履き、長靴にビニールの袋を被せ、カジュアル作業員コーデの完成です。

ピンクのシートで養生した大型バス又は社用車に乗り中継地点に向かいます。

街は、自然に帰っていってるような景色で、信号は機能せず、店のガラス窓はバリバリに割れていて、睨み付けてくる牛達は自由に道路を歩き回り、草木田畑はボーボーに伸び切っていました。

中継地点で、全面マスクを被り、マスクとタイベックの隙間を養生テープでぐるぐる巻きにして、いよいよ1F(福島第一原子力発電所)に向かいます。

そして、1Fに着いたら、長靴を履き変えて、ようやく事故現場に向かいます。

もちろん、休憩を挟む時も、帰る時も、同じように、何度も着替えます。

こういう面倒な行程を毎回おこなうのは、もちろん命を守る為です。



吹き飛んだ建屋から煙が吹き出している光景は、まさに地獄のようでした。

近寄って留まったら死ぬであろう「爆発で吹き飛んだ建屋の青い瓦礫」も、そこら中に散らばっている中で、作業をすることになるのですが、電気を通すための工事なので、電気がありません。

その為、全て人力で行います。

革手袋をして電線を引っ張ったり、電線を守るための物凄い長い筒を抱えて引っ張ったり、鉛の板を運んで遮蔽をしたりなど、様々ですが、皆、被爆との戦いで、短時間です。

それでも、毎日熱中症で誰かが倒れ、線量を超えた人が出ていき、変わりが入ってくるという状況でした。



しかし、その一方で、ずっと働き続けている人達もいます。

彼らは、線量計を車に置いて現場に行きます。

もちろん、被曝値を超過することを覚悟してのことでしょう。

その彼らとは、地元民です。

津波で家族を失い、故郷を離れる機会を失い、生活する為の金を稼ぐために、被曝値を過少申告し、働き続ける。

それが、本当の姿です。

ヒーローなんかじゃありません。

同じ人間なんです。

でも、当時は、それが分からなくて、彼らの仕事のスピードにも、物凄く苛々して、喧嘩にもなりました。

1秒でも早く収束させるために、生まれ育った国を守るために戦っている、という心のお守りを握り締めていたからです。

皆が、揃ってお腹を下し始めたり、咳が止まらなくなってヨウ素剤を処方されたり、1分1秒を争う命がけの遮蔽をするにあたって志願したり、突然パイプ管からガスが漏れているというアナウンスが入り、爆発するかも知れないという状況に遭遇したりもしました。

中には、そんな毎日が恐ろしくて、被爆者となった私達作業員に対する地元の差別が苦しくて、泣きながら相談してきたり、突然飛んでしまったりする人もいました。

私自身も、学校の先生から冷ややかな目で見られ、心ない言葉を言われたこともありました。

一時帰宅した者は、皆、悔しい気持ちで戻ってきて、やけ酒を飲みました。

被曝値が上がっていき、夜中に煙草を持つ手が震えることもありました。

私も若かったから感情が強く出た部分もありますが、そんな中では、なかなか理解ができなかったのも事実です。

危険な状態が概ね回避された頃、構内を巡回する吉田所長が乗った車に、心の中でお礼を言い、私は作業員生活に幕を閉じることを決めました。

そして、その直後、見えない何かで繋がっていたのか、父から、もうそろそろ帰って来いという連絡が入りました。



過酷な状況に置かれても、自分の命など惜しくなくても、それでも必死に生きようと耐え忍んでいる人達がいる。

見ているものが違っても、けっして間違いではない。

むしろ、彼らのように一生懸命に生きることは、遠方から死を覚悟してやって来た私たちのそれよりも、もっと骨身を削ることです。

その事に気付けて、良かったと思っています。

そして何より、共に戦い続けた日々と、命を預け合った仲間達との絆は、私にとって一生の宝になりました。



帰宅後、吉祥寺に引っ越し、新しい仕事を見付け、生活の基盤を整えていた最中に、専門学校の合格通知が届いて喜んでいたところ、珍しく父から長文のメッセージが届きました。

「合格おめでとう」

「お前は普通の人が経験出来ないことを沢山経験してきたな」

「入学する前に、一つだけ伝えておく」

「お前は自分の信念を曲げない」

「それは良いことかもしれない」

「だが、皆がお前みたいに生きれる訳ではない」

「弱い立場に置かれた人の気持ちをもっと理解してやれ」

「そうすれば、お前は、必ず成功する」

いつになく、しおらしく説教臭い内容で、親父も疲れているのかな?と思いながら、そっと携帯を閉じた翌朝。

私は、母からの着信で目を覚まし、不機嫌そうに電話に出ました。

それは、父がくも膜下出血で倒れ、意識不明の重体となった、という連絡でした。



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